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二章 スリヨータイ・トーナメント開催 4

 

 翌日。

 朝五時に起きたサクチャイは、寝巻きにしていた運動用の服装のままランニングに出かけた。

 

 まだ人の少ないラーマ四世通りを走っていく。

 

 徐々に足の回転を速くしながら思考する。

 

 大会の出場選手になったことで、なんと昨日はガルーダ経営の高級ホテルに宿泊させてもらった。ホテルマンが荷物を運んでくれるうえにベッドメイクもしてくれて、十五階建ての屋上からは有名な寺のワットタートンとチャオプラヤー川が一望できる建物だ。

 そんなサクチャイが今まで足を踏み入れることのないと思っていた場所に、なんとトーナメント終了までは無料で泊まらせてもらえるそうだ。

 

 サクチャイとしては、一〇〇〇万さえ獲得できれば、もうバンコクに用はないのであってもなくても意味のない条件だった。

 

 トーナメントの開催は一週間後。対戦相手は直前で決まるらしい。

 

 それまでにサクチャイができることは、日々の鍛錬を絶やさないことだけだった。

 

 ラーマ通りを進むと、大きな柵で封鎖されていた横道を発見する。今は開いていて、サクチャイはそこへ入っていく。

 

 ここはベンチャキティ公園といって、ジョギングやサイクリングのコースがある場所だ。

 中央に大きな池があって、その周囲を迂回するように道が続いている。

 

 コースに従うサクチャイ。

 丁寧に整備されているため、他人とぶつかるなんて心配がなく走りやすい。

 

 さっき通り過ぎた看板には一周二キロメートル以上と書かれていたため、四週する予定だ。

 

 池の上を通り越してきた風が涼しい。

 まだ日が登りきってないのもあって、比較的、過ごしやすい気温だった。

 ブーゲンビリアの花壇を通り過ぎていく。

 鮮やかな色をしているのに無臭な花は、近くにあるアスファルトや煉瓦と同じものを感じさせた。

 

 ようやく一周が終わった。

 汗が全身から出始める。さらに加速して二週目に入る。

 

 スタート地点の辺りで、隣を走る人物が現れた。

 

 横目で覗くと、


おはよう(サワディー)


 挨拶されたので、サクチャイは挨拶を返す。


 男は微笑んでから、さらに声をかけてきた。


「どこから来たの?」

「エカマイ東バスターミナル近くのホテルです。名前は憶えていません」

「そうなのか。ぼくは家がこの公園のすぐ近くにあるんだ。実家はチエンマイの近くだけどね」

 

 男はサクチャイよりも、一回り、いや二回りほど大きい図体をしていた。パッと見だと成熟した顔つきのため年齢は三〇に近い印象を受けるが、よく見ると肌にハリがあって肉体にたるみがないためもっと若そうであった。

 目が合った他者を包み込むような、優しい瞳をしていた。

 

 サクチャイと同じような格好なのは、同じ目的でここに来たということなのだろう。隣を並走している。


「……」


 会話がなくなった。


 男が嫌いなわけでなかった。むしろ爽やかさを感じて、ほんの少しではあるが既に好感すら抱いていた。

 

 けれどサクチャイは元々、弁が立つほうではない。


 チャッマニーがいなくなった後は、山籠もりで祖父以外と話すなんてことはなかった。会話の繋ぎ方すらよく分からず、自分から話題を振るなんてこともできない。


 居心地の悪さを感じて、男から離れるためにサクチャイは速度を上げた。

 

 三歩ほど距離が開いた。

 

 するとなぜか男が追いかけ始めてきた。


 隣に戻ってきた男は得意げな顔を見せつける。

 どうやら競争しているつもりらしい。

 修業一筋だった自分が一般人に負けてたまるかと、サクチャイの心にも闘争心が湧いた。

 

