木が欲しいのじゃ!
「で……身体のどこか痛いところってありますか?アリサ様のご機嫌が宜しい今のうちにお願いするといいですよ」
俺は笑いを堪えながら「山神様のご機嫌が麗しい」旨を説明し、未だポカーンとしている夫婦に自身の身体でガタが来ている部分が無いか問い質す。これじゃまるでインチキ宗教のご神体と、それを喧伝する教祖様みたいじゃないか……。
「あ、あの……実は随分と前から膝も痛くなっとりまして……山歩きも最近は辛いなと……」
既に月野さんによって体内3箇所の治療を受けた木樵頭の親父さんが……すっかりその「お力」を体感したせいか、長年の悩みを打ち明けて来た。……なるほど。まだまだ現役の木樵頭で居たい彼にとって、膝の痛みは大敵だろう。恐らくは若い頃から傾斜のキツい山道なんかを無理矢理歩き回っていたせいで膝関節の軟骨とかが磨り減ってしまっているんじゃないだろうか。
「ちょっとアリサ様に相談しますので、ズボンの裾を捲っておいて下さいよ。服の上からでは効果が薄れるんです」
「は、はい……」
親父さんが慌てて股引の裾を膝上まで捲るのを後目に……
「親父さんが膝の痛みを抱えているようです。山歩きが辛くなってきたって……。まぁ、これは俺も心当たりがあるんですが、膝関節の軟骨が磨り減ってしまっているんでしょうな。俺の場合は太り過ぎで足の負担が高まっているんでしょうけど……」
俺が苦笑しながら説明すると、月野さんも苦笑いを浮かべた。
「小河内さんも膝が痛いのですか?」
「ああ、いやいや。俺の場合はこの前みたいに半日ぶっ通しで歩いたりすると膝が真っ先に痛くなる感じですね。現時点では月野さんの治療を必要としていません」
「あはは。そうですか。ではオジ様の膝だけ治してみますね!」
「治してみますね!」とか、そんなノリで言う事なのか。あんまりそう言う医者とか聞いた事無いな。俺達が苦笑混じりに会話をしている間に、親父さんは両膝までズボンを捲り上げたようだ。なるほど。両膝ともやられているわけだな。
「とりあえず……具体的にどの辺が痛みますかね?」
俺は親父さんの……老人とは思えない筋張った膝のあちこちを指で押さえながら、患部の位置を特定しようと尋ねた。
「うーん……どうですかな……」
親父さんは、暫くの間……膝を曲げたり伸ばしたりして「ああ……ここですな!」と、自分の手で患部を覆った。やはり膝の中心部……色々とゴチャゴチャと軟骨や骨が集まっている位置っぽい。そういや軟骨が磨り減る他にも、骨の欠片が入り込んだり……相撲の力士が肘に患う事の多い「骨棘」だっけな?そんな症状も出るんだっけな。
「月野さん、どうやらあの辺らしいです。本人が押さえてます。まぁ、具体的に何が原因で痛みが出てるのかは特定出来ませんが、〈セラフィ〉ならば関係無く治療してしまうんじゃないですかね……」
「なるほど。そうですか。ではやってみますね」
何度も親父さんの為にしゃがみ込む月野さんを見て、マリが慌てて部屋の隅から1人掛けの丸椅子を持って来た。身振りでそれを月野さんに勧め……彼女もニコリと笑って椅子に座り直した。親父さんの膝に彼女が手を運ぶと、患部を自分の手で押さえていた親父さんが慌ててその手をどけた。
月野さんが、親父さんの太っとい膝を両手で包み込むように触れ、ブツブツと呟き始める。以前聞いたところでは、この呟きは何やら魔法の呪文と言うよりは……自分に言い聞かせる為にやっているらしい。確かに……俺も一度耳を凝らして聞いてみたことがあるが、一番の「肝」であろう……「魔法の名称」なんかは口にして無かった。全く以って謎である。
とにかく、そんな月野さんの〈セラフィ〉が……親父さんの右膝でも発動して光を放っている。俺の認識では「光を放つ=患部を治療している」と言う事だろうから……やはり親父さんの右膝には何かしらの問題を抱えていたのだろう。
光が収まり……どうやら治療が完了したようなので、俺は試しに聞いてみた。
「これ……月野さんは痛めている患部を『目視』で特定されているんですか?その……疾患を抱えている場所が見えるとか?」
俺の質問に対して、彼女は困惑した表情になる。
「うーん……どうでしょう。私もお医者さんじゃないので、そこまで『見えている』という感じではないですねぇ……。ただ、手を当てながら魔法を使うと……『何か』を確実に感じてはいます。なのでその『何か』に対して意識を更に集中して行く……という感じでしょうかね」
「なるほど……そういうもんなんですね……ちょっと俺にはまだ理解出来ないな。やはり実際にその魔法の遣い手にならないとダメか……」
月野さんはどうやら〈セラフィ〉のコツを早くも掴んだのか、親父さんがまだ痛みの箇所を特定していない左膝に手を置いている。そしてすぐに光が放たれ……そして収束した。
これで都合……俺の腰の治療から始まり、彼女はこの魔法を6回使用した事になるな。俺は彼女をその場で〈鑑定〉してみると、〈セラフィ〉の熟練度はもう3%に上がっている。やはり相性「A」だとこんなに違うのか……。俺なんか気絶する寸前まで〈ヒール〉を使いまくって2%しか上がってないんだが……。同じ3%の上昇を稼ぐのに「A」と「C」でこんなにも違うのかよ……。
俺は今朝の消耗を思い出してゲンナリしたが、親父さんにはそのような態度をおくびにも出さずに、治療の終了を告げた。
