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大統領の戦争  作者: 明日乃
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保養地ラコニア

 ラコニアの街の空気は、フチン共和国の多くの都市と全く違っていた。気候は温暖で雪が降ることはない。降り注ぐ日差しは暖かく、柔らかく、富豪の多くはその町に別荘を持っていた。イワンもその中のひとりだ。彼が大統領になるとすぐ、石油採掘企業の所有者が提供してきた屋内温水プール付きの邸宅だった。


 当然、その見返りが必要で、彼が必要とした土地にあった山村をひとつ、そっくり移転する大統領令にサインした。その行為にやましさはない。石油の採掘で国家も企業も潤い、雇用が生まれる。立ち退いた村人も、都会に出て便利な生活を満喫しているだろう。


 屋内プールは母屋から南側に突き出た温室のような形状だった。3方向と天井が防弾ガラス張りで、3月でも夏のような室温を維持していた。天井のガラス越しに差す太陽光がプールを照らしている。透明な水色の光が水面で踊っていた。


 ひと泳ぎしたイワンはプールサイドの白いカウチソファーに横になり、うつらうつらした。どうしてここを首都にしなかったのだろう、などと夢想していた。


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 幼いころのイワンは、帝国を自慢に思っていた。入学式、卒業式、建国記念日、戦勝記念日……、儀式のたびに疑いなく気勢を上げたものだ。


 そうした国家に対する、あるいは人生というものに疑問を覚えたのは、高校生のときだった。イワンは天文学者になりたくて大学進学を望んだが、父親に反対された。彼の父は労働者階級で、工場で機械のように働く労働者に学問はいらない、むしろあれこれ考えるだけ邪魔になるというのが彼の意見だった。しかし、事実は違った。イワンを大学にやれるだけの収入がない、と母親が詫びた。弟と妹がいるので、彼女もイワンが卒業するとすぐに仕事に就くことを望んだ。収入が増えれば生活が楽になり、少しはましなアパートに越せるかもしれない、と夢を語った。


 イワンは進学を諦められなかった。当時は資本主義国家と共産主義国家間が冷戦を繰り広げていて、軍人の待遇は良かった。本意ではなかったが、卒業すれば工場で働くより良い暮らしをさせてやれると両親を説得し、学費のいらない陸軍大学へ進んだ。


 陸軍大学では諜報活動を重点的に学んだ。敵対する国家の思想、共産主義も必要に迫られて学んだ。理論上、そうした世界なら貧しい家庭の子供でも能力に応じて好きなことが学べると知って胸が躍った。が、現実の世界は違っていた。多くの共産主義国家では、共産党員幹部とその親族ばかりが良い暮らしをし、国民は貧しさに喘いでいるのが実態だった。イワンは、そうした理論と現実の乖離にも興味を覚えた。


 夢の中を黒い人影が過った。


「ン……」


 瞼を持ち上げるとレナの姿があった。大統領秘書官ヨシフの娘だ。ヨシフは忠誠の印に、大学を卒業した自分の娘を差し出した。かれこれ4年前のことだ。ラコニアに来る際は、いつも彼女が身の回りの世話をしている。


「大統領、お目様ですか?」


 透明なガラス製の水差しを持つ彼女も水着姿だった。黒いビキニが白い肌をひきたてている。


「ああ、少しウトウトしていただけだ」


「冷たいお水、お飲みになりますか?」


「ああ、もらおう」


 レナがサイドテーブルのグラスに水を注ぐのを見ながら身体を起こした。


 レナはふたつのグラスに水をそそぐと、テーブルの向こう側の赤いカウチソファーに掛けた。厚めの唇をすぼめてストローをくわえる。毒など入っていないことを示すために違いなかった。


「泳いでもいいですか?」


「もちろん。自由に泳ぎなさい。それから、毒見などいらないよ。レナのことは信じている」


「ありがとうございます。大統領」


 彼女は薄い笑みを浮かべてグラスを置くと、プールの飛び込み台に向かう。


 イワンは彼女の引き締まったヒップが左右に揺れるのを鑑賞しながらグラスを取った。氷が沈んだグラスには、薄らと水滴がまとわりついていた。


 そうだ。水だ。雨が少なく、大河もないこの地に、多くの人間が住むことは難しい。……ラコニアに首都がおかれなかった理由に思い至り、グラスの中の氷に眼をやった。水は石油以上に重要な資源だ。改めて教えられた気がする。


