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ポチってみたら異世界情報システム  作者: うずめ
目覚め、そしてサバイバル
3/81

美人さんと森のクマさん

 高さ20メートルを超えるホダの木の薄暗い木立から、女はこちら……多分、俺の様子を窺っている。


鬱蒼とした背景に浮かび上がる女の顔も不気味だし、木の後ろに隠れて顔だけを出しているので巨木の根本に、まるで「木の芽のように顔が生えている」と言った趣もある。俺は辛うじて声こそ出さなかったが、心臓が撥ね上がる思いでビクッとしてしまった。


女と目が合う。距離は5メートル以上……10メートルは無いか。その中間くらいだから7、8メートルくらいだろうか。最近視力の衰えが著しい俺にも、何とかその「表情」が見えるくらいの距離感だ。


 俺は慌てて展開していた「システム画面」を「◀」で仕舞い、視界を確保しつつ女の表情を窺う。目が合って、俺はやや怯んだが……落ち着いて観察を続ける。何しろ、俺がこっちの世界に来て初めて遭遇する「意思を持つ存在」である。彼女が俺に対してどのような感情を持っているのかを考察する材料を集めるべきだ。


彼女の表情には多分……敵意は感じられない。まぁ、この異世界でいきなり出会った時から敵意を持たれたら、いくら女性不信気味の俺でもそこそこ凹む。こっちからしてみればそれは「言い掛かり」に近い話だからである。


しかし彼女の表情から読み取れるのは敵意や隔意では無く……「不安」であるように思える。俺自身もそうだったが、目覚めたら鬱蒼とした森の中に倒れているのだ。俺の時は、近くに彼女も倒れていたので、まだ現実感があったかもしれないが……彼女は恐らく俺よりも随分後に目が覚めたのだろうから、当然その場に俺は居らず……たった独りで森の中、というシチュエーションだったわけだ。そりゃ不安にもなるだろう。


そして光を求めて森の出口に来てみれば……目の前で小太りの中年男が薄気味悪い笑顔で辺りを眺めまわしている。警戒して当然だろう。


 俺は彼女の気持ちを慮って、この場から立ち去る事にした。こちらから声を掛けるつもりは毛頭無い。森と山の急斜面の間にある草むらに沿って俺は急斜面に対して垂直方向に走っている天然の山道っぽい下り坂を歩き始める。


地面には相変わらず背の低い雑草のような下草が疎らに生えており、都会育ちの俺にはこれが獣道(けものみち)であるかどうかも判別出来ない。しかし崖のような急斜面を滑り降りるくらいなら、このなだらかな天然の坂道をゆっくり下りた方が幾分マシだろう。


宇宙人から現実離れした「システム」を貰った俺だが、悲しいかな……この身体は不摂生を繰り返してきた、来年50歳を迎える肥満体なのだ。


案の定、なだらかな下り坂とは言え……未舗装だし、靴も履いていない。爽やかさを感じる晴れた昼下がりの空の下で……俺は暫くして恥ずかしい事に息が上がって来た。


 「ふっ、ふっ」と俄か知識で呼吸を整えるように坂道を下る俺の背後からいきなり声がして、再びギクリとした。


「あっ、あの!すみませんっ!」


振り向かなくても声の主は判るが、俺は敢えて無視した。俺の背後に駆け寄って来る音がする。下り坂で走るのは足首や膝への負担が大きいだろうな。俺だったら絶対にやりたくない。


 声を無視して歩き続ける俺の背後で足音が止まった。まぁ、判ってはいるが「声の主」は俺に対して呼び掛けたのだろう。それでも俺は振り返らない。万々が一……俺に向けた声じゃなかった場合、そこで振り向いたら「何このオヤジ……キモい」とか思われると腹が立つからだ。


俺は……特に女性から呼ばれる場合、明らかに自分に相対されるか、名前を呼ばれない限り反応しないようになってしまっている。今でも時折フラッシュバックする……「おめぇじゃねぇよっ!」という声と周囲で失笑する様子……。俺の「三大トラウマ(心の傷)」のうちの1つだ。


