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大統領の戦争  作者: 明日乃
23/30

ラプソディー・イン・ブルー  ⅱ

 年齢を重ねるごとに目覚めが早くなった。鏡に映る顔に残る疲労も深まった。ドレッサーに映る顔を見たエリスはため息をついた。


「どうしたの、ママ。朝からため息だなんて」


 隣に立つ娘の肌はむきたてのゆで卵のように張りがあって輝いていた。


「マリアは若くていいわね」


 口にしてからユーリイの言葉を思い出した。3日前、彼は突然、訪ねてきた。その時だ。


「エリス、若さを妬んではいけない。それは誰もが持っていたものだ。そして、誰もが失うものだ……」と彼は言った。


 そのしばらく後で、イワンの話になった。


「……イワンは老いた。問題は、それを素直に受け入れられず、死ぬまでに大フチン帝国を復興し、己の名前を歴史に刻みたいと望んでいることだ。この戦争、早めに止めなければいけないが……」


 懸念を示すユーリイにエリスは答えた。「イワンは、誰にも止められないわ。たとえ、兄さんにでも」と。


 鏡の中にマリアの笑顔があった。


「ママだって綺麗よ。大人の色気がある」


「そうかしら……」


 エリスは鏡の中の自分に眼をやった。そこには長く男性の愛から遠のいた顔がある。大人の色気があったところで、どんな意味があるだろう。


 化粧を終えると、ちょうどイワンがやって来た。いつものように親衛隊に守られ、ヨシフだけを連れている。イワンの背後に影のように立つ彼は、黒いカバンを手にして神妙な顔をしている。そんな彼に見向きもせず、マリアがとげのある口調で問いかけた。


「パパ、こんなに早くから何の用なの?」


 ついさっきまで機嫌の良かったマリアの顔が石のように強ばっていた。誰が見ても不機嫌だとわかるだろう。


「相変わらずだな」


 イワンが鼻で笑った。が、その様子はメディアを通して見られるようなふてぶてしいものではなく、娘に対する愛情が滲んでいた。


「マリア、お前は若くて美しい。気の強いところはエリス譲りかな……」目を細め、首を振った。「……私もお前ぐらいの頃に戻って人生をやり直してみたいと思うよ」


 マリアは返事をせず、彼をにらみつけた。


「そんな目で親を見るものではない。エリス、銃はどこにある?」


 彼がエリスに向いた。


「カップボードの引出しだけど、どうして?」


「これからは、肌身離さず持っておきなさい」


 自らカップボードまで歩いて拳銃を取り出すと、エリスの手のひらに載せた。マリアの冷めた視線がそれに向く。


 エリスが初めて拳銃を手にしたのは、イワンと共にライス民主共和国に住んだ時だった。当時、大フチン帝国とライス民主共和国は政治的な対立関係にあったため、イワンに護身用に持たせられた。試し撃ちも何度かしたが、実際に使うことはなかった。


 帰国してからは、祖国の治安の悪さに驚いたイワンが、やはり銃を用意した。フチン製の物だ。結局、それも引出しの中に放り込んだままで、試し撃ちさえしたことがない。時折取り出して磨き上げ、それを使うことのない幸せを思ったものだ。最近はその存在さえ忘れ、手入れも怠っていた。


 ところが、今はどうだ。……エリスは手のひらに載せられた冷たい金属の固まりに、ニュース映像同様の、イワンの政治体制の危機を重く感じていた。


「下で話そう」


 ひとこと発すると、イワンが背中を向けた。下というのは書斎のある地下フロアのことだ。そこの全域が核戦争を想定したシェルターになっている。エリスはポシェットに拳銃を入れて彼の後に従った。


