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二章 スリヨータイ・トーナメント開催 5

 一週間が経った。

 

 スタジアムからは建設中のシートが剥がされ、その姿を露にしていた。

 五万人を超えた観客が、スタジアム内部の芝生の上に建てられたリングを囲んでいた。屋根は開放されていて、太陽が真っ白な床と二色のコーナーマットを照らす。

 

 青色のコーナーマットからリングへの道を辿っていくと、入場ゲートにサクチャイはいた。


「もうすぐだ。準備はいいか?」

「なぜ拙者がムエタイのセコンドなんてものに」


 サクチャイの脇には、バケツを持ったイチロウが立っていた。


「八百長の件でジムの連中には嫌われてな。説得して籍だけはなんとか置かせてもらったけど、サポートについてくれないそうだ」

「だからってこの手のことに経験なんてまったくない拙者がなぜ」

「恩返ししてくれるんだろう? 必要なことは教えたから、後は頼む」

 

 いまいち煮え切らないイチロウへ半ば強引にセコンドを押し付けた。

 

 サクチャイの名前が呼ばれたので、すぐにふたりはゲートを潜って入場する。

 

 小さな出迎えの拍手と大きなブーイングの間を突き進む。


 どうやら今回のトーナメントには実況と解説がいるらしく、専用の席から試合について話していた。


「どうも。実況のトゥンテンです」

「解説の元フライ級王者のクームーです。よろしくお願いします」


 自己紹介を終えると、ふたりは顔を突き合わせる。


「始まりましたね。ムエタイ無階級大会のスリヨータイ・トーナメント」

「はい。スリヨータイとは、あのナーイカノムトムの伝説で有名な戦争のことですね。おそらく戦場という場所では階級差がなかったため、この名前を付けたのでしょう」

「わたしたちタイ人なら誰でも知っている伝説ですね。クームーさん、申し訳ありませんがわたしは普段からムエタイをそんなに見る人間ではないのですが、サクチャイ選手はどのようなムエタイ選手なのでしょうか?」


 質問されると、解説は苦笑いした。


「彼については一戦しかしてないためデータがないのですよ」

「それだけで、現役チャンピオンも出場する強者ぞろいのこの大会に出場したのですか!?」

「はい。本来はこの大会に出るはずだったラジャダムナンのウェルター級チャンピオンであるピラットを打ち破ったため、ただの新人ではないのでしょうが、正確な実力は測りかねませんね。今のところ分かっているのは、彼が古式ムエタイの使い手ということですね」

「古式ムエタイ!? ほうほう」

「地方で未だ独自に受け継がれているものらしいです。彼のいたイーサーンとは別の地方では、嵐の拳(パフユッ)とも呼ばれているらしいです」

「嵐の拳……」

 

 盛り上げるため、選手それぞれにキャッチコピーを付けろと実況は運営から任命されていた。だがサクチャイだけは調べても情報がなかったため用意ができていなかった。

 

 解説の話を聞いて、閃いた実況はマイクを通して叫ぶ。


「サクチャイ・シリラック――嵐の拳使い(ナックパフユ)が、リングに登場します!」

 

 八百長騒ぎをろくに知らない観光客から、わずかな拍手がまた起きた。

 

 階段を上がる前に、サクチャイは立ち止まった。


「仏よ――」


 祈りを告げようとしたが、声が中断してしまった。


 神に祈ったところで何も意味はない。ギャンブルの失敗という体感した事実が教えてくれたことだ。


 しかし身に沁みついたものは簡単には剥がれてくれなかった。


「|仏よ、法よ、お坊さまよ、お守りください《プッタンラクサー・タンマンラクサー・サンカンラクサー》」

 

 気付けば、三回、拳を叩きつけるように手を合わせていた。

 

 頭を下げてから、階段を昇って、ロープの間からリングの内側へ入った。

 

 ワイクルーをしようとしたが、相手が来るまで音楽が鳴らないらしいので待つ。

 

 すぐに相手は訪れた。

 

 サクチャイと同年代らしき少年。女顔でさらに幼く見える。


「ラジャダムナン・スタジアムのライト級チャンピオン。ングー選手です!」


 ングーは年端に合わない堂々とした態度で、リングまでやってくる。それだけでこの少年がどれだけ場慣れしているのかが分かった。普通ならば萎縮してしまっている。


 ピーナチャイの音が鳴り始めた。


 ふたりともリングの上でワイクルーを舞う。


 ングーは一通りの動きを一度したら終わってコーナーマットで待機するが、サクチャイはそのまま踊り続ける。


 (メター)(カルナー)(ムティター)(ウベカー)

 四つの心それぞれを表す動きをする。

 

 白い床に足をべったり付ける。踏んだ時の感触、離れる時の感触と力具合を確かめる。たった六メートル四方でも一か所だけでは分からないため、広い範囲を歩き回って探っていく。ロープとコーナーについてもそれとなく調べておく。

