色々目途が付いてきた
買い物が終わり、木樵頭の家に戻ると……もう家の前で美味そうな匂いが漂っていた。扉を開けると香辛料の匂いかな。一層空腹を引き立てるような感じとなる。俺はリビングのベンチに座っている親父さんに帰宅の挨拶をしてから、月野さんと2人で裏の井戸に手を洗いに行った。
戻って来ると親父さんは、夕食前から酒を飲んでいた。親父さんは、俺にも酒を勧めて来たが……俺は前にも言ったように酒が嫌いなのでやんわりと断った。本来であれば「酒を飲んでる人」も好きではないのだが……相手はこの家の主なので堪える。一応、月野さんにも酒を飲むか聞いてみたが、彼女も晩酌を断った。どうやら彼女も酒は余り好きではないらしい。
親父さんは、俺の「この後猟師小屋に行って作業をするので……」という言葉で納得してくれた。幸いにも「俺の勧めた酒が飲めねぇのか!」とか言うキ〇ガイではないようで、独りでチビチビと飲んでいる。
俺は酒の生産には農業の発展が不可欠だと思っていたのだが、この村で飲まれている「シウロ」という酒は、山の麓で夏に収穫される「パベル」という酸っぱい果実と、「トナンの木」という木の樹液を混ぜて発酵させたものらしい。発酵酒なのでそれほど酒精分は高く無さそうだが、俺は例え度数2%以下のカクテルサワー的なものでも気持ち悪くなる……いや、「気分が悪くなる」と言った方がいいだろうか。
別に体質的な問題ではなく、後天的な理由だ。そして俺がアルコールに対して決定的な嫌悪感を抱くようになったのは十代も後半……まさに法律によって飲酒が認められる20歳になる直前の事で、皮肉な事に俺はその頃になってアルコール飲料に対する嫌悪と「アルコールを摂取している人」に対する憎悪が生まれるようになったのである。
親父さんは明日の山開きに備えて今日は早めに寝ると言う。
「もう、山に入ったらすぐに伐採を再開するのですか?」
「いや……最初は見回りと枝打ちでしょうな。この半年間……植林地域は全くの手付かずでした。なので全体を見回った上で倒木や下草を除き、それから余計な枝を払って日当たりと風通しを良くせにゃ」
「なるほど……林業も大変だ。では暫く木の伐り出しは無いと?」
「うーん……。今の状態にもよりますな。本来であれば今年の伐採計画では550本。これだけの木を伐り出しておかないと、下が育って来ますんで……そいつらの成長を妨げてしまうんですわ」
「あぁ……。もう毎年の伐採本数っていうのが決まってるわけですね」
「ええ。通常は春から夏に掛けて伐り出しをするのですがね。夏は木の成長期なので、来年以降の木を太くする為には『伐り頃』のものを夏までには山から出しておかにゃいかんのですわ」
「しかし今年は伐り出せないままに夏を越えてしまったと?」
「ええ。こうなると『今年の木』も無駄に伸びてしまうし、来年以降の木の年輪も細くなっちまうってわけです」
「無駄に伸びると何か悪い事があるんですか?」
「いんや。別に伸び過ぎて木の価値が落ちるっちゅう事は無いですわ。ただ、季節が問題ですわな」
「ほぅ……」
「これからどんどん寒くなって行く季節の伐採は身体がキツいんですよ。特に俺らのような年寄りにとってはね」
「あぁ……そう言う事なんですね。色々大変だ……」
親父さんはちょっと酒が入っているせいもあって、かなり饒舌に林業について教えてくれた。他にも、この地域で秋~冬に伐採をすると……丁度晩秋の雨期に当たってしまうので、木材の乾燥具合が悪くなったりするらしい。これらの植林と伐採のサイクルは、この地域で100年以上続く伝統が生み出した知恵なのだそうだ。
我々が林業談義に花を咲かせている間に、夕食が机に運ばれて来る。今日のメインメニューは一昨日のローストポークに引き続き、ローストビーフが凄い塊肉で出て来た。何でも山開きを明日に控えて、お祝いなんだとか。肉は会合の為に隣村から出て来たマリの弟……現マルノ村長が手土産で持って来たのだそうだ。
そんなお祝いの料理を、部外者である俺達も食わせてもらっていいのかと口にすると、親父さんが昼間のマリのように
「山が開くのはユキオ様と山神様のおかげだ!アンタらに食ってもらわんでどうするさ!」
と、声を荒げたので……我々も大人しくご相伴に与ることにした。酒は強要しないが肉は強要するんだな。
飯を食い終わってから、俺達は部屋に戻り……いよいよこれから「地獄の採寸イベント」が始まる。しかしその前に月野さんが気になる話をしてきた。
「さっきの……オジさんが飲んでいたお酒なんですけど」
「酒……?本当は飲みたかったとか?」
「いえ。私は正直お酒は好きじゃないのでどうでもいいのですけど……あのお酒からプラムの匂いがしました」
「プラムって……『梅』でしたっけ?」
「ええ。梅です。あのお酒って……梅のお酒なのかなって」
「ほぅ……梅酒ですか」
「梅酒に近いんでしょうね。しかしそんな事では無くて……あの『梅』が手に入らないですかね」
「梅が……?梅が食べたいのですか?」
「そうではありません。梅の実……果肉を毛皮処理の『仕上げ』で使うんです」
「え!?鞣しの仕上げって事ですか?」
「はい。鞣しが終わった後にタンニン液を抜いて、梅の果肉が入った水で濯ぐんです」
「どうしてそんな事を?」
「タンニンで鞣した皮革は全体的にアルカリ性に寄ってしまいます。毛皮の場合はその毛髪もアルカリに晒されます。なので、そのまま濯いで乾燥させるとキシキシでゴワゴワになってしまうのです」
「ほぅ……。手触りが悪そうですね」
「はい。私達が居た世界でも近世までは、そのようなゴワゴワな毛皮しか流通していなかったそうですよ」
「なるほど……。それが現代では違っていたと?」
「はい。現代の毛皮加工では鞣し終わりの濯ぎを行う際に『リンス』を使ってました」
「リンス……?リンスって、あのシャンプーの後にやるやつですか?……まぁ、俺はリンスインシャンプー派でしたけど」
