新しい作業着
訂正:最初の「樽を使った洗濯」から2日経過していると勘違いしておりました。本文の内容を変更させて頂きます。
このヨーイス村に来て今日で5日目、8月15日の朝を迎えた。
俺は例の「古き良き電子音」のようなアラームによって6時に目を覚ました。今の寝室には窓が無く、何か灯りがないと真っ暗なので……起床と同時に〈ナイトビジョン〉を使って視界を確保する。
〈ナイトビジョン〉は相当に熟練度が上がっているせいか……映る視界に薄らと色が出るようになっている。ちなみに今の熟練度は39%だ。
隣のベッドには……毎度の如く全く姿勢を崩す事無く月野さんが眠っている。一瞬心配になるのだが、掛け布団が僅かに上下しているので眠っている……と言うか、「生きている」事が窺い知れる。
彼女は昨夜、俺よりも後に就寝しているはずだから今の時点で、どれ程の睡眠を摂っているのか分からない。なのでこのまま俺の手で無理に起こさず、自然に目覚めて頂こう。
俺は寧ろ彼女を起こさないように毎度お馴染みの〈スリープ〉を彼女に掛けてから……壁に掛けてあった「水色のカッターシャツにグレーのベストとズボン」と言う服装に着替え、サンダルを履いてから寝室を後にした。
そのまま家を出て、ご近所さんと共同で使用している井戸に向かう。どうやら朝6時だと、井戸の周りにはひと気が少ない。これは多分……6時まで寝ていた俺の方が、村人の皆さんよりも朝の始動が遅い為だ。
周囲が無人となっている井戸の水を汲み出して顔を洗い、ジュミ宅に帰ると……先程までは姿が見えなかった、この家の主である少女がリビングに居た。
「おはよう。もう飯は食ったのかい?」
「おはようございます。朝ご飯は親方の家でいただきました。親方からは今日も……って言うか、矢を作り終えるまでユキオさんの下で教わって来いって言われました」
「ふーん……そうか。でも君は何だかんだで飯を食いに行ったり、風呂に入りに行ったりで、毎日親方とは顔を会わすんだろう?」
「ええ。そうですね……なので私としては、これまでとそんなに……変わらないかな?」
「洗濯はどうした?今朝も井戸でやったのかい?」
「今朝は……ちょっと眠くて少し寝坊しちゃったんで……」
「そうか。まぁ、俺達も今日は洗濯をする予定だから一緒に洗ってやるぞ?」
「あっ!これから洗濯ですか?それなら私がやりますよ!」
「あぁ、いやいや……洗濯は夕方前くらいに予定している。タンさんのお宅の裏庭を借りるので……おかみさんが今日の分の洗濯物を取り込んだ後に場所を借りるつもりだ」
「えっ!?夕方に洗濯をするんですか?それじゃあ……乾かないんじゃないですか?」
彼女の疑問はご尤もである。この世界……洗濯機も乾燥機も存在しないこの村では、洗濯と言えば……
「晴れた日の午前早めの時間に洗濯を行い、その日の日照を最大限に利用して洗濯物を乾かす」
と言う考えが一般的だ。だからジュミも職場に行く前に洗濯を行い、自宅の軒先に渡されているロープに吊るしてから親方の工房に向かうようにしているのだろう。随分と不用心な気はするが……。
俺はこの件に関してもかなり曖昧に答えた。
「まぁ……そこは心配しなくてもいいから。アリサ様にお願いするんで……」
「えっ!?山神様は洗濯もやってくれるんですか!?」
ジュミは驚愕の声を上げた。
「いや……そうじゃない。洗濯の時と、それを乾かす時にお力をお借りするんだ。アリサ様ご自身に洗濯をやってもらうわけじゃないんだ」
俺はちょっと慌てて彼女の言葉に訂正を加えた。昨日の夕飯は確かに「作ってもらった」と言えるが、洗濯の場合は「要所で〈ヒート〉を使ってもらう」だけで、主体となるのは多分俺が使う〈ボルテックス〉の魔法だ。
俺とジュミの声が大きかったのか……月野さんが起き出して来てしまった。昨夜は日付が変わってから眠りに就いたはずで、今の時刻は6:21だ。睡眠は足りたのだろうか?彼女は寝起きが良いので、そこら辺が外見から全く判らないのだ。
