英雄たち ⅲ
――ドドドドド――
それは、ビルふたつほど離れた独立記念公園辺りから聞こえた。ユウケイ民主国が大フチン帝国から独立した際、首長庁舎が大統領府に変わり、首長庁舎前広場が独立記念公園に変わっていた。
ビルも中ほどから下は無事で、アテナは再び駆け降りた。
2機の小型戦闘ヘリが、独立記念公園上空を旋回しながら周囲のビルにミサイルを放ち、物陰に潜むユウケイ軍の兵士に向かって機関砲を乱射していた。公園は砕けたコンクリートと立ち上る油煙にもうもうと包まれ、夕闇を濃くした。その中心部に大型の戦闘ヘリが1機下りて、8名の特殊部隊員を降ろした。
陸上に下りた隊員は、姿を潜めて公園に隣接する大統領府に向かった。戦闘ヘリは少し高度を下げ、機関砲を乱射。移動する隊員からユウケイ兵の意識を逸らした。
大通りから発射されたユウケイ軍のミサイルが、戦闘ヘリを1機、撃ち落とした。
残ったフチン軍の戦闘ヘリが急上昇する。
通りを独立記念公園に向かっていたアテナは、自分の目の前で急上昇する戦闘ヘリに向けて自動小銃を乱射した。命中したと思うのだが、それが落ちることはなく、頭上を飛び去った。
アテナは弾倉を取り換え、通りを渡って大統領府の正面に向かった。
広場の中央で戦闘ヘリの残骸が燃えていた。ヘリコプターが巻き上げた砂塵と火災の油煙が周囲を覆っている。
アテナは大統領府の8本ある石柱の左端に移動した。2本隣の柱の横に重機関銃陣地があって、公園の敵に向かって激しい攻撃を加えていた。黒煙の向こう側に敵の銃が発する火花が見える。敵の攻撃も、重機関銃に集中しているように見えた。陣地の土嚢が砂煙をあげ、大統領府の石柱が火花を発していた。
アテナは黒煙の向こう側の敵に銃口を向けた。が、引き金を引くのを躊躇った。――味方を撃つなよ。相手を確認しろ。――カールの声が脳裏を過っていた。
重機関銃陣地に眼をやる。陽が落ちていて射撃手の顔はわからない。土嚢の外側に遺体がひとつ転がっていた。腕に巻いた黄色い腕章はユウケイ軍のものだった。もう一度、重機関銃の射撃手に眼をやった。重機関銃が放つ閃光の元、赤い腕章が目に飛び込んだ。
「敵だ」
思わず息をのんだ。眼と鼻の先に敵がいるのが意外過ぎた。心臓がドキドキ鳴った。
落ち着け、自分。……自分に言い聞かせて深呼吸する。
闇の中の乱戦に乗じて大統領府に侵入するのが敵の作戦だったのだろう。戦闘ヘリに攻撃を集中している間に、味方の重機関銃陣地を奪われたのに違いない。……そう状況を分析すると気持ちが落ち着いた。
自動小銃の銃口を重機関銃の射撃手に向ける。ヘリコプターや装甲車を撃つのとはわけが違った。標的は生身の人間なのだ。殺すという覚悟が要った。
トリガーに当てた人差指に力を込める。
――タタタタタ……、音と火花が踊って、それまで火を噴いていた重機関銃が沈黙した。
闇の向こうから重機関銃に向けられていた攻撃が止む。それでも、どこか遠くで銃声はしていた。
人を殺した。今更何よ。戦闘ヘリを落としたでしょ。あれには10人は乗っていたはず。これまでだって、自分が撃った銃弾がどこかで人を殺していたかもしれないのよ。……頭の中で複数の自分が、人を殺した罪から逃れようと言い訳をしていた。
闇の中からユウケイの兵隊が現れる。大半が大統領府の中に駆け込んでいき、少数がアテナを取り囲んだ。
「よくやった。陣を奪われて苦戦していたところだった」
その声で、言い訳を言う自分の声が消えた。
「衛生兵!」
重機関銃陣地を確認した兵隊が声を上げた。駆けつける衛生兵。その後ろからアテナは自分が撃った現場を覗き込んだ。
ユウケイの守備兵は死んでいたが、彼を殺し、機関銃陣地を奪ったフチン兵は生きていた。懐中電灯の明かりの下で血の気のない顔をしていた。その灰色の眼がアテナを認め「女か……」と唇が動いた。