「そうです。リンスって、洗い髪を柔らかくする役割があるんですが……それはシャンプーや石鹸などの洗浄剤が主にアルカリ成分を多く含んでいるので、洗った髪のキューティクルの配列が変形してしまう為に髪全体がキシキシになるのを、リンスやコンディショナーに含まれる酸性成分が中和して元のしっとりした感じに戻してくれるわけです」
「そうだったんですか……髪の毛ねぇ……。あっ!そうか!梅ってことは……クエン酸?」
「はい。流石、小河内さんならばお解りになってくれると思ってました」
月野さんは嬉しそうに褒めてくれた。
「なるほど。分かりました。あの梅みたいな果実が入手出来れば、毛皮の仕上げに使えるわけですね?」
「ええ。その通りです」
「では後で親父さんに入手先を聞いておきます」
それから俺は……地獄の採寸作業に入った。震える手で巻尺を持ち……月野さんの体の各所のサイズを測る。こうなると当然だが、知らなくてもいい彼女のスリーサイズまでが赤裸々に判明してしまう。彼女も顔を赤くしながら、大人しく俺が巻尺を当てるのに身体を任せてくる。30分掛けた採寸が終わった時は緊張で吐き気がするくらいになっていた。本当に吐いたら彼女に対してとてつもない非礼になるので必死になって我慢していたが……。
「い、今のうちに親父さんに梅の件を聞いてきます……。あの人、明日に備えて早寝しそうなんで……」
時刻は19:16。俺はフラフラになって階下に降りて行き、まだリビングで酒をチビチビ飲みながら肉をつついていた親父さんに、その飲んでる酒の詳細を聞いたところ……
「今年の酒の仕込みはやってないと思いますよ。山に入れなかったのでパベルもトナンの汁も収穫出来てませんからね」
「あ、そうなんですか?」
「ええ。パベルもトナンも、山の西寄りの地域に生えてますよ。位置で言えばマルノが一番近いですなぁ」
「収穫時期としては何時頃だったのですか?」
「うーん。俺は酒造りの事を直接は知りませんが……おい母ちゃん!ちょっと来てくれ!」
親父さんは台所を掃除していたマリを呼びつけた。
「お前んところの村の連中がパベルの実を採るのって、夏頃だったよなぁ?」
親父さんは飲んでたコップを掲げてマリに聞いた。
「ん……?パベルかい?そうだねぇ……4月から5月くらいじゃなかったかね。パベルの収穫が終わると夏祭りだったから、やっぱりそれくらいだったわねぇ」
「この季節はもう遅いのですか?」
「いえ。パベルは青い実のうちに収穫するんですよ。青い実のまま採って、まだ硬い実を種ごと砕いてからトナンの汁と混ぜるんです。実が完熟してしまうと種の方が硬くなってしまい、砕くのが大変なんだとか聞いた事があります。それを夏の暑い時期に樽で寝かせておくと今くらいの季節に酒になっているんですわ」
なるほど……まだ未成熟の実とトナンの樹液を混ぜて気温の高い季節に発酵を促すと。この過程が必要であるならば、今年産のシウロは全く作られなかった……と言う事か。
「親父さん、例えば俺達がその……パベルの収穫されてない果実が欲しいと思ったら……山林に入って採っちゃ拙いですかね?」
「え……?ユキオ様はパベルの実が欲しいのですかい?」
「ええ。まぁ……大きな袋で10袋くらいあればいいんですが、山に入って勝手にそういうのを拾ったら拙いんでしょう?」
「いや、パベルの実ならいいんじゃないですかね?隣村の連中はみんな子供の小遣い稼ぎに拾わせてるんだろ?」
親父さんはマリに聞いた。
「そうだね。アタシも子供の頃はよく弟を連れて森に行ったもんですけどね。パベルを採って、お駄賃もらって、村祭りの出店で菓子を買い食いしたもんですよ」
マリは子供の頃を思い出して笑っている。祭りの屋台で買い食いするのはどこの世界も同じなのか。俺自身にはそういう思い出が無いけど、アニメとかでは定番のネタだよな。
「まぁ、ユキオ様ですから……大丈夫ですよ。多分今年はもう仕込みをしませんから、どうぞ遠慮なく採って下さい」
「でも……パベルの実なんてどうするんですか?今年は全く採ってないですから、もう熟し切ってるでしょうけど……あれは熟しても酸っぱいですよ?」
どうやらマリは熟したパベルの実を食べた事があるらしい。俺達はその「酸っぱい」成分が欲しいわけだ。
「ええ。いいのです。酸っぱいのでいいんです」
「そうですか。ではユキオ様が森に入る事を若い者達に伝えておきますんで」
「ありがとうございます」
よし。これで毛皮の仕上げ問題も何とかなったな。俺は夫婦に挨拶をして部屋に戻った。親父さんは明日の早朝から山に入って暫く帰って来ないので、ちゃんと礼を言っておいた。月野さんにパベルの実について話をしてから、俺達は家を出る。昨日借りたランタンを、今夜は借りずに……山の中でも世話になった「こんぼう」を〈倉庫〉から取り出して、その先端に〈ライト〉の光源を置いてもらった。
猟師小屋に到着して鍵を開ける。今夜も猟師は誰も来ない……と言うよりも、あの連中は明朝木樵達と山に入るので今夜は皆早寝するはずだ。実際、話を聞いてみると例え山に入れるようになったところで、狩猟だけで彼らは生活出来るわけじゃない。
猟をしながら薬草や山菜を採取して組合に納めて換金したり、先程の酒の話に出て来た「トナンの木」の幹に傷を入れて樹液を回収しているのも猟師達だ。山に依存した生活をしている事には変わらないが、アンゴゴの入植地は、世界的にも非常に管理の行き届いた山林地……だったはずなのだ。
俺は今夜もまずは解体台に上ってオオカミの皮を剥ぐ作業から始めることにした。月野さんは俺の周囲に〈ライト〉の光源を置いてから、俺が〈倉庫〉から出した麻生地を一番大きな作業机に置いて……せっせと「肌着作り」を始めたようだ。
今夜はとりあえず残り10頭分のうち、昨夜同様5頭分を剥いでから3頭分の肉削ぎが出来ればいいだろう。ひとまずジェイクと約束した分の毛皮は鞣しに入れるようにしておく。しかし俺はここまで考えて気付く。この目の前にある巨大な回転樽の中に、鞣し液はちゃんと入っているのか?
