皮鞣しは大詰めに
ハボとその叔父である製材所の経営者兼工場長ウォーレンは製材だけでなく、木工の腕もかなり良く……俺が図にした木枠を、自らが刻んで作り出した木材を組み合わせ、ものの2時間程で作り上げてしまった。
その間俺は……いや、最初はもちろん手伝おうと思ったのだが、筋肉痛が思った以上に酷く……身体が思うように動かなかったのだ。早朝の月野さんと2人で……いや大半は月野さんだけで行った「木材の水抜き」の際も殆ど身体を動かさずに済んでいたし、この川沿いエリアと木樵頭の家を往復する程度の行き来であれば何とかなったのだが……。
工場には思っていた以上に製材機械の他にも木工道具が置かれていて、釘や金槌までちゃんとあったので製材所の2人だけでどんどんと木枠は組まれて行き……午前9時を回る頃には、オオカミ用の16台と熊用の巨大な木枠1台が完成した。
「いやぁ……すみません。何から何までやってもらってしまって。おかげ様で最後の毛皮処理の工程が始められます。本当にありがとうございました。これは、お2人の今日の日当になります。少額ではございますが、お納め下さい」
そう言って俺はウォーレンに銀貨5枚を渡した。彼は当初、受け取るのを遠慮していたのだが、俺は無理矢理にでも収めさせた。恐らく俺の出した銀貨5枚は、今日の2人分の日当……と言うか作業工賃としては破格であったはずだ。実際、作業は朝の6時前から9時過ぎ……3時間ちょっとで終わってしまったのだ。
材料は全てこちらからの持ち込みで、工場側から持ち出したのは精々……枠材を組んだ際の釘と、枠に取り付けた毛皮を引っ張るための革紐くらいだろう。それを加味しても銀貨で5枚は十分な報酬と言えるだろう。
「そうですか……それではお言葉に甘えて頂いておきます」
最後にこの図体がバカでかい工場長は、俺達に深々と頭を下げたが、その表情に少し翳り……と言うか、苦痛の色が窺えた。いや、多分報酬の多寡に対して不満があるわけでは無い。何か……身体に異常を抱えているのではないだろうか?
まぁ……これだけの図体である。いや、ハッキリと言うが肥満体だ。俺ですら、結果が怖くて住んでいた市から通知が来ていた市民半強制の健康診断に行かずにいた程なのだ。そんな俺から見ても、この男は確実にいくつかの成人病……生活習慣病に冒されていると思われる。
事実……彼は製材作業中は気付かなかったが、木枠製作の際……金槌で釘を打ち込む度に顔を顰めているのを、俺は見逃さなかった。
「ウォーレンさん……。どこか身体の具合が悪いのではないですか?何か……痛そうな顔をたまにしてますよ?怪我でもされたとか……?」
「え……?い、いや……」
ウォーレンは首を振ったが、その時も顔を顰めた。ん……?頭が痛いのか?
「頭痛ですか?」
「あ、い、いえ……大丈夫です。ご心配をお掛けしてしまったようで……」
「いやいや。明らかに何か異常が感じられます。お節介かもしれませんが……明らかに辛そうな顔をされているのを見ると、どうも気になってしまいまして」
俺がここまで他人の事を気にしている事に、俺自身が驚いている。やはり同じデブってる者同士、年齢も近い事もあって他人事のように思えないのだ。ましてや彼の温厚な性格は、この世界にやって来てからあまり見掛けないタイプだ。マルノ村のナック村長も似たような人当たりを感じたが、あちらは何と言うか……才気溢れる雰囲気を感じた。
それに引き換え、このウォーレンという人物は……有態に言えば、俺から見て「親しみを感じる」のだ。デブはデブ同士。オッさんはオッさん同士。彼とは何か気が合いそうな感じがしているのだ。
そんな彼が何やら苦痛に耐えている。まぁ、今日会ったばかりの余所者に自身の体調を打ち明けるのは、中々その気にはならんだろう。しかも俺は医者じゃないので、打ち明けたところでそれが苦痛からの解放に繋がるとも思えない。彼にとって、俺に「自分の弱み」を伝えるメリットが何も無いわけだ。
「叔父さん……もしかしてアレが相当に悪化してるんじゃないの?」
「む……い、いや……」
「アレ……?アレとは何だ?ハボ。お前は何か心当たりがあるのか?」
どうやらハボが何か知っているっぽいな。その言い様では、ウォーレンの「苦痛」は今に始まった事では無く、以前から見られるものだったのか?