アテナは、彼が生きていたことにホッとしていた。
「女に撃たれたのが恥ずかしいの?」
話したその時、全身に痛みを覚えた。
彼は答えず、ただ顔をゆがめた。アテナと同じように。
衛生兵が彼の腕と脇腹の止血処理をした。
アテナは元いた柱の場所に移動し、崩れるように腰を落とした。経験したことのない痛みが全身を駆け巡る。息をするのも苦しく、目を閉じて痛みがおさまるのを待った。痛むのに、何故か意識が遠のいていく。
ほどなく大統領府に侵入したフチン兵は制圧された。大統領殺害のために派遣された特殊部隊員は32名いたが、無事に地上におり立ったのは8名だけだった。結果、大統領府に侵入したものの作戦は失敗した。3名が死亡し、5名が負傷。ユウケイ軍は首都の防衛には成功した。とはいえ、ユウケイ軍の死傷者も少なくなかった。
「君も具合が悪そうだな。名前は?」
アテナは夢の中で声を聞いた。その声に聞き覚えがある。頼れる優しい声だ。
「輸送部隊の……」そこまで言って息が続かなくなった。痛みで目もかすんだ。床のタイルの模様がにじんでいる。
「外傷はないようだが。どれ……」
声の主が脇腹に触れる。
「タッ……」
激痛が走り、身体が強張った。
「外傷は見られないが、肋骨が折れていそうだ。それにしても防弾チョッキなしで前線にいるとは、無茶をするな……」
あの時だ。……アテナは、非常階段で転倒したことを思い出した。その時、骨折したのだろう。夢中で戦い続けてきて、その痛みに気づかなかったものらしい。
「衛生兵!」
呼ばれた衛生兵が肋骨の骨折を確認し、「他に痛むところはないか?」と訊いた。
「全身が……」それ以上、痛みで話せなかった。
衛生兵の手がアテナの全身をまさぐる。それが右足首に触れた時、激痛が走った。
「折れてはいない。捻挫です」と、衛生兵が誰かに話した。
「そうか。担架を!」
優しい声のトーンが変わった。
アテナは病院に収容された。爆風によるガラスの飛散を防止するために、窓をふさいだ薄暗い病室だった。ベッドが隙間なく並んでいるのが、戦争による被害の甚大さを象徴していた。
「お嬢ちゃん。どこをやられたんだね?」
アテナの隣にいるのは、左目を包帯で覆った高齢者だった。彼のツバキが頰についた。それを拭いながら答えた。
「肋骨と足首を……」
痛み止めが効いていて、楽に話すことができた。
「可愛い顔をして軍人さんとは、勇ましいな。勝てそうかね?」
彼は、軍服姿のアテナの身体に、ひとつしかない目線を不躾に走らせた。
「勝ちますとも……」
「そんな小さな身体で?」
彼が顔をゆがめる。不安と嘲笑が混在しているように見えた。
「身体の大きさは関係ありません……」
「元気が良くて何よりだが、結局その身体ではなぁ。何ができるというのやら……」
彼がコホコホと咳込んだ。
「そんな……」
アテナは言葉をのんだ。高齢者に憤りをぶつけても仕方ない。
「彼女は英雄ですよ。戦闘ヘリを撃ち落とし、一時は敵に奪われた機関銃陣地も奪取した」
出入り口の辺りから、あの優しい声がした。患者の視線が声の主に集まる。
「大統領!」
方々から声が上がった。隣の老人の声はひっくり返っていた。
「部下から聞いたよ……」枕元に立ったドミトリーが患者たちにアテナの活躍を説明し、彼女に向かって見舞いを言った。「……アテナのお陰で今、私はこうしていられる。礼を言うよ」
彼の声に、アテナの胸が熱くなった。
「彼女はユウケイの勝利の女神、ジャンヌダルクかもしれないよ」
ドミトリーが室内の患者たちに述べると、彼らの期待と羨望の眼差しがアテナに集まった。
――ウーン、ウーン……、空襲警報が鳴る。