この村は半年以上……山から何も得られない状態が続いていたはずだ。なのでこの猟師小屋ではその間、殆どこう言った鞣し作業などしていなかっただろう。つまりこのドラムの中身は空だ。鞣し液はどこにあるのだろう……?
ひとまず俺は皮剥ぎを続けた。なんか……昨日よりも数をこなしているせいか手慣れて来ている気がする。いや、作業の早さではなく、余計な肉片や頭部の骨片をより綺麗に取り除けるようになったようだ。特に頭部の処理がかなり上手くなった。
日付が変わって7月24日になる頃には、予定していた5頭の皮剥ぎを終えて、次の作業をする前に解体台の後処理をした。終わってから解体台を下りると、月野さんは作業机の前にある小さな丸椅子に座って、ひたすら手を動かしている。手の動きは相当に早い。裁縫が得意だと言う話は本当のようだ。
そして彼女越しに作業机の上を見て俺は思わず声を上げた。机の上には既に何やら大量の白い物体の山が出来ている。ここまでずっと……ひたすら肌着を縫っていたのか。俺は針を持っている彼女を驚かせないように、なるべく彼女の視界に「ゆっくり」と入ってから声を掛けた。
「本当に裁縫が上手だったんですね……正直かなり驚いています」
月野さんは手を止めて「えっ?」と顔を上げた。
「少し休憩しませんか?お茶のセットを借りて来ているんです」
そう言って俺は〈倉庫〉の中から木製のコップ2つと、陶器っぽい造りのポットを出して〈ウォーター〉で水を入れた。そしてマリが「茶葉」だと言って渡して来た木製の筒型容器を開けると、確かに茶葉のようなものが入っている。入れ物は日本の茶筒と似ているが、中身は緑茶葉では無く……これは紅茶だろうか?発酵した茶葉特有の柑橘類に似た匂いがしている。
月野さんにお願いして、ポットの中の水を〈ヒート〉で加熱して貰った。彼女がこの魔法を習得してくれたので俺も今夜はこんな洒落たものを持って来る気になったのだ。これまでは2人の口元に水玉を出して吸うくらいだったのに。
湯が沸いたので、茶葉を投入して蓋を閉める。自分では茶など殆ど淹れた事がないので、ここはもう動画などで観た「見様見真似」である。
よく解らないので1分程放置したポットからコップに茶を注ぎ、2人で飲んでみる。……美味い。悪くない気がする。いや、俺がそもそも茶を飲む習慣が無く普段から水ばっかり飲んでいるので、こういう色や匂いが付いた液体に対して「美味い」と感じてしまっているだけかもしれない。こっちの世界に来てからだな。人が淹れてくれた茶を飲むようになったのは。
「美味しいですね。良い香りだと思います」
月野さんも微笑みながらホッとしている。お世辞で言っているようには見えないので、茶の味自体は悪くないのだろう。
「しかし随分と作りましたね……まぁ、今後は旅などでこまめに洗濯が出来るのか判らないので、着替えは多く持っていても悪くはないと思いますがね」
「これ……小河内さんの分も入っているんですよ?ほら。このトランクスみたいなタイプのは小河内さんのです」
なんと彼女は、俺の分の肌着も上下5組程作ってくれていた。ただ、ゴムが無いので全て紐を前で縛るタイプのようだ。俺がこの世界に来た時に履いていた半パンみたいな肌着もそうだったし、今借りている親父さんの股引みたいなのも同じ構造になっている。気付かなかったが、ゴム紐って便利だったんだなぁ。
彼女は今、どうやら自分自身の肌着……と言うか下着を縫っているようで、これまでの半袖アンダーシャツのようなものでは無く、明らかにこれはブラジャー……それでも形状は「スポーツブラ」的な感じか。但し下半身の下着は、彼女がマリに作ってもらった、確か……「ズロース」だったか。臀部全体を包み込むようなデザインになっている。
まぁ、流石にパンティ的なデザインにされていたら、俺はもう室内で彼女の肌着姿での行動を制限してもらうしかない。そもそも俺は、彼女が肌着姿で部屋の中で行動している事について敢えて言及していない。もしこれを言ってしまったが為に、彼女が変な意識をするようになってしまうと……現状、「1部屋しか空いていない客間」から俺がどこかに移らざるを得ない事になってしまうからだ。
一息ついたので、俺は解体台の近くに並んでいる……月野さんが「これは確か……『蒲鉾台』ってやつですね」と説明してくれた、蒲鉾のような半円形状をしている長さ1メートルくらいの丸太を縦に割ったような形の作業台に、剥いだ毛皮の「肉面」を表側に置いて「肉削ぎ」を始めた。
この作業も慣れてくれば、一晩で処理出来る毛皮の数が大幅に増える。月野さんも頑張っているので、俺も根気強く作業を進めよう。
昨夜よりも1枚多い、4頭分の肉削ぎが終わると……時刻は05:02だった。月野さんの前にあれだけあった麻生地は無くなっており、代わりに俺と月野さんの肌着の山が出来ていた。もう誰のが何組作られたのか判らない。月野さんは眠たそうに「船を漕いでいる」感じになっており、それでも時折〈ライト〉を更新してくれている。
俺は月野さんからのお願いで、袋の中に出来上がった肌着を詰め込んで〈倉庫〉に入れた。そして道具の後片付けをしていると、小屋の外から「あれ?開いてね?」と人の声がして……入口の扉が開いた。そして3人程……毛皮のベストを着た「猟師さん」のテンプレみたいな恰好をした連中が入って来た。その中には2日前に会った中年猟師……ベンも居る。