「おはようございます。うるさくて起こしちゃいましたか?」
狼狽え気味な俺の言葉に対し、彼女は全く眠い素振りも見せずに
「おはようございます。すみません……私だけ遅くまで寝てしまって」
と……逆に恐縮した様子で挨拶をしてきた。
「いやいや。まだ6時半にもなってませんよ。もう少しお休みになられては?昨夜は結構遅くまで起きていたんじゃないですか?」
「作りかけの服を仕上げて、寝室に入る前にそこの時計を見たら1:40くらいでしたね」
彼女はリビングの……ジュミと我々の寝室の扉の間の壁に掛けられている小ぶりな振り子時計を指差した。この世界……いやこのアンゴゴ地域の村々において、かなり意外に思えるのが「時計の普及」だ。我々がこれまで訪れた村人の家にはほぼ例外無く振り子式の時計がちゃんと壁に据え付けられているのである。
この振り子時計のゼンマイは物心ついた頃から、毎朝ジュミが日課として巻いているらしい。
「そうでしたか……まぁ、今日は特に外出する予定も無いですから……あぁ、そうか。夕方前にタンさんのお宅に洗濯をしに行くだけなんで、眠かったら遠慮せずにお休み下さい」
月野さんへ今日の予定を大まかに告げると、彼女は「とにかく顔を洗ってくる」と言い残して外に出て行った。言葉が通じず……その姿を見送ったジュミが残った俺に訊いて来た。
「ユキオさん達は朝ご飯をどうするんですか?」
「うん……?あぁ。食べるよ。まぁ、朝だからいつもので良いかなぁ」
俺はそう言ってリビングの机の上に〈倉庫〉から取り出したパンやチーズ、ハム、それとこの村で買い入れたレタスのような形をした葉物野菜を芯から千切って並べた。まぁ……いつもの……アレを作る材料だな。
月野さんが戻って来たので
「どうしますか?何かスープでも作るか……昨日のシチューを出しますか?」
そのように尋ねると、彼女は笑いながら
「私は……パンだけで良いんですが、スープ……作りましょうか?」
「あぁいや……俺は元々、そんなパンにスープを添える程の丁寧な食生活は送っていないので、無ければ無いで構わないです。ただ……スープは今後、時間のある時にストックを大量に作っておいても良いですねぇ」
「あ、そうですね。小河内さんの『見えない場所』に仕舞ってしまえば温かいまま保存出来るんでしたっけ?」
「そのようです。大鍋に何食分も一気に作ってしまえば後々楽ですね。もし冷めても月野さんの〈ヒート〉で温め直すのは簡単ですから」
「では今度そうしておきましょう」
お互い……今朝はスープを欲していないので、結局はハムサンドで済ませた。何の事は無い。ハムサンドはいつも通り美味かった。
ジュミは俺が朝食の準備……つまり机の上に次々と〈倉庫〉から食材を取り出す一部始終を見て唖然とし、それでもしばらくすると正気に戻って
「あの……昨日の材料を出した時もそうだったんですけど……ユキオさんも山神様のように『不思議な力』が使えるんですか?」
何かを恐れるかのように訊いて来たので
「あぁ……うーん……俺達が暮らしていた国ではまぁ……こう言う『技』を使える人がいっぱい居るんだよ。どんな技が使えるかは人によって違ってな。俺はこう言う『荷物運び』みたいな事が得意なんだ。ただ……あんまり周りの人達に言いふらさないでくれな」
「あっ……はい」
もう面倒臭いので適当に嘘をデッチ上げてから、一応の口止めをジュミに頼んでいると……月野さんが突然
「あ!そうでした!小河内さんに着て欲しい服がやっと縫い上がったんです!」
と、何やら嬉しそうな顔をしながら教えてくれた。……え?俺の服……?今着ている服も彼女のお手製だけどな……。わざわざ新しい服が出来たって……あっ!もしかして昨夜遅くまで縫っていた服って……それのことか!?
