二十六話 ゆびきりげんまん
ゆづりが目を開けたときに見えた光景は凄惨の一言だった。
地面は隕石でも落ちたというように穴が空き、周りの草木は折られ踏まれて命を散らし、倒れた竜たちの体を頼りなく拭いている。
そして、その中央で紫の竜人の手が紅玉の胸を貫いているのだった。
「こ、紅玉……」
普通の人間なら百人中百人が血を吹いて倒れるような致命傷。ゆづりはあっと息を呑み、彼の身を案じる。が、すぐにその不安は解消される。
紅玉の足腰はしっかりとしていて、少しも揺らぎそうにないのだから。
「邪魔」
彼の口から出てきた言葉も、いつも通り無愛想で尊大。
その態度に竜が反応するより先に、紅玉は竜の腹を蹴っとばす。そして、自分の体から竜の腕を引っこ抜いた。
抜かれた竜の腕にも、紅玉の胸にも朱色はない。痛がる素振りも微塵もない。まるで紅玉もゆづりやいすずと同じような体だというように、何事もなかった。
「やっぱり…」
どうやら紅玉も神や眷属のような不死の体であるようだ。ゆづりは紅玉が叛逆者の眷属だと知っているため、さほど驚きはない。むしろ、やっぱりそうなんだという納得が勝った。
しかし、竜の反応はゆづりとは正反対で。
「え、なんで君も」
竜は珍しく無表情を崩して目を丸め、呆気にとられていた。それもそうだろう。こんな稀有な体も持つ人間は、神と眷属の二人だけなのに、ここに三人集まっているのだ。混乱するのもおかしくない。
だが、どういうことだと不機嫌な視線で問う竜に、反応した人間はいなかった。
とうの前に紅玉は真っ先に走りだして、ゆづりもいすずに手を引かれて逃げ出していたのだから。
「………」
「うん、大丈夫だよ」
チラチラとゆづりの顔を伺ういすず。どうやらゆづりのことを心配してくれているらしい。まぁ、服はもう原型を留めていないくらい滅茶苦茶だし、至るところに土や泥が跳ねてひどいことになっている。だが、ゆづり本体は無傷で元気なので心配はいらない。強いて言えば体力が持つかどうかだ。
ゆづりがいすずに首を振って応えれば、不意に紅玉が振り返った。
「遅せぇ」
「ご、ごめん」
「もっと速くしねぇと追い付かれるぞ」
紅玉が忌々しく舌打ちを繰り出す。分かっている。背後に竜が追ってきていることくらい、足音から分かっている。
ゆづりも当然、体裁なんて構わず必死に足を動かしていた。が、鬼や狐の血が入った人間には追い付けない。それでも何とか食らいつこうとドンドン離れる紅玉の背中を追っていたが、紅玉から返ってきたのは二度目の舌打ちだった。
「掴まれ」
「え」
「見てられねぇんだよ」
紅玉はゆづりの返答を効く前に、ゆづりの腰に手を回す。そして、米俵を担ぐようにゆづりを抱き上げた。それに釣られて、いすずも反対側の肩に腹を乗せる。
「落ちるなよ」
紅玉は一言伝えると、とても人間二人を抱えているとは思えないスピードで駆けていく。ゆづりは耳元で風がビュンビュン音を立てるのにヒビって、咄嗟に彼の腕にしがみついた。まるで木にしがみつく猿のようだったが、体裁を気にする余裕はない。
そのまま大人しく担がれていると、目の前には中継場とつながる社が出てきた。てっきり紅玉の家とか洞穴に帰るのかと思っていたゆづりはそっと紅玉の顔を覗く。
「その…中継場ですか?」
「そうだ。てめぇは一回帰れ」
「え」
「もうすぐ儀式が始まる。巻き込まれたくねぇだろ」
紅玉はぶっきらぼうに言葉を投げると、ゆづりを下ろす。そしてさっさと行けと言わんばかりに手を払った。
ゆづりは待ってくれと口を開きかけた。まだやりたいことがある、ツキとカケルにだって別れを告げていないからと。
しかし、紅玉は太くマメだらけの指を立て、ゆづりの口付近へ持っていく。黙れと、そう伝えていた。
「戻れ。儀式終わったらまた来い」
紅玉は血のような色をした瞳でゆづりを見下ろす。有無言わせぬ高圧的な態度だが、言っていることはそこまで厳しくない。ただ、安全な時に来いと言っているだけなのだから。
「…わかりました」
そうだ。別にこんな忙しい時期に来る必要はない。いすずも戻ってきたのだ。今日ゆづりが土獣星へ来た理由は達成されている。それに、急いで叛逆者の手記を見つけなければいけない理由もない。
紅玉の言う通り、また日を改めて土獣星に来ればいい。ゆづりがコクりと頷けば、紅玉ははっと白い歯を見せて笑った。
「またな」