 そして、もうひとつ思いつく。氷の中に毒を混ぜていたなら、それが融けるまで水は安全だ。目の前での毒見など意味がない、と……。


 目を上げると、飛び込み台に立つレナと視線があった。


 彼女が手を振る。手を振り返すと、それが合図のように彼女の身体が宙に浮いた。イルカのジャンプのような弧を描き、白い身体がプールに突き刺ささる。彼女はわずかな音と、わずかなしぶきだけを残し、水と一体化してイワンの目から消えた。何度見ても美しい肉体、そして跳躍だと思った。


 ほどなくレナの頭が水面に浮かぶ。イワンは潜水艦が浮上する場面を思い出した。


 彼女はクロールで泳いだ。ゆっくりとしたリズムで、それでいてとても速い。あんなスピードで、どうしてフチン軍は進撃しないのか……。イワンはここ数日、感じ続けた失望を思い出した。それを忘れるためにラコニアまで来たというのに……。


 イワンは、レナが泳ぐ隣のレーンの飛び込み台にたった。彼女の飛び込みをイメージし、真似て飛び込む。


 ――ドボン……、大きな音と腹部に感じた圧力が失敗を教えてくれる。それでも水中でドルフィンキックを繰り返し、水上に出ると大きな水しぶきを上げてバタフライで泳いだ。25メートル先でターン……。飛び込み台の下まで泳ぎ切ると、レナの拍手が聞こえた。


「大統領、見事なバタフライです」


 隣のレーンで彼女が微笑んでいた。


 イワンは水がしたたり落ちる顔を片手で拭い、「レナのようには飛び込めないよ」と正直に言った。頭の中からフチン軍は消えていた。


 レナの後頭部に手を回して引き寄せる。彼女が目を閉じていた。ふっくらとした唇にキスをして離れる。


「お楽しみはベッドの中だ」


「はい……」


 彼女の顔が歪んでいた。イワンは気づかないふりをした。


※   ※   ※


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 33歳のイワンが大使館に掲げられた国旗に向かって叫んでいた。胸の中には国家を引き裂こうとする国民への強い憤りがあった。


 大フチン帝国は、15の共和国で作る連邦国家だった。中心にあるのが軍事国家、フチン共和国で政治の中心だった。それぞれの共和国の首相は選挙で選ばれたが、帝国政府の承認が得られなければその椅子に座れない。そんなこともあって、帝国成立以来、各国の首相は、フチン共和国から派遣されたフチン人が担っていた。その仕組みは第二次世界大戦が終わっても同じだった。


 大学を卒業したイワンは国家防衛省治安局に就職し、そこでユーリイと知り合った。外交事務官として大使館に勤務するイワンをバックアップするのがユーリイの仕事だった。


 野心家のイワンに対して機械オタクのユーリイ。性格も好みも全く異なる二人だったが、だからこそ不足するものを補いあい、任務はすべてうまくいった。プライベートでも付き合うようになり、イワンはユーリイの妹のエリスを妻にした。若いエリスはとても献身的で申し分のない伴侶だった。


 そのころイワンの両親は、彼の仕送りがあって贅沢な暮らしをしていた。イワンがエリスを紹介すると、彼が陸軍学校に進んだことを自分たちの手柄のように自慢した。


 イワンがライス民主共和国にある大使館に赴任してまもなく、大フチン帝国が揺れた。共和国の多くの首相が私腹を肥やしており、それを帝国政府が黙認している、というメディアのスクープが起因だった。


 日々の生活に困窮していた労働者階級のストライキやデモが各国の都市を中心に頻発し、大衆に迎合する政治家たちはそれをあおり、暴徒と化した市民が政府機関や商店を襲うといった事態に発展したのだ。


 実際、首相に限らず大臣や行政機関の小役人まで、賄賂を取るようなことが日常化していた。軍事力の増強や宇宙開発のための増税もあり、国民の中に不満が溜まっていたのは事実だった。そうした事実を政治家はもちろん、役人や経済を牛耳る財閥のトップたちもよく知っていた。そして誰も、何もせずにいた。