彼は鍵が開いている事を不審に思いながらも入って来て、中に女性が居て椅子に座ってボーっとしているので声を掛けようとしたところで、壁に道具を仕舞い終えた俺と目が合った。
「あ……アンタは確か……ハボが連れて来た……」
「あれ。今日は山開きじゃないのか?木樵頭の話では日の出と共に山に入るって聞いてたけど?」
「え……?あ、そっ、そうなんだけど……この野郎がここに、幾つか道具を忘れてきちまいやがって……って、何でアンタが居るんだ?なんで鍵が開いていたんだ?」
「あれ……?俺は親方に鍵を借りてるんだけど、聞いてないのか?」
「え?そうなのか?昨日親方の家に行って驚いたよ。あんなに傷だらけだったのに、怪我がすっかり治ってて、歩けるようになってたもんなぁ。ただ、随分と痩せこけちまってたけど……なんでも『山神様に治してしてもらった』って。わけのわかんねぇ事を言ってたのが気になるが……」
「俺は親方に言って、夜中にこの小屋を使わせてもらってるんだ。昼間だとアンタ達が居て作業するのに気が散るんでな。昨夜も使わせてもらってたんだが……気付かなかったのか?」
「そうだったんか?気付かなかったよ」
なんか随分と暢気な奴らだな。親方もちゃんと話を通しておいてくれよ……。あ、そうだ。あの事について聞いておかないとな。
「ところで……このドラムなんだが、今は空っぽか?」
「うん……?あぁ……そうだな。今は中身を抜いてると思うよ。もうここ何カ月も鞣しなんてやってねぇからな」
「そうか。いや、実は近々にオオカミから剥いだ皮の鞣しをやりたいんだけど、鞣しの液ってどうしているんだ?」
「ああ、この前巧い事剝いでた皮か。鞣しの為の浸け汁は、隣の製材所から『ホダの皮』を貰って来るのさ。それを蒸らしたやつを水と一緒にドラムに入れて一昼夜回す。それで浸け汁が出来るってわけさ」
「ホダの皮って?ホダの木の皮って事?」
「そうそう。ホダの皮を水に浸けておくと鞣しの浸け汁が出来るんだわ」
なるほど……。ホダの木の皮がちょうどタンニンを多く含んでいるのか。しかし拙いな。そうなると山から木が伐り出されて来ないと製材所は稼働しないから、ホダの皮も出て来ないって事になるじゃないか。
「じゃ……製材所が動き出すまで鞣しは出来ないって事か?」
「いやいや。ホダの樹皮滓なんざ、いくらでも残っとるわ。ほら。あそこあそこ!」
そう言ってベンはドラムが並ぶスペースまで歩いて行き、その前の床板を外した。俺も一緒に付いて行って外された板の下を覗き込むと……何か木片のようなものが入っている。量は相当あるようだ。
「これがホダの樹皮?」
「そうそう。まぁ、そのまま入れるんじゃなくて川の向こうにある小屋で蒸煮するんだけどな」
「ちょっと触っていい?」
「いや、いいけど。素手で触ると手がキシキシになるよ?止めときな?」
「そうなんだ……」
確かに床板を外した穴からは、何と言うか……ジュクジュクになった柿の実が木から落ちて地面で潰れている所に漂っている独特の甘酸っぱい……いや、そんな上等な匂いじゃないな。あれだ。前の晩に酒を飲み過ぎた奴が翌日に放ってる……アルコールを体内分解している時の臭いだ。決して愉快な臭いじゃない。俺にとっては寧ろ超不快な臭いだ。
よく見ると、見た目も木片と言うよりはパサパサの木の繊維のクズ……オガクズなんかよりは全然大きいのだが……確かに元は「木の皮」だなと言う感じではある。
臭いがキツいので、ベンは床板を閉めた。なるほど。これを蒸し煮するのか。とんでもない悪臭が出そうだ。川の向こうの弓練習場の端にあった小屋……練習場の物置じゃなかったんだなぁ……。
「鞣しのドラムを回すのか?だったら、これを……」
ベンは親切にドラムの操作方法と、鞣し液の作り方を教えてくれた。彼が説明をしている間に、「道具を置き忘れた」と言う当人は、さっさと別の作業台の上に放置されていた「トラバサミ」のような罠具を肩にブラ下げて出て行ってしまった。自分のうっかりが原因なのに鍵を開けてくれたベンを置き去りにするとは……。
そんな事を考えながら、ドラムの使い方と鞣し液の作り方を教わった俺は、ベンに礼を言ってから実際に鞣し液を作る事にした。ベンは山開きの「開山式」の時間が迫っていると言うのに、俺の作業を手伝ってくれたのである。
「木樵頭に怒られそうになったら、『猟師小屋でユキオと山神様の手伝いをさせられた』と言ってくれれば、多分大丈夫だから……」
「え……!?何?どう言う事?」
「まぁ、そう言っておけば木樵頭も多分赦してくれるよ。じゃ、ありがとな!」
「あ……?あぁ……。そんじゃこのまま……最低2日は皮を入れずにドラムだけを回してくれ。そうだな……明後日の朝くらいから皮を入れればいいんで」
「そうか。色々と済まんな。鍵は俺が掛けて行くから、アンタも気にせず行ってくれ。やはり大遅刻は拙いだろ?」
ベンは俺の言葉を聞いて、「あっ、もうこんなに明るくなっちまってるのか!」と言いながら、俺達に手を挙げて、そのまま入口扉から外に消えて行った。俺の後ろでは4台並ぶドラム全てがホダ樹皮と一緒に注水もされて、「ジャポン、ジャポン」と音を発てながら、貫かれた軸棒を中心に縦回転している。
