実践理性批判
「お先に失礼致します」「はい、お疲れ様」
帰り道にBluetoothイヤホンのスイッチを入れて、耳を塞ぎ、作詞家の楽曲をYouTubeで流しながら、通勤バスに乗る。
おそらく、日本各地で同じことをしている人がいっぱいいるだろう。このバスにもいるかもしれない。「彼ら」の音楽は、今日の仕事を振り返り気持ちが落ち込んでる、そんなときに、気分を変えてくれたり、持ち上げてくれる。
その言葉に共感したり、納得したり、慰めてもらう。耳馴染みの良い音楽に合わせて届く普遍性を伴った音楽は気負いなく聞ける。
バスは構内を抜け、一般道に出る。視界が開けて多くの車と混ざって進む。
流れる音楽を、俺はとても不思議だと思っている。春先に調べた映画音楽を数多く手掛けた作曲家の音楽は、一音一音が街の風景に溶け込み、その音が呼び水となるかのように見ている日常を浮かび上がらせ、映画のワンシーンのように飾り立てる。
言葉のひとつもない、この音楽を聴きながら歩けば、何気ない日常すら、本当はかけがえの無い一瞬であり、大切なのだと優しく教えてくれる。
しかし、作詞家の音楽は逆だと思っている。この「ロックユニット」の音楽は同じように、日常に溶けていく。音そのものは粉砂糖のように耳に溶けていく中で、作詞家の言葉がトゲトゲした心や凹んだ魂をゆっくりと削ったり、パテのように埋めてくれる。
特別な何かもない。聞くのに頑張る必要もなく、惰性で、気がついたら聞いている。そんな音楽。著名な洋菓子店の期間限定特別な洋菓子とかではなく、ままどおるに牛乳のような絶対的な美味しさ、ではなく安心する美味しさ。
まあ、よくよく考えると「?」という歌詞もある。しかし、総じてわかりやすく覚えやすい。
That all our knowledge begins with experience there can be no doubt.
そんな音楽を聴きながら、自宅のある街へ電車で向かう。車窓に映る俺の顔を見ながら、そう言えば電車に乗っている歌詞もあったな、なんて思って曲を変える。
日常の各シーンに合わせて、曲を選んでもいいし、気持ちに合わせて聞いてもいい。気楽に選べる音楽は、街角の様々な場面や日常を想起させながら移り変わってゆく。
星あかりの芝生を横目に家に着く。
ガチャガチャと片付けたり、シャワー浴びたりと生活をしながら、毎日を過ごしている。
ひと段落して、押入れにしまった立派な箱を手に取る。夏の最中に届いた「暑中見舞い」。
春先に見た「個展」で開示された情報の中身を改めて確認しようと、その蓋を開けた。