 地方政府に対する国民の怒りはやがて帝国政府に向かい、各国の独立の機運が高まった。ほどなく6カ国が不意を突くようにして分離独立した。


 大フチン帝国は消滅し、フチン共和国と名前を改めた。そこに残った共和国は9カ国、経済規模は6割ほどになった。そうした状況をイワンは、海の向こうの大国から苦々しい思いで見守るしかなかった。


 国家の分裂……。人類の長い歴史をかえりみれば珍しいことではないが、イワンにとっては一大事だった。その特異な事件に大フチン帝国は世界から嘲笑され、彼はそれを自分自身のこととして受け止め、心を痛めていた。そんな彼が異国で頼れるのはエリスだけだった。


「ユウケイが独立し、私と君の祖国は別々になってしまったよ……」


 ある夜、2人きり、バーボンを酌み交わしながら気持ちを吐露した。心細さと切なさに、泣いてしまいそうだった。


「私は気にしていませんよ。もともと別の共和国だったのですもの。でも、今度は里帰りするのにパスポートが必要なのね。困ったことだわ。面倒だもの」


 彼女は、イワンほど落ち込んでいなかった。それがイワンには面白くなかった。


「僕らの国が笑われているのだぞ。よくそんなに軽々しく語れるな」


「おきてしまったことを嘆いても仕方がないではありませんか。それより、これからどうするかが大切だと思いませんか?」


「それはそうだが……」


 どうしようもないと思った。今は、立っているだけでやっとの思いだ。


「別々になったのが悔しいのなら、再びひとつにして見せたらどうです」


 エリスが口角を上げていた。その瞳に、妖しい炎が燃えていた。それに魅せられ、イワンは気力を奮い立たせた。


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 その言葉を胸に刻み、イワンは職を辞した。


「イワン、全く無謀な奴だな。プライドなど捨てれば公務員としてやっていけただろうに」


 後部座席に座る軍の技術士官、ユーリイが笑った。祖国、フチン共和国に戻ったイワンはタクシーの運転手になっていた。


「私は夢を見たいのだ」


「夢?」


「私の力で嘲笑の的のフチンを世界の大国に戻してやる」


「政治家になるつもりか。……それがどうして、タクシードライバーなのだ?」


「町場の情報を集めるのはこれが一番さ。運が良ければ人脈も作ることができる」


「まさに夢のような話だな」


 ユーリイは笑ったが、その後は助力してくれた。彼に呼ばれてレストランやパブに車を回すと、乗客は行政庁や大企業の幹部、地方議員といった上客だった。


「ユーリイに聞いたよ。外交事務官だったんだって?」


 彼等は漫談やほら話を聞くように、運転手の身の上話に興味を示した。


「この国のためですよ……」そうしてイワンが、国際情勢やフチン共和国はどうあるべきか、政治家は国民に安全と希望を提供しなければならない、といったことを話した。そうしたことを論理的に、時には具体的な政策を交えて語り終えるころには、彼らは真顔でうなずいているといった具合だった。


 それだけではない。


 目的地に着いてイワンの話に聞きほれていた客が車を降りると、図ったように暴漢が現れた。帝国時代から汚職や不正入札、裏取引が恒常的なフチン共和国だ。彼等には襲われるだけの理由があった。


 普通のタクシー運転手なら、慌てて車を発進させただろう。イワンは違った。客に代わって暴漢を撃退した。


 帝国崩壊にともなって治安が悪化したとはいえ、タクシーを降りた途端に襲われることが続く偶然に驚いていたが、やがてそれがイワンの信用を高めるための、ユーリイの策略だと気づいた。


 暴漢から客を守ったイワンは命の恩人と感謝され、ホームパーティーに呼ばれたり、アイスホッケー観戦や観劇、ビリヤードやスキーに誘われたりすることが増えた。そこで普段はタクシーに乗らないような上流階級の知己を得た。


