やり残した事
「この村……と言うか、このアンゴゴ地域に逗留するのも今日を含めてあと7日間なんですけどね」
ジュミ宅に帰り、夕飯の支度をしつつ俺は月野さんに今後の話を切り出した。
我々が一応、目的があってこの地域に滞在するのは8月末日……30日までで、それは言うまでも無く隣村のマルノで加工を依頼している精肉製品の受け渡し期日の約定を8月末日としている為だ。
「厳密には7日後の早朝に出立してマルノ村に寄ってからセリ村に一旦向かう予定です。なのでこの村での滞在は今日含めて実質的には6日間となります」
「もうそんな時期なんですね……。あまり実感が湧きませんが……」
このヨーイス村には8月11日から滞在しているので、実際のところ今日の時点で12日目である。そりゃ長逗留している実感など湧かないだろう。
その上、来村初日にこのジュミの家を滞在先と決めてから、この人は工房に引き篭もって服作りばかりの毎日だった。毎日のようにあっちこっち出歩いていた俺と比べても随分色の乏しい生活だったのではないだろうか。
「そうですか。セリ村……また木樵頭のオジ様のお宅に?」
「まぁ……一応立ち寄る予定ではあります。親父さんに渡したいものもありますから。しかしそれもあちらの状況次第でしょうかねぇ」
「状況……?」
「こちらの村に来てから、詳しいセリ村の状況が伝わって来ていないので何とも言えないのですが、ミランドの材木商人は間違いなく到着していると見てよいでしょう」
「あ……なるほど。以前にお聞きしたお話であればそうでしょうねぇ……」
「ミランド関係で聞いている情報としては……我々がセリ村から出発した翌日に峠を越えた最初のミランド商隊が到着したらしいです」
「ミランドって街はここから何日もかかるんですよね?」
「ええ……そう聞いてます。まぁ、どういった手段で移動するかにもよりますが……徒歩だとやはり10日くらいかかってしまうかもしれませんね。特に俺のような徒歩の旅に慣れていない太ったオッさんだと本当にそれくらいかかるかもしれないです」
俺が笑いながら説明すると、彼女は目を丸くして驚いた。
「えっ!?そんなに遠いんですか?」
「まぁ……なんと言っても途中の峠越えがありますからねぇ……。月野さんのような健脚の方なら1日2日くらい短縮出来そうですが……」
俺が以前……セリ村の木樵頭の親父さんに聞いた話では、アンゴゴから峠を越えてミランドまで空荷の馬車で7〜8日……だったかな?
早馬での連絡でも丸5日くらいかかるとか聞いた。馬車での移動でも峠道では徒歩と殆ど変わらず……巨木なんぞ積んでたら更に遅くなると言っていた。
もしも丸々徒歩での移動を選択した場合……俺のような運動不足のオッさんだと正味10日を要する覚悟が必要だろう。
俺は月野さんに説明しながら自分自身がゲンナリしてきた。今までこのアンゴゴを離れた後の事をかなり大雑把にしか考えていなかった事に気付いたのだ。
ちなみに……アンゴゴからなら比較的下り勾配気味で平坦とされるアンテラまでなら徒歩で5日、木材を積んだ馬車でも同じくらいの日数で行けるらしい。
まぁ、逆に言うとアンテラ方面からだと上り勾配になるのでダルそうだが……。
いずれにしろ……ネックは東の峠越えなんだよなぁ。往来に関して峠道沿いには幾つかの野営施設が整備されているとは聞いているが、「少なくとも7〜8日歩き続ける」と言う話を聞けば小デブの49歳には震えも起きる話だろう。
1日2〜3時間じゃないのだ。恐らくは早朝から日暮れにかけて途中で多少の休憩を入れても10時間を優に超える時間歩く事になる。これを7〜8日続けるとか……考えただけでも絶望感で一杯になる。
「ただ……最初に到着したって聞いたのは木材商人じゃなくて、一般的な物資商いの人々らしいです」