「叔父さん、ちょっと前から歯が痛いんだそうです。この前もこっちのほっぺたを押さえてましたから……」
「歯だと……?虫歯か?」
「ええ……多分そうだと思うんです。叔父さん……甘い物が大好物なんで……」
「は、ハボ……!そんな……お客様に余計な事を言うな!」
ウォーレンが珍しく声を荒げた。まぁ、ハボは俺から見ても口が軽いし、考えて発言しない事が多い奴だわな。まぁ、今回はそれによって「叔父さんの悩み」が解ったのだが。
「虫歯ですか。確かに辛いですな。もしよければ……ちょっと見せてもらってもいいですかね?」
甘い物好きの虫歯か。何だかベタベタなパターンだな。甘い物だけにな……。俺はちょっと「違う意味」でこの太った男を悩ませている疾病に対して興味が湧き……症状を確認させて欲しいと申し出てみた。
「え……?虫歯ですよ……?そんなのを見てどうしようと……?」
「いやいや。そんなに構えないで頂きたい。アナタ程の人が顔を顰める程に症状が進行している虫歯が一体どうなっているのか興味がありまして……いや、こんな風に言われたら不快に思われるかもしれませんがね……」
俺はもう、開き直ってちょっと笑い加減で言った。そりゃそうだ。今、その痛みに悩まされている奴が、全くそれとは無縁の奴から他人事のように「興味があるんで見せてくれ」と言われて愉快になるわけがない。相手が俺じゃなくてもイラつくだろう……。
「そ、そうですか……?で、では……」
なんと……!この男は見せてくれようとしている。彼が今年何歳なのかは不明だが、その見た目から……そして木樵頭の実弟だと言う事から、恐らく俺よりは年長……いや、もう見た目では50代半ばに見える。そんな「いい歳したオッさん」が甘い物好きが原因で悪化させた虫歯を他人に見せる……俺が頼んでおいてこんな事を言うのもアレだが、よくそんな恥ずかし気も無く見せようと思えるな。
まぁ、こっちから頼んでしまい……そして本人がその気になってくれたところで「やっぱりいいです」とは言えないので、俺は〈倉庫〉からいつもの自然が作り出した「流木のベンチ」を地面に置き、そこにこの巨漢の男を座らせて、口を開けてもらった。そして……月野さんの方に振り向く。
「月野さん。このオッさんは虫歯の痛みに悩まされているそうです。〈セラフィ〉で治せませんかね?ちょっと実験をしてみませんか?」
俺は笑いを堪えながら、彼女に提案してみると……彼女はちょっと面喰った顔になった。
「まぁ……!虫歯ですか?痛そうですね……ちょっと怖いですけど見せてもらってもいいんでしょうか?」
「ええ。どうぞどうぞ」
俺は再度ウォーレンの方に向き直り、口を開けている彼にとりあえず注意を促した。
「ウォーレンさん、そのまま口を開けたままで。それとちょっと眩しくなりますので目を閉じてもらえます?目を開けると……目を焼いちゃうかもしれないので」
「ええっ!?目が焼ける……!?なっ、何をするつもりですか!?」
「まぁまぁ。そのまま……目を閉じて!アリサ様に見てもらいますから!」
俺が強めに言うと、彼は目を泳がせながらもギュっと目を閉じた。
「いいですか?ちょっと目の前を暗くしますよ?落ち着いて下さいね。後でちゃんと戻しますから」
そう言いながら、俺はウォーレンに対して〈ブラインド〉を使用した。目を開けた状態でいきなり掛けると、あの御前様屋敷の中年メイドのようにパニックになる恐れがあったので、まずは目を閉じさせた上で段階的に暗くする……という手順を採った。ベンチに座らせたのもそれが目的で、立っている状態でいきなり〈ブラインド〉で視力を奪うと、この図体で転倒されたら面倒だと思ったからである。
「ではそのまま口を開けていて下さい」
そもそも俺はウォーレンに「アナタの虫歯を治す」とは言っていない。それは月野さんの〈セラフィ〉が、虫歯に効果を発揮するのかが未知数だからだ。俺はもちろん……歯科医療についての知識など持っているわけじゃないので、この虫歯という「症状」が「負傷」なのか「疾病」なのかが判らない。
ただ、俺が虫歯に対して抱くイメージは2通りある。2つと言うか……2段階と言うか。まずは歯の表面が、虫歯菌だかそんな名前の細菌に侵され、穴が空く。するとその中のエナメル質の部分も溶かして「歯の神経」が露出すると、そこでまずダイレクトに痛みが発生する。まぁ、俺自身の歯科通院の体験ではこの時点で「神経を抜きましょう」的な話になって、歯根に入っている神経を抜く……と、ひとまず痛みは収まる。
しかしそこで治療を止めてしまうと、歯根の中に細菌が入り込み……歯根の先端部に穴を空けて歯茎の境目辺りで炎症を起こす。こうなると顔の形が変わる程に患部が腫れたりしながら、更に症状が進行すると……最終的には顎の骨を溶かし始めて激痛が発生する。まぁ、ここまで行っちゃうと「手遅れ」っぽい感じとなり、結局は抜歯しか治療手段が無くなる……大雑把にそう理解している。