 イワンを先頭にエレベーターに乗り込む。最後にヨシフが乗ってパネルを操作した。普段は表示されない地下の階数が表示され、彼がそれを押した。


 ――グォン――


 エレベーターがうなる。普段と異なる音に聞こえた。


「イワン、地下を使う事態になるということ?」


 エリスは、身が引き締まるのを感じた。


「可能性は常にある。大衆はそれから目をそらしているだけなのだ」


 イワンが応じた。それからはエレベーターが停まるまで誰も口を利かなかった。


 4人は3分ほどで地下フロアに立った。ヨシフは設備を点検してくると告げて機械室に向かい、エリスたちは窓のないリビングに入った。


「ここに来るのは3年ぶりだわ」


 窓の代わりにドアの多い部屋だった。寝室やキッチンに続くドアは開けたことがあるが、他のドアは開けたことがなかった。その先に何があるのかも知らない。


 リビングには革製のソファー、芸術作品のようなシャンデリア、巨大な液晶テレビ、ウイスキーやブランデーの並んだカップボード、靴が埋もれてしまいそうなふかふかのカーペット……、必要以上のものがそろっていたが、生活感がなく落ち着かなかった。


「今日からこのフロアに住みなさい。リビングにもキッチンにも、必要な物はすべてそろっている。《《万が一のこと》》があっても、食料も電力も1年以上もつだろう」


 イワンが言った。


 《《万が一のこと》》が核戦争だということは推測に難くない。


 彼が奥まったドアに向かう。見た目は他のドアと同じ木製だったが、鍵がかかっていた。おまけにそれが開くときのきしむ音は、そのドアが金属製だと証明していた。開いた隙間からひんやりした空気が流れ込んでくる。奥にあるのは真っ暗な空間だった。


「ここには〝再生の部屋〟だ……」


 再生の部屋?……エリスは古代のピラミッドを連想した。ならばそこにあるのは、ミイラなのか……。


「……1年後、地上に出る時に必要な物が揃えてある。覚えておきなさい」


 イワンが明かりをつけた。コンクリートの壁に囲まれた巨大な倉庫のような空間だった。中央にあるのはミイラの入ったひつぎではなく、鋼鉄製の装甲車だった。それが巨大な鋼鉄製のシャッターに向いている。


「シャッターの先に、地上に出るトンネルがある……」


 イワンが再生の部屋に足を踏み入れた。マリアはそれに続いたが、エリスはドアのところで2人を見守った。


「……外に出る際は、これらの武器を積んでいく」


 彼の声が反響する。


 2人が壁際に並んだ兵器の数々を見ていた。拳銃もあれば、ミサイルランチャーもある。


「マリアもこれを持っていなさい」


 イワンが棚から拳銃を取って彼女に手渡した。


「こんな物、使い方もわからないわ」


 反発するマリアの声がコンクリートの壁に跳ね返る。


「銃は安全装置を外して引き金を引くだけだ。難しいものではない。装甲車もミサイルもマニュアルをみればいい。家電やスマホと同じだ。動画サイトを探せば使い方を説明しているものも視られる」


「パパはスマホを使えないじゃない」


 彼女が皮肉を言った。


「使えないのではない。必要がないから持たないだけだ」


 イワンは相変わらず自信満々の口調で応じると、リビングに向きを変えた。


「……1日は時間がある。それまでは大切な物を運び込むのもいい。しかし、金銀、宝石の類は無意味だ。ましてや絵画や彫刻などといった芸術作品も……。明日には世界が変わるだろう。新しい世界で大切な物は、実利的なものだ。たとえば食料や水、そして武器だ。乗り物に燃料といったものも必要だ。まあ、そうした物は、ここには十分備わっている。安心しなさい。上に行く際は、銃を忘れるなよ」


「暴動でも起きているの?」


「トロイアの治安はいい。この家も親衛隊が守っているから安全だ。だが世の中は、何が起こるか誰にもわからない」


 親衛隊さえ信用していないようなイワンの口ぶりだった。エリスは、ニュースで視た暴動の映像を思い出した。


「核戦争が始まるの?」


 マリアが嚙みつくように尋ねた。


「ふむ……。その角度が高い。だから私たちはここにいる。今は、そうとしか言えないな」


 イワンがソファーに腰を下ろす。エリスはその正面に掛けた。


「突然、どうしてそんなことになってしまうの?……国営放送は昨日から、それまでと違ったことを言い出すし、イワンまで……。どういうことなのか、順を追って説明してください」


