独裁者
フチン共和国、首都トロイアにそびえるグリム宮殿、大統領専用会議室……。イワンは、首相ピエール、国防大臣ミカエル、内務大臣ビクトリア、外務大臣アンドレ、法務大臣エフゲニー、運輸大臣アレクセイ、財務大臣コンスタンチン、公安局長ドルニトリーといった、ユウケイ民主国侵攻に関わる閣僚を呼び出していた。彼らは20メートルもあるテーブルの向こう端に身をすぼめて座っていた。その距離は権威の差だが、精神的な距離を象徴している。
「戦況はどうなっている?」
10メートルほど離れている8人の大臣に向かって訊いた。
7人の大臣の視線がミカエルに集まる。
「ハッ……」
彼は返事をしただけで、視線をテーブルの資料に落とした。
「今日にもセントバーグは陥落する計画だったはずだが?」
「ハッ、それが生憎の天候と予想外の抵抗の強さで……」
「天候? 世界最強の我フチン軍が、天候ごときで作戦に支障が出ているというのか。まして敵の反抗などは想定内のはず。違うかな、ドルニトリー君」
矛先を向けられたのは、国内の治安活動だけでなく、海外の諜報活動まで一手に担う公安局長だった。
突然指名されたドルニトリーが慌てて話しだす。
「はい。ドミトリー大統領……」
「あいつに敬称はいらん!」
イワンは思わず怒鳴った。それから自分がいら立っていることに驚き、腰の位置を変えて大きく息を吸った。
「申し訳ありません……」ドルニトリーが起立して頭を垂れた。「……ユウケイのドミトリーの支持率は20%ほど、国民はもとより、軍も真剣に戦うことなどないというのが、諜報部の分析結果です」
「そういうことだよ。ミカエル君」
「ユウケイ国軍へは、西側諸国から最新兵器が大量に供給され、それが軍の士気を高めているのではないかと推測します」
「敵が最新兵器を使用するなら、こちらもそうすればいい。クラスター爆弾、気化爆弾、自立ドローン。戦力の違いを見せつけて、早々にユウケイ国軍のクーデターを実行させよ。ドミトリーを殺せ。それだけでユウケイは瓦解する。勝負は大地が凍結しているひと月だ。その間に、全土を掌握しろ」
「ハッ、ご命令の通りに……」
ミカエルが起立し、敬礼した。
「それで諸外国の反応だが……」
イワンは外務大臣のアンドレに目を向けた。
「国連の動きは想定内です。西部同盟の動きは若干ですが、想定より過敏なものとなっております」
「そんな報告ではどうにもならんよ。アンドレ君。具体的に話せ」
この間抜けが!……胸の内で唾を吐きかけた。大臣たちの中に緊迫感が走る。彼らの心臓の鼓動が手に取るようにわかる。バカ者どもが……。イワンはほくそ笑む。
「国連は我が国に対する非難決議を可決しました」
「阻止できなかったのか?」
「東亜大公国など10数か国は反対や棄権に回ってくれたのですが……」
「フン、西の奴ら目が……。まあいい。東亜とは話ができている。ワントゥ総統は戦後の支援を約束してくれている。彼の国には天下三分の計というのがあるそうだ。西部同盟をバラバラに分解し、我が国、東亜、ライスの三国で世界を分け合おうということになった。その心づもりで当たれ」
「さすが大統領、おそれいります」
アンドレは追従笑いを浮かべ、他の閣僚はホッと胸をなでおろした。
「国内情勢は?」
イワンはドルニトリーに目をやった。
「都市部で反戦デモもが少々……」
歯切れの悪い言葉だった。その理由をイワンは知っていた。街に出ることの少ない自分を慮ってのことだと。
「世間を知らない若者ばかりだろう?」
市民の中に自分に対する反発があるのは知っていた。しかし、そんな国民を生み出すのは、全て政策が悪いからなのだ。行政が有能なら、国民は安堵し、反発も疑問も持たず、従順であるはずなのだ。
「大統領のおっしゃる通りです。ご明察、恐れ入ります」
「ネットで情報を得るなど非国民のすることだ。対策を取っているのだろうな?」
「手当たり次第に刑務所にぶち込んでおりますが、デモは拡大傾向で苦慮しております」
「そうだな……」