 サクチャイはさらに速度を上昇させる。男も負けじと並んでくる。


 抜きつ抜かれつつのふたり。


 半周に差しかかった辺りで、男がコースから外れた。


 気付いたふたりは、それぞれその場に止まった。


 どちらも息を荒げながら会話する。


「こっちはルンピニー公園と繋がっている。来ないのか?」

「あまり環境を把握していない場所に、他人と一緒に行きたくない。これはおれの流儀だ。決して、あんたといるのが嫌だったわけじゃない」

「よかった。じゃあまた会おう」


 別れを告げると、男は空中歩道に走っていった。


 男を見届けると、サクチャイはランニングを再開した。


「速かったな……」


 強くなった心臓の鼓動が抑えきれない。全速力にも関わらず、あの男はついてきた。


 見知らぬ男の顔が、サクチャイの脳に刷り込まれた。

 走り続け、四週を終えた。朝食前の運動としては、これで充分だ。

 

 最後にウォームダウンするために、サクチャイは一周だけジョギングすることにした。

 

 池を眺めながら、ゆっくり足を進めていく。

 

 向こう側には近代的な高層ビルが並び立っている。アスファルトやガラス張りの外観は整った美しさがあるが、サクチャイからすると見慣れない風景のため、不自然さが際立って感動するということはなかった。

 

 水面を見下ろす。水で濁っている以外はほぼ同じ光景だったが、そちらはなぜかサクチャイは好きだった。

 

 水中に映るビル群を観賞しながらジョギングをしていると、ふと、別の()()が目に留まった。

 

 黄金のモニュメントが置かれた広場に、サクチャイは視線を置いた。

 

 モニュメントの先に、綺麗な女がいた。


「……」

 

 言葉を失うほど、綺麗だった。

 

 腰まで伸ばした黒髪に、身に纏っているシルクのワンピースよりも白い肌。細く長い手足は、まるで大理石の彫像のように繊細なまでに整っていた。

 

 鍛錬さえもすっぽりと頭から抜けてしまったサクチャイ。

 

 決して目を離さないようにしながら、女に近づいた。

 

 階段を下がっていると、女も気付いたのか振り返った。


「……」


 彼女の表情は、非常に怯えていた。


 でもサクチャイの顔を見かけると、恐怖が溶け、そこには純粋な驚きだけが残った。


「……()()()()()()


 女は、成長したチャッマニーだった。


「うそ……なんで……」

 

 狼狽するチャッマニー。

 

 サクチャイは手前まで近づくと、自分よりも背の低くなった彼女を見下ろした。


「……」


 お互いの声が届く距離になったはずなのに、どちらからもすぐに声は出なかった。


 念願の出会いのはずなのにサクチャイが自分から話しかけられないのは、罪悪感があったからだ。


 二年前、自分が実力不足でなければあのまま助けられた、せっかく彼女の両親が、娘を救おうとした金を自分の一存でギャンブルなんかに費やしてしまった。


 それらの後悔が、こんなおれが声をかける資格なんてあるのかと自責の念になっている。


 いっそこのまま立ち去ろうかと思ったが、チャッマニーが困った顔をしつつも場を離れないところを見て、勇気を出して声をかけることにした。


「あのな」「あのね」

 

 声が被った。


 気まずい。

 そう思ったサクチャイだが、そんな平和な日常のようなことを感じられることをおかしく思って、口元をほころばせた。


 チャッマニーも同じことを考えていたらしく、微笑んでいる。


(ああ……本当にいい顔するな……)


 昔よりもさらに端正になった美貌。

 それがわずかに崩れることで放たれる色気は、まさしく妖艶と呼べるものだった。

 

 微笑みを崩さないまま、チャッマニーから話しかけてきた。


「久しぶり。早朝からこんなところでどうしたの?」

「朝飯前の鍛錬だよ。おまえこそ、こんなところで何を?」

「答えてもいいけど、笑わないでくれる?」

「面白かったら笑うかも」

「ほんとデリカシーない男ね」

「じゃあ笑わない」

「よろしい。じゃああたしも答える」


 チャッマニーは池へ視線を移した。


「ここを見てたの……いつもこの時間になると見にくるの」


 横顔を覗くと、とても寂しげであった。


 サクチャイも一緒に池を見る。


「おまえ、川とか好きだったものな」

「そう。水って見ていると落ち着くの。木も建物も下に伸びて、まるで潜れば目の前に別世界が現れるようで」

「はーん。そんな理由で、修行中もちょくちょく川に来てたのか」

「いやあれは……うん。それでいいかな」


 修行後に川で足を冷やしながらチャッマニーと一緒に飯を食べたのを、サクチャイは思い出した。


(だからおれも池を眺めていたのかもな)


