感化
自宅でソファーに腰かけたある小説家がいう。座布団に腰かけた対面の編集はせわしなく仕事をしていたり、どこかに電話をかけたりしている。和室でコーヒーをいれて、茶菓子をおいたテーブルがある。春の陽気で隣の間との敷居にあるしょうじはすべて開け放たれている。
『今や、サイバースペース内では老若男女だれでもどんな存在にでもなりきれる』
担当編集がいう。
『そればかりじゃない、5感だってサイバースペース内では生き生きとするものです、実際に手足を動かさなくても、脳は動くわけですから、というわけで先生……次回のアイデアまだでませんか?、色々あるじゃないですか、昨今話題の“脳”を入れ替える、技術とかね』
小説家が答える。ソファに腰かけ、優雅にコーヒーをすする。
『師匠のようにぽんぽんはでやしませんよ、師匠も死の間際まで、いえ、そもそも“脳を入れ替える”は前作やったじゃないですか』
担当編集 『ああ、そうでした、昨今物忘れが激しくて、』
小説家が自慢げに胸をはる。
『それより前作、すごくよかったでしょ、あれほどスリリングでオリジナリティあふれる創作は、初めて書いた』
担当編集『確かに……“殺し”の代行をサイバースペースで行うなんて、たしかに犯人は特定しづらいですからね、サイバースペースは五感に制約をかけているものですが、その制約をやぶり、直接的に五感を刺激して、ある種のショックをあたえることで、殺しができるなんて、あれ以降、その真似事をやる人間もサイバースペース内で増えたらしい、まあ相当なハッカーでなければ真似できませんが、未来にはわかりませんね』
小説家『あのアイデアは我ながらいいと思ったよ、でも、俺はゼロからものを作ることは苦手だからさ、そこは師匠譲りなんだ、目にしたものに感化されてからでないと創作はできないね』
担当編集『そんなこといってましたっけ?』
しばらくコーヒーをすすり、休憩をする二人。資料やらスマホやらにせわしなく目を通しながら、また担当編集が小説家に声をかける。
担当編集『あなたの師匠は老いてからは物忘れが激しく、あなたのように色々な作品を上手にコピーすることなんてできなくなっていた、ただ、目にしたものすべてに感化されていた、今のあなたのようにね、人の小説をまねる事は最後までしませんでしたが、だから“人の小説は絶対によまない”といっていた、真似してしまったら、人生の恥だと、消えたくなるだろうとね』
作家『師匠は死ぬまで苦労していたよ、自殺なんてね、なにせ目にしたものでないと真似できず、だから人の小説を読むことをしなかった、僕も似たようなところはある、だけど僕の場合、感化されたものを改変できるからさ、なにせまだ若いし師匠もきっと若いころは色々な刺激からたとえパクリやオマージュといったものでさえ、自分なりに改編する技術をもっていたんだろう』
担当編集『ええ、あの人は、その頃そのことを自慢していましたねえ』
担当編集はよくたくわえたあごひげにてをのばし、指さきでととのえていった。
作家 『私たちは、一緒に年老いてきましたから、何でもわかります』
小説家『あなたにも“感化”されたことはあっただろうね、色々と、僕はまだまだ未来がわからない、ヒットしたのなんて前作が初めてだし……』
しばしの間が流れる。和室にソファーと座布団で向かい合い、テーブルがある。テレビその側面にある専用のテーブルにのってはいるがスイッチははいっていない。のどかで豊かな緑が、外の景色を覆っている。
担当編集『話は最初に戻りますが、前作の脳を入れ替えて、人の人生を盗むなんていうアイデア、どこから生み出したんです?』
作家『ああ、それも感化されて、師匠はなんでも自分で試してみろって……だから設定を守りつつアレンジを』
担当編集はため息まじりにスマホを取り出してつぶやいた。
『そんな小説、あなたの師匠は書いてませんよ、あなたの弟子が、書いたんですよ』