「どうやら両膝の治療は終わったようです。ちょっと立ってみてもらえます?」
「え、ええ……おおっ!いっ、痛みが……いやぁ!これはっ!」
親父さんは膝を曲げたり伸ばしたり、立ち上がって屈伸してみたりして驚きながら、終いにはピョンピョンと小さくジャンプまで始めた。いやいや……そんな事したら他の足首とかにも負担が……。
「まぁ、治って良かったですね……マリさんもどこか痛むならアリサ様に治してもらって下さい。どうやらいつもお世話になっているので、彼女も日頃のご恩返しをしたいのでしょう」
「そっ、そんな!畏れ多いですよっ!」
マリは両手を突き出しながら首を振っている。
「えっと……マリさんは女性なので、流石に俺もちょっと……治療に立ち会うのは失礼でしょうから……どこか別の部屋でやってもらえます?多分、痛い部分を身振りで教えてもらえれば伝わるでしょうから……」
俺はそう言って、月野さんにも同様の話をすると彼女も苦笑しながら「そうですね……」と同意してくれた。結局、マリは月野さんを伴って1階の廊下奥にある家主の寝室に向かって行った。俺は親父さんと2人だけでリビングに残されたので、再び彼と反対側のベンチに座り……先程の話を続ける事にした。
「で……親父さん。さっきの話の続きをしてもいいですかね?」
「さっきの……?あっ!ああ……ユキオ様が木を運んでくれるって言うあの……?」
「そうです。とりあえず商人達に対して『前借り』状態になっている180本分についてです。どうせこの後、村長の家に話をしに行くわけですよね?で……村長は『まずは前借り精算の優先』を主張してくると」
「そっ、そうですな。あの若造はアンゴゴが周辺の町から来る商人に対して『借り』を抱えたままの状態が許せないんだと思うんですわ。何て言いますかね。『アンゴゴ子孫の誇り』ってやつですかい?」
「ふぅん……なるほど。でもそれじゃ村人の生活が苦しくなると。つまり親父さんは、アンゴゴ村長が、『アンゴゴの誇り』とか言うクソみたいな理由で木樵達の生活が脅かされるのが許せないと?」
「その通りです、ユキオ様!なのでそれをこれから言って訴えるつもりなんですわ」
「つまりその……これから再開される伐採については全て前借り精算を最優先させるんじゃなくて、伐り出した木材を一定の割合で村人への賃金に充てろって事ですね?」
「ええ。そうです」
「で……?親父さんの訴えはその……村長に通じそうなんですか?これまでに色々と……ノーマンでしたっけ?これまで……その若い村長の為人を聞いた感じでは……そんな判断が出来そうな知性を持ち合わせているとは思えませんけど……?」
俺は苦笑した。今、この村は恐らく……入植地開設以来の「転換点」に直面しているのではないか。地域の産業構造が整うに連れ……ブランド材木が齎す利益によって地域の住民は比較的裕福な生活を続けていたのだろう。例えばあの冒険者達……ベッグやデンツ、ジーヌが育った村のように何の産業も無かった村とは暮らし向きの水準が違っていると言う事だ。
しかし今回のオオカミ騒動で……収入の要であった山から締め出される状況になり、これまで目立っていなかった「アンゴゴ村長家」、特に現村長の「無能ぶり」が浮彫りになってしまい……現場を動かしている木樵頭や猟師組合長、そして属村であるはずのマルノ、ヨーイスの両村長からの不満が募り……更には近隣都市の商人達にも足元を見られ、付け込まれる事態になっている。
そんな状況にまで事態は悪化しているのに、若き村長は「勇者アンゴゴの血筋」と言う食えもしないプライドに縛られて正常な判断が下せなくなっている。今年に入って山が閉じられてから……いや、山を閉じるまでの対応で既に後手に回っている気はする。それも全ては若き村長……親父さんに言わせると「若造」の判断ミスが原因である事は明白だ。
そして今……またしても「若造」は間違いを犯そうとしている。これはこの若者だけの資質なのか。それともそう言った「驕り」が、200年以上続いていると言うアンゴゴ本村長家に継承されて来ているのか。俺自身が見た、あの御前様屋敷の使用人頭だとされた中年女性の言葉……「下賤な生まれの者を主人に会わせる事は出来ない」と言う……あの胸糞悪い発言。そしてそれを「金で解決させようとした」女主人。
民主主義国家で教育を受けて育って来た俺からすると、そんなクソ田舎の「名家のボンボン」が家柄の良さだけで頂点に居るという事自体に違和感を覚えるし、前の世界で暮らしていた頃も独裁国家、権威主義の国々を見て「バカじゃねえの?」と見下していた面もある。しかしこの世界……いや、この村では俺のそう言った考え方は通用せず、頭の悪いボンボンの一存で3村の村人の運命が決まってしまうわけだ。
「親父さん。もし俺だったら、今のこの時期……これから寒くなるって時に、そんな聞き分けの無い村長の説得とかしている場合じゃないと思いますがねぇ……」
「ど……どう言う意味ですか?」
「ですから……今の『若造村長』は無能なんでしょう?だったら、今から説得して時間を無駄にするよりも、さっさと180本の木を持って来て、商人達に渡しちゃえばいいんですよ。それで今、この村を徘徊している主にアンテラから来てる商人がいくらかは減るわけでしょう?」