因みに俺は、歯医者が嫌い……いや、痛いのはまだ我慢出来るのだが、他人の指が口の中に入ってくるのがどうしても我慢出来ず、通院を怠った結果……右側の下側奥歯を2本失っている。また、近所の歯科がどこも女医さんばかりだったのも俺が今の地元で歯科通院を躊躇った大きな理由である。
俺の事はどうでもいい。今やベンチに座って大口を開けているウォーレンの歯を月野さんに診てもらわねば。
「向かって右側の上顎側の一番奥……らしいです。既に彼の視力を奪ってますので」
月野さんにウォーレンの虫歯の位置を教えると、彼女は「なるほど。そうですか」と言ってから、何と……彼の口の中に〈ライト〉の光源を置いた。但しその光の強さは弱く……「眩しい」という感覚は無い。
「だ、大丈夫なんですか?」
「え……?」
「いや……口の中に光源なんて……」
「ああ、この〈ライト〉の光って熱くも何とも無いんですよ?私も何度か触ったりしてますけど、全然何も感じないです」
「え?そうなんですか?熱くない?」
「ええ。ほら。この前この〈ライト〉の『キャンセル』を練習してたでしょう?あの時に何度か試しに触ったり……手で包んでみたり、両手の掌で潰してみたりと……色々やりました」
彼女は笑いながら、その鍛錬の過程エピソードを話してくれた。そして口の中で光に照らされたウォーレンの右側……俺達から向かって右側の上顎側を覗き込み……
「この方……上の一番奥の歯が1本失くなってませんか?」
と指摘して来たので、俺も「えっ?」と驚き……彼女と位置を代わってもらってウォーレンの口の中を覗き込む。確かに……下顎側と比べて上顎側は歯が1本少ないように見える。うん。一番奥の歯が無いな。
「月野さん、ちょっと彼に聞きたいんですが、この光源て……このまま残してて大丈夫なんですか?」
「さあ……?それはちょっと判らないので一旦消しましょうか」
そう言って、彼女は先程ウォーレンの口の中に設置した光源をキャンセルしてくれた。
「ウォーレンさん。右上……ああ、えっと……ウォーレンさんから見て左上の奥歯……。今痛いと言っていた更に奥の歯って、失くなってます?」
ウォーレンは「目隠し」をされた状態で自分の顔の前で俺達が何やら意味不明な言葉であれこれ言い合った挙句に突然質問されたので、慌てて口を一旦閉じた後……恐らくは口の中を湿らせてから答えた。
「歯を……10年くらい前に抜きました……!もう痛くて痛くて仕方なかったんで……」
「なるほど。10年前も虫歯で苦しみましたか……」
「そうですね……お恥ずかしい……」
「いえいえ。俺も同じです。俺も奥歯が2本無いですから。俺の場合は下の歯ですけどね。1本やられちゃうと、隣の歯にも感染っちゃうんですよねぇ……」
「ありゃ……!そうですかぁ……」
「なので、ウォーレンさんの虫歯も……以前抜いた歯からの虫歯菌が1本手前に感染ってたんですかねぇ……」
俺は苦笑したが、〈ブラインド〉によって視界が閉ざされている彼には見えないだろう。俺は改めて〈ブラインド〉を掛け直した上で月野さんに報告した。
「やはり10年前に一番奥の歯を抜いたみたいですね。この世界だと歯科技術がどれだけ発達しているのか不明ですが……自分で抜いたんですかね。糸とか……」
「糸で抜けるのは乳歯だと思いますよ……」
「ああ、そうなんですか……。まぁ、とにかくこの人は既に奥歯を1本失っているわけですね。では〈セラフィ〉を試してみます?」
「そうですね。もう一度口を開けてもらって下さい」
「ウォーレンさん。もう一度口を開けて貰えます?なるべく大きく。で、開けたままにして下さい」
「え……?あ、はい……。それでは……」
ウォーレンは再び大口を開けた。月野さんがすかさず〈ライト〉で光源を置く。多分明るさは最低の「100ルーメン」とかにしているんだろうな。光源を直視しても、それほど眩しさは感じない。
「でもこの方……痛がっている奥歯以外にも随分と黒くなっている歯が多くありませんか?」
「この人、どうやら甘いものが大好物みたいなんです。この世界って、歯のメンテナンスがあの『総楊枝』みたいな棒しか無いじゃないですか。なので虫歯の人って結構多そうですよね……」
「ああ、なるほど……。とりあえずやってみます」
「えっと……〈セラフィ〉って、患部の外側に手を添えるんですよね?どの辺りから魔力を送り込むつもりですか?」
「ああ……えっと……向かって右側の頬の辺りからやってみようかと思います」
「そうですか。わかりました」
「ウォーレンさん。ちょっと虫歯がある方の顔を触りますよ?すみません。痛いかもしれませんが、少しの間我慢して下さい」
「ぁはあ……」
口を開けたまま、ウォーレンが気の抜けた返事をした。「イエス」なのか「ノー」なのかは正直判断出来ないが、もう面倒なので「イエス」であると思ってしまおう。
「ではお願いします。俺は念の為に彼の頭を固定します」