彼女は朝食の片付けを終えると真っ先に作業部屋に入って行き、まだカーテン越しの薄暗い部屋の奥にある……自分の作業机の上に畳まれていた青い布で作られているらしい衣類?を抱えて戻って来た。
俺も彼女の後に続いて作業部屋に入り、3枚あるガラス窓に引かれていたカーテンを2枚まで開けた時に彼女が目の前に立って……抱えていたそれを広げて見せた。
「えっ……?これって……『ツナギ』ですか?」
彼女が俺に見せてくれたのは、やや明るめの青い……上下が一体になっている服、前の世界では「ツナギ」と呼ばれていた、主に機械系の職業の人が着ていた作業服だった。「ジャンプスーツ」とも呼ばれていたか。
上衣とズボンが最初から一体となっていて、俺の記憶では……上半身の背中側?から脚を突っ込んで着用するのだ。俺は会社員をやっていた頃に一般的な作業服を着る事があったが、それはオーソドックスな上下が分かれていたもので、ツナギは着たことが無かった。
俺はそのまま月野さんからお手製のツナギを受け取って呆然としていると……彼女は笑いながら言った。
「私も色違いで作ろうと思っているんですよ」
「こんなものまで作れるんですか……凄いですね」
「学生の頃……アパレル系の工場へ実習に行っていた時に、既製のツナギを着ていたんです。これは、その時のものを参考にしたんですよ」
「へぇ……。いやぁ……凄いなぁ」
俺はもう、感心し切りである。
「ちょっと着てみてもらえます?サイズが合っているのか見たいので……」
「あ……ああ。分かりました。ちょっと着てきますね」
俺はツナギを持って寝室に入り、真っ暗な部屋の中で〈ナイトビジョン〉を使用してツナギに着替え始めた。何しろ……ツナギを着るのは生まれて初めてだ。上半身側から脚を突っ込んでって……あれ?何かおかしい。脚を入れた時点で違和感がある。
「あれっ?これって前後逆じゃね?」
思わず独りなのに声が出てしまった。中々に着るのが難しい。背中側じゃなく、胸側が割れてるのか。
あぁ……なるほど。背中側が割れているのは「着ぐるみ」だな。俺の記憶の中で色々と勘違いが起こっているらしい。
普通に考えれば……前側が割れて身体を入れられる仕組みになっていないと、「前で留め具を留められなくなってしまう」って事か。そうなると独りで脱ぎ着するのが難しくなってしまう。
俺なんか最近は年齢と肥満のせいか背中に手が回らなくなっていて背中を掻くにも苦労しているのだ。女性が着るような背中にファスナーがあるような服は絶対に独りでは着れない自信がある。なるほど……「孫の手」とはよく考えられた商品名だ。人間は年老いてくると自分の背中に手が回せなくなり、孫に背中を掻いてもらう……今の俺にとって必要不可欠なツールなのだが、あいにくと手元に無い。可能であれば早急に自作するなり購入するなりしたいところだ。
ツナギは実際に着用しようとすると随分と窮屈な印象を受けたが……下半身部分を履いてから、袖に手を通すくらいまで着てしまえば非常に着心地が良く、ベルトや紐で腹を締め付けなくても良いので、物凄く楽だと思った。
身体を突っ込んだ上半身部分の端……後で月野さんに聞いたところ「前立て」と言う部分だそうだが、この部分が6つの木製ボタンでヘソの辺りから首元まで閉じられるようになっている上に、「比翼」と呼ばれるボタンとボタンホールが見えない造りになっている。
これはボタンとボタンの間から、作業中に木屑などの小さなゴミが入り込まないようになっているのだと言う……。色々と考えられているなぁ。
とりあえず前のボタンを全部留めた状態でリビングに戻ると、月野さんが毎度お馴染みの「プロのスタイリストの顔」になってツナギの裾やら袖やらを引っ張りながら「ここはどうですか?キツくないですか?」などと尋ねてくる。
ツナギ自体は、俺の身体にピッタリ……と言うわけではなく、敢えて少し余裕を持たせているのだと言う。なるほど……道理で今までの彼女が作ってくれた服とは着心地に違いを感じたわけだ。
これまで……月野さんお手製の衣類には肌着を含めて何着か袖を通しているが、どれも「俺の体型にピッタリだ」と言う印象を受けていた。小太りにありがちな「前がキツい」とか「袖が余る」と言った既製服にありがちなサイズ感のズレが無く、「俺の体型の特徴に考慮してくれている!」と言う感動するようなものだったのである。
しかし、このツナギには……そう言ったピッタリ感が無く、全体的に「ほんのちょびっと」だけ余裕があるのだ。
そう……余裕。「ダブダブ」とか「ブカブカ」と言うわけではないのだ。その証拠に袖や裾の長さはピッタリしている。その上で変な締め付けが無くて動きやすいのだ。
「作業着なので動きやすいように仕立ててみました。ストレッチ素材なんかあれば、もっとフィットさせても良かったのですけどね」
「ああ!なるほど!道理で他の服よりも楽に動けると思ったんですよ」
よく見ると……腰の辺りから腿にかけてタックのようなものまで付いている。なるほどこれなら……しゃがんだ時に股の部分がピリッとなる「事故」も起きなさそうである。
「このような素晴らしいものを……夜更かしまでして頂いて……ありがとうございます」
俺は以前も彼女から服を贈られた時と同様に鼻の奥がツンとしてしまった。こう言うものを貰い慣れていない俺は、それと解る他人からの親切に弱いんだろうなぁ。
月野さんは俺の様子を見て困惑した表情を浮かべている。
「そんな……小河内さんがこんなに喜んで頂けるなんて……」
2人で何故かしんみりしているところに……突然ジュミが口を開いた。
「こんな形の服……初めて見ました!いいですねっ!」
と、羨望の目で見ている。どいうやら「ツナギ」と言う上下一体型の衣服は、この世界では見慣れないスタイルなのだろうか?