「君は志が高いようだね。しかも腕っ節も強い。君が言う通り、経済の発展には街の治安が良くなければならない。私が資金援助しよう。次の選挙に出てみないかね?」


 とあるパーティーで声をかけてきたのは、金融王といわれる老人だった。彼の求めに応じてトロイアの市長選挙に立候補。それまで築いた人脈を活用して市長に当選した。結局、タクシーの運転手をしていたのは1年にも満たない期間だった。


 市長就任パーティーにユーリイを招待したが、彼は来なかった。公の場では会わない方がいいというのが彼の意見だった。裏方に徹するつもりらしい。イワンは、彼の気持ちを尊重し、かつ、感謝した。


 市長は4年務めた。その間、警察の予算を増やして治安を改善し、教育予算を増やして大学進学率の向上に努めた。周囲からは再選の要望が多かったが、中央政府からの要請があって、大統領府の総務局次長に就任した。


「イワン、おめでとう。夢に一歩近づいたな」


 深夜のパブでユーリイがグラスを掲げた。


「ユーリイ、君のおかげだ。昨夜は大統領の椅子の夢を見たよ」


「ずいぶん、気が早いな」


「事務官を辞めて6年でここまできた。今度は5年だ。5年後の大統領選挙に打って出る。そのためには君の力が必要だ」


「俺にそんな力があるものか」


 ユーリイが笑った。


「あるさ。私がタクシーを運転していた頃のように」


 イワンは、あの時のような演出ができれば、そしてそれを全国に知らしめることができれば、大統領の椅子に座るのも無理ではないと考えていた。


 ユーリイの顔から笑みが消えた。


「地獄に落ちても知らないぞ」


「かまわんさ。この国のためなら落ちてやる」


「そうか……」


 2人はグラスを掲げた。


 ――チン――


 澄んだ音が鳴る。


 ――大フチン帝国に栄光あれ――


 決意を声にした途端、イワンは目覚めた。寝心地の良いベッドの中にいた。


「夢か……」


 寝言を聞かれたのではないか?……隣のレナを窺う。彼女の穏やかな寝息がした。


 ベッドを抜け出し、カーテンの隙間から外をうかがった。夜明け前の空は灰色をしていた。世界は静まり返っている。邸宅は親衛隊が守っていて、庭を巡回する隊員と犬の姿が見えた。


 階下に降りてプール室に入る。全裸になって飛び込んだ。勢いのままに100メートル泳いだ。


 まだやれる。……自信が蘇り、当初の目的を達成しよう、と決意を固めた。そのためなら核兵器の使用も躊躇うまい。あの時のように……。


 イワンが大統領府の総務局次長に就任した時、フチン共和国の体制に変わって6年が経過していたが、まだ政治は不安定で、内部の共和国の一部は独立しようという動きを見せていた。


 イワンは、大統領にそれらの国々の独立阻止役を買って出た。簡単なことではないとわかっていたが、ユーリイなら何とかしてくれるという漠然とした安心感の上に、自信を覚えていた。


 ユーリイと会ったのはトロイアのスポーツジムだった。イワンが隣国の独立阻止対策を話すとユーリイが苦笑した。


「首謀者を黙らせればいいとは、簡単に言ってくれるな……」


「厄介なのはチェルク共和国ぐらいだ。あそこは与党が一致して独立を主張している。他の2国は毒を飲ませるか金をつかませれば意見を変えるだろう」


「なるほど。情報分析は済んでいるようだな」


 2人はランニングマシンで肩を並べ、休日のキャンプの計画を立てるように打ち合わせた。


 その後の作戦はユーリイが実行した。彼はチェルク共和国内で反政府組織を設立してビルの爆破活動を展開、社会を混乱に陥れた。


 イワンは、チェルク共和国の首都にフチン共和国軍を入れて独立を先導する複数の大臣や議員を殺害し、テロの被害者に見せかけた。テロ組織を制圧したイワンは戒厳令を敷いて、親フチン共和国派の政権を樹立。チェルク共和国独立の機運をくじくことに成功した。


