英雄たち ⅱ
大樹の陰に敵を窺うブロスの背中があって、3人は隣に伏せた。落ち着いて見ると、右側の立木の陰に仲間が展開しているのがわかった。
「ブロス、戦況は?」
「よくわかりません」
彼は正直だった。
「2人を頼む」
カールが対戦車ロケット砲を背負い直して左翼に移動した。アテナはカールについて行きたかった。ブロスより信頼できるからだ。が、カールの命令なのでそこに残った。
「俺の指示があるまで撃つなよ」
ブロスの声に、うなずいて応じた。
しばらくすると左翼の前方で激しい爆発音がした。わずかに油の焼ける臭いが漂ってくる。すると敵の発砲音が止んだ。
頭を上げて見たが、敵が撃ってくる気配はなかった。
『撤退したようだな』
ミハイルの声がした。
トラックに戻るようにカールの命令があったのは、10分も過ぎてからのことだった。それまでに東部戦線の兵隊がぞろぞろと戻ってきた。皆疲れた顔をしていて、怪我人や戦死者を運ぶ者もいた。
アテナたちがトラックに戻ると、基地内で指揮にあたっていた中佐が姿を見せた。彼はミハイルやブロスに握手を求めた。
「お宅の中尉さんはすごいな。我が部隊に欲しいところだ」
彼の言うことがわからずミハイルが説明を求めると、カールが国道付近まで進み、敵の給油車両を破壊したということだった。それで敵の歩兵が引き返したらしい。
ほどなくカールが戻ってくると、中佐は「英雄」と讃えて彼にウイスキーを振る舞った。もちろん、他の輸送隊員にもだ。
アテナは運転手なので酒は断った。代わりに熱いコーヒーをもらい、それを飲みながら運ばれてくる戦死者を見ていた。それが帰りの積荷だ。遺体は4体あった。
「ウラジミール?」
遺体の中に夫の顔を見つけてコーヒーカップを落とした。近づいて確認すると、彼の身体には弾痕が5個あった。
「知り合いなのか?」
「夫です」
アテナはミールの教会で見た、怒りで紅潮した彼の顔を思い出した。それが今は、土色をしている。
「そうか。ウラジミールは祖国に命を捧げた。英雄だよ」
夫の遺体を運んできた兵隊がふたり、同情に満ちた表情を作った。
「英雄ですか……」
その言葉に喜んでいいのか、悲しむべきなのか、心の置き場がなかった。
アテナの伴侶が戦死した話はすぐにカールに伝わった。すぐに輸送部隊の仲間が集まってきて彼女を慰めた。
「私なら大丈夫です」
ウラジミールの遺体をトラックに運んで見せようと、遺体の肩に手を掛けた。
「ここは、みんなに任せろ」
カールに肩を抑えられた。
アテナは遺体をその場に下ろし、今度は運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
「止めろ」
カールが腕を伸ばしてエンジンを止めた。
「じっとしていられません。何かしていた方が……」
「ここは戦場だ。皆の命がかかっている。俺は小隊長として、判断力が鈍ったアテナに運転を任せるわけにはいかない。運転はミハイルがする」
はっきり言われると抗しようがなかった。仕方なくハンドルから離れた。
帰路、アテナは荷台にいた。長時間ウラジミールの遺体を前にしていても泣けなかった。それが後ろめたくて泣きたくなった。普段、軽口をたたくブロスが黙っているのもつらかった。
クリスに頼んで大統領の演説を聞かせてもらった。それを聞けば、泣けるような気がした。
――我々の13日間について話したい……。そう始まったのは、ドミトリー大統領がライス民主共和国に支援を求めるためにオンラインで行った、最も新しい演説だった。
――われわれが始めたわけでも望んだわけでもないのに、いまも続いている13日間の激しい戦争についてです。なぜなら私は、我々のユウケイ民主国を失いたくないのです。第二次世界大戦時、あなた方が国を失いたくなかったのと同じように……。