しかし「女性もの」の服としては、普通にワンピース形状の衣装は存在する。月野さんが木樵頭夫人のマリに贈ったワンピースの服も、その質感には驚いていたようだが……マリは特に珍しがる事無く着用していた。それに……俺の記憶では各村長宅で働いているメイドさん達もワンピースの「メイド服」的なものを着ていた。
英語では確か……ツナギは先程も言った「ジャンプスーツ」と言う呼称の他に「オーバーオール」なんて呼ばれていて、ツナギのような首から下をスッポリ包む服の他に、主にデニム地でズボン部分に上半身は前掛け状で肩紐が付いている形状のものがあり、日本で「オーバーオール」と言えば……それを指す事が多い。「ツナギ」と「オーバーオール」を別物として呼び分けていたような感じだ。
ジュミは殊更にツナギが気に入ったのか、俺の姿を眺め回している。まだ中学生程の年齢とは言え……俺はこの年代の「女性」にはかなりの苦手意識がある。なので段々と具合が悪くなって来て……彼女には悪いが吐き気すら催してきた。
「つ……月野さん……。彼女が……どうやらツナギに対してかなり興味を持ったようです……」
俺は狼狽を隠すように月野さんへその事を話すと、彼女は嬉しそうな顔になり
「あら……。ならジュミさんの分も作ってみましょうか?」
と言い出したので……俺は一応ジュミに対して
「そんなに興味があるなら……アリサ様に1着作ってもらうかい?」
そのように訊いてみると、ジュミは表情を「パァァ」とSEを発したかのように輝かせた。
「えっ!?作っていただけるんですか!?」
「うーん……まぁ、アリサ様は『作ってもいい』とおっしゃっているから頼んでみるよ」
俺は苦笑しながら月野さんに向き直った。
「まぁ……ご覧頂ければお判りになるでしょうが……。欲しがってますね」
「分かりました。では彼女の身体のサイズを測らせてもらいますので、伝えて頂けますか?」
俺は彼女に頼まれた通りにジュミへ通訳をし、嬉しそうに快諾したので……彼女の寝室でサイズを採ってもらう事にして、自分は矢製作の作業を始める事にした。
木材から軸を削り出すのは終わったので、次は軸先の断面に2センチ程度の溝を十字もしくは一文字に切り込んで、鏃を「差し込む」と言う作業に入った。鏃を差し込んだ後にバランスを見てから切った溝部分に糸を巻いて固定するわけだ。
糸は木綿から作られた撚糸で、予め「サネル」と呼ばれる蝋に似た樹脂でコーティングされている。これは矢羽根を縛る糸にも同様の処理をされていて、その目的は「防水」だ。
矢は雨などで水に濡れると……矢羽根もそうだが、それらを固定している糸に防水処理がされていないと、水分を含んで膨らんでしまう。この時は寧ろ膨らんだ事で縛った糸がより締まるので、それほど問題は起きないのだが、水を含んだ矢の全体的な重量が増してしまい、射出運動が低下してしまう。
更には糸が乾いて水分が脱ける事で今度は逆に「緩み」が出てしまうのだ。そうなってしまうと鏃や矢羽根の固定が甘くなってしまい、軌道がブレたり飛距離が落ちたりする。それを防ぐ為に、糸そのものへ予め防水処理を施すのだ。
処理された糸は触ってみると固い印象を受ける。針金……と言う程ではないが曲げると癖が残ってしまうくらいに固いので、鏃の溝を巻縛るにもコツが必要だ。
今回使う鏃は、全て猟師達が使って回収した古い矢から取り外した再利用品で、ジュミが磨いたものだと言う。
鏃自体は、ヨーイス村に工房を構える鍛冶屋のバルームと言う男が製作したものらしいが、俺が見たところ……鏃の形状が均一ではないので、恐らくは彼の弟子も製作に加わっていると思われる。その形状は太さ1センチ弱の鉄片を打ち延ばしたもので、先端を細長い三角錐の形状に仕上げて錘の底面に出っ張りを設けている。
この出っ張りが矢軸の溝に嵌る部分で、矢鍛冶によってこの部分の形状が違うのだが、バルーム鍛治工房では平らに潰したような形にしているようだ。つまりは「マイナスドライバーの先端」みたいな形状だな。
なので矢軸の先端も一文字に切れ込みを入れ、この切り口に鏃の「尻の出っ張り」を差し込むわけだ。これが所謂「差し込み」と言われる鏃の装着法である。
俺は矢軸の先端に切れ込みを入れて鏃を差し込んでみた。うーむ……やはり「中古」の鏃なので、「差し込み」の部分が鏃本体との接点で曲がってしまっているものが多いなぁ。やはり一度使用すると、獲物やら木の幹に当たったりした衝撃で曲がったり……逆に対象物から引き抜く際に鏃と差し込みの接点に負荷が掛かったりするのだろうか。