「はい」
別れは簡素なものだ。紅玉はこちらを振り返ることもなく、鳥居の方へ走り去っていく。ただ、大きな手は別れを告げるようにブラブラと揺れていた。
「………」
徐々に小さくなる紅玉の背中。それをぼっーと見つめていると、服の袖が軽く引っ張られる。
はっと現実へ戻り振り替えれば、いすずがこいこいと手招きしていた。ゆづりは踵を返し、慌てて社へ飛び込む。すると、景色が一変して、取り巻いていた空気をもすり替えられる。
「……帰ってきた」
ピンと張られた障子、落ち着いた匂いと雰囲気を醸す畳。カコカコと小さな音を鳴らしながら回る古時計。
そのどれもが見覚えのあるものが、張り詰めていた神経をふっとほどいていく。同時体からも緊張が抜け、へなへなと畳に尻をつけていた。
「だいじょうぶ?」
気の抜けたゆづりの目の前に揺れる正方形の紙。そこには歪な字で日本語が書いてある。もちろん持ち主はいすずだ。
「うん。平気…いすずは?」
「だいじょうぶ」
いすずはグリグリとクエッションマークを消して、同じ紙を見せる。そして、再び机に向い何か文字を書く。ゆづりが後ろから覗けば、ありがとうと書かれていた。
「ううん、元々は私のせいだから。こっちこそごめんね」
いすずが拐われたのは、大元を辿ればゆづりのせいだ。神座剥奪の儀が始まると言う危ない時期に、手記を探しに行こうなど言ったのだから。そのせいでいすずは土獣星に降りて散々な目に合った。恨まれても致し方ない所業だが、いすずはブンブンと首を振り自分が悪いと訴えていた。
「はんぎゃくしゃ、しゅき、ぜんぜん、さがせてない」
「あっ、それはもう大丈夫だよ。手がかり見つけたから」
「どこ」
「紅玉の家。資料室があってさ、そこにあるかもしれないんだ。だから、儀式終わったら探しに行くよ」
「それはよかった」
いすずは小さな掌をこちらに向けてくる。ハイタッチだろう。ゆづりはそっとその掌に自分の手を添えた。
これでやっと問題が解決したと言っていいだろう。ゆづりはやり残したことがないか、ゆっくりと足跡を遡っていって。
「そういえば紅玉のこと聞くの忘れてた」
唯一の疑問を見つけた。紅玉の身分のことだ。彼の主である叛逆者が死んだのに、なぜ眷属であった紅玉が生きているのかが分かっていない。
ノアから話を聞いた時、今度聞けばいいやと思っていたが、結局忘れて聞きそびれてしまった。まぁそこまで知りたいわけでも、知らないと困るわけでもないことだ。儀式が終わった時にでも聞けばいいだろう。
一人勝手に結論づけたゆづりに、いすずは紙を見せつけてくる。「紅玉のこと、気になる?」と。
「もしかして…いすずって紅玉と知り合いなの?」
「いちおう」
「そ、そうなの?友達とか…じゃないよね」
紅玉は神の座を得るために、ゆづりを人質として拐ったと言っていた。つまり彼はいすずの命なんぞ重く見ていない。
まともな関係を築いていたら、まずしない行動だ。どういうことだと首を傾げるゆづりに、いすずは「それは」と一から説明しようと黙々と手を進める。が。
「うおっ?!なに?」
急に土獣星へ繋がる襖がガタガタと暴れだす。そして、一人でにバンと開け放つと、いすずを飲み込むようにこちらに迫ってきた。
驚き腰を抜かすゆづりの横、いすずは全て理解したように凛と立ち上がる。そして、乱雑に文字を連ねてゆづりに見せつけてきた。
「きりつ。かみは、ほし、おりる、ぎむ。むかえ、きた」
そういえばノアの翻訳の中にそんな文言があったような気がする。儀式の期間中、神は星に降りないといけないとか、そんなルールが。
「もう儀式始まるんだ…」
せっかく今、中継場に戻ってきたのに、もういすずは出ないといけないらしい。思わず表情を曇らせるゆづりをいすずは見かねたのか、慰めるように小さな手を広げ小指を上げた。そして、反対の手でゆづりの手を掴むと、もぞもぞと動かし小指を絡める。
指切りげんまんだ。ぱっと表情を変えて顔を上げたゆづりに、いすずはコクりと頷く。
「………」
いすずは何も言わない。ただ、黄金の目から何となく伝えたいことは分かった。
ちゃんと帰ってくるから待っててくれ、と。
「……うん、約束。待ってるよ」
ゆづりがそれだけ返せば、いすずは安心したようにふっと固い表情筋を緩め、微笑む。
そして、わしゃわしゃとゆづりの頭を撫でた後、躊躇うことなく土獣星へと消えていった。