1日目の午前4時、ミサイルが飛んで来ました。子どもも老人も、ユウケイのすべての者が目を覚ましました。それ以来、私たちは本当の眠りを手に入れていません。
私たちは皆、武器を取り、そして大きな軍隊になりました。
2日目、私たちは空、陸、海での攻撃を撃退していました。
3日目、フチン軍は堂々と一般の人々や住居、商業施設にたいする攻撃を始めました。砲兵を使って。爆弾を使って。
今や、私たちに対するテロは大胆に行われています。都市に対して、小さな町に対して。……爆撃、爆撃、爆撃。……家、学校、病院。彼らの行為はジェノサイドといえるでしょう。
しかし、彼らが我々を殲滅することはできませんでした。その行動で、全世界の人々は、誰がどんな存在であるかを見極めることができました。
誰が人間で、誰が獣なのか。
国連の会合がありました。しかしそれは、我々にとって望ましい結果ではありませんでした。常任理事国の拒否権、あるいは中立、不干渉……。勇気がない。我々はそう感じました。
占領された南部の街で、武器を持たないユウケイの市民が抗議しました。フチン軍の装甲車を素手で止めながら。……封鎖された街で子どもが亡くなりました。脱水症状で……。彼らは市民に食料や水を与えません。市民は閉じ込められ、地下室に隠れています。聞こえていますよね、あそこで隠れている市民は水すら持っていないのです。これは恐ろしいことです。心が空っぽになりました。
我々は次のことに気付きました。ユウケイ国民は英雄になりました。何十万人もの人々が。全ての都市の子ども、大人、全員が……。
ライス民主共和国の皆さん。……生きるべきか、死ぬべきか?……あなた方はこのシェイクスピアの言葉をよく知っていると思います。13日前は、まだこの質問がユウケイに提起される可能性がありました。しかし今は違います。正解は、生きるべき、それひとつです。
人々は生存し、自由であるべきです。
フチン共和国は、我々の国土の都市や施設を無慈悲に攻撃しただけでなく、我々の価値観に対して、残忍な攻撃を仕掛けているのです。……人間の基本的な価値観に対して。我々の自由に対して、戦車とミサイルを投げつけてきました。
私たちが自分の国で自由に生き、私たち自身の将来を選択する権利に対して……。あなた方や世界中の普通の人々と同じように、私たちの幸福を望む気持ちに対して……。
我々はあきらめません。あなた方の助けを借りて、偉大な国家の文明の助けを借りて……。
私はここに、皆様のご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。
偉大なユウケイに栄光あれ。
ライス民主共和国に栄光あれ――
アテナはウラジミールの入った遺体袋を前に、必死に思い出そうとしていた。彼と恋に落ち、家庭を作ったその日を。子供を授かり、笑いが増えたその日を。そこには豊かな愛があって、不安や貧乏さえ、生を紡ぐエネルギーだった。幸福の形だった、と思う。
そんな弱々しいエネルギーの固まりは、庶民の生活は、たった1発のミサイルで吹き飛んでしまった。娘や義父母の肉体と命だけでなく、未来や愛までもこの世から消し去ってしまった。
今度は、夫の命の灯が消えた。
――ユウケイに栄光あれ……、そんな言葉が何を生み出すのだろう。
演説に真剣に耳を傾けても、繰り返し3度聞いても、結局、アテナの目から涙がこぼれることはなかった。身体の中が空っぽだからだ、と思った。
セントバーグに着くまで、魂を失った遺体と、空っぽになった自分が向き合っていた。
彼の遺体は数日後、セントバーグの〝英雄墓地〟に葬られた。その時も、涙がこぼれることはなかった。
それは、彼の遺体が英雄墓地に葬られる二日前の夕方のことだった。警戒警報が鳴り、飛んできた5発のミサイルがセントバーグ郊外の防空ミサイル陣地を壊滅させた。
カールの配慮で任務から外されていたアテナは、その情報をセントバーグ中心部の地下倉庫で、在庫を確認している役人から聞いた。