「あぁ、なるほど。木以外にも色んな商人さんが交易をされているんでしょうね」
「そう言う事です。ただその中でも我々にとって、関わりがあるとしたら木材商人なので、彼らの動き次第ではすぐにセリ村を発つ可能性はありますねぇ……」
ミランドの材木商人とは確かに顔を合わせたくはないが、別に彼らが我々を探し回っているとは限らない。
以前に出会ったアンテラの大商人ムーアのような頭がキレる奴ならば、様々な状況分析によってミランド商人を出し抜いた黒幕として……「他所から来た外国人風体の男女2人組」の存在を嗅ぎつけるかもしれない。
しかしその一方でミランド商人……特に春の空セリで村長と共謀した上で木材を買い叩いた彼らに対するアンゴゴ住民の感情は冷たい。
なので早々、簡単に「今回の件の黒幕」について口を開く木材関係者はいないのではないだろうか。木樵頭からも箝口令が布かれているだろうし。
もし居るとしたら……あの村長母子だろうか。
しかしあの御前様へは既に「圧倒的な力と恐怖」を見せ付けている。あの……そこそこ頭の回る老婦人が果たしてミランド商人達に我々の事を売ったりするだろうか。
彼女には一応……「我々への妨害に対しては証拠が無くても報復する」と直接通告してある。やはりそれを思えば下手なリスクを背負うとは思えない。
そもそも考えてみたら、アンゴゴ村長家にだって先日のセリは莫大な税収を齎したはずだ。それで我々に対して敵意を抱くなどと……とんだお門違いではないか。
「とにかく……セリ村に立ち寄る予定ではありますが、大っぴらに村へ立ち入るのは避けた方がいいですねぇ。村の入口で様子を窺って、何か拙そうな雰囲気を感じたら……そのまま峠越えに出発してしまった方がいいかもです」
「そうですか。私は小河内さんのご判断にお任せします」
彼女は微笑みを浮かべている。そこまで言われてしまうと、こちらとしては変にプレッシャーを感じてしまうのだが……こればっかりは仕方がない。彼女はこっちの世界で言葉が通じない為に、「異世界の社会事情」にはかなり疎いと思われる。
何しろ彼女が得られる情報の源泉は目の前の小太りのオッさんが殆ど唯一なのだ。
逆に言えば、俺が悪意を以って歪めた情報を与えれば、彼女としてはほぼ無条件にそれを信じるしかない。
そう言った意味で俺は彼女にとって「誠実なる道連れなのか?」と言えば残念ながら答えは「否」だ。
何しろ俺の宣伝行為によって彼女自身は「山神様」としてこの地域の最上層の人々へ過分に大きな畏怖を与えてしまっている。
この地域に住まう者……200年以上も前にこの地を切り拓いた英雄達の子孫にとって、「山神様」とは俺が思っている以上に大きな存在である……だろう。
勇者アンゴゴ率いる開拓団がこの地を開削して大陸南西部に陸路として道を付けたという出来事は、当時建国前でまだ「『北の帝国』からの避難民の集団」でしかなかった、後の新興先進国家「プレス商業連合」……だけでなくナンダウル大陸全体にとっても大きな歴史的転換点だったはずだ。
今から約200数十年前まで、アンテラ地方から現在のミランドがある南西沿海地方への陸路による往来は一般的に「不可能」とされてきた。
所謂「有史前」から南ナンダウル大陸の中部から北側にリヴァルス山地は横たわっており、「魔物」と言われる異形の者達が跋扈していたからだ。
そのリヴァルスの地を統べていたとされる「山神様」と偶然にも邂逅した「冒険者アンゴゴ」は彼女(?)と「5日の盟約」を結ぶ事によって山地の北東部に「5日の範囲での安全」を得た。
この僥倖に浴したアンゴゴは冒険者を辞め、昔からの仲間たちや冒険者稼業で身体に障碍を負って仕事が続けられなくなった者たちを説得して、秘境とされていたリヴァルス山地に分け入った……とされている。