このままでは……真っ直ぐに差し込める鏃が無いので、仕方なく自分で修正するしかない。幸いな事に……この工房には一応簡単な鍛冶道具一式があり、金床、金槌、そして小さな釜と坩堝まである。なので金属材料さえあれば弓矢に必要な金具くらいは、この工房で自作出来る。
……と言っても本来、弓矢で使う「金物」など高が知れている。弓幹本体には、極少数の補強に使う金具が使われるだけで、「弓鍛冶」と言えば主に「鏃を造る」事を指す。鏃も今、俺の目の前に転がっている「鍛造品」が主流ではあるが、もっと大量の……国軍の工廠なんかでは、「千」単位で生産する為に「鋳造品」で鏃を製造しているようだ。まぁ……これも「ライブラリ」に記載されている知識なのだが。
金床と金槌、それと「やっとこ」……つまり火箸を作業机の横に置き(台座と一体型になった金床は重すぎて〈倉庫〉を使わないと運べなかった)、やっとこで鏃の先端部を掴んで「差し込み」の部分を金槌で叩いて真っ直ぐにする。この作業自体は別にそれ程難易度が高いわけでもないが……何しろ数がある。木箱にてんこ盛りで入っているジュミが錆を磨いた鏃を1個1個確認しながら、俺は金床でコツコツと差し込み部分の修正作業に没頭した。
暫くして……ふと、金床に影が差したので顔を上げると……寝室で月野さんに身体のサイズを測り終えて来たジュミが俺の作業を覗き込んでいた。
「あの……これは何の作業なんですか?」
「ん……?あぁ……。矢軸に差し込む部分がね。曲がってるんだよ。だからそれを直してるんだ」
「え……?そ、そんなに曲がってましたか?私が磨いた時にはあまり気にしなかったんですけど……」
「まぁ……一度何かに矢が当たるとね。どうしても鏃が衝突した時にここに衝撃の負荷が掛かるんだ。だから僅かに歪みが出る。大半のものは、ちょっと見ただけでは判らないかもしれないけどね。この『僅かな歪み』が矢の軌道を狂わせるし、鏃の尖った先端から真っ直ぐ標的に刺さってくれないから貫通力も下がる。獲物の骨に当たって狙った急所から逸れたりするわけさ」
「ええっ!?そんな事になってしまうんですか?」
ジュミは驚いている。今まで4年も見習いをやって来て……気が回らなかったのだろうか。タン爺さんは、この磨かれた鏃を見て何も思わなかったのだろうか。俺だったら差し込みの歪みを指摘するけどなぁ。
「君は自分自身で的に向かって弓を撃った事はあるかい?」
俺自身はやった事が無いくせに、偉そうに訊いてしまった。
「え……?あ……はい。今年に入ってからですけど……自分の削った弓で何度か……」
ああ、そうか。彼女の場合は「自分自身に合うサイズの弓」は自分で作ったものだけなのか。そうなると出来の悪い弓で矢を射る事になってしまうな……。
「うーん……。そうか。これからどんどん腕を上げて、弓を一人前に削れるようになってから……改めて自分で的を狙ってみた時に……この『僅かな歪み』の意味が解ると思うよ」
繰り返すが……俺は自分自身の人生で弓を撃った経験は無い。それどころか、この世界に飛ばされて来る前まで「弓と言う道具」に対して、全く興味が無かった。俺が弓に対して何やら意識し始めたのは同行者である月野さんが、過去にアーチェリーの五〇候補になって世の中で話題になってたエピソードを思い出した時からだ。
そんな俺がチートで得た弓に対する知識を偉そうに目の前の女の子に喋っているのが、我ながら片腹痛い。そしてそんな陳腐な講釈を垂れている間にも、例によって俺の手は勝手に動いて鏃の差し込み部分をコンコンと金槌で叩いている。
箱の中にギッシリ入っていた中古の鏃は全部で400個以上あったが、そのまま使えるものは2割も無かった。結局、俺はこの日一杯かけて箱の中の曲がった鏃を直すハメになったのである。
途中……16時になって脳内……と言うか「システム」のアラームが鳴り響いた。気が付いて窓の外を見ると……既に夕方に迫るような、やや黄色味を帯び始めた空の色が見えた。月野さんやジュミとも約束していた洗濯の時間である。
俺は金床に向かいきりで丸めていた背中を伸ばし、「あいてて……」などと年寄り臭い声を発し、辺りを見ると……ジュミは作業台の上で矢軸の先端に一文字の切り込みを入れる作業に没頭していたようだ。金床が1台しか無いので、鏃を直す作業は必然的に俺だけとなった為に……彼女には、その作業を指示しておいたのだ。