「あのっ!すみませんっ!」


また声がした。今度は至近距離だ。どうやら彼女は俺を追って坂道を走り下って来たようだ。こんなオッさんを追い掛けて……などと思ったが、こんな見ず知らずの場所で何も判らない状況なら「何か尋ねたい」という気持ちも判らないでもない。ましてやここは異世界だ。彼女自身がそれを認識しているのかどうかは別として、「何も判らない不安」があるだろうなとは、いくら女性に対して不信感を持っている俺でも理解出来る。


 俺は仕方なく立ち止まって振り向いた。彼女は声を掛けながらも尚、俺を追って来たのだろう。意外な程近い距離に立っていたので、俺は逆に驚いた。


「私ですか?」


なるべく彼女と目を合わせないようにしながら、それでも彼女の顔を至近距離で眺めて……思い出した。


(この人……エレベーターに乗って来た美人さんだ……)


そう。彼女はあの時……異世界への転移が起こる直前に俺が先に乗っていたエレベーターに乗り込んで来た「凄い美人さん」だった。この世界に飛ばされた時に、衣服もそうだが化粧も剥がされたのだろう。彼女の顔は所謂「すっぴん」状態だが、それでも見間違える事が無い程に美しく見える。陳腐な言い回しかもしれないが「化粧する必要があるのか?」と思う程だな。


 俺は今、1メートルも無い距離で軽く息を弾ませている「凄い美人さん」の視線を浴びながら、数時間前に自分がこの世界で目覚めた直後に見た……彼女の「あられもない姿」を思い出して狼狽した。


彼女はそんな俺の様子を気にする事も無さそうに再び声を掛けて来た。


「あの、すみません……。ちょっとお聞きしたいのですが……」


俺は彼女の目を見る事が出来ないまま


「な、何でしょう……?」


と応えるのが精一杯だ。緊張する……こんな美人に仕事や買い物の時以外で話し掛けられた記憶は無いと思う。いや……大袈裟かもしれないが、俺の潤いの無い人生においてこれ程の美人さんに面と向かってこんな至近距離で話し掛けられたのは初めてかもしれない。何しろ、俺は「こういう状況」を避けるように生きて来たのだ……。


「あの……ここはどこなのか……お分かりになりますでしょうか?」


美人さんの口から綺麗な……いや可愛い声で質問が投げ掛けられた。それも至極当然の問いだろう。何しろ目が覚めたら全く心当たりの無い、しかも鬱蒼とした森の中で肌着姿で寝かされていたのだ。しかし……今、彼女が質問を浴びせている冴えない身なりのオッさんも、似たような恰好をしているのだが。


 こんな美人さんに話し掛けられる機会は、俺の人生において滅多に無い。しかも今回はただの美人さんではない。「凄い美人さん」だ。声も可愛い。女性に対して不信に似た苦手感を持っている俺だが、「女性嫌い」ではないので、こういう美しい女性に対しては素直に「美人さん」として反応してしまう。しかしその一方でおかしな事に「こんな美人さんと会話を交わせるような男じゃない」という心理が働いて、もう一人の俺が、この現実を拒絶してしまうようなのだ。これも多分「過去のトラウマ」が原因なのだろう。


 俺は狼狽え続けながらも、努めて事務的に応えた。


「いえ、私にも判りません。他の方にお尋ね頂けますか?失礼します」


多少ぎこちない態度で、俺は再び前に向き直り、彼女を残して歩き始めた。まるで演技掛かった挙措だっと思うが、一刻も早く彼女から遠ざかりたい気持ちは本物だ。俺がこういう美人さんと何らかの接触を持った場合に採る行動は決まって「早くこの人の視界から姿を消したい」というおかしな精神状態の働きによるものだ。