少し考えた。東亜大公国という専制君主が思うがままに舵取りできる理想のモデル国はあるが、東洋人とフチン人ではDNAも文化も違う。熟慮すべきところだった。そうして二つの対策が浮かんだ。
「人は、優しい父親と恐ろしい母親との、どちらに従うと思う?」
「は?」
ドルニトリーが首をかしげた。
「恐怖を与えろ……」イワンは命じ、話を続ける。「……母親だよ。優しいものは無視しても怒らず、彼から不利益を受けることはない。一方、恐ろしい者を怒らせたらたちまち困難に直面する。だから、人は恐ろしいものについていくことになる。君たちだってそうだろう。私に逆らったら、命が危うい。だからそうやって静かに私の指示に従っている。……それでいいのだよ。私に従っていれば君たちは安泰だ。生命が守られるばかりか、富まで得られるのだからな」
翠の瞳のビクトリアに目をやる。美しいだけでなく懸命で上昇志向の強い女性だった。権力に近づくためなら、毒も剣も飲み込むだろう。だから彼女を内務大臣にしてやった。
「ビクトリア君、君はフゲニー法務大臣と協議してSNSと独立系放送局から垂れ流されるフェイクニュースの統制をおこなうのだ。同時に従前通り、我々の軍はユウケイ国内で虐げられ、差別され、命の危機に瀕しているフチン系国民を解放に向かっている解放軍だ、と徹底的に報じさせろ。無知な大衆は信じられるものを求めている。それが真実である必要はない。気持ちの良い正義であればいい。そのためにメディアを締め付ける必要があるなら、そうせよ。君らに任せる」
「承知しました」
ビクトリアとフゲニーが了解するのを確認してから、イワンは口を開いた。
「大衆は愚かだ。政府を批判し、自ら不利益さえこうむろうとするのだからな。彼らからは反抗する道具と情報を奪い、厳しく当たれ。そうすれば、君たちの言うことを素直に聞く。それが、君たち自身を守ることでもある。で、経済情勢だが……」
財務大臣コンスタンチンの赤ら顔に目を向けた。
「コンスタンチン君、ウオッカの飲みすぎではないのかね?」
「私はビール党でして……」
彼の言葉を、机をたたいて遮った。
――バン!――
大音が会議室に広がり、イワンの手のひらがジンジン痛んだ。
「申し訳ありません……」立ち上がったコンスタンチンは、諸外国の経済制裁が決定して実行に移し始めたため、今後、フチン国通貨の下落と輸入物資の高騰が推測されると述べた。
「で、どうするのだね。諸君?」
イワンはテーブルむこう端で視線を落とす大臣たちの返事を待った。
あいつらは何も話そうとしない。それはいいことだ。つまらぬ時間を使わなくていいからだ。だからといって、報告がないのは困る。何も言わないなら舌などいらない。……仕方なく口を開いた。
「……国内経済が悪化したら、それは君の責任だよ。コンスタンチン君」
そう宣言して席を立った。
「無茶だ……」
顔を青くしたコンスタンチンが崩れ落ちるように腰かけてつぶやいた。同情する視線が彼に集まる。が、擁護する者はいない。
コンスタンチンのつぶやきも他の大臣たちのため息も無視してイワンは会議室を後にした。閉まったドアの音が、死刑宣告のように響いた。
「外務大臣、各国の経済制裁解除交渉を、早急にお願いします」
コンスタンチンがすがるように言った。
「今は、とても無理だ。せめて戦況が我が国に有利だったら……」
アンドレが国防大臣に目を向けた。ミカエルは首を横に振った。
「ならば、東亜のワントゥ総統の口から世界に、今後も我が国との貿易は続く、と話してもらうよう外交ルートで交渉してほしい。彼の国の通貨なら、国際的信用がある」
「それはどうだろうな。東亜も、今のわが国と同一視されることは望まないだろう。むしろ、我が国が窮地に陥ってから、買いたたくつもりではないのかな?……一応、交渉はしてみるが……」
アンドレの話にその場の空気が重さを増した。それからいくつかの言葉が交わされたが、よどんだ空気を晴らすものはなかった。
※ ※ ※
イワンはグリム宮殿の地下深くにある住居スペースに下りた。暗殺者の狙撃や核攻撃にそなえた安住の場所だ。そうした場所を宮殿や自宅以外にいくつか所有しており、そこに入ることができるメンバーも、場所によって変えていた。入室可能な誰かの動向に不審な点があれば、その人物が入れない住居に移動する。場所とメンバーを変えることで、身の安全を確保するようにしていた。