「大統領……」
廊下で待っていた首相が呼んだ。
「フチンの奴ら……。せめて制空権が確保できたなら……」
ドミトリーが空を見るように天井を見上げると、患者たちも同じようにした。
「……諸君、仕事ができた。早く傷を治してくれ。そのために私は戦う」
彼が拳をつくって見せると、くるりと背中をむけた。
「ユウケイに栄光あれ」
片目の老人が声を上げる。
「ユウケイに栄光あれ!」
続く患者たちの声はそろった。
国民の希望を背に、彼は去った。
戦死者たちの英雄葬が行われるその日、アテナは強引に退院して参列した。いつ敵の攻撃があるかわからないため葬列は簡素なものだが、首都に残っていた多くの国民が戦士の死を悼み、戦争が早く終わることを願っていた。
国家が流れる中、葬列は英雄墓地広場を墓地に向かって進む。正装したカールたちが棺を担いでいた。その列はとても長い。延々と死者の名前が読み上げられ、彼らの名前は奪われて〝英雄〟になる。
アテナはカールを、そしてウラジミールが横たわる棺を厳粛な思いで見送った。思い出すのは、ミールの教会に預けてきた娘と義父母の棺のことだった。埋葬してから志願すればよかったのではないか……。後悔がチクチクと胸を突いた。
狭い墓地に林立する墓標の多くは、百数十年前、大フチン帝国に併合されるのを拒んで戦った英雄たちのものだ。その時、彼らの夢は実らなかった。そうして国土や資源、資産を奪われた。
フチン人に支配されたユウケイ国民は、フチン語の使用を強制され、伝統行事を禁じられた。2等国民と蔑まれて差別的待遇を受け、高い税率が設定されて、国家に対する奉仕という名の強制労働が課せられて搾取された。奪われたのは言語や文化、プライドだけではない。病や飢餓によって多くの命が奪われた。それは初代皇帝の名を取り、〝ヨシフ飢饉〟と呼ばれている。
大フチン帝国が自滅し、独立を手に入れたのは30年ほど前にすぎない。それは奇跡だった。もうユウケイ国民のだれもが、フチン人の支配下にはいることなど望まない。
古い墓標の隣に、新しい墓標が増えている。深い墓穴が掘られ、棺は遺体が立った形で縦に埋められる。
「彼らは祖国の独立を、国民の自由と名誉を守るために戦い、そしてここに、祖国の土に帰る。……国内には、まだ遺体のみつからない英雄や、敵の砲弾で亡くなった市民の遺体が多く放置されている。彼らを一刻も早く、我々の手で慰めなければならない。そのために我々はここにいる。そのために我々は、侵略者フチン軍を我々の大地から追いやらねばならない。英雄たちの魂が安らかな時を迎えるのは、その後だろう。ユウケイ民主国に栄光あれ」
スピーカーから流れるドミトリー大統領の声に反応する参列者たち。
――ユウケイ民主国に栄光あれ――
声が砲声のように木霊した。
儀式を終えたアテナは、カールを探した。
彼は、英雄墓地の駐車場に仲間とともにいた。彼らは、片腕を吊り、右足をかばって歩くアテナの姿に目を瞬かせた。
「アテナ、その恰好はどうした?」
驚くミハイルの目の前に、クリスがスマホを突き出した。
「知らないの? 彼女はジャンヌダルクなのよ」
「ジャンヌダルク?」
「アテナは大統領を救ったのよ。それでジャンヌダルクだって」
彼女が差し出すスマホには、アテナの独立記念公園での活躍が紹介され、大統領が彼女をジャンヌダルクだと語った、と紹介されていた。
「すごいな、ジャンヌダルク」
ブロスがアテナの肩をたたいた。
「止めてください。ジャンヌダルクは、最終的には火あぶりになったのよ……」
そう牽制してから、改めてあの夜、非常階段で転倒して負傷した経緯を報告した。
「ミサイルが使えたのか?」「フチンの特殊部隊とマジ、やりあったのか」「よく、その程度の怪我ですんだな」