昨日の朝は見付けられなかったが、並んでいるドラムの間の床部分にレバーがあって、それによって個々の回転がON/OFF出来るようだ。やはりクラッチによって水車からの動力を個々のドラムに伝えられるような構造になっていたようだな。
「月野さん。これで一応は鞣し液が作れるらしいのですが、皮自体は明後日にならないと入れられないそうです。なので残り2日で全部の皮処理をやってしまおうと思ってます。猟師の連中も……どうやら今日はもう帰って来ないようなので、一旦帰って少し眠ってから……俺は早めにここに来て一気に作業を進めちゃいますよ」
「そうですか……では私もご一緒しますよ。肌着はもう作り終わったので、今日からは服を作り始めようと思います」
「分かりました。それじゃ一旦帰りましょう」
そう言って俺は彼女を連れて小屋を出て、鍵をしっかりと掛けた。小屋の外からもドラムが中で回転している音が聞こえており、山林があんな事にならなければ……このドラム回転音も含めて猟師小屋本来の風景なんだろうな。後は隣の製材所で木を切断する音さえ聞こえるようになれば……。
俺はすっかり明るくなった空の眩しさに目を眇めながら、木樵頭の家に向かって月野さんと歩き始めた。
* * * * *
「月野さん……ちょっとこれ……大変な事になってますよ……」
逗留先の木樵頭の家に帰り、マリが用意してくれていた朝食を食べてから月野さんに風呂を沸かしてもらった。マリには予め「自分達で風呂を沸かしてみる」と申し出てあったので、風呂の浴槽に俺がどんどん〈ウォーター〉を連発して水を溜め、最終的に月野さんが〈ヒート〉で適温まで加熱してくれた。
一から普通に風呂を沸かそうと思ったら、井戸と浴室を何度も往復して水を入れ、更に窯で薪をどんどん燃やして湯を沸かす必要があるので、多分1時間30分くらいはかかるはずなのである。それが俺の〈ウォーター〉の再使用時間を待ってる時間だけは掛かったが、大きな浴槽にひたすら〈ウォーター〉を最大値で繰り返した結果……多分魔法自体の成長もあって30分くらいで沸かし終えてしまった。
俺が使用した〈ウォーター〉の回数は多分150回くらいだったと思う。最初は直径10センチちょっと、容量として700ミリリットルくらいの水玉が、最後は直径30センチ以上になっていた。寝る前に自分を〈鑑定〉してみると、〈ウォーター〉の熟練度が12%、「水魔法」も6%に達していて、作り出せる水の容積が半径18センチ……直径にすると36センチ、約24.5リットルもの量になっていた。
今後も毎朝……風呂を沸かす鍛錬をする事で、俺の中では遅れがちだった「水魔法」の鍛錬が出来そうだと分かって喜んでいたのだが、その後に月野さんにも〈鑑定〉を掛けた結果……とんでもない事が判明した。
彼女の鑑定結果……特に魔法熟練度のページに異変が生じていた。これまで、彼女の場合は習得していた魔法が「光魔法」と「風魔法」だけであったので、熟練度の上昇もその2属性だけで他の属性は「0%」だったのだが……今日見ていると、何と「火属性」に対しても1%の熟練度上昇が見られ……彼女は何と新たに〈イグニッション〉を習得していたのだ。
これは……どう言う事なんだろう……。3つ目の魔法属性習得……で間違い無いのだろうか。「ライブラリ」の記述によれば、「3属性を操る魔法使いは歴史に名を残す可能性がある」とされていた。確かに彼女の「火属性相性」は「B」評価。「光属性」や「風属性」の「A」には及ばないが、それでもこの〈鑑定〉によって表記される「B」評価というのは、相当に高い傾向にある。「B」であれば習得出来る可能性があるのか……。
いずれにしろ、これまで俺が「圧倒的苦手感」を抱いていた「火魔法」を使えると言うのは、俺達を「2人1組」で考えた場合、かなり有用であると思われる。まだしっかりとした確証は得ていないが、そもそものイメージとして「火魔法」には攻撃性の高い魔法が相当含まれているのではないかと思えるのだ。
それに、これも俺が抱く勝手な思い込みなのだが、「魔法使いは火を扱えてナンボ」みたいなイメージがある。火の玉を飛ばしたり、敵の集団を焼き払ったり……そんな文字通りの「火力」というイメージが魔法にはある。
……いや。しかし今回の現象についてはしっかりと考察しておく必要はあるだろう。なぜ彼女がいきなり「火魔法」を覚えたのか……いや、「火魔法」の熟練度を得たのか。
これを考えた時に、俺の脳裏には当然ながら〈ヒート〉の魔法が真っ先に浮かんで来る。あの魔法は、「ライブラリ」の説明によれば「光魔法」であると同時に「火魔法」でもあるかのような記述があった。「光魔法」の使い手でも、「火魔法」の使い手でも魔法属性自体の熟練度が一定値に達すると習得候補として現れる……。
いや……本当にそうなのか?俺はちょっと根本的な勘違いをしていないか?〈ヒート〉の魔法と言うのは「光魔法」と「火魔法」の両方の属性で「共用」しているのでは無く……もしかすると「光と火」の「合成魔法」的なものなんじゃないのか?