グリム宮殿の住居に入ることができるのは、愛人のソフィアと掃除婦、それから諜報機関で10年ほど一緒に働き、義兄になったユーリイだけだった。彼は電子機器の操作、射撃、格闘など誰よりも優れていた。ただ口下手で愛想も悪くスパイには向かなかったが、大フチン帝国が西部同盟に屈して分解した後、その一部をフチン共和国として復興させるために裏の仕事に携わった。そのおかげでイワン大統領が生まれたともいえた。なんだかんだと、彼とは30年近い付き合いになる。
「お帰りなさい」
イワンを迎えたのは、彼の娘と似たような年頃のソフィアだった。
彼女を抱いて頰にキスをする。柔らかな身体に甘い香り……。それはいつもの通りだったが、普段と違って顔に笑みがない。
「どうかしたのか?」
不審に思って尋ねると、「あの人が来ているの」と、彼女は不快げに言った。
「そうか。急用なのだろう。赦してやってくれ」
彼女の頰にキスをして客間に足を運んだ。
ユーリイは後ろ手にして壁に飾った絵を見ていた。ゴッホが描いたという向日葵だが、真筆かどうかは定かでない。
「こんなところまで来るとは何事かな?」
背中に声をかけた。振り向いた彼の顔はいつも以上に感情がなかった。50歳になろうというのに、皴やシミも肌のたるみもない。それでその顔が、美術館に並ぶ古代ギリシャの神像のような作りものかもしれないと思うことがあった。
「ここでは仕事の話はしたくないのだが……」
「すまないな、イワン。どうしても確認しておきたいことがあったものだから」
彼は顔に似合わないソフトな声で話すと、自らソファーに掛けた。イワンはその正面に座った。
「確認したいこととは、何だね?」
カップボードから敵国の最高級バーボンとグラスを取り、なみなみと注いで出してやった。
「ふむ……。ミールのことだ」
ユーリイがグラスを取り、濃密な琥珀色を疑うように見つめる。彼が知りたいことはおおよそ見当がついた。が、自分から答えるつもりはなかった。
「ミールがどうかしたのかい?」
ユーリイが眼を細め、バーボンを舐めてから口を開いた。
「どうしてミールにミサイルを落とした?」
「私がミールにミサイルを落としただって? 冗談は止めてくれ」
「冗談ならどんなに良かったか……。商店街がめちゃくちゃになったらしい。死者も出ている。初日のことだ」
「だとしたら誤爆だろう」
「俺を舐めるな。あの巡航ミサイルは、センチ単位は無理でも、メートル単位の精度で目標に届くはず。それが目標の10キロも外れるはずがないだろう」
「舐めてなどいるものか。お前は私以上に多くを知っている。しかし、よく考えても見ろ。目標データの入力ミスという可能性もある。機械の性能がどんなに良くとも、ヒューマンエラーによる誤爆は一定程度、発生するものだ。世界に完璧はない」
「入力ミスしたミサイルがミールに落ちたというのは、偶然にしてもできすぎではないか? ミールは俺の故郷、それはエリスを妻に持つイワンにとっても同じはずだ」
ユーリイは、いつになく感情的になっていた。
「だからだ。私の故郷はここ、フチンだ。故郷はひとつで十分」
イワンは、自分の意見を押し付けてくる妻の顔を思い出した。
「どういうことだ? 彼女と何かあったのか?」
「ユーリイ、お前には関係のないことだ」
「俺は、イワンとエリスのことが心配なのだ。話してくれ。できることなら、俺が問題を解決しよう」
確かにユーリイならエリスの気持ちを変えることができるかもしれない。……イワンは考えたが口にはしなかった。
「……その必要はない。たまには私に騙されてみろ」
「しかし……」
「エリスは気の強い女だ。昔はそこが良かったのだが……」
「ギリシャ神話なら不和と争いの神だからな。ユウケイは他国に蹂躙され続けてきた国だ。何が何でも強くなって欲しいという父親の願いが、彼女をそうさせたのだろう」