「ま、まぁ……そうですな。多分この村の中に居る商人の半分くらいは、その『180本の優先受け取り』の為に押し掛けて来ている奴らなんですよ。まぁ、俺の知っている限り……180本の大半はミランドの商人が落札しているんですがね」
「ならば、尚更に180本を持って来て……早いうちに村長の望み通り『前借りの精算』をしてしまうべきです。どうせ村長はそれに拘ってるんでしょう?もう親父さんが今更反対したところで時間が惜しいだけです。ならばもう、その問題はとっとと終わらせてから、改めて今回の件……年初から続いている村長の施策ミスを糾弾すべきです。その間にも木樵の皆さんは残った今年分の伐採本数の達成に向かわせればいい。そこは村人の懐に入るわけですよね?」
「それは……そうなんですが……」
「まずは村人の皆さんに今年の冬を越せる環境を整えてやるのが先でしょう?そこまでの手筈を整えてから、親父さんやアギナ親方、ナック村長達で若造を締め上げればいいんです。その手順で行けば村人の皆さんは多分、親父さん達を支持すると思いますよ?アンタ達は、この村の非常事態に村人達の生活を放っぽって無能村長と喧嘩している場合じゃないんですよ」
「た、確かに……ユキオ様……。貴方様は一体……」
いやいや。俺はただの民主主義国家で育ったオッさんですよ。そんなオッさんから見て、この村が……この入植地の住民が、無能なお坊ちゃんの感情一つで冬に野垂れ死ぬのは見逃せない。いやいや。そんなキレイ事を言うつもりはない。俺がここまで親父さんを諭しているのは180本の木材運搬を「報酬目当て」に俺が請け負いたいという打算的な理由だからだ。
俺は正直、毛皮加工に使う「木枠」の材料としてホダだかテンビルだかの伐採木を1本分くらいもらえればいいかなと思っている。それも「可及的速やか」にだ。今日で鞣し液の浸け込みが終わる。明日には鞣し液を抜いて濯ぎに入りたい。そしてパベルの実を投入した濯ぎ水で1日くらいドラムを回した後はもう木枠に縛り付けて「伸ばしながらの乾燥作業」に入りたいのだ。
今日は7月26日。毛皮引き渡しの期限である8月2日まで6日しか無い。このままでも乾燥に充てられるのは実質3日間だ。出来るだけ早く行動に移したい。
「まぁ、俺は『政治向きの話』をあんまりしたくはありません。なので『村の人達の暮らしを守る』と言う観点で話をさせてもらいます。内容はさっきも言ったように……180本の木材の輸送を俺が全て引き受けます。木を伐ったその場から全部俺がやります。まぁ……一度『それが可能か』を試す必要がありますがね」
「180本を……1人で……」
「但し……俺としては、その報酬として『木を1本分』頂きたいです」
そこから俺は、木が1本必要になった経緯を話した。180本は「借金の返済分」だから、そこから1本貰うのは無理だ。なので今年の伐採予定である残り370本の中から1本貰うのか、それとも来年の分から貰うのか……そこは木樵頭が判断してくれればいい。
とにかく、俺が運搬を全部引き受ける事で……180本の調達が大分早まる。親父さんが言うには、木を伐るスキルを持つ木樵達を総動員すれば180本の木は2日もあれば伐り倒せるのだそうだ。それをそのまま……もしくは切り分けしたものを片っ端から俺の〈倉庫〉に収容して……後は俺が村に戻って製材所の入口なり何なりで、180本分を取り出すだけで終わる。
どうやら今年分の伐採予定であるホダとテンビルは、アンゴゴ本村とヨーイス村の中間からやや西寄り……つまりはヨーイス寄りのエリアに集中しているらしく、ここからそこまでの行き来に半日、エリアの中でも一番近い場所から180本分ならば数時間で回れる範囲らしい。
なので俺の提案さえ飲んでくれれば……伐採と運び出しでまぁ……都合2日あれば終わってしまうわけだ。親父さんが最初に見積もったのは1カ月半から2カ月。9月半ばから最悪の場合10月……つまり冬の時期に入ってしまうまで「前借分」の伐採と運び出しで木樵達が「タダ働き」させられるところを、遅くても8月の初旬には終わらせてしまえるわけだ。
そうであればその後の残り370本の伐採を年内に終わらせられる公算も高まるし、8月初旬以降の伐り出しは全てアンゴゴ地域の取り分として木樵達を始めとして、製材所の連中やその他の関係各所の者達への収入となるので、彼らの冬支度には十分に間に合う。
俺は一応、そこまで説明した。元々プレゼンを苦手にしていたのだが、今回の場合はそんな事も言ってられない。俺にも「8月2日」というクライアントに対する締切日があるのだ。さっさと木枠を新造した上で「伸ばし干し」の工程を開始させたい。
「本当に……そんな事が出来るんですか?」
「出来ればそれを確認させて欲しいですね。俺が貰う分の1本だけでいいです。それを先に試させてもらって、『行ける』ようであれば、親父さんからすぐさま山に居る木樵たちに総動員で180本の伐採を指示して欲しいです。木樵の皆さんが180本を伐っている間に、俺は村で木枠の製作と毛皮の伸ばし干しの作業をやらせてもらいます。それが終わり次第……まぁ、往復で2日もあれば運び出しは出来るでしょう?」
「俺としては8月2日までに毛皮をジェイクさんに渡したいわけです。で、可能であればその翌日に靴屋から靴が出来上がって来る8月3日以降ならば、靴を履いて山の中で歩き回っても大丈夫かなと。なのでそれまでに180本切り倒した上で切り分けもして頂ければ……まぁ、8月5日くらいには製材所に全て運び込めるんじゃないですかね」