 下り坂を歩き始めた俺に対して、背後から再び声は掛からなかった。良かった……諦めてくれたかな?少しだけ気が楽になる。彼女がこれからどう行動するのか、俺には分からない。俺のように山を下りて人里を探すのか。それとも、この山の中に留まって自給自足の暮らしに入るのか。それとも……この境遇に絶望して……。


ただ判っているのは、彼女も俺と同じく「死の直前」という状況から、この世界に飛ばされて来たと言う事。それは何を意味するのかと言えば、例え「元の世界」に戻っても……そこに待つのは「次の瞬間の死」である。彼女はあの時、確かに俺と同じエレベーターに乗り合わせていた。と言う事は……あの瞬間を俺と一緒に迎えたと言う事。ならばその後の運命も俺と同じだったはずだ。


……そう言えば、彼女にも「システム」が与えられているのだろうか?もし与えられる「資格」を持っているならば、彼女の視界の中にも「◀」が見えているはずだ。今は見慣れない場所に飛ばされたという混乱が頭の中を支配しているだろうが、少し落ち着けば自分の視界の左側端で主張している「◀」に気付くかもしれない。それにさえ気付けば、この俺ですら独力でここまで理解出来たのだ。今の自分がどういう境遇で、どのような力を与えられたのか……それを利用して、この世界でどう生きていくか……自分自身で考えられるようになるだろう。


 そんな事を考えながら歩いているうちに……俺の頭の中で「別の何か」……が引っ掛かった。


(彼女……そう言えばどこかで見た事があるような……?いや、エレベーターで会う前に……どこかで……?)


彼女の顔……あの整った顔に見覚えがある。あの声も……どこかで……?


いや、過去にどこかで会ったとか、職場で顔を合わせたとか……そういう類の記憶では無い。俺の見たところ、彼女の年齢は20代……精々半ばを過ぎたくらいだ。最初に森の中で倒れていた時に薄暗い中で見た足の肌の質感。そして明るさが翳り始めた空の下で今見たばかりの印象。化粧っ気は全く無いが、白い肌を見た限りでは少なくとも30歳には届いていないような……気がする。なので、過去の俺と関わり合いがある……という可能性は限りなく低い。もし30歳だったとしても、俺とは20年の歳の差である。その線で考えると、これまでの俺と彼女の人生で交点は見出せなかった。


ではなぜ……彼女の顔に既視感(デジャヴ)を覚えるのか……。考えられるのは、俺の方で一方的に彼女を知っているという可能性か。しかし正直言って俺はこれまでの人生で彼女のような「凄い美人」と遭遇した記憶が無い。しかも推定で20歳近く年下だ。何だろう……うーん。


まぁ……ここで「以前どこかでお会いしましたっけ?」などという逆質問はしない。そんな恋愛物語の導入場面のような言葉を、俺のようなオッさんが吐いても、相手に気持ち悪がられるだけだ。


 俺は彼女との間にある既視感の正体を何とか突き止めようと考えを巡らせながら、それでいて黙々と坂を下り続けた。坂道は暫く歩くと「日光いろは坂」のように九十九折(つづらお)れになっていたり、急斜面を回り込むように曲がっていたりと、徐々にではあるが確実に「山の麓」に続いているような気がした。とりあえず今の時点で俺が目的地としているのは人家のある場所だ。このような山奥ではそれほど期待出来ないだろうが、麓まで下りてみれば集落くらいはありそうだ。もしこの世界に人間が存在していれば……の話だが。


「システム」の中で「魔法」の存在まで説明されているんだ。人間……あるいはそれに類する者くらいは棲息しているだろう。現在のところ、周囲の景色の中に人工物は存在しない。この自然溢れる静寂な世界でまずは人の暮らしている場所を目指す。しかしそこまでの道のりが長いのであれば、せめて川とか沢のような「水場」を見付けたい。


川があって、綺麗な水があるのならば身体を洗ったりする事も出来るし、最終的にその川沿いを歩いて行く事で人里に達する可能性は高い。元の世界に居た時に見たサバイバル系の動画でも、「山で道に迷ったらまず水場を探せ」的な事を言っていたような記憶がある。