ユーリイの真っ直ぐな視線に、イワンは少しだけ腹が立った。とはいえ、閣僚たちにするように彼を罵倒することは避けた。敵に回すには恐ろしい相手だ。
「……なるほど。それで今度は私が蹂躙していると言いたいのか?……ならば、間違っているぞ。彼の国に軍を入れたのはエリスの願いでもある」
イワンが教えると彼が驚いた。その顔になぜか喜びを覚える。グラスを空け、「帰ってくれ」と告げて席を立った。
ユーリイを送り出した後、ソフィアと食事の席に着いた。
「おいしい?」
彼女は料理の出来栄えを訊いた。トロイア地方伝統の肉料理だった。
「ああ、君の料理はとても美味しいよ」
それはお世辞でもなんでもない。彼女は、元々エリスが雇った家政婦で、料理も洗濯も完璧だった。それが気に入って、いくつかの家を転々とする時、身の回りの世話をしてもらうようイワンが雇うことにした。エリスが反対するかと思ったが、彼女はイワンの提案を素直に受け入れた。そうしてイワンとソフィアが男女の関係になるのに長い時間は要しなかった。
「奥様の手料理より?」
ソフィーが小首を傾げる。
イワンは、身体の中心が熱くなるのを感じた。彼女への愛情を感じたのとは逆に、ひとつの疑惑に思い至った。……エリスは好きな男ができて、自分を遠ざけようとしているのではないか? それでソフィアをあてがってきたのかもしれない。
「エリスは家事が苦手なのだよ。それでソフィーを雇った。君は、彼女とどこで知り合ったのかな?」
雇う前、ソフィーの経歴を秘密警察に調べさせた。彼女の実家は貧しく、大学に進学できないのでレストランで働き、そこで様々な調理を学んだ。親族に反政府主義者はおらず、諸外国の政治家や諜報機関との関係もなかった。彼女自身に問題がないのは明らかだったが、エリスとどうやって知り合ったのか、そこまでは調査されていなかった。
「あらやだ。もう忘れてしまったの。私、お嬢様とSNSで知り合って、それで奥様に紹介いただいたのです」
ソフィアが小首を傾けて微笑む。
「ああ、そうだったな……」
どっちの娘だ?……イワンは2人の娘、アナとエルサを思い浮かべた。容姿容貌はともかく、愛おしい娘たちだ。
いやいや問題はエリスの不倫のことだ。……イワンは思い返す。自分の不倫は赦せても、妻のそれは赦せなかった。大統領としても、ひとりの男としても。
ユーリイに調べさせ、その男を殺してしまおう。……一度はそんな風に考えたが、すぐに改めた。……彼に浮気調査のような小さな仕事はさせられない。が、身内の恥を他の誰に任せられるというのだ……。
「イワン、どうしたの? 私の話はつまらない?」
「あぁ、すまない。新たな軍事作戦を思いついたのだ」
「私と一緒の時ぐらい、戦争のことは忘れてくださいね。戦争は軍人さんに任せておけばいいじゃありませんか」
イワンは、やれやれ、と思った。彼女はまだ子供だ。自分がいろいろ教えてやらなければならない、とも。
「大統領の私が、国防軍の最高指揮官なのだよ。それに戦争はしていないのだ。軍が行っているのは平和維持のための軍事作戦だ。言葉には気をつけてほしい」
「あら、戦争も軍事作戦も同じではないの? 敵の国に攻め込んでいるのですもの」
「政治の世界にとって言葉は重いものなのだよ。戦争のための侵攻は国際法で禁じられているが、軍事作戦は禁じられていない」
「世界は内実より形式を重んじるということね」
「そういうことだ。私の身近にいる者として、ソフィアも表現には気をつけてほしいものだな」
「わかりました。気をつけます」
彼女がセクシーな唇の両端を持ち上げた。
本当に理解しているのか?……そんな風に感じたのは一瞬だった。イワンは席を立つと彼女の背後に立ち、顎を持ち上げてキスをした。甘いワインの香りがした。
「ベッドへ行こう」
彼女の身体は取れたてのニジマスのようにピチピチと跳ねた。
若さは素晴らしい。……ソフィアの寝息を聞きながらそんなことを考えた。透き通るような弾力のある肌、焼き立てのスポンジケーキのような柔らかな筋肉、ほとばしる汗と滲み出す愛液……。それらの影響を受けて、自分の内部から生命エネルギーがふつふつと湧き上がるのを感じる。そして年老いた自分の命が燃え尽きても、彼女の中に自分の分身が生れるかもしれない。その命は尊い……。