「いやいやいや!そんな一気に180本も製材所に置き切れませんよ!」
「ああ、だったらほら。製材所と猟師小屋の並びから見て、川を挟んだ反対側に、猟師さん達の弓射の練習場があるでしょう?あそこを臨時で借りたらどうですか?」
「ああ……あそこか。なるほど……あそこの広さなら……」
「親父さんはとりあえずこの後、村長の家に行くんですよね?そこでは適当に報告してから、今晩ゆっくりお休みしてもらって、明日の朝一番で俺を連れて山に入ってもらい……『一番近い木』でとりあえず試させて欲しいんですよ」
「明日の朝から山へ?」
「はい。で……木が運べるようなら、それをそのまま『俺の報酬』として頂きます。そうしたら親父さんは山に居る木樵に180本分の伐採を指示して下さい。さっきも言いましたが8月3日……靴屋が靴を引き渡してくれたら、それを履いて俺も本格的に山で歩き回れますから」
「そ、そうですか……最初の1本をユキオ様への報酬にするのは全然構わないです。そしたら……えっと……伐るだけでいいんですね?伐った場所から運んでくれるんですね?」
「ええ。最初の1本で試して、『それが可能』であれば1本も180本も同じですから。問題は大きさなんです。もしかしたら大きさで『制限』に引っ掛かるかもしれない。なので出来れば『切り分け』までやってもらえれば確実だと思います」
「なるほど。それで……?それを明日の朝一番に確かめに行きたいと?」
「ええ。親父さんさえ疲れてなければ……の話ですけど。結構距離があるんですよね?その……今年分の伐採地まで」
「まぁ……そうですなぁ。朝一番に出れば……昼前に着くとして……木を伐って……夜までには帰ってこれるかな……」
正直、山から帰って来たばかりの60歳の老体を再び山の中に行かせるのは気が引けるのだが……俺としては一刻も早く木枠を作りたいし、親父さんだって村人の冬支度が掛かっているならば多少の無理はしたくなるだろう。
俺達がここまで話したところで、リビングに月野さんとマリが戻って来た。どうやらマリはどこか治療を施して貰ったのだろうか……エラくスッキリした表情になっている。
「ユキオ様……山神様のおかげで長年悩んでいた腰と膝の痛みが嘘のように消えちまいました。あと……何年か前に突き指してから痛みが消えなかった左手の親指もです。アタシの感謝の気持ちを改めて山神様にお伝え下さいませんでしょうか」
「ああ、そうですか。わかりました」
俺は月野さんに、「マリさんが凄く感謝していると伝えてくれと言ってます」と訳すと、彼女はマリに向き直ってニコニコしている。マリは「ありがたいこって……」と月野さんを拝んでいた。
「ああ、それと……今、親父さんと話をしまして。あの毛皮を伸ばしながら干す為の木枠……あれを毛皮の大きさに合わせて作り直す材料の木が貰えるように交渉しました」
「え……?あの木枠って大きな解体工場の裏に立て掛けてあったやつですよね?」
「そうです。でも、あれだと大きさが足りないでしょう?」
「ええ。確かに……だから杭で伸ばすのかなと思ってましたが……」
ああ……やっぱりこの人も俺と全く同じ事を考えていたようだ……。
「しかし……あの杭で伸ばすのは重労働じゃないですか?しかもあんなバカでかい熊の毛皮まであるんですよ?」
「ええ……。でもあの置いてあった木枠じゃ多分……」
俺は今親父さんと話していた内容を「報告」と言う形で彼女に伝えた。彼女は俺の話を聞いて驚いていたが……
「私も一緒に連れて行ってもらえませんか?」
と、意外な言葉を口にした。
「え!?月野さんもですか?山の中ですよ?」
「ええ。私もずっと部屋の中で服を作ってばかりいたので、たまには気晴らしじゃないですけど……」
「ああ、なるほど。まぁ……月野さんがご一緒して頂ければ、怪我人が出ても安心ですが……」
俺は苦笑しながら、親父さんに「山神様も一緒に来てくれる」旨を伝えると、案の定驚いていた。
「アリサ様がご一緒下さるなら、暗いうちから村を出ても灯りで照らしてもらえますよ」
「なっ!?あ、あのアギナを治療した時のですかい?」
「ああ、あれです。松明だのランタンよりかはずっと明るいですよ」
「わかりやした。ならば今夜は俺も疲れてるんで、早めに寝て……明日も早めに出発しますか?」
親父さんの提案を俺は承諾し、それならばと……親父さんが村長の家に行く間に猟師小屋に行って、予定よりも早いが鞣し液から毛皮を引き上げる事にした。ドラムで回す鞣し液には、都合60時間近く浸けていた事になる。時間としては十分だろう。なので毛皮の状態を確かめてから、夜までにパベルの実を入れた濯ぎ水で再びドラムを回し始める事にした。
「明日の夜明け前に出る」と聞いた月野さんは
「ならば私も今やり掛けていた型出しを終わらせてしまいますね」
と言って階段を上がって部屋に戻って行った。俺はマリに夕飯までには帰ると言って親父さんと一緒に家を出た。大通りまで出てから村長宅に向かう親父さんは、俺と別れる際に
「あ、そうそう。ハボにも声を掛けておきますわ。あいつなら木を伐るのは得意でしょうから、明日は手伝わせやす」