以前、ダルい山歩きの際……俺にこの話をしてくれたのは木樵頭とハボの親子で、彼らが自らその目で見た月野さんが起こす奇跡は彼女を「山神様」として擬するに充分な説得力を与えたのかもしれない。
そんな山神様は魔物を軽く駆逐する「従者」を連れていて、彼……まぁつまり俺の事だが……彼によって山は再び開かれ、尽きかけていた財を取り戻せたと見られているのだろうか。
目の前で何故か俺に対して不必要に信頼を置く素振りを見せるこの女性に……俺は「山神様」と言う信仰的存在の話すらしていない。
この世界に飛ばされて来て以来……俺と月野さんは「信仰」に関わる話を殆どしていない。唯一の例外と言えばお互い共通の地域的話題に出た「近所のM神社の御神木植替え」くらいだろう。
なので俺は彼女の信仰に対する認識を知らないし、向こうだって同じだろう。
まぁ強いて言えばこの世界に飛ばされて来た初日に魔物熊を倒した翌日……改めて彼女に「どうやら我々は不本意ながら異世界に飛ばされた」と説明した際の彼女の反応には特段の信仰色を感じなかった……と言う印象を持った。
彼女はあの時……俺の与太話のような説明を受けて、自らの突然に変転した境遇を認識した時も取り乱すような事はしなかった。
寧ろ俺の方が驚くくらいに淡々と俺の胡散臭い言説を受け入れ、困惑しつつも俺との同行を願って来たくらいだ。そう言う意味で彼女の「精神評価:B」は生まれついての破格な資質なのかもしれない。
このアンゴゴ地域を出た後に目指す目的地があまり良い印象を抱いていないミランドであるのは皮肉な事だが今のところその予定を変更する気はない。
現時点での選択としてはミランドの他に北方に位置する大陸交通の要衝であるアンテラがある。
アンゴゴ地域住民の心情を慮ると、寧ろこちらの方がやや好感するところなんだが……。
ミランドには我々の当面抱いている目的に適う要素がアンテラよりも多く備わっているのだから仕方がない。
・治療院を営んでいるらしい人物
・商業・冒険者ギルドに設置されているとされる通訳魔道具
ここは可能な限り見分したいし、他にも通事機以外の魔道具にも興味がある。
今のところ道具がなく試す機会がない製薬術の事も頭に引っ掛かっているし、国際貿易港であるならば米が入手できる可能性もある。
ミランドにはアンテラ以上に……そして俺の中の不快感すら上回る程に好奇心を掻き立てる要素があるのだ。
月野さんに今後の予定を話しておくと、彼女も特に反対はしなかった。特に「お米があったらいいですねぇ」などと言ってたくらいなので「10日歩かされる可能性」についてはあまり深刻に思っていないようだ。
ジュミ宅に到着し、作業部屋に入ると我々よりも一足早く帰宅していたジュミが矢羽根の仮付け作業を黙々とこなしていた。以前は羽並びをグニャグニャに歪めながら怪しい手付きで行っていた接着作業も、今では「自分の作業に慣れ始めたライン工」くらいにはこなしている……ように見える。
考えてみれば……彼女が師の下から俺に矢の製作を習いにこちらへ引き移って来てから……まだ10日も経っていない。それでも俺の胡散臭い指導を受けながら同じ工程を繰り返す事でここまで出来栄えが変わるものなのか……?
(これって……もしかして彼女は弓職人として筋がいいのか?)
俺は俄かにこの14歳の少女に弓職人としての素質を感じていた。俺自身は「ライブラリ」の力を借りたインチキ臭い技術でゴリ押している為、「職人の素質」なんてまともに見抜けようがない。
それでも……この10日弱、彼女の技倆の上昇を見るに、唯ならない素質の高さが見て取れるのだ。この娘は……このまま伸びれば若くして師すら超えるのではないだろうか……?