「大丈夫よ。中心部は攻撃されないから」
「今までは、ですよね?」
「今までも、これからも、よ。大統領府周辺の警戒は厳重だもの」
彼女の言うことを、アテナは信じられなかった。
防空ミサイルが破壊されたのなら、敵は空からやって来る。そう予感し、在庫の携帯式対空ミサイルを背負い、自動小銃を手にした。
「ミサイルを勝手に持ち出さないで。高価なのよ」
「使わなかったら返します」
彼女の抗議をアテナは無視した。
「どこにいくんだ?」
地上に出ると、知らない兵隊に声をかけられた。
「戦争」とだけ答え、そのまま非常階段を屋上まで駆け上がった。息が切れた。
空は群青色をしていた。北の水平線に宝石のようにキラキラ輝く小さな物がいくつか浮かんでいる。側面から夕日を浴びたヘリコプターの一部だった。郊外の国際空港辺りだ。
懲りずに空港制圧を目指しているのだろうか?……考えた刹那、ヘリコプターの周囲に、花が咲いたように赤い光の粒がパッと広がった。
まるで打ち上げ花火が開いたようだった。誘導ミサイルを回避するためのフレアという偽装弾だ。熱を感知して追いかける誘導ミサイルは、フレアの熱を追いかけて誤爆することが多い。案の定、地上から上がるミサイルの航跡が多数あったが、落ちたヘリコプターは2機だけだった。
それでも2機、火を噴いて落ちていく。
フチンの悪魔め、地獄に落ちろ。……アテナは呪った。脳裏に浮かぶのは、見慣れたイワン大統領と亡くなったばかりの夫の顔だった。
フレアの効果で生き残ったヘリコプターは、Ⅴ字型の編隊を組んで市の中心部に向かってきた。
やはり来た。……予想が当たったことに喜んだが、同時に恐怖を覚えた。
とにかく、戦わなければ、と覚悟を決めた。
正面から狙えば、フレアは効果がないのではないか?……アテナは考えた。出入り口のある壁に身体をよせ、ミサイルの照準器を立てて電源を入れた。操作を習ったのは1度だけだったが、ミハイルたちが使う様子を何度も見ていたので戸惑うことはなかった。
肩に担ぎ上げ、照準器を通して向かってくるヘリコプター群を覗く。小さな戦闘ヘリが前にいて、おそらく特殊部隊を乗せている大型の戦闘ヘリが後方にいた。
ミサイルは1発、落とせるのは1機のみ。そう考えて、大きい戦闘ヘリに照準を合わせた。
機影があっという間に巨大化する。
――ドドドドド……、戦闘ヘリの機関砲が火を噴く。それはフレアさながらに、闇に沈みゆく世界を赤く照らした。爆音と同時にビルの外壁と床のタイルが砕け散る。破片が頰を叩いたが、アテナは逃げなかった。
発見されたか。……頭の隅で考えながら、大型の戦闘ヘリを照準機内に収めてトリガーを引いた。
――ドゥシュ――
ミサイルが飛び出した衝撃を感じる。想像していたほど激しいものではなかった。それよりも、機関砲弾が作る圧がすごい。
ミサイルの発射装置を捨てて非常階段に向かった。刹那、ドンと足元が跳ね上がり、身体が浮いた。両脚が空を蹴り、前のめりに転んだ。
大型の戦闘ヘリが発射したミサイルがビルに直撃していた。壁面と床に亀裂が走る。
アテナは立ち上がり、全力で走った。彼女を追うように、裂け目が広がっていく。非常階段にたどり着いたころ、亀裂は彼女を追い越していて、非常階段も崩れ始めていた。
アテナは転倒し、転がり、立ち上がると、崩れ落ちる階段を駆け下り、再び転倒した。
――ヅオン……、爆音がして床が揺れる。アテナが落とした戦闘ヘリが大地に激突した衝撃だった。
頭上を無事だった戦闘ヘリが飛びすぎていく。
「クソッ!」
言葉を吐き捨てる。それは呪いではなく、自分への叱咤だ。
立ち上がると斜めになった手すりにつかまり、よろよろと歩いた。転倒した時に打ち付けたのだろう。全身がヒリヒリ痛む。
――ドドドドド――
戦闘ヘリの機関砲の乱射音ばかりが鼓膜を打った。