 先程の美人さんからの問い合わせを()なしてから、既に1時間程歩いているだろうか。俺は黙々と歩きつつ、その間も色々と「ワード検索」を使って魔法についての情報を調べたり、その習得条件についての記述を読んだりしていた。そしてメインメニューから「【2】地図」を開くと、視界に一杯の「世界地図」らしきものが展開されて驚き、その場に立ち止まったりしている。


地図画面はやはり通常のメイン画面などと同様に、向こう側の視界に映る景色が透過しているのだが、流石に視界全てを塞がれると前方を確認出来ない。ちょっとこれは歩きながらの地図閲覧は危険そうだ。俺はその場で立ち止まって「この世界の姿」をまじまじと見つめる。


地図自体には、スライド型の操作ボタンのようなものが右下の隅にちょこんと置かれており、PCのブラウザ等で見れる地図サイトではお馴染みの「尺度調整」の機能まで搭載されている。今の尺度は「最小」になっており、世界全図らしきものが表示されているのだ。


基本的にこのシステムでは緑一色だけの描画となるので、最初は陸と海の区別がつき難かったがよく見てみると「大陸」と呼べるような陸地は2つ……かな?非常に大雑把に「西の大陸」と「東の大陸」が地図の左右をそれぞれ占めており、両大陸の間にいくつか島があるような構図だ。


 地図はかなりシンプルに大陸らしき陸影と国境線だろうか……大陸を形作る海岸線らしきものよりも細い線で区切られており……それを国境線と断じてしまえば、西の大陸には3つの国、東の大陸には6つの国がある……ように見えた。大陸には名前が付けられており、西側の大陸には「ゼビロス」、東側には「ナンダウル」と書かれている。俺が違和感無く読んでいるこの文字はどう見ても日本語……と言うか日本の常用漢字とカタカナで表記されているので、俺は「日本語を読んでいる」と思って大丈夫だろう。


パッと見て、面積が大きいのは西側のゼビロス大陸だ。ちょっと安定感がある形をしているゼビロス大陸に比べ、ナンダウル大陸は入り江や半島によって凹凸の多い、全体的にやや細い印象を受ける。地図の右下にスケールが付いているので、地図の各部と見比べてみると……世界地図自体は東西に40000キロ近くあるか無いか……これだと地球と同じサイズか?


ゼビロス大陸は一番幅のあるところで東西方向、南北方向共に20000キロを超えるくらいに大きい。一方のナンダウル大陸も「やや細い」と表現してしまったが、領域だけで言えばやはり縦横20000キロあるように見える。正しくこの世界は「両大陸」で全陸地の95%くらいは占めているだろう。


そして、ありがたい事に……恐らく俺の現在いる位置も地図に表示されている。いや、これは現在位置であるとは明記されていないのだが、この地図の中で唯一点滅している印が表示されているのだ。


その場所は東大陸……ナンダウル大陸の南東側で、地図の垂直方向の真ん中辺りを「赤道」……つまり緯度「0」とすると……南緯30度くらいだろうか。南半球側に居るようだ。


 辺りは段々と暗くなってきており、一応……空を見ると夕暮れに近い色をしていて視界は確保出来ているのだが、街灯も無い山の中である。日が暮れたら一気に暗闇となるだろう。俺もそんな「山の夜の暗さ」は体験した事がある。冗談抜きで車でもハイビームにしないと、碌に前方の様子が確認出来なくなる程暗くなるのだ。


(ヤバいな……このままだと野宿は確実だが……どこをキャンプ地とすればいいのか)


 ぼんやりと地図を眺めていたら、突然現実に引き戻され……俺は困惑した。まずは寝場所の確保だ。現在、この肌着だけと言う状況でそれ程寒さは感じない。


周りに見える木は先程も「視界検索」で調べた「ホダの木」であり、検索の解説文では広葉常緑樹との事だ。であれば……亜熱帯から温帯に近いイメージがあるのだが。元の世界だと……沖縄くらいか?そんな感じだ。日中はそこまで暑く感じなかったが、これは標高がそれなりにあるからかな?