ちょっと笑いながら、俺はウォーレンの頭を押さえた。押さえたのは頭髪が少なくなっている頭の天辺と、空けている口の下……顎の先端辺りだ。彼は急に顔を抑え込まれたので「ぅごぁあああ!」と驚いたような声を口を開けたまま上げた。彼の後方ではこの一連の様子を不安そうに見ているハボが、何故か痛そうな顔をしている。まぁ……お前の気持ちは判らない事もない。
月野さんは、俺がウォーレンの頭を抑え付けたのを見て、彼の向かって右側の頬に両掌を当てた。そう……彼は図体もデカいが、顔もデカいのだ。月野さんが両掌を当てられるくらいにデカいのである。
彼女はその状態で口元で何やらブツブツといつもの呪文っぽい呟きを発している。暫く眺めていると……口の中の様子が……ウォーレンの口の中に〈ライト〉の光源とは違う光が現れた。〈セラフィ〉は虫歯にも効くのか……?口の中だけじゃない。もちろん彼の顔面に当てられている月野さんの両掌も光に包まれている。
やがて彼女の両手を包んでいた光が消えた。彼女はウォーレンの顔面から手を放し、改めて口の中を覗き込むと……残っていた〈ライト〉の光源も消えた。治療が終わったのでキャンセルしたのだろう。
「終わりました?」
「はい。手応えはありました。但し……私が感じたのは彼の上顎そのものからで、歯の方はどうなったのか……」
「ちょっと聞いてみます」
俺もウォーレンに掛けていた〈ブラインド〉をキャンセルし、ポカーンとしている彼に声を掛けた。
「ウォーレンさん。口を閉じて結構ですよ。どうですか?痛みは消えてます?」
ウォーレンは、俺の呼び掛けで我に返ったようで、目を開き……パチクリとしながら暫く何か考えるような顔になった……と思った途端に「ええっ!?」と声を上げたのである。
「いっ、痛くない……!痛みが……消えてます……これは……」
「えっと……多分、虫歯ってことは歯に穴が空いていたと思うのですが、どうですか?まだ穴は空いてます?」
「え……?え、ええ……。空いてますね。奥歯にはまだ穴が空いている感触があります」
なるほど。つまり月野さんの〈セラフィ〉では、痛みを発生させていた炎症だけが治療されるのか。それがどこの部分に当たるのかは不明だが、「歯の再生」までは出来なかったようだ。なのでこれは恐らく一時的なものだな。また雑菌が入り込んで遠からず炎症を起こすだろう。彼は上顎の奥に爆弾を抱えているわけだ。
しかし、いくつか考慮すべき点はある。一つは〈セラフィ〉の効果の中に「殺菌」が含まれている事だ。炎症を治療すると同時に、虫歯菌と言うか……この炎症を起こすに至った周辺の雑菌を死滅させた可能性はある。なので歯の象牙質だのエナメル質だの……はたまた上顎の骨を溶かしたりするようなバイ菌は当面除去出来た可能性がある。
なので、まだ空いていると言う歯の穴を塞ぐ事が出来れば……応急処置になるのではないだろうか。こんな医学の発達が遅れていそうな世界で歯に空いた穴を塞ぐなんて……と思ったが、俺は自分でも驚いた事にそれを知っていた……いや、これは多分この前【習得】した「製薬術」による知識だろう。その生活技能の中に「歯の穴を塞ぐ」と言う知識が含まれているようなのだ。
その方法とは……どうやら、いくつかの種類の木材から採れる「ヤニ」……つまり樹脂を詰めると言うやり方らしく、俺の知識の中にあるその「いくつかの種類の木材」の中に、アンゴゴ特産の「テンビル樹脂」が含まれていた。あの……テンビルの樹皮を蒸煮処理する事で抽出出来るヤニで、嘗てこのヤニを更に蒸留する事でニスの原料となる「テンビル油」の生産を試みて、ヨーイス村で悲惨な事故が起きたと言う「いわくつき」の物質だ。
テンビル樹脂自体は今でも生産は続けられており、蒸留技術が発達しているミランドへの輸出……まぁ、テンビル材を加工する際の副産物だな。それをミランドに送り、あちらでニスに加工してもらって輸入しているという状況が、ここ数十年続いているそうだ。まぁ、アンゴゴではニスそのものにあまり需要は無い。伐り出した木材を加工する分には別にニスを必要としないからだ。
しかしこの半年の間、山が閉鎖されて伐採樹木を出荷出来なかったアンゴゴでは、一部の山林関係者が残されていた端材を使って木製品を内職で作って糊口を凌いでいた。木樵頭の親父さんも、俺達が滞在している客間の隣部屋で木の食器を作っていたそうで、親父さん曰く食器には使わなかったようだが、それ以外の木製道具ではニスを使用していたそうだ。代表的なのは刃物の柄や荷馬車の荷台などの風雨に晒されるものにはニスは不可欠なのだそうだ。
「ウォーレンさん。テンビルのヤニってすぐに確保出来ます?」
「テンビルの……?あの、皮を煮て作るやつですか?」
「そうです。あのテンビルのヤニを虫歯で空いた歯の穴に詰めれば、痛みの再発を防げますね」
「本当ですか!?」
「ええ。今は多分、口の中に居た悪い菌が消えてますので……なるべく早いうちにヤニを用意して、歯に詰めるといいでしょう。樹皮から取り出した時は柔らかいですから詰めやすいですし、多分出荷する時の状態でも温めればまた柔らかくなるので、それを詰めるとか。とにかく穴に蓋をしてしまえばいいんです」