何しろ彼女はまだ14歳だ。ここから10年修行を続けても24歳。弓職人としてはまだまだ若年少壮と言える歳だろう。確か……タン爺さんの長男オルキスが23歳だとか聞いた。彼は15歳から本格的に父の下で修行に入り、5年間見習いとして今のジュミやトサンにような下仕事をこなしたらしい。
5年の見習い期間を経て、20歳になった頃から漸く一人前の職人として傷んだ弓の修繕に従事している……と、今日の作業中に本人の口から聞いた。
ジュミの場合、両親を流行り病で亡くした直後からタン工房に引き取られると同時に見習いに入ったと聞いているので、その話をそのまま受け取ると……彼女は現在、見習い4年目に入っていると言える。
実はジュミより2歳上のトサンは本来兄と同じく15歳になってから弓職人修行に入る予定だったらしいのだが、成り行きによって10歳で下働きを始めたジュミを見て、当時まだ12歳だった彼も修行入りしたらしい……。
俺はてっきり、ジュミに対してトサンは「見習いとしての先輩」なのかと思ったが、今の話を聞くに……寧ろ先輩はジュミの方で、こっちの工房で矢軸を削っていた時の「教わる側」としてのトサンの態度にも頷ける。なるほどなぁ。
あれだけ弓で試し撃ちを長時間続けていたのにも関わらず……月野さんは奥の作業机で服作りを始めようとしている。
なんだかんだで、もう少しすれば夕飯時なのである。時刻はまだ16:18だが、タン工房を出た時点で既に空は夕方の赤みが差していた。
俺は作業を始めようとしている月野さんに、昼間の事を話してみることにした。
「実はあの……今日になって初めて知ったんですがね……タンさんの長男で、いつもあっちの工房の一番奥で弓の修繕をしているオルキスという若者が居るんですが……」
「あぁ……奥で作業している人ですよね?確か……いつもお風呂を借りに行くタンさんのお宅の向かい側の家にお住まいなんでしたっけ?」
月野さんはオルキスの事を覚えていた。当たり前だが言葉の壁の問題で会話した事もないだろうし、そもそも彼女はこの村に入った最初の日以来……タン工房を訪れたのが今日で2度目だったはずだ。
別宅で暮らしているオルキスの姿を見る可能性があるのは工房に居る時だけだと思うので彼の存在に気付いていないかもしれないと思ったのだが……ちょっと驚いた。
「えぇ……まぁ……そのオルキスなんですが、ちょっと耳が聴こえなくなっているんですよ」
「え……?耳が?」
「はい。俺も今日知ったんです。いつもあそこの工房に行っても、全くこちらを無視している感じだったので俺の事を不快に感じているのかなと思ってたんですが……」
俺が自分の思い過ごしだった事に苦笑いすると、彼女も笑いながら
「えっと……耳が聴こえてなかったから小河内さんに気付かなかっただけだったと?」
「ええ、まぁ……元の世界ではよくある事だったので俺も別に腹が立つわけでもなかったんですがね」
ちょっと……地獄だった思春期を思い出したが、そんな事は最早どうでもいい。
「そんな事はどうでも良くてですね……オルキスは生まれつき耳が聴こえないってわけじゃなくて、ちょうど弓職人の修行に入った頃から徐々に聴こえなくなっていったらしいんです」
「そうですか……お若いのにお気の毒ですね……」
「まぁ、そういう事ですから後天的に聴こえなくなり始めたのは7〜8年くらい前からですか。今も言ったように徐々に聴こえなくなってきていて、現在は結構近くに居ても大声で呼び掛けないと反応してくれない感じですねぇ」
「原因にお心当たりは無いのですか?」
「うーん……特にコレと言った原因は思い当たらないとの事です。耳が聴こえにくい以外は至って健康らしいですから」
昼間に彼の作業を手伝いながら、俺は本人や父親であるタン爺さんに色々と聞き込んでみたが、何か原因となるような出来事に心当たりは無いと言うのがトサンも含めた証言であった。
ジュミにも聞いてみたが、彼女が物心ついた時には既にオルキスの聴覚異常は進行していたと……暗い表情で言われた。