とにかく、現時点で寒さは感じられない。しかし、ここは今も言ったが明らかに標高が高い場所だ。日没後はどうなるか分からないので、暗くならないうちに燃やせるものを集めて焚火くらいは出来るようにしておこうか……。俺はもうこれ以上坂を下るつもりもなく、その場で野宿のプランを考えていると……事態は急変した。


―――グゥアォォォォォォッ


―――キャァァァァァ!


 後方……今下って来た坂の上の方から何か……「獣の咆哮」と言うか、吠える声と明らかに「女性の悲鳴」が同時に聞こえたので俺はビックリして音の聞こえた方へ振り向いて凝視した。


すると……。夕闇が迫る坂の上から、何か小さいものがこちらに向かって駆け下って来ており、その後方に何やらでっかいものの影が見える。でっかい方が小さい方を追い立てているように見えるのだ。


(んんん……!?)


前を走っているように見える小さい方との距離が30メートル程まで迫って来た瞬間に、俺は状況を悟って愕然とした。


(熊だ……。熊に追われてやがる……あの女……)


そう……。さっきの「美人さん」が巨大な熊に追い掛けられているのだ。あれ……?熊って下り坂は苦手じゃないのか?無茶苦茶速く駆け下りて来ているけど……。


熊だけじゃない。逃げている「美人さん」の走る姿も様になっている。何と言うか……女の子が恥ずかしがりながら運動会で小股走りをしている……という感じでは無い。間違いなく何か「スポーツをやっていた」人の走り方だ。学生時代に運動系の部活をやっていた女の子は走る姿で結構見分けが付く……とか感心している場合では無い。


そう。俺の知っている「豆知識」において苦手なはずの下り坂を走っている熊の方が明らかに速いのだ。美人さんが危ない!


 既に俺との距離が10メートル足らずまで迫っていた美人さんの表情はまさに必死の表情で、その瞳は俺を一心に見つめている。驚く事に、俺に対して援けを求めている……ように見えた。


……どう考えても頼りにならなさそうな小太りのオッさんに縋るように……。もう彼女にとっては俺しか頼る者が居ないのだ。俺がどんなに不細工な顔で悲惨な体型で、明らかに腕っ節が強いタイプには見えなくても……。俺に頼っている。助けて欲しいと願っている。泣きそうな顔をしながら……。


50倍!〈集中〉!


俺は咄嗟に頭の中で「ボタン」を押した。彼女が俺を頼っているから……ではなく、「このままでは俺も巻き込まれる」と判断したからだ。


その瞬間―――「世界の流れ」は驚く程にゆっくりと……今まで見て来たような「木々の枝葉がゆっくりと」なんて言うレベルでは無い。目の前に迫っていた「美人さん」と、背後から今まさに伸び上がって右手を振り上げようとしていた巨大な……俺の知っている「ヒグマ」なんかとは桁違いの大きさの化け物みたいな熊の動きが……ゆっくりと見える。


 俺はこの光景に自分自身が圧倒されつつも、まずは「美人さん」を抱き抱えて右側に跳んだ。小太りのオッさんによる決死のダイブである。コマ送りのような動きの世界の中で俺だけが普通に動いている。必死の形相の美人さんの柔らかい身体の感触に少しビビりながらも、襲い掛かる化け物熊の右腕……右前足か。いや、そんなのどうでもいい!そこから逃れて右側の斜面がむき出しになっているスペースに跳び退いた。


余りに現実離れした光景に圧倒されてしまった最初の数秒間を浪費してしまった為に、俺は〈集中〉の効果時間である10秒間で、彼女を抱えて飛び退くのが精一杯だった。


―――世界の流れが元に戻る……いや、俺の〈集中〉の効果が切れる。右前足の「振り上げ」が空振って、勢い余った熊は俺が元居た場所辺りまで転がるように躓いて滑って行く。