「そうですか!……あ、でもテンビルの樹皮なんてもう残ってませんねぇ……。山から伐り出されて来るのを待たないと……」
「あ、そうなんですか?ではそうですね……来月の6日とか7日とか。多分その辺りでテンビルの木も伐り出されて運ばれて来ますので、工場で皮を剥いたらすぐに蒸煮処理するといいでしょう」
「そんな……あと10日でテンビルが?」
「ええ。俺が運んで来る事になってますから、なるべく早くここに持って来れるようにしますよ」
「え……!?ユキオ様が持って来る?」
「ああ、後でハボにでも聞いて下さい。こいつが色々と知ってますから。じゃ、俺達はこの後……この作って下さった木枠を使って毛皮の加工をしますんで……ありがとうございました」
「え……あ、い、いやいやっ!日当まで貰った上に歯の痛みまで治してもらって……こちらこそお礼申し上げます」
ベンチから立ち上ったウォーレンは、改めて俺達に巨体を折り曲げて窮屈そうに深々と頭を下げて来た。とにかくこの体格に似合わない程に温厚で繊細な男である。彼を何となく〈鑑定〉に掛けたところ、「体力」が「D」評価で「腕力」が「B」評価なのは何となく判るが、なんと「知性」が「E」評価で「巧緻」は「C」だった。
ここまで高いレベルで能力が安定している……この世界の住人を見たのは初めてかもしれない。まぁ、その代わり……やはり「敏捷」は「I」評価なのだが……。
俺は2人に造ってもらった木枠を〈倉庫〉にどんどん収納し、最後に流木のベンチと余った主材を刻んでもらった角材や板材も放り込んだ。ウォーレンは、目の前にあった木枠や余材がどんどん消えていくのを呆然と見ていたが、やがて「後始末をしよう」とハボに声を掛けて、俺達に挨拶をしてから建屋の中に入って行った。
ハボも「では失礼します!」と言って工場長の後に続く。「後始末」とは多分、掃除かな。あの樹皮は集めておいて、また鞣し液の材料とする為に小屋で蒸煮するのかな。
俺は月野さんに声を掛けて、隣の猟師小屋に向かった。これで漸く……毛皮の「伸ばし干し」が開始出来るわけだ。時刻は09:38なので、可能であれば今日中にまずは今最後の濯ぎに掛けている毛皮を木枠に縛り付けたい。
まずはドラムの中から濯ぎ水を抜き、毛皮を回収してからパベルの実も処分する。一応それで毛皮の取り出しは終わるが、その後取り出した毛皮を一度脱水機に掛ける必要がある。まぁ、脱水機と言っても……日本時代で使っていた洗濯機のように遠心力で水を飛ばすものでは無く、ローラーの間を通して水を絞るタイプのものだ。
猟師小屋には鍵が掛かっていなかったが、中は無人だった。猟師達は山の中に居るのかな?罠専門の猟師でも、一度罠を仕掛けたらそのエリアを3日サイクルくらいで見回るらしい。中には「山神様との約束」の範囲内ギリギリの……麓から歩いて4日も5日も掛かるような深い場所にまで行って罠を仕掛ける者も居るらしい。
但し、一応はアンゴゴ内で規制が存在していて、木樵達がその年に伐採をやっているエリアは通年で禁猟区域に指定される。これは言うまでも無く伐採中の木樵が罠に掛かってしまったり、弓で射られる事故を防ぐ為だ。
それでも時折……前年に回収し忘れて仕掛けられっ放しになっているトラバサミなんかに足を挟まれる木樵が出てしまうらしく、特にトラバサミだと場合によっては足の腱を傷付けてしまう大事故に発展する場合もあるらしい。
「回収忘れ」は猟師組合の中でも、かなり重い罰則を設けているそうで……1回目は禁猟半年、2回目は禁猟1年、そして3回やると……組合からの除籍、つまりは「猟師を強制引退」と言う事になるらしい。そうなってしまうと、事実上アンゴゴ地域内で別の職に就くのは不可能になるらしく、その者は泣く泣く故郷の村を出て別の土地に移り住む事になってしまうのだそうだ。
小屋の中に誰も居ないのであれば却って好都合だ。今のうちに毛皮の回収とドラムの中の掃除もやってしまおう。ここ数日の間に、この小屋に来ていた猟師の中で勘の良い奴は、この小屋の中に漂う匂いで「ドラムの中にパベルの実を入れている」事に気付いているかもしれない。そして「何の為にそんな事をしているのか?」と考える奴も出てくるかもしれないな……。
……などと考えながら最初のドラムの中身を取り出していると、小屋の中に人が入って来た。……ちっ、この作業を見られちまうな……と、思ったら
「あ、来てましたか。良かった。俺は鍵を貴方に渡してたもんですから……ベンに言って鍵を開けておいてくれって頼んでおいたんですよ」
と、聞き覚えのある声がした。入って来たのはなんと、病み上がり……にもなっていなさそうなアギナ親方だった。ああ、そうだ!この人が手伝いに来てくれるってマリが言ってたのを思い出した。しかしあれからまだ大した時間は経っていない。あの瘦せこけた半死半生の人間が、数日で元の肉体を取り戻せるわけもないので、彼は相変わらずガリガリだし、動きも鈍い。