「どうですかね……。月野さんの魔法で彼の聴覚障害を治療出来ませんかね?」
俺が〈セラフィ〉での治療を提案すると、彼女はちょっと困惑した表情になった。
「でも原因が判らないのですよね?そんな状態で私の魔法が効くのでしょうか?」
なるほどそうか……今回の場合、後天性の疾患とは言え……その原因が不明なわけだ。
この場合、〈セラフィ〉の魔法によって仮に聴力が回復したとしても、時間の経過によって再度聴力への障害が再発する可能性があるのか……。
これまで月野さんが〈セラフィ〉を使用し、その場で一旦は治癒の効果が見られたのは全て「傷病の原因が判明しているもの」であった。
最初の患者であった俺の腰痛から樽工場の主人レンドンの頭部負傷に至るまで、本人あるいは近親の者による原因を含めた状況説明を聞いた上で彼女は施術を行っていた。
しかし今回のオルキスに起こっている後天性難聴(?)に関しては原因が特定出来ない。オルキス本人もサッパリ判らないとの事だから全くの「お手上げ」なのだ。
そんな疾患に果たして〈セラフィ〉は効果を上げるのか?
これまで月野さんが使用する〈セラフィ〉には謎の万能感があって、俺もかなり信を置いていたのだが……今回ばかりは分からない。
「まぁ……個人的にはあそこの工房に色々と世話になったので、恩返しでは無いですが、何かやってあげたいですよね。あのオルキス青年は真面目で非常に謙虚な性格なので助けてやりたいんですよね……」
俺は笑いながら本音を話した。そう……あのオルキス。実際に話してみると、非常に気持ちの良い若者なのだ。
突然やって来た他所者の俺の事を一応は熟練の職人(チートでの産物ではあるが)として接してくれただけでも悪い気はしなかったが、俺が最初の修繕品をさっさと補修した腕前見たせいか、非常に謙虚な態度で教えを乞うてきた。
真面目にキッチリと修行してきたのだろう。手先の動きは悪くない。彼に足りないのは恐らく経験だろう。
これは途中で気付いたのだが……タン爺さんが、彼に弓の新造ではなく修繕を任せているのは、破損品とは言え他人が手掛けた注文品の弓を扱う事で、他人の仕事……まぁ、修繕する弓はどれも師匠の作品なのだが……と自分の力量との比較が出来、結果的に良い経験を積めるからなのだろう。
恐らくはタン爺さん自身もこの村に来て弓職人に弟子入りした際、同じように師匠が手掛けた弓を修理しながら経験を積んでいった……と言う過去の体験があったのではないだろうか。
「ライブラリ」の機能を使用して、なんの苦労もせずに技能を得た俺には……この「感じ」は味わえない。
師弟であり親子であるタンとオルキスは、俺の知らない苦労を各々の時代に積み重ねて、漸く一人前の後継者として歩き始めたのだろう。
そんな若者が耳を患い、しかしそれに絶望する事なく明るく振る舞いながら独り黙々と工房の一番奥で弓の修繕を誠実に続けている……俺は彼のその姿がいたく気に入ったのだ。
うーん……。しかし彼の聴覚障害は何が原因なんだろう……。
元の世界で暮らしていた時の素人知識で、最も直感的に耳が聴こえなくなる原因を挙げるとすれば……
・鼓膜を傷損する
・耳垢が外耳道を塞ぐ
・加齢による機能低下
これくらいだろうか。後は隣村の樽工場で先日起きたレンドン氏の事故のように……頭部に強い衝撃を受けると、聴覚神経にもダメージが入って耳が聴こえなくなるとか、中耳炎や鼻炎が悪化すると内鼻腔に近い聴覚器官にも悪影響を及ぼす……なんて聞いた事もあったが、過去のオルキスには頭を強く打ったとか、中耳炎なんかにもなった事がないと申告を受けている。
つまりあの青年は俺程度の「医療の素人」では思い付かない原因で「耳が徐々に聴こえなくなってきている」という事だ。
月野さんとも暫くの間、聴覚障害の話を続けたが、彼女も俺と似たり寄ったりの知識しか持ち合わせていないようだった。