「愛しているよ」
彼女の耳元でささやいた。彼女は何の反応も示さないが、それで満足だった。
世間では不倫や心移りを蔑むが、私には世間の尺度など当てはまらない。何故なら、私はかつて世界を恐怖で震撼させた大フチン帝国の皇帝に匹敵する大統領なのだから……。愛人など、百人でも千人でも愛してやろう。
「さすがに千人は身が持たないか……」
苦笑した脳裏に浮かんだのはエリスの不倫疑惑だった。
「私のメンツをつぶすつもりか……」
いら立ちが渦を巻く。
「ソフィア……」
彼女の身体をまさぐる。自分の生を確認するように……。
「ン、ンン……」
彼女は身体をよじり、眠ったままそれを開いてイワンの憤りを受け入れた。
翌日、イワンは自宅に帰った。予定にない行動だ。それで間男と鉢合わせしたら面白いと考えていた。その時は、その男を去勢して妻もろとも強制収容所に放り込んでやろう……。
いやいや、と思い直す。そんなことが国民にばれたら、度量の小さな男だと馬鹿にされるだろう。ユーリイの反発も恐ろしい。男だけを始末し、エリスだけは見て見ぬふりをすべきか……。この際、ユーリイも……。いやいや……。そんなことを考えているうちに大統領専用車は邸宅に着いた。
実際、そこにいたのはエリスと家政婦だけだった。
「あら、イワン、どうしたの?」
彼女は驚きを隠さなかった。
「エリスの顔を見るためにきた。まずかったかな?」
ハグしてキスを交わす。彼女の態度から、家に不倫相手がいないことはわかった。
「どういう風の吹き回し? 私のことを心配するなんて」
「私はいつも君のことを気に掛けているさ。最近、ユーリイと会ったか?」
リビングに足を運び、ぐるりと見回す。前に来たのは半月も前だったが、その時とインテリアや家具の配置は変わっていなかった。ソファーに腰をおろし、庭の水のないプールに眼をやった。底は見えないが、枯葉を溜めているだろう。
「兄と?……いいえ。それが何か?」
エリスが正面に座った。
「ユーリイは軍事行動のことを気にしているようだった。エリスにも何か言ってきたのではないかと思ってね」
短い夏にしか水を張らないプール……。欲しいと言ったのはエリスだったか、子供たちだったか、あるいは自分だったろうか?……まったく思い出せなかった。間男がいたらそこに沈めてはどうだろう。妄想する自分に呆れた。
「確かに兄なら、ユウケイへの侵攻は面白くないでしょうね」
エリスが妖しい笑みを浮かべる。
「攻めたわけじゃない。君の望み通り、歴史を正している。すべて神の望むままだ」
「故郷ミールを愛しているとは言ったけど、人を殺してほしいと言ったつもりはないわ。自分の欲望を、私の責任にしないでほしいわね。イワン、あなた世界中からどう思われているか、知らないわけではないでしょ?」
彼女の前ではイワンもただの男だった。とても議論では敵わない。
「全て君のためだ」
そう言って、己を鼓舞した。
エリスが鼻で笑う。
「そこまで言うのなら、最後までやり遂げなさいよ」
「もちろん。私が勝つか、地球が滅びるか……、楽しみにしていろ」
そう吐き捨てて地下の書斎に入った。
壁の一面は大フチン帝国から現在に至るまでの歴史書と資料が並び、別の壁面には世界地図があって、フチン軍の軍事行動の目標が記されていた。それはユウケイ民主国を越え遥か、大海の先、ライス民主共和国へと……。
反対側の壁面には電子機器と巨大なモニターがあって、大統領執務室と同じ機能を有していた。いざとなれば、ここから軍に指示を出すことができる。もちろん核ミサイルを発射することも……。
テレビをつけた後、パソコンを操作して防犯カメラの記録を確認した。1時間で2日分、3時間で6日分ほど確認したが、間男がエリスのもとを訪ねてきたことはなかった。
「思い過ごしだったか……」
予想が外れていたことに安堵し、同時に、少し残念に思った。
テレビニュースに目をやる。金髪のアナウンサーが、フチン軍が圧政に苦しむユウケイ国民の開放に全力を尽くしていると報じていた。