 俺は彼女を抱き抱えた状態のまま、彼女の身体を庇うように地面にダイブしていた。おかげで俺は美人さんの柔らかい身体の下敷きとなってしまった。俺は慌てて彼女を抱えていた手を振り解いて


「逃げて下さい!なるべく離れてっ!」


女性に対して声を荒げる……もしかすると人生初の経験かもしれない。


「えっ!?あっ!?あのっ!」


美人さんは動顛しているようだ。彼女に〈集中〉していた俺の動きは見えたのだろうか。彼女からすれば、あの瞬間……俺の動きは「50倍速」に見えたはずだ。まぁ、元々の1倍速がショボい動きなのでそれが50倍になったところでどんだけ早く映ったのかは怪しいが。


そんな事を考えている暇は無い。化け物熊は体勢を整え直して、こちらに目を向けている。自分の攻撃が躱されたからか、明らかに機嫌は悪そうだ。


「いいから逃げろっ!邪魔だっ!」


俺は美人さんに向かって今度は怒鳴った。当然だが、これも人生初の体験だろう。


「は、はいっ!すみませんっ!」


彼女は即座に俺から離れて、四つん這いになって這うように熊が居る方向とは反対の……今来た道を戻るように坂道を上がって行く。


 俺は覚悟を決めて、逃げ行く彼女と熊の間に割って入った。


「オラァ!こっちだっ!俺が相手だっ!」


人生で一度でも言ってみたかったセリフである。しかも美人さんの前で、彼女を庇うかのようにだ。まるで彼女を守るヒーロー……王子様と言っては言い過ぎか。しかし残念ながら実際はこんな小太りのオッさんだ。


 俺は何故かこんな緊急事態でそんな事を考えながら急に可笑しくなって口元が緩んでしまった。いかんいかん。精神が不安定になっているかもしれない。前を見ろ。あんな見た事も無い馬鹿デカい熊がフーフー言っている。しかも、今気付いたが目が真っ赤……どころかどう見ても赤く光っている。あれは俺の知っている「森のクマさん」じゃねぇ!


ウヴォアァァァァァ!


距離にして5メートル程あった俺との距離を、化け物熊は吠えながら一気に詰めて来た。しかし俺は意外と落ち着いていた。先程使用した〈集中〉の効果が余りにも圧倒的であると感じたからだ。


〈集中〉!


倍率はそのままで再び〈集中〉を使用する。跳び掛かってきた熊が……空中でスローモーションのようにゆっくりと……こちらに向かって来る。


「半径」5センチ!「速度」時速100キロ!〈ストーン〉!


 俺は〈集中〉に続いて、頭の中で先程「習得」したばかりである魔法の「【使用】ボタン」を押した。


―――〈ストーン〉(土魔法):すとーん 【使用】

指定したサイズの石を指定した速度で指定した場所に発射する。

使用回数に応じて熟練度が上昇し、射程距離及び石のサイズ、発射速度の指定範囲が増加する。

石のサイズ及び速度の変更は使用直前に数値を設定する事で可能となる。

石のサイズ:半径1センチから半径5センチまで1センチ刻み(10センチ)

発射初速:時速50キロから100キロまで1キロ刻み(300キロ)

射程距離:術者を起点に20メートル(200メートル)

再使用可能時間:10秒(1秒)


「ワード検索」によって調べた〈ストーン〉のスペックはこんな感じだった。覚えたての場合、発射初速が時速100キロというのは実際心許ない気がする……が、これを「50倍速」で動いている俺が放つとどうなるか。


〈ストーン〉の【使用】ボタンを頭の中で押すと、何やら「照準円」のようなものが出現した。俺もこの魔法をぶっつけ本番で使っているので具体的な使用方法にいまいち自信が無いのだが……。多分この照準円を「目標」に合わせて「押す」と石が発射されるのではないだろうか?だとすると、標的に当てるだけでもそれなりに訓練が必要なのではないか……?


