Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen
朝起きて、窓を開ける。
すっかり寒い季節になってきた。
あの晩夏近くで観た「作詞家」は、少なくとも確かに体力おばけだとは思った。
歌いながら、横浜スタジアムのサッカーコート一周。一曲の時間内にステージに戻ってくる。
口パクなのかと思ったが、映像と息継ぎタイミングが同じ。思わず、首を振った。
あの時、俺の視界では、走る「作詞家」の映像の端に「晩夏の夜の夢」と別タイトルが勝手についていた。
素敵な恋愛ストーリーではなく、ひたすらに筋トレとかマラソン。スポ根劇。宵闇に輝くスポットライトならぬナイター照明。・・・案外、書けそうな気がする。
スーツに着替えようと開けた押入れの中には、ファンクラブの会報に署中見舞いのカード、継続記念品のメガネケース。
そして「作詞家」の「ことのは」。
色の三原色のうち、温かさがない色の名前がついた「作品集」。
重厚なグレーの箱を開ければ、大変凝った装丁で美しい言葉たちが3冊に分かれて収められている。
直筆歌詞についてはコピーのため、あの日みた「本物」に対して、残念ながら、筆圧やけし屑の処理、ノートに僅かに浮いている鉛筆の芯の酸化具合や押しつぶされた状態からの記載順推定などはできない。
代わりに、いつでも読めるし思い出せる。
春先に出会った「言葉」たちが作り上げた空間、空気、そして「それに触れたファンの方たちの顔」。
人の記憶というものは不思議なもので、鍵となる「感覚」が刺激されれば記憶を呼び覚ますのは、さほど苦労しない。
まあ、だからサラリーマンに必要なスキルのひとつが「同じ話を何度も、初めて聞いたフリをする」なんだろう。何個か前の上司に教えてもらった。いまだに上手くできないスキルだったりする。
「同じ曲」を何度聞いても飽きることがないのに、「同じ話」は2回目でNo thanks!となる不思議さ。まあ、現実には言えないのが会社員の辛いところではある。
とっとと早く着替えて、会社に行けばいいのに、つい、この本を手に取ってしまう。
今時、ここまで印刷に拘った装丁は「私家本」ならまだしも量産本では見当たらない。事実、発送はかなり遅れた。
「作詞家」の人気は素晴らしい。しかし、印刷会社は大変だっただろう。この本の作り方というメイキング映像を観たが、かなり手作業であった。
人の手による美しい本。バッテリーで温かなスマホと違い、どこか冷たくしっとりと、しっくり手に馴染む感覚は懐かしく、だけど新しい紙の匂いが「新書」だと五感で伝えてくる。
35年。
とても古く、とても新しいこの本は「作詞家」の「移り変わり」を綺麗に写していた。
春先に迷い込んだ「思考回路」をよりわかりやすく説明してくれる「スタンプラリーの台紙」と「スタンプ」。
言葉という二次元を三次元の空間芸術とした迷路。