始めは怖々とした手付きで軸先に刃を入れていたのだが、俺が再びコツを教えると……後は悪くない出来映えで軸先に細工を施してくれたようだ。
「よし。作業を一旦中断して、洗濯をしに行こう」
そう言って俺は立ち上がり、作業部屋の奥の机で〈ライト〉の光源を浮かべながら服作りを続けていた月野さんにも声を掛けた。彼女は黄色い布地を相手に縫製を続けており……どうやらジュミが欲しがったツナギは黄色いものになるようだな。
「あら……もうそんな時間ですか?あ、本当にもう夕方ですね」
彼女も一度作業に没頭し始めると周囲が見えなくなるタイプのようで、窓から差し込む「日の色」の変化に驚いている。しかし……不思議な事に彼女は〈ライト〉の更新をしっかりと行っているのである。
「ジュミ。洗濯物を全部出してくれ。袋に入れてくれるとありがたい」
俺と月野さんは寝室に戻り、シーツと着替えを回収して袋に詰めたものを〈倉庫〉に入れた。ジュミも自分の洗濯物を袋に入れて部屋から出て来て
「本当にこれから洗濯をするんですか……?」
袋を抱え込んで、まだ首を傾げている。
「まぁ……とりあえず君の親方の家に行こう。そろそろテナスさんが裏庭に干した洗濯物を取り込んだ頃だろう」
俺はそう言って、月野さんを連れてジュミと一緒にタン爺さんの邸宅に向かった。
* * * * *
前回は小さくコンコンとノックをしてから、テナスが扉を開けてくれるのを待っていたジュミだったが……今回は一応ノックをしてから、自分でタン宅の玄関扉を引き開けて頭を突っ込み
「おかみさん!ジュミです!入りますぅ!」
と、大声で来訪を告げてから俺達の方へ振り返って「入りましょう!」と言って本当に中へ入って行ってしまった。まぁ……毎日通っているのでいい加減、遠慮も無くなっているのだろうか。どうしていいのか判断が難しいが、我々も彼女に続いて中に入る。
この家の構造はジュミの家と多少似たところがあり……玄関扉から入ると、そこはもうリビングになっていて、部屋の真ん中には毎度お馴染みの……「大机と、それを挟むベンチ」が置かれている。テナスの姿は見当たらず、ジュミもリビングと接続している隣の台所や、裏庭に続く廊下などを覗き込んで「おかみさぁん!」と呼び掛けているが……本人は一向に現れない。
「私もこの時間に、ここへ来る事は殆どないので……おかみさんが今頃何をしているのか実はよく分からないんです」
ジュミが困惑した表情で説明してくれた。なるほど。普段のジュミはこの時間、恐らくは通りの突き当りにある工房で働いている時間帯なのか。しかし時刻は午後4時を回っている。俺の推測では、この時間……テナスは夫達の帰宅に備えて風呂を沸かし始める頃なんじゃないだろうか。
セリ村の木樵頭邸で暮らすマリの行動パターンであるならば、朝干した洗濯物を取り込み終わり、風呂を沸かしてから夕飯の支度に取り掛かる……そんな時間帯であるはずなのだ。
そしてどうやら……テナスはやはり風呂の支度にかかっているようであった。俺達が洗濯をする為に裏庭へと続く廊下を進むと、向かって右側にある風呂場の引き戸が開け放たれていて、人が居る気配がした。風呂場自体は既に掃除もされている様子で、気配は風呂場の中からではなく……壁を隔てた外から聞こえて来る。何やら乾いた薪材が発てるカタカタと言う音が聞こえる。
「おかみさんはお風呂を沸かそうとしているみたいですね」
どうやらジュミも気が付いたようだ。
「そうみたいだな。裏庭に出てみよう」
風呂場の前を通り過ぎ、突き当たりの扉から裏庭に出て、やはり風呂場の裏側から音がするので近付いてみると……テナスが屈んだ姿勢で薪棚から薪材を引っ張り出しているところだった。恐らくは様々な太さに割り分けてある薪を、幾つか組み合わせて燃やすのだろう。最初は細い薪に火を移して……徐々に太いものに燃え移らせるような感じなのだろうか。
俺達が風呂場の裏側に回り込むと、彼女はすぐに我々の存在に気付いたようで俺のツナギ姿にちょっと面食らった顔を見せながら
「あら……?もうそんな時間かしら?」
と、立ち上がった。どうやら俺達が風呂を借りに来たと勘違いしているのかもしれない。
「あぁ……いえ。時刻はまだ4時過ぎです。風呂ではなくテナスさんはもう洗濯物を取り込んだかなと思いまして。……もう取り込まれたようですね」
「洗濯物……?あ、ああ……そうですね。もう全部取り込んじゃいましたよ。相変わらず……この季節は良い天気が続いてますからねぇ」