 他の2国は簡単だった。ユーリイが独立派の指導者をあぶりだし、国家防衛省治安局の息のかかった暗殺者の手で始末した。


 そうやって大統領の信頼を得たイワンは第1副首相に任命された。


 水をかくのを止めて仰向けになり、暖かな水に身体を任せる。天井のガラスの向こう、低い空が白ばみ、渡る鳥の姿があった。


 その日のスケジュールを考えた。ライス民主共和国の飼い犬のような小国の首脳との電話会談、フチンと西部同盟の両陣営の間でコウモリのような生き方をしている中東の首脳との会談、経済団体との電話会合……。どれも取るに足らない行事だった。


「大フチン帝国に栄光あれ」


 宙に向かってつぶやくと身体をひねって水に潜った。プールの底を這うように進み、壁にぶつかってから真っすぐ浮き上がる。


「大統領、お早いのですね」


 目の前に頰を赤く染めたレナの姿があった。


「やあ、おはよう。レナと過ごすと力がみなぎる。生まれ変わったようだよ」


 水から勢いよく上がってから全裸だったことに気づいた。


「キャッ」


 レナが小さな悲鳴を上げて顔をそむけた。


「どうした。昨夜、遊んだものだろう」


 彼女をからかいながらバスタオルで身体をふいた。


「大統領、いじめないでください」


「いじめてなんていないさ。可愛い奴だな」


 心底そう思っていた。そんな彼女から意外な話を聞いたのは二日後、ラコニアを離れる日の朝、ベッドの中でのことだった。


「私、結婚するのです」


 レナの声を聞いたイワンは、夢を見ているのだと思った。


 彼女の話は終わっていなかった。


「……3か月後に結婚します。それで、同行できるのは、今回が最後になります」


 はっきり告げられて頭が冴えた。


「まさか……。いや、おめでとう。……で、誰と結婚するのだ?」


 レナを自分のものだと思い込んでいたイワンは驚きを隠せなかった。やっとの思いで祝いの言葉を述べ、婚約者を戦争の最前線に送り込もう、と思った。彼が戦死すれば、彼女は再び自分のものになるだろう。


「大統領の知らない男性です」


「教えてくれ。君のフィアンセに良い仕事を用意しよう」


 情報を得るために、心にもないことを言った。


「今は陸軍にいます……」彼女は婚約者のアレクセイは徴兵され、ユウケイにいるはずだと話した。


「そうか。それは心配なことだな」


 同情を示しながら、胸の内で笑った。


「アレクセイはミュージシャンなのです。仕事を用意していただく必要はありません。代わりに、大統領の力で彼を退役させ、帰国させていただけないでしょうか?」


 彼女の恋心にはいじらしさを覚えた。が、フィアンセに対する怒りにも似た気持ちが勝った。それが嫉妬という原罪のひとつなのだろう。そんな風に冷静に考える自分もいた。


「ふむ、そうしよう」


 無表情を装い、ベッドサイドの電話を取った。陸軍本部の将軍を呼び出し、婚約者の居所を確認するよう命じた。


 アレクセイの居所がわかったら、1週間、最前線に送り出してやろう。それで生き残ったら帰国させよう。もっとも、その頃にはユウケイ民主国は降伏しているに違いない。私も悪人だな。……そう考えて胸の内で笑った。