「大丈夫ですか?ここまで歩いて来たんですか?」
「ええ……いやぁ……いつもなら10分やそこらで来れるんですけどね。今日は30分くらい掛かっちまいました」
そりゃそうだろう。数日前まではベッドから立ち上がるだけで「あいててて」とか言ってた人だぞ。
「しかし……入った途端に何かおかしいと思ってましたが……そうか。匂いだ。匂いがいつもと違う……何だこの匂いは……」
「ああ、えっと……これはパベルの実の匂いです」
「パベル……あの……シウロの材料の?」
「ええ。そのパベルの実です」
「え……?パベルの実で何か……酒でも造ってるんですかい?」
やはりこの人も「この製法」を知らないようだな。
「親方。実は今……俺はアリサ様から教わったやり方で毛皮を鞣してるんです。多分この方法は……親方もご存知ないようですから、少なくともこの国では誰も知らないかもしれませんね……」
「え……?ええっ!?あっ!いててて!」
おいおい……大丈夫かよ……。また「自分で驚いて自分で痛がるコント」が始まったぞ。
「なので……これから目にする事は他言無用に願います。それを約束してくれるならば……『このやり方』の内容を親方だけにお教えしましょう。これは木樵頭の親父さんにも、ハボにも教えていません。なので、親方の家伝にしてもらっても構いません。但し……他の人には教えないように。いいですか?」
「え……あ……は、はい。もしかしてこれって……この前、ジェイクが居た時に話していた『毛皮の品質を上げるやり方』ってやつですか?山神様だけが知っていると言う……?」
「ええ、そうです。なので親方だけに教えます。この小屋の鍵を貸して下さったお礼です」
「そ、そうですか……ありがとうございます……!」
「いやいや。礼を言うのはこちらですよ。こんな設備の整った場所を夜中に使わせてもらったので、随分と助かりました」
「そうですか……。ところで、今はどこまで作業が進んでいるのですか?」
「ああ、今は鞣し液の濯ぎが全て終わったところです。この後に水を絞って木枠に縛り付ける……これは親方でも判りますよね?」
「ああ……。えっ!?も、もうそこまでやっているんですか?もう干すだけですか?」
「ええ。何しろジェイクさんとの約束まで、今日を入れてあと5日です。今日なんとか木枠に縛り付けて、約束の前日までと考えると、干す時間は3日しかありません。ちょっと急ぐ必要がありますが、幸いにもハボとウォーレンさんに木枠作りを手伝ってもらえたので予定よりも早く干す作業に入れますね」
俺は4台のドラムの中から次々と濯ぎ水を抜きながら説明を続ける。ドラムからはパベルの実の臭いが一層漂って来た。俺は鞣し液に浸けた後の濯ぎ工程でパベルの実を一緒に投入した事を話すと、親方は首を傾げている。
「ユキオ様が言っていた『品質を上げる』と言うのは、このパベルの実の匂いを毛皮に付けるって事ですか?毛皮に残っている鞣し液や獣の臭いを消す為に?」
「ははは。まぁ、確かに臭いはそれなりに消えますね。しかしそんな後付けの匂いがずっと定着するわけでもないですからね……。パベルの実を濯ぎ水に入れた理由はもっと別にあります。まぁ、とりあえず仕上がりを見て貰えば……多分解ると思いますよ」
俺は笑いながらも、パベルの実を投入した「真の理由」を明言するのを避けた。何故なら……この
「鞣し液を濯ぐ際にパベルの実に含まれているクエン酸によって、仕上がった毛皮の風合いや毛の柔らかさを一段上に引き上げる」
と言う技術に対して、俺自身が確信を持ててないからだ。なので、その辺りで含みを持たせておかないと、この工程の結果が上手く反映出来なかった時の言い訳が難しくなる。
「あと……パベルの実の確保が問題ですかね。例年ですと夏の初め頃には全部収穫されてしまうそうじゃないですか。子供達が小遣い目当てで必死になって木に登るんでしょう?」
俺が笑い出すと、アギナも一緒に笑い出し……やはり身体中が痛くなって悶えた。
「ミレイに聞いた事がありますよ。大袋で1個……大銅貨1枚になるそうです。酒造所の親父がその時期だけ子供達に優しくなるんだとか……ははは……あいててて!」
「そんな『強敵』相手に実を確保出来ますか?可能であれば、どっか別の場所に……それこそ植林して専用の木として確保するとか……うーん。現実的じゃないないな」
「いやいや……まだこの実がどう毛皮に効くのかもわからないですし……」
「ははは。そうでしたね。さて……毛皮もこれで一旦全部回収出来たので……あとは実を捨てるだけです」
そう言って俺は最後にドラムを引っ繰り返して中に残っていたパベルの実を流し出した。4樽分の実……つまり大袋4個分の完熟したパベルの実は、拾った時のような赤い色はすっかり抜けていて、ブヨブヨにふやけた状態で、排水溝に転がり落ちて行った。俺は最後にそこへ〈ウォーター〉で大量の水を流して、裏に流れる川に向かって残滓を全て押し出す。