テレビのチャンネルを変えても、放送局はどれも似たようなニュースを繰り返し流していた。世界ウインタースポーツ大会が東亜大公国で開かれることや地球の急激な気候変動、太平洋で大規模な海底火山の爆発があったことなどだ。それらの合間にフチン軍とユウケイ軍がぶつかった場面や、世界経済が後退していて多国籍企業が国内から撤退する兆候が見られる、といったニュースが流れた。
インタビューを受けた国民は一様に、イワンを支持している、その手腕に期待している、といったコメントを述べた。
放送局が政府の方針に従って事実を隠ぺいしていることに満足を覚える。同時に何も知らない国民を笑った。
「愚民どもが……」イワンは舌打ちし、決意を述べる。「……もう少し待っていろ。私が、豊かにしてやる」
そのためにはフチン共和国の版図を拡大することが重要だった。属国が増えれば、安い労働力と安価な資源が手に入る。ヒエラルキーの底辺が拡大するほど、上部構造にあたるフチン共和国が利益を収奪できるという理屈だ。それを帝国主義的だと批判する者もいるが、イワンは気にかけなかった。
「これが資本主義だよ」
かつて共産主義革命を検討したイワンは口元を歪めた。第二次世界大戦によって世界中にはびこっていた帝国主義が滅び、地図上から植民地が消えても、先進国が発展途上国の安い労働力の上で繁栄している構造は変わっていない。ヒエラルキーの頂点に近いほど競争は有利で富が集中するのだ。
「そうだ。これが資本主義なのだ……」
イワンは繰り返した。自分がやっていることは、企業が成長と繁栄のためにやっていることと同じ、……つまり、世界の普遍的なシステムだ、という確信がある。
予想外だったのは、フチン軍が、理解していたほど強くなかったことだった。20分の1以下の戦力というユウケイ軍の抵抗にあって、進軍が遅れているのだから……。
「私に核の発射ボタンを押させるな!」
イワンは叫び、机の上のペーパーナイフを取って投げた。それは世界地図の中央、アフリカ大陸に突き立った。
「待てよ……」
フチン軍が予想外に弱かったのとは真逆に、エリスは予想外に賢いのかもしれないと思った。親衛隊が監視する自宅に間男を連れ込むことなどないのかもしれない。あるいは、出入りの植木屋やクリーニング店の店員の中に不倫相手がいるのかも知れない。それどころか、親衛隊の中の誰かが相手ではないか?
膨らむ疑惑の解消策を真剣に考えたが、突然、自分がしていることのバカバカしさに気づいて考えるのをやめた。エリスが不倫していようといまいと、自分がその気になれば、命を取るのも収容所に送るのも、自分の胸三寸なのだ。不倫の証拠を探す必要性がどこにある。
地下の書斎を出ると、邸宅の周囲を警備する親衛隊員の顔をひとつひとつ確認してから大統領専用車に乗り込んだ。運転手や秘書官の顔までがエリスの不倫相手に見える。
「君たちに、私はどう見える?」
尋ねると、彼らは表情を強ばらせ、唇をあわあわさせるだけでろくな回答ができなかった。そんな彼らに呆れ、シートに身体を預けて目を閉じた。
グリム宮殿に戻り、予定されていた西部同盟諸国首脳らとの電話会談を、外務大臣と国防大臣同席の上で実施した。会談は1カ国おおよそ30分ずつ、4カ国。述べ2時間を超えた。
まとめて話せば1時間ほどで済むものを、1カ国ずつ対応するのには理由がある。それぞれの国と首脳によって利害が異なるからだ。別々に交渉することで相手の協同を阻止し、夫々の弱点を突くこともできる。
彼らの目的は停戦とフチン軍の撤退と分かりきっているから、その対応は単純だった。ある国には天然ガスや石油の輸出を停止すると恫喝し、別の国の首脳にはフチン国内に隠し持っている彼の資産を公開すると脅かし、別の国には貴国にもフチン人が多数住んでいる、と侵攻の可能性を示唆して良く回る口に釘を刺す。
いずれにしても、停戦要求を断固拒否し、追加の経済制裁やユウケイ民主国への武器供与に対しては核兵器による対応をちらつかせて牽制した。いずれ打つ手を失った彼らは、ユウケイ民主国を見殺しにするだろう。