そのように言って大通りを歩いて行ってしまった。そうか……ハボは高所が苦手だから木登りはダメでも製材所に働いているから鋸の取り扱いはむしろ得意なのか。聞いた話だと、あの幹が太い大木を伐るのに斧は殆ど使わないらしい。主に2人挽きの大鋸で切って行くのだそうだ。
俺は今日も無人の猟師小屋の鍵を開けて中に入る。2日振りに訪れた猟師小屋の中は……「鞣し液の臭い」というやつなのか。以前嗅いだ臭いとは違って熟れ過ぎた渋柿のような臭いが充満していた。すっかり変質した臭いに俺は顔を顰めながら、扉と窓を全て開け放って換気をしながらドラムを一旦停める。
ああなるほど……。皮をドラムに投入した時には俺自身はこの臭いに対してあまり嫌悪感を感じてなかったが、月野さんははっきり「臭い」と言っていた。なるほど。柿渋……。まさにこの臭いだな。毛皮と反応を起こして臭いがキツくなったのか。とにかく2日前とは大違いなのだ。
ドラムの天面にある頑丈な蓋を開けると、「あの臭い」が益々漂ってきたが、息を止めながら備え付けの鈎竿に中の毛皮を引っ掛けて取り出し、出来映えを確認してみる。
うーん……。確かに……元の生皮とは明らかに「違うモノ」になっているな。ブヨブヨした手触りだった肉面の感触がゴワゴワになっている。何と言うか……全体に堅く締まったと言う印象だ。なるほど。これを本来であれば乾燥させながら伸ばして行くわけか。このまま乾いてしまったらカチカチの板状になってしまいそうだ。
時刻は16時になろうかと言う頃なので、外はまだ明るい。先程開け放った窓からも外の光が入って来ているので、まだ照明は必要無い時間帯だ。まぁ、暗くなっても今の俺には〈ナイトビジョン〉の魔法がある。あの魔法の凄いところは、俺の元居た世界で映画なんかに出て来る「暗視装置」的なものとは違い、光源に対して過剰反応して視界が「白飛び」みたいな感じになる事が無いのだ。
光源は、その中心部分だけが白く見えるだけで、その周囲までがオーバーフローして潰される……と言う事が無いのは驚いた。例えば、今の明るさで〈ナイトビジョン〉を使用しても、精々視界がモノクロになるだけで、全く見えなくなる……なんて事は無い。流石は「魔法」である。
俺は稼働させている4台のドラムを全て停止させ、排水口を開けて鞣し液を全て流し出した。皮を投入した時には明るい茶色……紅茶のような色だった鞣し液はこげ茶色になっていた。全ての鞣し液が抜けきったところで、排水口を閉めてから、〈ウォーター〉を使って再び4台のドラムに水を満たしていく。
そしてドラム1台につき、〈倉庫〉の中から取り出したパベルの実の詰まった袋の中身を1つずつ投入して行く。1台のドラムに1袋分ずつ。パベルの実は全部で12袋分拾っておいたので、濯ぎ水を都合3回交換する際……その都度1袋投入して行く事にする。
鼻を衝くような鞣し液の臭いに、今度は完熟パベルの爽やかな甘酸っぱい匂いが被さって来て、俺はおもわず口元が緩んだ。あの森で実を拾っていた時はあまり気にならなかったが、案外いい匂いがするもんだな。
鞣し液を抜いて、パベルの実入りの水に中身を入れ替えた4台のドラムを再び水車の動力と接続すると、先程までと同じように、再び……ジャポン、ジャポンと音を発ててドラムは回り始めた。その様子を暫くの間見届けてから、俺は何時の間にか薄暗くなって来ていた猟師小屋の中で〈ナイトビジョン〉を使用した上で戸締りをしっかりとして木樵頭の家に戻った。
時刻は既に17:04。意外とあの作業は時間が掛かっていたようだな。
家に戻ると、マリが月野さんの為に風呂を沸かし直すと言う。山帰りの親父さんが入ったせいか、浴槽の湯が汚れてしまったので、入れ替えるとの事。俺もちょっと作業で汗をかいたので、もう一度入りたかった。
沸し直しも俺と月野さんでやると伝えたので、マリは恐縮しながら夕飯の支度の為に台所に戻って行った。ちょっと前に親父さんと遅い昼飯を食ったはずの俺だったが、あの猟師小屋での作業で意外にもまた空腹感が湧いて来ていたのだ。前の世界では、こんな食い方をしていたからブクブクと太ったんだろうなぁ……。
せめて夕飯前にもう一働きしようと思い、浴槽と風呂場を綺麗に掃除してから、再度浴槽に〈ウォーター〉で水を貯めた。月野さんを呼んで、〈ヒート〉で加熱して貰ってから……「どうぞ先に入って下さい」と伝え、俺はリビングに戻ると、それと同じタイミングで親父さんが村長屋敷から帰って来た。
「いかがでしたか?」
「いやぁ……やはりあの若造は話にならんですわ。『先に約束されてる180本を最優先で伐り出せ』の一点張りでしたわ……」
「ははは……そうですか。で……どうします?」
「やはりユキオ様の言ってたように……木樵の連中の暮らしを守る為には先に180本をさっさと伐り出すしかないですかな……」
「では改めて……明朝早めに山に向かいましょう」
「わかりやした。ハボには声を掛けておきました。明日は4時出発で大丈夫ですかい?」
「ええ。では4時に出られるように俺も早めに寝ますよ……ははは」
マリが台所から出て来て……先程と同じようにジョッキに入ったシウロを置いて行った。俺はそのジョッキに再び〈アイスドロップ〉で氷を入れてやると、親父さんはとても喜んだ。
「ところでこの……氷はいくらでも作れるんですかい?」
「まぁ、どうでしょうね……」