「まぁ……とにかく明日の午前中にでも向こうの工房で彼に対して〈セラフィ〉を試してみてくれませんか?」
俺の申し出を彼女は快く引き受けてくれた。まずは試してみて……駄目なら駄目でいいではないか。現時点で俺はオルキスに対して耳の治療については一切申し出ていない。
失敗した時に大きく失望させてしまうと思ったからだ。あくまでも軽く……「ちょっと山神様に耳の具合を見せてもらっていいですか?」程度の感じで切り出してみよう。
まもなく夕飯時になる事を夢中になって矢羽根の仮付けをしているジュミに告げ、彼女を見送ってから我々も夕飯を食べる事にした。
今夜は先日鍛冶屋から受け取ったフライパンやダッチオーブンにシーズニング処理を〈ヒート〉を使って器用に施しながら、作り置きのシチューで夕飯を済ませた。
その後、タン爺さんの家に風呂を借りに行ったが、オルキスの治療については特に話す事もせずに帰宅した。
ちなみに……この件については月野さんと日本語でしか会話をしていないので、ジュミにも伝わっていない。
帰宅後、作業場に戻った俺は……この村を去る前にもう一つ、やっておきたい事を思い付き……それを実行する事にした。
恐らくこれが、この村で俺が行う最後の取り組みになるだろう。
それは何かと言うと……ジュミの父で、4年前の流行病で妻と共に早逝してしまったアンテラ出身のヘイジが遺した弓幹の構造と、その制作方法のヒントを、父に代わって娘に伝えてやれないかと思ったのだ。
以前にも言及したが、このアンゴゴ地域で伝統的に使われてきた弓は、ヘイジがアンテラでの修行で身に付けたそれとは大分違っており……彼の遺作を見るに、使われている素材は同じ植物系中心だが、弓幹の構造自体が異なっている。
タン爺さんが造る「エルフから伝わった」とされる弓は、1本の硬い芯材の両側に軟らかい側材を貼り付け、更にリム部に別の側材を貼り付ける構造だ。
対してヘイジがアンテラの弓工房での修得した「アンテラ様式」の弓はそれぞれに芯材と側材を貼り付けたハンドル部分とリム部分を別々に造り、最後に両者を枘で繋ぐやり方である。
その際、ハンドルと各リムの連結部分に敢えて角度を付ける事で、アンゴゴ様式よりも大きな撓みを生み出し、矢を撃ち出すエネルギーも増す……という特性を持つ。
これら2種類の弓を比較して分かる事は「安定性」と「威力」は相反する要素で、言わば両立しない関係である。
構造が単純なアンゴゴ様式は矢の撃ち出しから飛翔に安定性を求めた造りで、アンテラ様式は撃ち出しでややハンドルがブレやすいが威力と射程が延びる……と言った感じか。
俺は当時、まだ「弓製作術」技能を取得していなかったので……その場では気付く事がなかったが、恐らくあの冒険者パーティの紅一点(?)であるジーヌが所有していたのはアンテラ様式……と言うか、このアンゴゴ地域外で普及している弓であったと思われる。
元より「森林地帯での狩猟」と「平地での長射程」で目指す目的が異なる突き詰め方をした両者を比較するに……アンゴゴ地域における狩猟での使用に限定すれば、当然アンゴゴ様式に軍配が上がるが、アンテラ様式には前者を凌駕する殺傷力が期待出来る。
ヘイジがまだ健在だった頃に少なくない人数の猟師が彼にアンテラ様式の弓を発注していたのは、恐らくそれが理由だろう。
いつかアギナが言っていたが、猟師が弓を利用してまともに狩れるのは精々、鹿くらいまでで……イノシシやオオカミ、熊が相手では一射で仕留めるのは大変な困難を伴うそうだ。
猛獣とされる相手に対して一射で仕留められない場合、向こうが鹿やウサギのように逃げ出してくれればいいが、大抵はこちらを敵として認識し、襲い掛かって来るであろう事は俺でも予想出来る。
多少の射出安定性を捨てて、「兵器」として使われてきたアンテラ様式の弓を選択したい気持ちはよく解るのだ。
そう言った意味で、この地域の弓職人の生産品から「威力のあるヘイジの弓」が選択肢として消えた事を残念に思っている弓猟師は結構居るんじゃないだろうか?
