二話 八星への招待状 下
水魔星。金時星。地球。火敵星。土獣星。天機星。月祈星。木黙星。
やはり、絶対平和を唄う金時星、絶対幸福を掲げている天機星は気にはなる。
その二つの星に行けば、文字通り必ず幸福になれるのだろう。だが、怪しすぎて選べない。その他の星もなんだか危なそうだからあまり行きたくはない。
「さぁ、どの星にしますか?」
無言でページを捲り続けるゆづりに、ソフィーの声がかかる。
ゆづりは少し名残惜しそうに説明書を撫でた後、紙から手を離す。そしてパタリと閉じた。
「その…どこにも行きたくないです」
「……それは…どうして?」
「もういいかなって思ってるからです」
どの星も全部楽しそうではある。魔法を使えるのも、獣人と会えるのも、非日常で面白い人生を歩めるだろう。
しかし、ゆづりはそんな生活にあまり興味をそそられない。生きて行ってみたいとまでは思えない。
それよりも、また生きるのめんどくさいなという気持ちが勝つ。折角死んだなら、それで終わりでいいじゃんと。
ゆづりの限りなく後ろ向きの返事に、ソフィーは呆気に取られたらしい。目を真ん丸くさせて、呆然とこちらを見つめていた。
「そんなにあの人のことが……」
「え?」
「いいえ、なんでもないです」
ソフィーはしばらく何か呟いていたが、ゆづりが怪訝そうな目を送ればすぐに止め、首を振る。そして何処か悲しげな顔で「すみません」と謝ってきた。
「断られた以上、私は余計なことはしない方がいいですね。元の世界への帰り方だけ教えましょう」
ソフィーは静かに手を上げる。彼女の細い人差し指は、ゆづりの後ろ、最初にゆづりが寝ていた部屋を指していた。
「あの部屋の奥にある黒い扉。それを開けて外に出れば、元いた場所に戻れます」
「それって…」
「地球。もっと詳しく説明するなら、貴女がベランダから落ちた時、です」
ソフィーはこれ以上上手い言葉が見当たらないというように、語尾を呑む。そして何かに耐えるよう、目線を落とした。
「………分かりました。ありがとうございます」
ゆづりは残された紅茶を一気に飲み干す。そして、空になったカップを皿に戻して、早速立ち上がっていた。
別にゆづりは死にたいわけじゃない。だからといって、生きたい訳でもない。
どうでもいいのだ。自分が死のうが生きようが、どっちでも。
でも、折角死ねたのならそれでいいだろう。ここから生き返る意味も価値もゆづりにはない。なら、いっそのこと、ここで人生を終わらせてしまえばいい。
今の自分が幸福だと思えば、幸せのまま死ねる。もう、それでいい。
「ゆづり」
我を殺して部屋へと進むゆづりの背後から、不意に声がかかる。同時、ドンと何か重いものが倒れるような鈍い音が響いた。
ゆづりはその大きな物音に驚き、反射的に振り返る。
すると、さっきは座っていたソフィーが、机に手を置き立ち上がっていた。その足元には白い椅子が倒れている。どうやら彼女が立った拍子に倒れたようだ。
急に動き出してどうしたのだろうか。
ゆづりは戸惑いと驚きで足を止め、ソフィーのみに意識を映す。が、彼女は俯いているため、心情も表情も読めたもんじゃない。ただ、金の髪が綺麗だななんて、余計なことしか考えられなかった。
ソフィーは俯いたまま、コツコツとヒールを鳴らしてゆづりの方へ近寄ってくる。そして、あっと気づいた時には、すでに彼女の顔がゆづりの目の前にあった。
交錯するゆづりの黒瞳とソフィーの緑瞳。ゆづりが恥ずかしくなり目を逸らす前に、ソフィーは細い指でゆづりの顎を掴む。そして。
「…ん」
無理やり自分の舌をゆづりの口に捩じ込んだ。
急な襲撃に石のように固まるゆづりに、ソフィーは大胆に顔を近づける。そしてゆづりが動かないことを良いことに、グッと頭を掴み、窒息させる勢いでゆづりの口を塞いでいった。
「んんん…!」
変な感覚。生ぬるい温度とタージリンの味でゆづりの口が染まっていく。
ポカポカして頭が回らない。息が出来ない。息苦しさにゆづりは正気を取り戻すと、ぐいとソフィーの顔に触れた。そして、どけと必死に顔を揺らすが、ゆづりの弱い力では彼女は微塵も動かない。
本当に死ぬ。ゆづりの視界が潤み、歪んでいく頃、ソフィーはようやくパッと手を離した。
ゆづりは彼女から逃げるように、地面に尻をつくと、自分の口を抑える。見上げた先、ソフィーの口から艶かしく白い唾液が垂れていた。
キスされた。それも上位の。大人のキスを。
ゆづりの顔がかああと真っ赤になる。そして、口を数回無意味に開けた後、殴りかかる勢いでソフィーを問い詰めていた。
「な、な、なにするんですか!!」
「キスです。それがなにか?」
「問題しか無いですけど!」
ソフィーは悪びれる様子もなく、平然とした様子で立っている。
その態度にゆづりはふざけるなと怒鳴りそうになった。が、ソフィーの一言にまたも固まることになる。
「これで貴女は死ななくなりました」
「………は?」
「キスした時に魔法をかけました」
ソフィーはイタズラげに微笑む。ゆづりは実感のない魔法にゾッとすると、自分の身を確かめた。
違和感はない。変な模様も後も残っていない。
嘘だ。ゆづりが目線でソフィーに問うと、彼女は机の上からケーキのカット用ナイフを手に持つ。そして、ペロリととクリームを舐めとると、ゆづりに見せつける用にこちらに刃を向けた。
「本当ですよ」
ソフィーはゆづりに馬乗りになると、躊躇なく腹にナイフを突き刺した。そして、ゆづりが悲鳴を上げる前に、彼女は淡々と体を滅多刺しにしていく。
なす術なくゆづりは絶叫し、命を落とすはずだが。
「え」
全く痛みがなかった。変な感覚もない。なんともない。
ゆづりはギギギと壊れた人形のように首を下に動かす。そして、ナイフが刺さったままの腹を見下ろす。
が、そこにはあるのはいつも通り健全な腹だ。血も一滴も出ておらず、傷もない、普通の腹。
なんでと混乱するゆづりに、ソフィーは不敵に笑う。
「神の力です。貴女を死ねなくしてしまいました」
ゆづりは衝撃のあまり、体を動かすことも、口を開くことも出来なかった。ただ、呆然と床に倒れたままソフィーを見上げていた。
登場人物
ゆづり…主人公。ベランダから身を投げ、八星と接触した。
ソフィー…ゆづりのことを助けた神。優しそうな女性。