と言いながらも、俺はマリが置いて行ってくれた水の入ったコップに再び氷を入れた。俺にとってみれば〈アイスドロップ〉の熟練度上げになるので、親父さんの質問にもそのまま答えてもいいのだが……。
夕飯が出て来る前に、月野さんが風呂から出て来たので「翌朝4時出発」を伝え、夕飯を久しぶりに4人で食べる。本来であれば親父さんの帰宅によって多少豪華な料理でも出てきそうだが、俺も含めて親父さんも中途半端な時間に遅い昼食を摂ったので、肉のシチューが出たがパン1つと一緒に食べて腹が一杯になってしまった。
夕食後、俺はもう一度風呂を使わせてもらい……20時前にはベッドに入った。今日は昼過ぎまで9時間以上も寝たのだが……恐らくこの数日間で昼夜逆転の生活をしたり、夜更かしや徹夜をしまくったせいか……ベッドに入った途端に意外にもすぐに眠気が押し寄せて来て、俺はすんなりと寝てしまった。
* * * * *
7月27日。時刻は03:01。俺はまたしても熟睡してしまったようで……結局7時間弱も眠った事になる。まぁ、それでも「寝貯め」などという行為は実際には出来ないわけで、俺は多分何だかんだで疲労が溜まっていたんだと思う。実際、アラームが鳴らなかったらそのまま更に朝まで眠っていただろう。
目を開けると真っ暗だった。朝の3時だからまだ空も白み始めてすらいない。2日くらい前までなら、こんな暗闇だと手探りで行動しなきゃいけなかったが、今の俺には〈ナイトビジョン〉がある。
「暗視」が入って、モノクロだが室内の様子がしっかりと見渡せるようになった。この魔法を覚えた当初はモノクロ映像に何かノイズのような線が時折入っていたのだが、今は感じられなくなった。熟練度が上がって鮮明になってきたのだろうか。
隣のベッドには月野さんが全く寝相を乱さずに仰向けで眠っている。よくよく考えると、なんでこんな美人さんの寝顔を見れる距離で毎日寝泊りしているんだろう……。前の世界で暮らしていた頃の俺だったら絶対に有り得ないシチュエーションなんだが……。
今回の「試し伐り」には月野さんも同行を希望していたので、あまり気乗りしないが起こしてあげよう……。掛け布団の端を持ち、それを小さく揺する感じで断続的にゆさゆさ引っ張りながら起こす。
「月野さん……!朝の3時です。起きますか?」
「起きますか?」とはこの場合あまり適切では無い声掛けだ。本来であれば「起きて下さい!」なんだろうが、もし本人が起きるのがダルくなって「やっぱり行かない」と言い出すかもしれない。俺としても別に強制するつもりもないし、そもそも「同行したい」と言う申し出自体が意外なので、あまり強い姿勢で起床を促したくないのだ。
しかし、俺の期待を裏切るかのように、彼女は最初の声掛けで目を覚ました。俺の世代的には「アイドルの寝起きドッキリ」的な成り行きで、薄目を開けて「うーん……」と一度軽く伸びをしながら、お天気お姉さんは目を覚ました。
彼女が身体をベッドから起こした瞬間……彼女と俺のベッドの間辺りの床から2メートルくらいの位置に光源が出現した。どうやら〈ライト〉を使ったようだが、俺には「明るくなった」と言う感覚が無い。何か直径5センチくらいの「白い玉」がポツっと出現した……と言う感覚だ。俺の〈ナイトビジョン〉の視界では常に「明るさ」が一定なのである。なのでそこに光源が現れても「光源」自体が「丸い物体」として目に映るだけである。
月野さんは恐らく自分で出した光源によって、部屋が明るくなった瞬間に「えっ!?」と、何かに驚いた顔をした。ただ、その視線は俺の方を見ているので、その原因は恐らく「俺」っぽいな。何だ……?「寝起きドッキリ」を仕掛けたオッさんの表情が気持ち悪い感じに緩んでいるのか?
しかし次の瞬間……彼女は思いもかけない行動に出た。なんと……俺の顔に、自分の顔を寄せて来たのである。
「なっ!?何ですか!?俺の顔に何か付いてます?」
逆に俺の方が狼狽して顔を背け……いや、逃げるかのように身体を逸らすと、彼女も正気に戻ったのか
「あ……!すみません……。いや、あの……小河内さんの目が……」
「俺の目……?」
「はい……。うん。やっぱり……。小河内さんの目が赤っぽく見えるんです」
「はぁ?俺の目がですか?充血でもしていると?」
「あ、いえ……瞳の色は黒いのですが……ちょっと何か……赤味掛かっていて……ちょっとそのままゆっくり横を向いてもらっていいですか?」
「は……?はい……」
俺は素直に言われた通り……自分の首を右方向にゆっくりと捻った。当たり前だが顔もゆっくりと右を向く。彼女に顔をまじまじと見つめられているので非常に落ち着かない。
「ほら。やっぱり!何か小河内さんの両目に赤い膜と言うか……瞳に光が反射しているところが赤っぽいです。私はどうなってます?」
「どうなってます?」と言われてもなぁ……。こんな目を合わせるのも落ち着かないし、そもそも今の俺は〈ナイトビジョン〉が発動しているので「赤」が判らない。なので俺は、月野さんの目の色を確認しようと〈ナイトビジョン〉をキャンセルした。するとその瞬間、また彼女が声を上げる。
「あっ!赤くなくなりました!」
「え?」
「今、小河内さんの目が元の……普通の目に戻りました」
「普通の目……?普通とは……?」
「いや……ですから赤味が無い黒い目に……」
うーん……?何を言っているんだこの人は……。寝起きだからか?