そう考えてしまえば、色々と辻褄が合うのだ。「光魔法」を得意としている月野さんが、「光魔法属性」の熟練度を上げて行くうちに、これまで魔法の習得にまでは至らなかったが、それでも「かなり相性の良い」とされる「火魔法」に対しても「習得フラグ」が立った。そう考えてしまえば……。そして「俺」という「他人の鑑定画面から魔法を強引に習得させてしまえる」と言うぶっこわれた能力を持つ奴が近くに居た。
これによって……月野さんは〈ヒート〉を習得出来てしまい、更にそれを繰り返し使う事で「光魔法」だけでなく、「合成」の相手である「火魔法」側にも熟練度が入った。それによって彼女の中で「火魔法」の習得条件を満たしたので〈イグニッション〉の習得が可能となった……。
そのような「流れ」で見ると……なるほど。RPGでも「合体魔法」とかよく見るしな。「2属性魔法」はあってもおかしくないって事だ。
この件についてはもっと検証を重ねたい。今回の月野さんのケースでは相性評価「A」と「B」で合成魔法が登場した。で……あるならば、「A」と「A」は普通に有り得るだろう。彼女の場合は「光と風」で、俺の場合だと「水と闇」か。水と闇……そんな魔法ってあるか……?
その他にも「C」はどうなのか。俺の感覚では「C」はまだ「相性は悪くない」と言える範囲じゃないかと思っている。先日俺が使った「光魔法」である〈ヒール〉も複数回の使用で、露骨な消耗を体感する事は無かった。なので「AとC」だって十分に有り得るだろう。
月野さんに〈イグニッション〉習得を伝えると、やはり相当な驚きを見せていた。彼女は俺が過去にこの魔法を使って2度もダウンしている様子を目撃している。彼女にとっても「火魔法」はあまり良い印象を持っていなかったようだ。
「今後は機会を見て〈イグニッション〉も積極的に練習してみます」
それでも彼女は魔法に関してはあくまでもポジティブである。「3属性を操る者」……彼女はこの世界の歴史に名を残す存在になるかもしれないのか……。
昨日は2人とも買い物に時間を取られて殆ど眠れていなかったので、今日はしっかりと睡眠を摂る事を心掛け、無駄なお喋りも控えてさっさと寝てしまう事にした。
* * * * *
やはり昨日は2人とも睡眠時間が余程不足していたようで……アラームをセットせずに寝たら、夕方まで爆睡してしまった。時計を見ると17:22だったので、9時間程度寝ていた事になる……。驚いたのは隣のベッドで月野さんもまだ寝ていた事だ。そう言えば猟師小屋に居た時点で既に眠たそうな感じではあったな。
別に無理矢理起こす理由も無いので、俺はそっと部屋を出て……井戸に顔を洗いに行った。親父さんは既に山に入っているので不在だし、実はマリも午前中に村に帰る弟の馬車に便乗する形で隣村に行っているので……家には誰も居ない。マリには皮を剥いだ後のオオカミの肉を干し肉にする為に酪農が盛んなマルノ村の精肉施設を使わせてもらえるか相談しに行ってもらっているのだ。
本来であれば、そんな事は俺がやるべきなんだが……彼女は俺がオオカミ16頭のうち、6頭分の肉を提供すると申し出たところ、山開きに関する会合でこっちに出て来ていた弟であるマルノ村長に聞いて来ると息巻いて行ってしまい、そのまま弟にくっ付いて隣村にまで行ってしまったようだ。
肉の処理もそうなのだが……皮の処理にしても、一つだけ悩みがある。「熊の死体」の処理だ。
あの巨体……どう頑張っても解体台で吊るす事は不可能で、まぁ……寝かせた状態で作業を行うんだろうが……流石にあの巨体を寝かせたまま取り回すのは相当にキツい。俺が「ライブラリ」で「動物の解体」技能を習得した際に頭の中に入って来た手順動画的なものも、あれだけの巨体を解体する前提で作られていなかった。
この世界には重機なんてものは無いだろうから……うーん。屋外にあれ専用で櫓を組むとか……それにしたって単管パイプも無いのに足場を組むにも一苦労だ。もし独りでやるならば1晩で終わるだろうか……。
今日は親父さんも居ないし、マリも隣村の実家に泊まって来るらしいので俺は合鍵を持たされていた。起きて来た月野さんに今夜は猟師部屋へ行く前に、何か腹拵えを……木樵頭の家から一番近い飲食店に行ってみようと言う事になった。昨日、買い物に行った際に食堂の場所は確認済みで、1階で食堂……夜から居酒屋となり2階は貸し部屋、つまりは宿屋をやっていると言う店だ。
「鹿の舌亭」とか……どう言うセンスで命名したのか判らないような店で、分厚い木製の扉を開けて中に入ると……中には20組程の丸テーブルの席と、奥にカウンター席がある店で、予想に反してかなり広い。村の大通りに面した店なのだが、店構えとしては幅5メートル程度だったので中もそれ程広くないのかと思ったが、奥行きが厨房を含めたら20メートル以上は軽くあるだろうな……。