 エリスが問いただすと、イワンは迷惑そうな顔をした。


 普段のエリスなら、それで矛先を収めるところだが、今はできなかった。問題は核戦争なのだ。部屋の模様替えや旅行先を相談するのとはわけが違う。


「馬鹿な私にもわかるように、説明してください。イワン」


 催促すると、彼が重い口を開いた。


「一昨日まで国営放送が報じていたのは、あるべき世界だ。政府の規制に従っていた。多くのフチン国民は、そこで幸せを享受できた」


「今、報じられているのは?」


「現実だ。腐った人類の世紀末の世界だ。メディアまで政府の方針に反抗している」


「そこがわからないのよ。どうしてメディアが反抗しているの? どうして今が世紀末なの?」


 イワンの表情が深刻なものに変わっていた。


「メディアが政府の統制に従わないのは……、それはむしろエリスのほうが知っているのではないかな?」


「私が?……なにも知りませんよ」


 エリスはただ驚いた。


「そうか……」イワンがうなずき、話し始める。「……私は今、命をかけて失地回復に全力を費やしている。すべてフチン共和国とフチン人のためだ。成功すれば、フチンに豊穣ほうじょうの世紀がやってくる。今が分水嶺ぶんすいれいだ。誤った峰を越えれば、我々は大海の一滴と化す。ライス民主共和国と東亜大公国が世界を二分し、フチン人は祖国を失うだろう」


「大使館を辞めた時と同じなのね」


 エリスには、政治的なことはわからなくても、彼の気持ちだけは理解できるような気がした。


「そうだ。わかってくれ、エリス、マリア」


「私はわからないわ……」


 マリアが厳しい口調で言った。


「……大国の座を失うのが面白くないから一か八かの戦争を始めたということでしょ」


「マリア……」


 イワンが苦悩の表情を浮かべ首を振った。


「……諜報部の見立てでは、ドミトリーは政権を明け渡して国外逃亡するはずだった」


「それがユウケイ民主国を狙った理由?」


 マリアが迫った時、ヨシフが戻ってきて、設備に不具合がないことを報告した。


「そうか」


 イワンは応じ、彼女に向いた。


「議論している時間はない。私には仕事が残っているのだ」


 そう告げて立ち上がるそぶりを示した。


「核を使うのでしょ? そうしたら、人類は滅びるかもしれない。パパに人類を裁く権利なんてないわよ」


 マリアが食い下がる。


「もちろんそうさ。裁くのは神だ」


「パパって、そんなに信心深かった?」


 彼女は、呆れたように冷笑を浮かべる。


「歳をとったらマリアにもわかるさ」


「歳をとった私にもわからないわ」


 エリスが言うと、イワンの顔から表情が消えた。


「……イワンが戦争を始めたのは理解できる。勝つために核兵器を使いたいというのもわかる。でも、人類が滅びてもいいだなんて、傲慢にすぎるわ。そんなことをして、あなたの大好きなソフィアが死んでもいいというの?」


 エリスは、人生を共にしてきたイワンと死んでも構わないと思っていた。が、核兵器を使って美しい地球をミールのように破壊し、子供たちの未来を奪うのは許せなかった。ソフィアを持ち出したのは、精一杯の嫌味だ。


「ソフィアはシェルターにいるよ」


 イワンの返事は、エリスの気持ちが伝わらなかったことを示していた。


「パパは気にいった人間だけを生き残らせようとしているのね。でも、世界が核で焼き払われた後、パパの食べるパンは誰が焼くの? 牛は誰が育てるの?」


「それは生き残った人間だよ。マリアは人類が滅びるというが、自然の復元力を甘く見てはいけない。全面的な核戦争になったとしても、神はいくばくかの人間や動植物を地球上に残すだろう。それらの者たちによって、新たな世界が復活するだろう。その時まで私たちは生き残る……」


 イワンが十字を切った。


「……書斎で最後の仕事がある。」


 彼はそう言って立ち上がった。その背中に向かって「イカレテル」とマリアがつぶやいた。


 イワンが出て言った後、無機質なリビングに残されたエリスとマリアは放心状態だった。


 しばらくしてから、エリスはやっとの思いで口を利いた。


「困ったわね」


 そう言ったものの、何に困っているのか、エリス自身が言葉にできなかった。


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