「月野さんの目は……黒いですね……うん……」
俺は躊躇いがちに彼女の瞳を見ながら感想を述べた。……ん?待てよ……?
「あ……もしかして……ちょっと待って下さいね」
俺は再び〈ナイトビジョン〉を使用した。するとやはり月野さんが声を上げた。
「あっ!ほらっ!また!今、小河内さんの目!赤いですよ!」
朝っぱらから興奮気味だ。なるほど……謎が解けた。
「あの、ちょっと確認したいので〈ライト〉の光源をキャンセルして暗くしてもらっていいですか?」
「え……?あ、はい」
そう応えた直後に、先程から我々の間の上の方に置かれていた光源が消えた。多分辺りは真っ暗に戻ったと思われる。
「どうですか?俺の目……まだ赤く光って見えたりしてます?」
「え……だって真っ暗ですよ?」
「いや、俺の目が光っているとか……そんな見え方はしてませんか?」
「いえ、私は今……暗くて何も見えませんね……」
「なるほど。そうですか。ちょっとそのまま俺の目があった辺りを見ていて下さい。切り替えますので」
「切り替える……?」
月野さんの疑問には答えず、俺は〈ナイトビジョン〉をキャンセルした。この魔法の再使用時間は1分近くあるので、「ちょっとお待ち下さいね」と伝えてそのまま再使用時間が消化されるのを待った。
「いいですか?もう一度見ていて下さいね」
時間が来たので再び〈ナイトビジョン〉を使用した。俺の視界に暗視効果が加わり、モノクロ映像に彼女が俺の顔の辺りを見つめている様子が映り、ちょっと焦った。向こうからは俺が見えていないはずなのに、俺の目を見ている……気がするのだ。
「どうです?何か見えますか?赤い光とか……」
「え……いや。真っ暗です……」
「そうですか。では〈ライト〉を使って頂けます?さっきと同じ場所で結構ですから」
「はい」
見上げると、先程と同じ辺りの空中に光源が現れた。……と言っても、今の俺には「白っぽい玉」にしか見えないが。
俺がまた月野さんに視線を戻すと、彼女はまた「あっ!」と表情を動かして驚いた様子を見せる。
「目が赤いです!小河内さんの目が……!」
「そのまま見ていて下さいね」
俺は彼女にまた見つめられている気拙さに耐えながら、俺は〈ナイトビジョン〉をキャンセルした。
「あっ!消えました!」
「そうですか。ご協力ありがとうございました。これで『仕様』が一つ判明しました。ちなみに……俺の目の色の変化と言うのは、すぐに気付くものでしたか?」
「うーん……私は結構すぐにわかりました。小河内さんの目の雰囲気がいつもと違うなぁ……って」
「そうですか。いや、実は先程まで俺は〈ナイトビジョン〉という一昨日覚えた『闇魔法』を使ってたんです。どうやらその魔法を使うと俺の目が赤く見えるみたいですねぇ……」
「あ……魔法を使ってたのですか?ナイトビジョン……暗視ですか?」
「おお。流石ですね。その通りです。暗闇でもモノクロですが……目が見えるようになる魔法なんです。でも発動中は俺の目が赤く見えるようになるみたいですね……」
「なるほど。魔法を使っている間だけ赤く見える……『魔力』が赤い色として見えているんですかね?」
「うーん。月野さんの証言を基に考えると、そう考えるのが正しいようですね」
「魔物の目も赤くなってましたよね?」
「あっ!そうか!そういえば魔物の目って白目部分も含めて赤一色でしたね。ただ奴らは生きている時は夜の暗闇でも赤く光ってましたけどね。死体の目からは光が消えてましたけど」
月野さんの意外な指摘に、俺は驚いた。なるほど……魔物の目が赤いのは、魔力が体内を巡っているからなのか……。そして俺が〈ナイトビジョン〉を発動していると「目」に魔力を帯びるのかな……?
俺達2人が今まで覚えた様々な魔法の中で、術者の身体に「効果を帯びる」という性質があるのは、この〈ナイトビジョン〉が初めてだ。なので一概には言えないが、今後もこのような「身体強化系」の魔法を使うと魔力が目に見える状態になるのだろうか……?
「小河内さんも鏡を見れば、判りますよ」
なるほど……鏡か……。あ……!いや。〈ナイトビジョン〉使用中の俺はモノクロでしか見えないじゃないか!