カールもミハイルもブロスも目を丸くした。
「……その怪我では、弾薬を運べそうにないな。ハンドルを握るわけにもいかない」
目を細めるカールに、自分はやれる、部隊に戻してほしい、とアテナは詰め寄った。
「医者は、ひと月は安静にすべきだと話していたよ」
突然、背後から声がした。振り返ると、軍服姿のドミトリーがいた。
「大統領……」
皆、彼の姿に驚き、反射的に敬礼した。
「いや、私たちはユウケイ戦争を戦う同志だ。堅苦しい挨拶はいらない。君がカールだね。東部戦線での活躍、報告を受けているよ……」
彼は、カールたちの日々の活動を賞賛した。
「……フチンに攻め込まれたのは、私の外交が未熟だったからなのだろう。そのために、多くの国民が犠牲になっている……」
ドミトリーの瞳に暗い炎が燃えていた。
「……だが、後悔に打ちひしがれている場合ではないのだ。もちろん、降伏するわけにもいかない。百年前のように自由を奪われ、重税にあえぎ、収容所に送られるようなことがあってはならない。……命は大切なものだが、今は大事にしてくれとは言わない。それを犠牲にしても守らなければならないものがある。……停戦交渉を続けているが、イワンには、妥協する様子がない。南部の町はここよりひどい。敵に包囲され、市民が餓死に瀕している町もある。彼らを一刻も早く救うために、しばらく無茶な戦いも覚悟しなければならない。協力してほしい」
彼の顔にはレイヤーがあって、決意と苦渋と自信が重なっていた。
「まさか、餓死だなんて……」
アテナは歴史の授業を思い出した。大フチン帝国に組み込まれた当初、穀物や家畜を収奪されたユウケイは、百万単位の餓死者を出した。実際、祖母の兄妹は、それが原因で幼くして亡くなっていた。同じことが繰り返されるのかと思うと背筋が震えた。唯一の救いは、進展していないとはいえ、停戦交渉が行われているという事実だった。
「それでカール君、君に頼みがある。アテナを私に貸してほしい。政府の広報に一役買ってもらうつもりだ」
ドミトリーがカールとアテナの顔を交互に見た。
「大統領は軍の最高司令官です。大統領がお望みならば」
カールは敬礼で答えたが、アテナは荷が重いと拒んだ。気持ちのどこかに職業軍人ではないという甘えがある。
「戦いには士気が重要だ。その点、国土と誇りを守らなければならない我が軍は侵略者に勝る。わかるね?」
子供に向かって諭すようなドミトリー。アテナはうなずいて応じた。
「英雄の存在も重要だ……」
彼の視線が墓地に向く。
「……死者ではない。生きた英雄が旗を振れば、その者が神に導かれる存在だと信じられたら、……人は直面する苦難を乗り越え、実力以上の力を発揮するだろう」
ドミトリーの熱い視線がアテナの瞳をとらえていた。
アテナの脳死に、ドラクロワが描いた〝民衆を導く自由の女神〟が浮かんだ。もっとも、そこで描かれた半裸の女性は、人間ではなく、民衆が信じる女神に違いなかった。
ドミトリーの理屈はよくわかった。熱意も十分感じたが、やはりアテナは、彼の申し出を受け入れる気持ちになれなかった。自分が英雄を演じるのは国民をだますことになるような気がするのだ。
「大統領のお気持ちはわかります。でも先日のことは偶然です。なので、国民を鼓舞する英雄なんて演じられません。それに、私は身体を使う現場が性にあっています。許していただけないでしょうか?」
アテナは率直な気持ちを言った。
「君の気持ちはわかった。しかし、これだけは知っておくべきだ。戦場で偶然はない。全て君の実力だよ。それでだ……」
本来なら最高司令官として命じることができるドミトリーが、怪我が治るまでという条件で譲歩した。アテナはそれを受け入れ、彼の広報活動に加わることにした。