「そうですか……それでは我々も洗濯をやりたいんですが、井戸端と物干し場をお借りしても宜しいでしょうか?」
俺が尋ねると、彼女は「ん?」と……「解しかねる」と言ったような表情になった。
「これから……洗濯を?あ、そう言えば昨日も夕方にお見えになってましたね。大丈夫なんですか?もうそろそろ日も暮れ始めますけど……」
「ええ。そこは問題無いです。こちらのアリサ様のお力をお借りしますので……」
俺はそう説明してから、井戸端の排水溝の上に〈倉庫〉から「洗濯樽」を取り出して設置した。それを見たジュミとテナスが驚いた顔をする。
「ああ、おかみさん。今から風呂を沸かすんですか?それなら洗濯が終わったら我々が沸かしますんで、薪は仕舞われて結構ですよ」
「え……!?」
「どうせ我々も後でお借りするわけですし。これから夕飯の支度とかで大変でしょう。こうして洗濯の為に場所まで貸してもらえるんですから、我々にも手伝わせて下さい」
俺はそう言いながら樽に自分の洗濯物を放り込む。月野さんの洗濯袋も取り出して「月野さんのも入れますね」と本人に断ってから、袋の端を逆さまに持って彼女の洗濯物もドサドサっと樽に入れる。
「ジュミ。君の洗濯物もここに入れなさい。おかみさん。それではすみませんが、今日も灰汁を少しもらいます」
ジュミは俺の言葉を聞いて、「えっ……は、はい」と首を傾げながら自分で持参した袋に入った洗濯物を樽に入れた。彼女はこれから俺が何を始めるのか全く判っていない様子だし、それはテナスも同様だろう。彼女は昨日、我々が初めて「樽を使った魔法による洗濯と乾燥」を見ていない。そもそも彼女にとって、今から2時間程の間は1日で最も忙しい時間であるはずだ。
俺は3人分の洗濯物が入った樽に〈ウォーター〉を使って八分目くらいまで水を注ぎ、勘を頼りに灰汁を木の椀で2杯程投入した。俺自身、まだこの洗濯に慣れていないので、洗濯物と注水量、そして洗剤(灰汁)の適正量が判っていないのだ。もうこれは何度か回数を重ねる事で把握するしかないだろう。
灰汁を投入してから月野さんに樽の中を60度に加熱してもらってから〈ボルテックス〉で中身の撹拌を始める。その光景をジュミとテナスは呆然と眺めていた。
「こっ……これは……何をしているのですか?」
「ん……?あぁ……こうやって洗濯物と水の入った樽の中身をかき混ぜると、君達があの『洗い履き』で踏み付けるのと同じような効果が得られるんだ。つまりこうして……洗濯をしているわけだな」
「え……いや……あの……これって……どうやってかき混ぜているんですか?」
「あぁ……そこはまぁ……ね。アリサ様のお力をお借りしているんだよ。言っておくが今見ている事は……」
「あ……判ってます。他の人には言わない……ですよね?」
まだ目の前の光景が信じられないと言ったような顔をしているジュミが、それでも応えてくれた。物分かりの良い賢さは持っているようだ。
「おかみさんもお願いしますね。それでは今のうちに風呂を沸かしてきます」
最初の左回転を終えて、回転方向を逆にしてから俺は月野さんに風呂を沸かす旨を伝え、彼女を連れて風呂場に向かった。
「ああ、我々は薪を燃やして風呂を沸かす事はしませんので。それと樽の中の水には手を触れない方がいいですよ。手荒れしますからね。洗濯の水は」
そう言い残して風呂場に行き、俺の〈ウォーター〉2回と月野さんによる設定温度高めの〈ヒート〉を使って風呂を沸かす。と……言っても、俺の〈ウォーター〉は既に再使用時間が6秒にまで短縮されているので、10秒あれば浴槽一杯に水を満たす事が出来るし、月野さんの〈ヒート〉で水を45度まで加熱するのに3秒程度しか要しない。最早風呂炊きなんぞ30秒もあれば終わってしまうのだ。
浴槽に蓋を被せてから裏庭に戻ると、2人はまだ樽の中を不思議そうに覗いていた。
「タンさん達が帰ってくるまで、まだ時間がありそうだったので少し熱めに沸かしておきました」
「え……もう終わったのですか!?」
と驚くテナスにそう言いながら、俺は再び樽の中の洗濯水を左回転に戻した。この動作を4分おきに4回程繰り返し、都合15分程「洗濯」工程を行なってから、魔法をキャンセルして樽の底面近い部分にある栓を抜いて洗濯水を排水溝に流す。この際に月野さんからのアドバイスで一度「透過有り」の設定で「脱水」を掛けておくと「濯ぎ」の効率が高まると聞いた。