  また同時に、眼で敵を観察する。


(身長は同じくらい。四肢の長さは平均。腹が少したるんでいるのは練習不足か? グローブは用意された新品。トランクスも新品だが慣らしているため、動きに支障をきさない。足の爪は短い。小顔で頭は狙いにくそうだが、胴は長くて当てやすそう)

 

 音楽がやむ目一杯まで観察を行うつもりだった。

 

 かつてナーイカノムトムも九人のビルマ戦士との戦いにおいて、こうしてワイクルーで周囲の環境と相手を把握していた。

 ただの儀式的な舞だけが、ワイクルーではなかった。


 ワイクルーの最中は余計な音を発して阻害してはいけないため、音楽の間はサクチャイが踊るだけの空間となっていた。


 やがてワイクルーが終わると、サクチャイは審判に呼ばれてルールと道具の確認をされる。


 ングーもするため、客を飽きさせないように解説と実況が試合の前振りをする。


「今日はングー選手を知らない海外のお客さんも多いため、よろしかったら彼の選手としての能力について教えてもらえないでしょうか?」

「はい、いいですよ。簡単に言えば、ングーは現代ムエタイを象徴する選手ですね。ムエタイの最新の技術を学び、それを最大限に活かす最新トレーニングによって体を鍛えています。サクチャイくんが学んだスア流ムエボーランがどれほど古いのかは分かりませんが、私の知るところでは最古の古式ムエタイになります」

「つまるところ最古VS最新の対極に位置する選手同士の試合ということですか?」

「そういうことになりますね。元ムエタイ家としては、最新に勝ってほしいところです」

 

 話している内に、ようやく試合前にすべきことが終わった。

 

 サクチャイとングーは、リングの中心から少しずれたところに立つ。

 

 間にいた審判がどくと、ゴングが叩かれた。

 

 音楽がまた奏でられる。ゆったりしたリズムで始まるワイクルーの時とは違って、闘争心を煽るかのような速いリズムが鳴っていく。

 

 互いに伸ばした拳を合わせると、どちらも後退して距離を取った。

 

 音楽に合わせて上下に動きながら、互いに円を描くように右に横移動する。


「開始しました。第一試合」


 言いながら、実況はあることに気が付く。


「おや、モンコンを取らないんですね?」

「はい。このトーナメントでは、モンコンの着用が義務付けられています。元々、でこは危険で攻撃をしないので特に大きな制限ではないでしょう。もちろん、相手の目に入ったりしたら反則を取られます」


 縄で作られた鉢巻きを、選手のふたりは頭に巻いていた。このルールはムエタイを文化として観光客にアピールするためだった。


 サクチャイからするとムエボーランでは当たり前に付けるものであったため、別に問題はない。


 試合前に観察した相手と正面を保ちながら、じっくり半周する。


 周りながら、ングーは順手と順足を組み合わせた攻撃をしてきた。


 ジャブと左ローキック。


 最初は距離感を把握する目的だったものが、相手の動きを止めるためのものへ変わっていく。


(たった一発でもう距離感を掴んだか。優秀だな)


 試合に出るにあたって、ムエタイの研究をしたサクチャイ。ビデオで見た選手は、誰しもが数発は虚空に打撃を放っていた。


 牽制のためでもあるのだろうが、サクチャイからしたら不用意で無駄な行動だった。


 サクチャイはングーが出した攻撃で、距離感を覚えた。ギリギリ当たるはずの打撃を、紙一重で避けていく。


 ジャブの連打に見せかけて、三発目でングーは踏み込む。左ストレートだ。


(刷り込ませたつもりだろうが、あまい)

 

 サクチャイは腕を絡ませるように、右ストレートでカウンターをする。サクチャイ側からはまだ一発も拳を放っていないため、ングーは射程も速さも理解していなかった。

 

 情報の差によって、当たるとサクチャイは確信した。


 ングーの左ストレートの軌道が事前に推定したものからずれた。


(クロスカウンターの形になった……違う! 拳側から逸れていく!)


 ングーの肩口から外へ左拳は伸びていく。顔面狙いではなかった。内側から腕ごと押されて、サクチャイの右ストレートは狙いを外した。


 そのままサクチャイの右腕を吹き飛ばすと思いきや、ングーの左腕は弧を描いで内へ戻ってきた。

 拳が手の平になって、サクチャイの肩を掴む。

 

 左ストレートは罠だった。来る技さえ分かっていれば、多少の情報のなさはどうとでもなる。

 

 腹に打ち込まれる膝蹴り。

 

 サクチャイが態勢を崩すと、ングーは反対側の肩も掴んだ。まるで死者にでも捕まえられたかのような悪寒を、サクチャイは感じた。

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