しかし幸運な事に、現在の「目標」は俺の目では「50分の1」の速度で動いている。スローモーションだ。


 俺が狙ったのは熊の「鼻(づら)」だ。昔……何かで読んだ本に「哺乳類の獣の鼻先」は殆どの場合、神経が集中しているせいもあって最も痛覚を刺激させやすい……つまり弱点であると書かれていた。俺はそれを憶えていたので、目ではなく鼻に照準を合わせて「照準円」を押した。


シュン……ガツッ!


照準円を押した瞬間……俺の胸元辺りから何か黒い影が空中に居る化け物熊の顔面目掛けて飛んで行き、鈍い音を発てた。


飛んで行ったもの……俺の拳と同じか、ちょっと大きめの石が空中の熊の鼻に見事に命中し、空中の熊はゆっくりと、そして明らかに顔を歪めた。俺と熊の鼻先との距離はもう3メートルも無かったので、石はほぼ設定した初速通りの勢いそのままに鼻へ命中し、そのまま跳ね返った。俺は体を躱して跳んで来る熊の右側に避けたのだが、俺の横を通り過ぎる熊の鼻先から鼻血が、これまたゆっくりと噴き出す。


 この時点でまだ〈集中〉の残り時間は5秒程残っていたが、俺はそのまま跳んで行く熊を見守った。熊は石が鼻先に激突し、鼻血が噴き出すと同時にゆっくりと……鳴き声を上げたらしい。「グゥゥワァァァオッ」と間延びしたような鳴き声と共に、まともな着地も出来ず頭から地面に激突して再び転倒したところで〈集中〉の効果が時間切れとなった。


グゥワァァオッ!グゥェェェッ!


恐らく、あの化け物熊にとって……俺が反撃した事自体、理解していないだろう。そして獲物だった女を横取りした小太りの男をまずは屠って……という獣の本能のような動きで俺に襲い掛かったのだろうが……。あと3メートル……「新しい得物」をその爪先に捉えるまで残り3メートルという距離で、突然何か「やたらと硬いもの」で鼻先をブン殴られた。多分、痛みは尋常ではないだろう。石を飛ばした俺でもその痛みは容易に想像出来る。あぁ……なんか俺の鼻まで痛くなってきた。


熊は地面でのたうち回っている。よっぽど痛いのだろう。横っ面を一発殴ったくらいじゃビクともしなさそうな顔もデカく首も太い巨大熊が、鼻先に時速100キロで直径10センチの石を至近距離から不意にぶつけられて鳴き喚いている。少々気の毒な感じがしたが、この化け物はほんの2、3分前には美人さんを撲殺しようと下り坂を追い掛けて来たのだ。


 俺は足元に落ちて来た、先程自分自身が飛ばした「ストーン」を右手に持って転げまわる熊に歩み寄る。熊は俺の気配を感じ取ったのか、鼻の痛みを忘れたかのようにガバッと立ち上がって威嚇する。その立ち姿の全高は3メートル……いや、それどころじゃない。4メートルはある。多分……俺の住んでいたマンションの2階くらいは優に超えている。


そんな化け物が鼻から血を噴き出しながら立ち上がって俺を威嚇している。距離は再び5メートル程。俺はその様子を見守りながら、落ち着いて10秒数えた。〈集中〉と〈ストーン〉の再使用時間を待つ為だ。右手に先程の「ストーン」を持っているが、流石に4メートル超えの顔面には〈集中〉を使ったところで手が届かない。悲しい事に……俺自身は運動神経が磨り減った小太りのオッさんだからだ。


 俺は少しだけ後ろに退がり、熊との距離をとりつつ……その鼻先を再び視界に収めて〈集中〉からの〈ストーン〉のコンビネーションで再度熊の鼻先を狙った。考えてみると、この2つの技能と魔法……恐ろしく相性が良い組み合わせだな……。


再び新しい直径10センチの石が熊の鼻先に向かって撃ち出される。足を止めて立ち上がっていた熊にこれを避けられる術は無い。ゴッ!という鈍い音を発てて再び石が熊の鼻に命中し、またしても間延びしたような悲鳴を上げて熊はゆっくりと引っくり返った。


俺は残り時間を軽く確認しながら熊に向かって走り出す。もんどり打って倒れた熊の頭部がある辺りに走り寄ってその顔面に右手に持つ「ストーン」を左手も添えて振り下ろす。もちろん狙いは鼻だ。


―――ガツンッ!ガツンッ!