これで残ったのは匂いだけになった。後はそれぞれのドラムにもう一度〈ウォーター〉で水をジャブジャブ入れて樽を洗うだけだ。一応各ドラムには注水用のポンプが設置されているのだが、今では1回で40リットルくらいの水を生み出せる〈ウォーター〉を使った方が遥かに早いのだ。
俺はドラムが並ぶスペースの横に設置されていた脱水機を使って、〈倉庫〉から出した水浸しの毛皮を次々とローラーに掛けた。が……クロスジオオカミの毛皮は予想以上に大きく、かなりローラーの幅ギリギリになってしまい、ボスオオカミと熊の毛皮に至ってはローラーに掛ける事が出来なかった。これは誤算だ……。
もう、ここまで作業して筋肉痛でヘロヘロになっている俺は、月野さんに「どうしましょうか」と相談したところ……
「あの木みたいに〈ヒート〉で水分を飛ばしてみます?」
と、かなり豪快な提案をされた。
「大丈夫ですかね……?」
「いえ……私にも分かりません。何しろ……私自身もこんな大きな『一枚モノ』の毛皮を取り扱った事が無いので……普通でしたら脱水機に掛けますね。私が行ってた工場では遠心分離型の機械を使ってました」
「やっぱりそうなんですね……。うーん……ひとまず木枠に引っ掛けて干しますか。多少水分が抜けてくれたら、改めて伸ばすとか?」
「そうですね。そこに弱めの〈ヒート〉で温めてみましょうか。多分50度くらいでしたら、あまりダメージは入らないと思いますので」
「なるほど。分かりました」
俺は椅子に座っていた親方に声を掛けた。
「親方。ひとまず脱水も終わったので木枠に掛けます。外に出て裏に行きますので……」
「あ、わかりました」
そう言って、アギナは椅子から立ち上った。驚いた事に、数日前のあのスローモーな動きからすると……かなりスムーズに動けている。どうやら毎日真面目にリハビリをしているんだな。まぁ、そうじゃなければここまで歩いて来れないか。
俺達は小屋の外に出て元から木枠が置いてある小屋の裏側……と言うか側面に回った。小屋の側面は南側に面しており、猟師小屋の建物自体でほぼ一日中日光を遮っている。つまり猟師達は普段この場所で木枠を使って「陰干し」にしているわけだ。仕上げ中の毛皮は直射日光に当たると毛並みが劣化してしまうので、基本的には陰干しにするのだそうだ。
俺はまず、製材所で組んでもらった木枠の中で最も大きな……縦7メートル、幅5メートルの「熊用」木枠を〈倉庫〉から取り出して地面に置いた。
ドズンっ!
「うわあっ!」
そもそもが10センチ角の材木で組まれている巨大な木枠は、実際に置いて見ると思った以上に大きく……当たり前だが重量も凄い。これに熊の毛皮を貼り付けた状態で取り回すのは、今この場に居るメンバー全員で力を合わせても不可能であることが早々に判明した。
「こっ、これ……こんな木枠、何に使うんです?」
「熊ですよ。例のほら……魔物の熊。ギンエリグマの皮が巨大過ぎて、これくらい大きくないと伸ばせないんです」
「何ですって!?」
そうか。さっきはドラムの中から直接〈倉庫〉にぶっ込んだし、そもそもどう考えても幅が足りなかったから脱水機の前でも取り出さなかったから、親方は熊の毛皮を見てないのか。
「これは困りましたね……。あまり不特定多数の人に見られたくないから手伝いを呼ぶ事も出来ないしな……」
「そ、そんなに大きいのですか?」
「ええ。皮を剥いだ俺ですら驚く大きさでしたよ。うーん……仕方ない。まだ大量に水を含んでますが、その状態で木枠に縛り付けてから、『木枠ごと』置き直そう。多分それしか方法が無い」
「月野さん……多分、この熊用の木枠単体でもそうですし、熊の毛皮自体も水を吸って持ち上げるのも大変なので……一旦地面に置いてしまいませんか?地面で木枠に縛り付けて一体化させてしまえば、例の『あそこ』へ出し入れする事で動かす事が出来ます。木枠に貼り付ける時に、なるべく頑張ってピンと張るようにすれば……」
「ああ……もうそうするしか無いわけですね。ではその状態にしてもらったら低温の〈ヒート〉で加熱してみます」
「そうですか。ちょっと『一か八か感』が出てきましたね……」
俺が苦笑すると、彼女もどういうわけか「ふふふ……」と楽しそうに笑った。
「えっと……山神様は何と?」
アギナが心配そうな顔で尋ねて来た。俺と月野さんの会話は言うまでもなく彼には全く通じないので、俺が山神様に何やら報告した後に、彼女から何やら指示を受けたとでも思っているのかな。
「親方。一度この木枠を地面に置き直します。あ、その前に敷物ですね。あれを敷きましょう」
もう、アギナの労働力には期待していないので、俺はさっさと木枠の横に置かれていた、以前も熊の皮剥ぎの際に使用した筵のような敷物を一旦〈倉庫〉に入れて移動させた。いや、この敷物……6メートル四方くらいで、木枠の隣にクルクルと巻かれて横置きされているのだが、意外に重いし……俺は筋肉痛なので自力で持って来るのが大変なのだ。なので近距離ではあるが〈倉庫〉を使って移動させた。