「大統領、本当に核兵器を使用されるおつもりですか?」
通話終了後、外務大臣のアンドレが訊いた。
「君はどう思うね。ミカエル君?」
話を振られたミカエルは表情を強ばらせた。
「我がフチン共和国は西武同盟諸国の横やりで揺れ動くような軟な国ではありません……」
言葉を並べる彼の瞳は、イワンの顔色をうかがっていた。どういった回答が独裁者の意向に沿うのか、脳がフル回転しているに違いなかった。
「……フチン軍としては、……大統領の命令さえあれば、核兵器を使用します。兵器は、使用の覚悟があってこそ兵器」
「よろしい。アンドレ君、そういうことだ」
イワンはミカエルの回答に満足してアンドレに眼をやった。
一瞬、彼の表情が曇った。が、すぐに従順なものに戻して口を開いた。
「大統領の意に沿うよう、外務省も動いてまいります」
「うむ。所詮、外交は力が背景にあってのものだ。そのために我が国は軍の近代化に努めてきた。おまけに我が国は、近代国家の血液ともいえるエネルギーをも牛耳っている。アンドレ君、自信を持て。強気で臨み、このチキンレースに勝利するのだ。大いなる力には大いなる責任がある。国民を、誰よりも私を失望させないでくれ」
そう述べて、アンドレを帰した。
「……で、ミカエル君、戦況はどうだ?」
イワンは20メートル先に座るミカエルに声をかけた。
「申し訳ありません」
彼が目を伏せ、イワンは失望する。
「またそれか……。ドミトリーの隠れ家は見つかっていないのか? やつはネットで居場所を明かしているのだぞ。わからないはずがあるまい」
「申し訳ありません。ネットの動画はリアルタイムではないようです」
つまらない言い訳に理性がカチンと鳴った。
「そんなことはわかっている。投稿された場所を分析すれば、彼の行動範囲、拠点は明確になるのではないか? そこを同時に急襲するなり、爆撃すればいいということだ」
「拠点のいくつかは判明しているのですが、何分、地底のシェルターですので……」
「ならば、あれを使え」
イワンは地底30メートルの構造物を破壊できる地中貫通ミサイルの使用を示唆した。
「あれは地下シェルターに避難している市民まで……」
「勝利と、敵国の愚民と、どちらが重要と考えているのだ?」
「それはもちろん……」
ミカエルが口をモゴモゴさせた。
「それさえできないのなら、官邸でも議事堂でもホテルでも、隠れていそうな場所や出入り口を空爆で徹底的に破壊しろ。街を平地にしてしまえ」
「それでは更に一般市民の被害が増えるでしょう……」彼はふと何かに思い至ったようで言い直す。「……市民の被害はともかく、世界の反発が強くなります。経済制裁が強化され、我が国のダメージが増大するかと……」
彼の瞳が泳いだ。
「君は軍人だ。経済のことは案じるな。世界の批判など、勝ってしまえばどうとでもなる。今は、生き残りをかけた軍事作戦の最中なのだ。すべては歴史が証明している。勝者が正義、同情や憐憫は己の身を滅ぼすということだ。それとも君は、東洋のブッダよろしく、その身を飢えた虎に与えるか? よく考えろ」
イワンは強い声で叱責した。
「ハッ」
ミカエルが立って最敬礼の姿勢を取る。
「核兵器の使用によって世界が非難するのは私だ。ミカエル君が案じる必要はない」
慰めるような穏やかな口調で話した。
「いえ、その時は自分も責任を取らせていただきます」
「うむ。それは良い心がけだ。しかし、私が世界を変えてやる。そうなれば責任など羽毛のようなものだ」
イワンは席を立った。
ミカエルには強がりを言ったものの、ユウケイ民主国の抵抗も世界各国の反発も想定をはるかに超え、暗雲のように頭上に広がっているように感じていた。その雲の中に潜むのが、核のような最終兵器なのか、神の鉄槌なのか、悪魔の微笑みなのか……。いずれにしても、異様な気配に迷いと不安を覚えた。
一度作戦の見直しを図らなければならないだろう。イワンは考えた。
「ヨシッ」
南部の保養地、ラコニアで疲れた身体を癒しながらそれをしようと決め、大統領秘書官とその娘、親衛隊40名だけを連れてトロイアを離れた。