「いや……暗視効果の影響でモノクロにしか見えないので……赤が判らないです……」
「あっ、そうなんですね。すみません……あはは」
最後は月野さんが笑い出したので、俺も一緒になって笑ってしまった。おっと……時刻がもう03:19になっている。4時に出発だから、早く準備をしないと……。
俺は月野さんに準備をする事を告げると、彼女も慌てたように立ち上がってハンガーから服を外して着替え始めた。肌着姿の上にブラウス的な胴衣と、今日……山に入ると言う事でマリが貸してくれた女性用の作業パンツを履くだけだが、俺はその場に居るのが気拙くなったのでさっさと作業着を着て部屋の外に出た。
2人で1階に降り……そのまま裏口から出たところにある井戸に直行する。月野さんが階段を下りる前から、まだ暗い廊下にポツポツと〈ライト〉で光源を置いて行ったので、木樵頭の家の階段と廊下は昼間のような明るさになった。裏口から出ると外もまだ暗かったので、やはり月野さんが井戸の辺りに光源を置くと、暁暗に沈む村の中で……木樵頭の家の裏井戸の辺りだけが煌々と明るくなった。
俺達が井戸で顔を洗っていると、ハボがわざわざ裏まで回って来た。彼は小さなランタンを持っている。まだ暗い村の中を自宅から実家までやって来てくれたのだ。
「おっ、おはようございます……!やっぱり……なんか家の裏側が明るくなっていると思ったら……」
「ああ、おはようハボ。早いな。俺達はさっき起きたんだ。いつも付き添いを頼んじまってすまないな」
「あ、ああ……いえいえ。そんな、気にしないで下さい。オラだってまだ仕事が来なくて暇ですから……」
「ふむ。そんなお前に製材で頼みたい事があるんだ。ちょっと聞いてくれないかな?」
「え?製材ですか?」
「ああ、中で話そう。多分朝ご飯を用意してもらっているからな」
「は、はい」
そんな感じで顔を洗い終えた俺達2人は、ハボを連れて裏口から家の中に入った。月野さんは井戸の上に出した光源をキャンセルで消してから裏口の扉を閉めている。
台所から廊下に顔を出したマリが、昼間のように明るくなっている廊下の様子を見て唖然としている。どうやら何時の間にか廊下が昼間の外のような明るさになっている事に気付いたらしい。
「これは……?あら、ハボ。おはよう。来てたのかい?」
「ああ、母ちゃん。おはよう……」
「すみませんね。ちょっと廊下が暗かったものですから。アリサ様に灯りを入れてもらいました」
「そう……そうでしたか。さぁさ!朝ご飯出来てますよ!」
「ありがとうございます」
リビングに入ると親父さんも既に起きていて、作業着姿になってベンチに座っていた。俺は親父さんにも朝の挨拶をして、ハボも父親と挨拶を交わす。どうやらハボも一緒に食べるらしい。俺達もベンチに腰を下ろした。マリが朝ご飯を机に並べる。と言っても、いつもの丸パンに干し肉が入ったスープのみの軽いものである。
「そう言えばマリさん。こっちの村では卵料理は食べないんですか?ナック村長の家では卵が出てきましたけど」
「そうですね。アタシもまだ嫁入り前の頃は、あっちで卵を食べてましたけどね。多分……こっちの村まで持って来るのが大変なんですよ。ほら。荷馬車に積んでも割れちゃうでしょう?」
「え……?じゃあ……運搬方法の問題で持って来れないって事なんですか?」
「持って来れないって程じゃないですけどね。昔も何度か試したみたいなんですけど……やっぱり殆どが割れてしまうので、いつも最後は諦めて止めちまうんですよ。卵料理が嫌いとかってわけじゃないんですよ。アタシやミレイみたいに、あっちから嫁いでるのも結構居ますから。だからアタシもこの前みたいに実家に帰ると、卵を一杯食べて来るんですよ」
なるほど。運搬の問題なのか。こっちの世界では卵パック……とまでは行かなくても、卵を個別に収める入れ物とかが無いのかな。ああ、それと荷馬車の構造とか道路の舗装状態の問題もあるか。多分どうしても卵を運ぶ為に梱包やら積載に手間が掛かり過ぎて、マルノ村側が面倒臭くなるんじゃないか?
しかし、そうなると……卵の運搬というのは他の地域でも同様の問題を抱えているのか?都市部はどうなんだ?それこそ町のすぐ近くで養鶏農家が居なければ都市部でも卵を食べる事が出来ない……そんな状況にならないか?
「確かにあの馬車の構造が良くないな。あれだけ揺れが酷いと肉だって傷んでしまいそうだ」
「ユキオ様は妙なところに目が行きますな」
「親父さん。馬車の改良がされれば、木材の運搬だって楽になるかもしれませんよ?インフラ整備は地域の発展にとって最優先に取り組むべき事だと思います」
「いんふら……?」
「ああ、道路とか……今言った運搬手段の改良とかね。道路がしっかり整備されて、馬車も改良されれば……3村の行き来が楽になって、もっと人や物の行き来が盛んになるかもしれない。そうすれば3村はまだまだ発展するかもしれませんね」
「はぁ……ユキオ様は朝っぱらから難しい事を考えなさる」
「いやぁ、すみません……ははは。何しろ俺やアリサ様が住んでいた場所とは差が激しいものですから……」
「ユキオ様の国とですか?」
「ええ……俺達が住んでいた場所……まぁ国でしたら、セリ村とマルノ村くらいの距離なら1時間も掛からないですね。30分もあれば着いちゃうと思います。なので、あれだけ揺れる馬車に乗って3、4時間掛かった事に驚きましたよ」
「えええ!?」
まぁ、自動車も鉄道も無いこの世界と……現代日本のインフラ技術を比べる事自体がナンセンスなのだが。しかしあの馬車は改良の余地があるな。特に車輪周り……サスペンションとか。
木樵頭一家の人々を驚かせたりはしたが、朝食を食べた我々はいよいよ山の中……俺達が異世界から飛ばされて来たあの山の中に再び踏み込む事になった。