時刻は18時を少し過ぎた辺りで、外は当然暗くなっている。店内の雰囲気は食堂なのか居酒屋なのか判らない。ただ……時間帯的にはこれから村人なり来訪商人なりが酒を飲み始めそうだ。もちろん、上の宿泊客もここで飯を食うだろうが……夜だから晩酌になるんだろう。以前の俺ならば絶対に入らないような店だ。
俺は月野さんを連れて店内に入り、扉に一番近いテーブルの椅子に座った。時間的にはまだ早いのか、店内はガランとしている。なのでそこを敢えて入口近くに座った俺達は、店のスタッフから見れば一種異様に映ったかもしれない。
すると……やはり俺達を変な客だと思ったのか、赤毛の若い女性店員が面倒臭そうな顔で板を抱えてやって来た。俺はその板を盆か何かだと思っていたのだが、その店員は「いらっしゃい。何にする?」と言いながら俺に板を渡して来た。何だろうと思ってその古ぼけた板を見ると、それはメニューだった。
俺から見て……いや、どう見ても「日本語」で書かれているメニューだ。「書かれている」と言うのも違うな。正確に言えば「文字が彫られている」と言ったところだ。なので書体も安定しておらず、ところどころ読み難い部分もある。
しかし……その板を月野さんに見せて「この文字、読めますか?」と聞いてみると「何が書いてあるのか判らない」と言われた。嘘だろ……?どう見ても日本語じゃないか……。
「これ……俺には日本語にしか見えないんですけど」
「え!?本当ですか!?」
月野さんの驚き方は「本物」である。もう俺としては「何で読めないの?」とか、「何で俺が見ると日本語なんだ?」と言った疑問は湧かない。多分これが「システムによるもの」という事は間違い無いだろう。つまり「システム」は俺の「視覚」に対しても何らかの「力」を及ぼしている。「言葉が全て日本語に聞こえる」のは聴覚に介入されているもので、「文字が全て日本語に見える」のは視覚に対して「何かが働いている」のだ。
俺が考え込むような顔になったので、女性店員は「えっと、食事よね?」と聞き直して来た。多分この店員は「早くしろ」と言いたいのだろう。俺は顔を上げて答えた。
「ああ食事だ。ちょっと待ってくれ。今この人の希望を聞くんでな」
そして月野さんに改めて尋ねた。
「一応、色んなメニューが載ってるんですが……一々説明するのが面倒なんで、この一番上にある『今日のおすすめ』でいいですかね?」
「え、ええ……。小河内さんと同じものでいいですよ」
「そうですか。わかりました」
俺は改めて女性店員の方に向き直って
「待たせて済まなかったな。この一番上の『今日のおすすめ』でいい。酒はいらない」
そう言ってメニューを返すと、女性店員は何故か少し驚いたような顔をした。
「あ……そう。『おすすめ』を2つね。分かったわ」
彼女は俺の差し出した板を受け取って奥のカウンターの方に去って行った。何だろう……ちょっと色々と噛み合わない気がするな。
直径約1メートルちょいの丸いテーブルの中央には木のコップが幾つか伏せて置かれていて、一応は水差しも置いてある。「水はセルフでどうぞ」……と言ったところだろうが、恐らくこの時間帯にやってくる客の大半は酒を頼むだろうから、このコップもあまり使われないのだろうな。
俺はコップを2つひっくり返して水を入れ、月野さんの前と自分の前に置いた。
「まだ他の客が居ないみたいですね。俺は正直……居酒屋のような場所の雰囲気は好きじゃないので、他の客で混み始める前にさっさと食べ終えたいです」
「そうですか。お酒の席が嫌いなんですね?」
「ええ……まぁ……。ちょっと嫌な思い出があるので酒も嫌いですし、酒を飲んでる奴も嫌いですねぇ……」
「まぁ……!そう言う思い出があるのならば辛そうですね。私はアーチェリーをやっていた頃に部の監督がちょっと変わった方で……」
「え?アーチェリーをやっていた頃って……高校生の頃って事ですよね?」
「ええ。その監督に何度か言われました。『酒は度が過ぎると手に震えが出て来てしまうから、出来れば嗜まない方がいい』って」
「そんな……ア〇中じゃないんだから……」
「でもOBの方で、酒量は至って普通だったのに30歳を越えた辺りで手に僅かな震えが感じられるようになって引退された方も本当に居たそうです」
マジか……。俺は別に中毒とか依存症とか、それは個人の責任だと思っているし……そもそもアルコール嫌いだから同情する気も無いが、そんなアルコール摂取如きで競技に支障を来す程に手に震えが来るのか!?
