えいしょうは やまびことなった
「作詞家でも悩むんだ」
「結構、悩んでるよね」
「そういうところがかわいいよね」
「わかるわ〜」
意味がわからず、身体が硬直する。
つい、目線だけ、声がする方を見てしまう。
お話をされている御年配方からすれば、確かに作詞家様はまだまだ十分にお若いとは思う。
まるでご近所の子どもさんの読書感想文への感想だと思ってしまったが、少なくとも作詞家様はもうすぐ還暦である。
そもそも知り合いではないのにとか以前に、ご年齢だけ取り出しても、どうやっても不自然な会話だ。
そういえば、過去、当時83歳の方に「私が40歳手前の頃にアトス山に登った」という話を頂いたことがあるが、ほぼ半世紀前の証言である。
あまりに自然に思い出話をされたが50年前のアトス山とか、全く想像ができない。そもそも女性は登れないけど、それでも50年前のギリシャとか、わからない。
実際に流れる「実時間」と、本人に流れる「本人時間」、クロノス時間とカイロス時刻を意識させられる。
そう、人にとって「刻まれた時」はいつまでも色褪せぬリターンポイント。いつまでも色褪せない思い出はいつだって美しい。
うだうだと考えているが、すぐそばで繰り広げられている会話を考えたら、いろいろと負ける。
そんな和やかな妙齢のご婦人2人の話を聞きながら「直筆歌詞ノート」を見ていた。
・・・これだけの修正で歌詞を書ける時点で「天才」だろう。文章書くってそんなに簡単ではない。
この言葉が歌になり、口語に膾炙され、大勢の人々に支持されて、音に伴われ耳に入り、誰かの細胞に染み込んでいった。
この方の言語、思考は、多くの方の血肉となり、原動力となり、支えとなり、絆創膏になった。
そんな偉大な思考の片鱗、歌詞ノート。
だけど、何より恐ろしさを感じる。
「普通」
突き抜けているのは「試行回数」。
圧倒的に「短い」。記載にあまり迷いがない。時間がないのか、かなり直感的、しかし膨大な知識から引っこ抜いている感覚。数ページに「渡らない」。掲示された曲は複数あるのに、殆ど一曲1ページ以内。
書き出された分岐が少な過ぎる一方で、文字自体は「特徴的な傾向を示さない」。
ノートそのものは綺麗に使っているし、余白を無理矢理埋めた形跡もなく、間違いは消している。ノート自体も補強して大切にしている。また補強箇所やテープの貼り方、補強材と考えられる材料からこだわりが強そう。ズレがない。
ただし、擦り切れた箇所に特徴はない。
使い方に癖がない。例えば、斜めにノートを取るなどもしていない。通常使用状態外の折り目がない。
誰も見ないノート。何を考えたのか残してもおかしくないのに、消した形跡。
文字の筆圧や粉から別日、別時間に記載されたと思わしき、唐突に前の文字列を否定するように不整合に記載される文字や絵。
全体的な文字自体は丸文字に近い。非常に柔らかい印象。罫線からはみ出すものも多くはない。一部を除いて文字の方向性は中央。外部ではなく内向的な傾向。
不思議なことに、直筆歌詞ノートそのものを見る限り、女性か男性かを判断できない。
書いてある内容や絵などが男性の好みそうな事象なため男性と判断するが、先入観なしで筆跡鑑定かけたら、かなり迷うと思った。
これだけ「偉大な功績」に対して「普通」の感覚。
それとも「偉大すぎて」この方が「普通」になったのか。
簡易的な見立てでは、こだわりが強く、内省的で、生真面目、知識量は多いが説明は苦手か理解を求めない結果型。だいぶ整理してからものごとをアウトプットするため、おそらく無口かゆっくりした方の印象になるだろう。
思考自体は早いと考えられる。でなければ、ここまで短い「分岐」にはならない。
雑誌の特集やファンのセリフから考えると、だいぶ印象が違う。見渡しても、雄々しく、力強い男性像にしか見えないパネル展示された写真たち。
「ボールペンは禁止です」
すぐそばで作詞家様が考えていた「別案」を書き写そうとした方が注意を受けていた。
確かに、書き写す分には短い方が「受け取り手」は楽だろう。
天井には作詞家様のメッセージの垂れ幕。横を見ればパネル写真。どこまでもきっちり作り上げられた空間に展示物。
こんなところも真面目な作詞家様に思わず、笑った。