両手で持った「ストーン」で力一杯、仰向けで倒れている熊の鼻面を叩き潰した。もう、ここで容赦はしていられない。これは生存競争なのだ。殺るか殺られるか。化け物熊の鋭い爪とパワーは、俺の脂肪たっぷりの身体など簡単に切り裂くだろう。だから俺は……この化け物の息の根を止める。止めなければならない。


 2発殴ったところで〈集中〉のアイコンの下の数字が残り2秒を切った。俺は余裕を持って跳び退く。〈集中〉の効果が切れる。世界はまた元の動きに戻る……。


化け物熊はもう起き上がれないくらいにその場で喚きながらジタバタしていた。その動きも先程までの驚くべき俊敏性を感じられなくなっている。奴の鼻面を狙った俺の〈ストーン〉2発と、直接殴打の「ストーン」2発は確実にダメージを与えているようだ。流石は哺乳類の急所。鼻の辺りを完全に潰されて呼吸も難しくなっているかもしれないな。あの姿勢だと鼻血がどんどん気管に流れて行くだろうし。


(悪く思うなよ……)


俺は再び訪れた10秒後に〈集中〉を使用した。今度はもう10秒の時間を一杯に使ってひたすら石を熊の顔面に打ち付ける。何発殴ったのか。10秒じゃ多分、大した回数は殴れていないのではないだろうか……。


熊はスローモーションでもがいていたが、10秒後の〈集中〉の効果が切れる頃には動きが止まっていた。俺は素早く跳び退く。


 相手の様子を落ち着いて観察すると、化け物はもう動かなくなっていた。空がかなり暗くなっているので詳細な様子は分からないのだが、顔面が陥没しているように見える。目玉も1個飛び出している。


(死んだ……かな……)


 俺はこの時、一個の生命を奪った。いや、これまでの人生で他の「生命」を奪う経験はしている。身体中の皮膚を狙って来る蚊など何度も叩き殺したし、台所に出現した()を直接叩き殺すのは怖いので殺虫剤で殺したりもした。小学生の頃に、捕まえたトンボの羽を千切っていた同じクラスのクソガキ共のような残忍な行動は採らなかったが、前述のように蚊や蠅やGなら何匹も殺しているのだ。


しかしやはり……自分と同じ哺乳類を、しかも結果的に撲殺した事は少なからず心に突き刺さるものがある。俺は何か物凄く疲れた気がして、その場に座り込んだ。


(殺した……俺はコイツを……石で顔を滅多打ちにして……あんなに血を流して……)


 座り込んでから両手を見ると、薄暗い空の下で血まみれになった両掌が震えている。前の世界で自分にとっての「害虫」を殺した時とは明らかに違う……「生命を奪った」というそれこそ虫のいい感慨に浸りながら、俺はその場で立ち上がれずに居た。


(はぁぁ……まさかいきなりこんな化け物が相手になるとは……)


―――タタタッタッタッタッ


グッタリしている俺の耳に、坂の上から駆け下りて来る音が聞こえる。緩慢な動きでその方向に首を振り向けた俺に、何かが組み付いて来て、俺は地面に押し倒された。


「う゛わぁぁぁぁん!ありがどぉぉございばずぅぅぅ」


 柔らく、温かい……一つの生命を奪った俺にとって血の通った温かい感触。そして心無しかイイ匂いまでする。目の前に飛び込んで来て俺の顔にかかるサラサラの黒い髪。


俺は美人さんに抱き付かれていた。

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