「ありがとうございます。レナ、嬉しい」


 彼女がその旅行で一番の笑顔を作った。


 将軍から返事が届いたのは、車が空港に着いたときだった。VIPルームに入るとコーヒーを注文し、ひとりになって報告に耳を傾ける。


『申し上げにくいのですが……』


 将軍の声は怯えているようだった。


「どうした? 何があった?」


『じ、実は……』彼の声が緊張を増す。『……アレクセイ君が所属する小隊は南部戦線で……』


 彼はアレクセイを君付けで呼んだ。イワンにとって重要な人物だと誤解しているようだ。


「小隊がどうした? まさか、遊んでいるというのではないだろうな?」


『と、とんでもありません……』アレクセイが所属する小隊は全滅し、彼の遺体はまだ回収されていないということだった。


「そうか……」


 弾けそうな喜びを隠さなければならなかった。小隊とはいえ、フチン軍の敗北の報告に喜びを感じたのは初めてだった。


『申し訳ありません……』


「いや、気にするな」


 そう告げると、受話器の向こうの将軍はホッとした様子だった。


「今度君の声を聞く時は、勝利の報告だと信じているよ。三日以内だ」


 そうプレッシャーをかけて電話を切った。


 ヨシフを呼んだ。


「君の娘のフィアンセがいた小隊は全滅したらしい。遺体も見つかっていないそうだ」


 微笑みそうになるのを必死でこらえ、難しい表情を作って話した。


「アレクセイが……」


 ヨシフは目を白黒させ、出入り口に目をやった。その向こうにいる娘の姿を思ったのだろう。


「慰めてやるといい」


 そう言って彼を返した。


 ――トントン――


 ひかえめなノックの音がする。警備の親衛隊員が、ヨシフとレナが話したいと言っている、と告げた。


 フィアンセを失い絶望の沼の底にいるレナが、これからも自分に仕えたいとでも言ってくるのだろう。そんなふうに想像して入室を許した。


 ヨシフに続いて入ってきたレナは、目を真っ赤にしていた。が、その顔は絶望の沼の底にいる者のものではなかった。イワンの前に座り込み、膝にむしゃぶりつくようにして顔を見つめた。


「大統領、アレクセイは生きています!」


「……どういうことだ?」


 つい先ほど話したことを否定されて驚いた。悲しみのあまり、彼女は気が触れてしまったのではないかと思った。


「これを見てください」


 彼女がスマホの動画を示した。


 見知らぬ青年がひとり、画面に映らない誰かから追及を受けていた。


『なぜ、ここに来た?』


『僕は何も知らなかった。訓練だと言われて……』


 彼は恐れ、ひどくおどおどしていた。その姿に彼がユウケイ民主国で捕虜になった自国の兵隊だとピンときた。


『どこから来た?』


『フチン共和国のトロイア』


「捕虜がぺらぺらと、敵のプロパガンダに利用されるとは……」


 思わず唾を吐きかけそうになった。


『名前は? 年齢は?』


『アレクセイ、26歳』


「なんだと……」


 イワンは絶句した。


「大統領、お願いです……」レナがアレクセイを救ってほしいと懇願する。


 イワンが彼女やアレクセイに同情を覚えることはなかった。ただ、腹の底から怒りがわきあがる。慌てたヨシフが上半身を折って、家族の関係者が無様な姿をさらしたことを謝罪した。


「こんなものを国民に見せてはならない。すべてのSNSを遮断しろ。それだけでは甘い。西部同盟とライス各国のプロバイダーに電子戦を仕掛けて、インターネット内で平穏をむさぼるバカ者たちの目を開かせてやれ。何が、いや、誰が正義なのか、知らしめるのだ」


 イワンは、ヨシフの後頭部に命じた。


「速やかに、指示いたします」


 頭をあげたヨシフが飛び出していく。


 レナは、イワンと父親の間で交わされた会話にどんな意味があるのか、理解していないようだった。


「大統領、アレクセイを……」


 彼女の両手が、イワンの膝を強く握った。


 イワンは、彼女の肩に手を添えた。


「彼が所属する小隊は全滅した。わが軍の将軍が報告してきたのだから間違いない。……レナは知らないだろうが、コンピューター技術によって、姿形も声までも、別人に見せかけるディープフェイクという技術がある。アレクセイのパーソナルデータをAIに学ばせ、役者が演じるものを、さもアレクセイがそうしているように偽装するのだ。君が今見ているものは全て、敵が作ったそうしたディープフェイク動画だよ」


「まさか……」


 レナが、動画を再生して見直す。


「それは作りものなのだ。敵はフチンを、いや、私を動揺させようとして、そんな動画を作りインターネットにばらまいているのだ。悲しいだろうが、彼は死んだのだ。現実を受け入れなさい」


 恋人が生きていると喜んだのはつかの間、一転、彼の死を受け入れるのは、奈落の底に落ちるような苦悩だろう。その表情には常人と異なる妖しい美しさがあった。


 親衛隊員がやってきて、出発の準備ができたことを告げた。彼は、大統領の前で嘆き悲しむ佳人を怪しみ、視線をイワンに向けた。その美女を、排除すべきか問うように。


「さあ、飛行機の準備ができたようだ」


 アレクセイをどうしたものか……。イワンは、そんなことを考えながら、レナの肩をそっと抱いて立ち上がらせた。


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