なので俺は残り少ない時間、彼女の目の前でアンテラ様式の弓を2張分を製作して、1張はそのまま完成させ、もう1張分は連結させずに個々のパーツの状態で今後の彼女の「学習教材」として残してやりたい……と思い付いたわけだ。
何年先になるのかは分からんが、彼女が弓職人として修行を続け、師匠に認められて一人前の弓職人として独り立ちした時に、「父の遺した弓」の復元を目指そうと思い立った際に……この数日間の記憶は、その一助になるのではないだろうか。
目の前でひたすら矢羽根を仮付けしていた彼女に俺の考えを伝え、明朝から始める旨を伝えると、彼女は目を丸くしていた。
この村で一応俺に残された6日間を使い、途中の成形や接着過程で月野さんの〈ヒート〉を使ってもらえば十分に完成まで漕ぎ着けるだろう事は、今回の「ユキオ式複合弓」を製作してみて実感出来た。
俺は改めてジュミの作業を手伝い、明朝からの「学習」に備えて早めに寝るように伝え、月野さんにも挨拶をしてから先に寝室に入った。
時刻はまだ22時前だったが、ちょっと眠気が来ていたのだ。昨晩あれだけ長時間眠ったのに……逆に「寝過ぎて」しまったのか、
やたらと瞼が重いのだ。
ベッドに入ってみると、月野さんの弓問題が完全ではないとは言え、一応解決した……と言う実感が湧いて、俺は自分自身が思っていた以上にプレッシャーを感じていた事に驚いた。
ベッドに入ると、今度はどういうわけか眠気が薄れてしまったので……再び眠気がやって来るまでの間、思い出したように「ライブラリ」で検索を掛けてみる事にした。
このチートシステム、本来であればこういう使い方をするのが真っ当で、魔法やら技能やらを瞬時に取得出来てしまう副次的な機能がおかしいのだ。
検索機能には文字入力する事でアンサーが得られる「文字検索」と、視界の中にある物体に対して直接ライブラリに収蔵されている、恐らくは膨大な知識に基く情報が返ってくる「視界検索」があり、恐ろしく機能性が高い。
とりあえず……このシステムを俺に与えてくれた宇宙人(?)セラニカ氏の1000年にも及ぶ「漂着生活」で得られたであろう膨大な知識と情報を以て、アンサーを返してくれる。
俺は目の前の「俺にだけ見える」空間に浮かぶ怪しく緑色を帯びて発光している検索ダイアログに念を込めて文字を打ち込んだ。
「若年から後天的に聴覚が徐々に悪化していく事象の原因例」
脳内から捻り出した検索ワード……いやこれはもう質問か。ここまで直截的に聞けば、答える側もそこそこに回答を絞りやすくなるんじゃないかと言う……チートシステム相手にかなり考慮した内容だ。
文字を入力したボックスの右側にある【検索】ボタン的なものを意思の力で押すと、ほぼノータイムで回答が表示された。相変わらず恐ろしいくらいにレスポンスが良い。
但し……その表示された内容は俺の予想もしないような衝撃的な内容であった。