「月野さんが、今でも酒を忌避しているのは……そのせいなんですか?」
「ええ。多分……。そういう話を色々と聞いていたのもありましたし、単純にお酒が美味しいと思わないのもありますね」
「なるほど……そうですか。まぁ……そのアーチェリーの話は別として、魔法に対してはどうなんでしょうね。集中力が散漫になるのは好ましくない気がしますけど」
「あ、そうですね。魔法には影響が出そうです。実際、私は魔法を使う時にそれなりの精神集中を必要としている気がしますし」
やはりそうなのか。俺のように頭の中で【使用】ボタンを押しているわけじゃないんだなぁ。おっと……さっきの女性店員が戻って来た。両手に大きな木の盆のようなものを持っている。俺達が厨房から一番遠い場所に座ったので面倒臭そうだな。
「はい。おまたせ。今日はミンチ肉のステーキよ」
そう言って机に置かれたのは盆では無く大きな木の皿……と言うかランチプレート的なアレだ。1枚の板に仕切りを付けたように窪みを入れて様々な料理を一緒に盛り付けられるようにしてあるやつ。直径10センチくらいの丸パンが2個とハンバーグのような肉料理、そしてプレートの隅には別の椀が嵌っていて、そこにはスープが入っていた。
「ありがとう。お代は先に払っておくよ。一々ここに取りに来るのが面倒だろ?これから忙しくなりそうだしな」
そう言って俺は銀貨を1枚渡して「釣りはお前が取っておけ」と、前の世界で「一度は言ってみたかったシリーズ」の中から、若い女性店員向けのフレーズを引っ張り出した。
俺がさっき見たメニューには「今日のおすすめ」の横に「8ラリック」で、「シウロが一杯付きます」みたいな事まで書いてあった。つまり2人分で16ラリック。しかも俺達は「酒はいらない」と言ってある。
そんな、綺麗な女性を連れた作業服姿の冴えないオッさんが銀貨1枚を渡して「釣りはいらない」と言っているのである。「こいつ女の前で何恰好つけてんだ?」と思われても不思議ではない。
「えっ!?いっ、いいんですか!?」
「ああ。構わん。その代わり俺達は食い終わったら何も言わずに出て行く。それでいいだろう?」
「あ、あの……お客さんは商人の方じゃないですよね?」
「うん……?どう言う意味だ?まぁ……商人じゃないが」
「いえ……そんな恰好しているから多分木樵かなと思ったんですけど、字が読めるみたいですし……見掛けない顔でしたので……」
ああ……そう言う事か。なるほど。メニューの字が読める……この女は多分、俺達の格好を見て最初は村人かと思ったのだろう。メニューを渡して来たのは意地が悪いのか、それとも店員として当然のルーティンなのかは知らんが、俺はそのメニューの文字を読んで「今日のおすすめ」を注文し、更にはセットで付いてくる「シウロ1杯」も断った。まぁ、明らかに「字が読める奴」だと理解したのだろう。
しかし、恐らくだがこの村に住んでいる奴の大半は「字が読めない」。この村を歩いていて俺がまず思ったのは「文字が無い」という事だった。看板はあるのだが、全てが「その店が何屋なのか」が直感的に判るような形状のものが多かったし、何よりも「営業中」の札板が全く見当たらなかった。雑貨屋で扱っていた紙も、主に村に取引で訪れる商人向け……と言った感じだった。
この店だって、看板にはジョッキを持って「舌を出している鹿」が描かれており、その下に掠れた感じで「鹿の舌」と書いてある……デザインした奴の頭を疑うようなものだった。
そんな村人……と言うか木樵の作業着を着た俺と、まぁ一般的な村の女性の服装をした月野さんを見れば……遠目には「村人が夜飯を食いに来た」と、この店員は思っただろう。しかし近付いてみると村人と言うよりも、この辺の住民とは明らかに違う人種の顔立ちをしており、もしこんな奴らが村人として居住していたら絶対に忘れない……と思う事だろう。
しかしそんなオッさんがメニューの文字を読み、何と銀貨1枚渡して「釣りはいらん」と言っているのだ。この店で銀貨が支払われる事自体が珍しいかもしれない。「上」で泊まっている商人であれば別だが……。
「俺達は木樵頭の家で世話になっている。今日は親父さんも山に行っちまったし、マリさんも隣村に出掛けてしまったんでな。晩飯を外で食ってみようと思って出て来ただけだ。気にしないでくれ。食ったらすぐに帰る」
「え……!『頭』のお客さん!?そっ、それは失礼しました。すみません!あ、あの……こ、これ……本当にいいんですか?」
女性店員は「木樵頭」の名前が出た途端に態度を改めて頭を下げて来た。やっぱりあの親父さんはこの村でそれなりに実力者なんだな。恐縮したように俺が渡した銀貨を見せて来た店員に
「ああ。とにかく……食ったら何も言わずに出るからこれ以上構わなくていい。店もこれから忙しくなるんだろ?」
そう返すと、「す、すみません。ありがとうございます!」ともう一度頭を下げて厨房方向へ引き返して行った。俺は苦笑しながら月野さんに今の顛末を話す。
「靴屋の爺さんもそうでしたが、あの木樵頭の親父さんの名前を出すと途端に畏まりますね。この村の住民は。ははは……」
「やっぱり……この村の主な産業は木材でしょうから、その木樵の一番偉い人は村の中でも偉い人なんですねぇ」
まぁその「偉い人」達から、アナタは「山神様」と呼ばれて畏れられていますけどね……。俺は笑いを堪えながら香辛料が程良く効いたハンバーグに舌鼓を打った。