敷物を広げる。6メートル四方と言う大きさでは幅はともかく全長で心許ない。しかし、そもそもがそんなに巨大な毛皮を広げる前提で作られているものではないので、ここで文句を言っても仕方ない。
広げられた敷物の上に、改めてさっきの巨大な木枠をなるべく均等に重なるように置いてみる。しかしこの時点で木枠の縦サイズが敷物からはみ出している。木枠の長さは7メートルあるのだ。
「では、熊の毛皮をなるべくこの……敷物の上に収まるように置いてみます。なので後はその……頑張って革紐に縛り付けて下さい」
俺はそう言って、小屋の中の壁に掛かっていた錐を月野さんとアギナに渡した。この木枠、縦横の角材に約1メートル間隔で、縦方向に6本、幅方向に4本の革紐が結わえ付けられている。革紐は二重に補強された幅3センチくらいの太いもので、本来はどうやら製材所で切り分けた材木をその原木毎に縛っておく為のものらしい。
この巨大な熊の毛皮を引き伸ばす為に、ちょうど良さそうだったので工場長にお願いして結わえ付けてもらったのだ。先程2人に渡した錐を使って毛皮の外縁に穴を開け、そこにこの革紐を通して木枠側に引っ張るのである。
まぁ、あまり力一杯引っ張ってしまうと当たり前だが穴から千切れてしまうので、力加減が大切らしいのだが……俺がアギナに期待しているのはその加減を彼なら熟知していると思ったからだ。厳密には「皮の張り具合」だな。なので穴を空ける場所なんかも彼と月野さんに任せる事にする。俺は2人のサポートに回るつもりだ。
先日、最初に山から下りて来た時に習得した「皮革処理」と言うのが……「皮を剥く」と「肉を削ぐ」という過程と、「皮を鞣す」だけで……俺が自力でやれたのは、あのドラムに皮を浸け込むまでだった。その先にはどうやら「皮革加工」に属するらしい。セラニカ氏は、なんでこんな中途半端な所で分割したのだろうか……。
「いいですか……?出しますよ?」
「どうぞ!」
「月野さん、出しますよ?」
「はい!どうぞ!」
俺は〈倉庫〉の中から鞣し終わったギンエリグマの大量に水を吸ったままの毛皮を取り出して一旦敷物の真ん中辺りに出した。ドラムの中で丸まっている状態で〈倉庫〉に収めたので、「そのままの姿勢」で出て来てしまうのだ。
ベチョ!
やたらと水気の多い音を発てて、敷物の中央に黒山のような毛皮の塊が出現した。
「うおっ!?何だこれは!」
案の定、アギナが仰天している。月野さんもかなり驚いている顔だ。
「すみません。ちょっと丸まっているので、一度広げないと……。そうしたらまた動かしますので。親方はちょっとそこで見ていて下さい。俺とアリサ様で広げますんで」
「わっ、わかりました……」
そう言って、俺は月野さんに
「ちょっと、広げるのを手伝って頂けますか?アギナ親方はまだ身体をあまり動かせないんで……」
「ええ。もちろんです」
多分、今の状態であれば……俺よりも月野さんの方が力を出せるっぽい。いや、そもそもが〈鑑定〉で見ると俺の腕力が「E」に対し、彼女は「D」だったはずだ。しかも俺は筋肉痛がまだ収まっていないので力を入れると、体の節々が痛い。やはりここでも49歳の衰えた体力と腕力が恨めしい。
俺達は暫くの間、水を吸って重たくなっている熊の毛皮をズルズルと引き摺りながら「とりあえず広げる」作業を続けた。そして縦横しっかりと広がったギンエリグマの毛皮は……思った以上に巨大だった。
「こ、これが……魔物の熊の……凄い……こんなにデカいのに傷が全く見当たらない……鞣しも見事です。俺は猟師を30年以上やってますけど……こんなの見た事が無い……。こんな凄い生き物が山の中に居たなんて……」
「まぁ、そうですな……。あのオオカミ達を追っ払って……半年も縄張りに居座ってたくらいですから、そりゃこれくらいはデカくないと」
「たっ、確かに……」
月野さんも、改めて日の光の下で見る熊の大きさに声を失っている。俺はこの熊の毛皮の色を見るたびに……この世界に飛ばされて来た、「あの日」を思い出すのだ……。こいつが月野さんを下り坂で追っかけて来て……彼女が見事なフォームで……見とれるくらいの美しいフォームで走って来て……俺は初めてあの時、実戦で〈集中〉を使ったんだ。思った以上に皆ゆっくりになって驚いたもんだ。
俺達は暫く無言でこの広げられた熊の毛皮を見つめていた。やがて再び言葉を発したのは……月野さんだった。
「これ……位置を直すんですよね?」
俺はその言葉を聞いて我に返り……
「あ、ああ……すみません。なんか……『あの日』の事を思い出しちゃってました……。ははは」
それでも力無く笑うと、彼女も笑い返してきた。
「ふふふ……私もですよ。小河内さん。私はあの時……貴方が助けて下さらなかったら……でも、あれがあったから、今……貴方とここでこうして一緒に居られるんですよね?」
そう話す彼女はちょっと恥ずかしそうに俯いた。