脱水が終わったら栓を抜いたまま、今度は先程よりもやや多めに注水して再び樽の中を回転させる。「注水しながら濯ぐ」と言った作業になる。
「今度は水が撥ねるので樽から少し離れた方がいいですよ」
未だ樽の中を物珍しい様子で眺めている2人に注意を促して「濯ぎ」が始まる。この工程も途中で水の回転を4回程変更しながら、その都度水を入れ替えて……更に樽の中の水が八分目を保つように〈ウォーター〉で水を加え続ける。正直、この工程が一番面倒臭いのだが、洗濯物に灰汁の成分を残すと肌荒れを起こしたりしそうなので、念入りに水で濯ぐようにする。
濯ぎを4回繰り返したら、最後はまだまだ「気休め」程度だが水を抜いた状態で脱水を掛ける。元の世界における「洗濯機」が発揮する回転速度の半分程度しか効果は期待出来ないが、それでも排水穴からはチョロチョロと染み出すように水が出ているので多少は脱水効果を発揮させているのだろう。
「洗い」に15分。「濯ぎ」に15分。そして「脱水」に10分。樽を使っての「魔法による洗濯」は都合40分で終了した。この間……ジュミとテナスはずっと樽の中を覗きっぱなしになっていた。まぁ……風呂はもう沸かしてあるので別にテナスも手が空いてしまっていたのだろうが。
「よし。樽の中の洗濯物を干すのを手伝ってくれ。とりあえず洗濯物は伸ばしながら一旦物干しロープに吊るすんだ」
そう言いながら俺が樽の中身を取り出して、裏庭に張られた2本の物干しロープに片っ端から洗濯物を吊し始めると、我に帰ったジュミと……テナスも手伝ってくれた。もちろん、月野さんも一緒に作業を手伝ってくれている。
「あの……こんな日も暮れ始めてから干しても乾かないんじゃないですか?」
テナスが不安そうに訊いてきた。
「ああ、大丈夫です。一度全部干してしまえば、あとはアリサ様にお願いするんで」
「山神様が……?」
「まぁ、とにかく全部吊してしまいましょう。もうそろそろ5時ですが……おかみさんは夕飯の支度があるのでは?そろそろご主人もお戻りでしょう?」
「え……?あらっ!?もうそんな時間!?」
テナスは最後の1枚……シーツをロープに掛けてから空を見上げ、すっかり夕暮れ模様の空の色を見て驚いている。
「お手伝い頂きましてありがとうございました」とテナスに礼を言い、月野さんに〈ヒート〉をお願いしようと思ったら、彼女は既に端の方から使用し始めており、程なくして最初に魔法が掛けられた範囲の洗濯物から薄暗くなってきた中でもハッキリと判るくらいに湯気が立ち始めた。彼女は再使用時間が来ると次々に〈ヒート〉を掛けて行く。最早「範囲指定」も自由自在なのだろう。シーツを含めた3人分の洗濯物を4回の魔法使用でホカホカに乾かした。
「えっ!?ど、どうなっているんですかっ!?」
ジュミが仰天している。テナスも台所に戻るのを忘れ、呆然とこの光景に目を向けたままになっている。
「まぁ、これが『アリサ様のお力』だ。もう乾いているだろうから、自分の洗濯物を袋に詰めなさい」
俺は2本の渡されたロープのあちこちに干されている自分のものと思われる洗濯物を袋に取り込み始めた。月野さんにも袋を渡しているので彼女も丁寧に袋へ自分の洗濯物を回収している。ジュミは俺達の行動を見て、慌てて持っていた袋へ洗濯物を取り込み始めた。
こうして2回目の「樽を使った魔法による洗濯」は終わった。初めての試みであった前回に比べ、2回目にして大分手際が良くなった気がする。
「何度も言うようで恐縮ですが……この事は『外』で他の人々に話さないようにして頂けますでしょうか?」
俺は一応丁寧な口調でテナスに口止めをお願いした。せっかくこうして、外から見えないような場所で行えているのだ。わざわざ外で言い触らされるのもアレだしな。
「あ、あぁ……はい。分かり……ました……」
テナスは特に洗濯物を乾かす様子に圧倒されてしまったらしく、すっかり台所に戻る事も忘れた様子だったが……口止めのお願いを聞き入れてくれたようだ。
「それでは……我々は一旦これを置きに帰らせて頂きますので。後程またお風呂を借りにお邪魔致します。我々の分の夕飯をご用意頂く必要はございませんので……。それでは失礼します」
月野さんから受け取った袋も〈倉庫〉に仕舞ってから、俺はテナスに頭を下げた。ジュミに「君はどうする?このまま夕飯を頂いていくのかい?」と聞くと、彼女は「わ、私も一度これを置いてきます」と付いてきたが、俺達……特に月野さんに向けられた目には、やはり他の人々と同様に「畏れ」の色が浮かんでいた。