 思案するサクチャイの隣で、チャッマニーは複雑な顔をしていた。


「なあ、ここに来てどうだった?」

「どういう意味?」

「二年間、幸せだったかどうか。もしかして、おまえこのままここにいたいんじゃないかって」


 今まで必死に助けたいと頑張ってきたが、それは自分の思い込みではないのかサクチャイは疑い始めた。


 今ここにいるチャッマニーは、怪我ひとつなく育っている。

 モンクットの傍にいればお金も好きに扱えるだろうし、村に帰って貧乏な暮らしをするよりは、案外、幸せなのかもしれない。


(チャッマニーが幸福なら、おれはそれでいい)


 心中でそう言うと、ズキンと痛みがなぜだか広がった。


 正面から向き合うため、サクチャイは体ごと横へ向けた。


 むにゅ


「え?」

 

 手が女の乳房を掴んでいた。

 小ぶりだが柔らかく、触れているだけで幸福に包まれる。

 

 幸せに浸ろうとする本能を拒否して、サクチャイは羞恥に塗れた表情で放そうとした。

 

 しかしチャッマニーは、サクチャイの手を抑えて逆に自分の乳房に押し付けてきた。



「――ねえサクチャイ。あたしの処女(ポリスット)を奪って」

 


 眼を潤ませ、彼女はそう言った。

 

 初めて見るチャッマニーへ動揺するサクチャイ。彼の前では、少女が女に豹変していた。


「なっなっなっ」

 

 なに言ってんだおまえ!?

 

 そう言いたいのに、馬鹿みたいに開いた大口から出る音は言葉にさえならなかった。


「あたしを犯して。あたしの全てを滅茶苦茶にして、あんたをあたしの体内に注ぎ込んで」

「だ、だからなんで」

「……そうだよね……あたしなんかじゃ、駄目だよね」


 いつまでもサクチャイの手が動かないのに気付くと、チャッマニーは手を放した。

 

 真っすぐ見据えた彼女の顔には、諦めと悲しみの感情があった

 

 サクチャイは手の平に残る感触に気を取られるも、チャッマニーが哀しんでいることに気が付くと、すぐに尋ねる。


「なにがあった?」

「あの男に――モンクットに、()()()()()()()()

「……」

「村から攫われたあの日から、ほぼ毎晩、あたしはモンクットの寝室に呼び出される。あたしの体で、あいつが触れてないところなんてない。でも処女だけは守り続けた……いいや、ちょっと違うかな。あたし自身でできることなんて、ここに来てからは何もなかった。正確には、あの男が最後の一線だけは踏み込まないでくれた」

「……」

「ひょっとして今、あいつの心ににも優しさがあると思った? 全然そんなんじゃないよ。あいつは下衆な欲望の塊さ。前にね、あたしよりも幼い女の子を同じように手籠めにしたんだけど、その子は体が弱くて病気がちだったのがさらに悪化しちゃって死んじゃったらしいの。だから体が成長するまで、あたしには手を出さないみたい。もう金をかけた道具を壊さないためだって」

 

 高級なエステや美容品によって、さらに美しさが増した魅惑の肉体。

 

 そんな自らの体を震えながらチャッマニーは抱きしめた。腕を強く握るが、丁寧に磨かれた爪は肌を切るなんてことはなく、ただ蠱惑的な赤い染みを残す。


「二か月後の今日の日付」

「……おまえの誕生日だな」

「覚えていてくれたんだ。嬉しい……その日にね、破るみたい。今まで発散できなかった欲望を丸ごとおまえにぶつけるだって。いったい、あたしの人生ってなんだろうね? あの女を自分の汚い欲望を発散する玩具にしか思ってない男に、好き勝手にされるために産まれてきたのかな?」


 チャッマニーは絶望に染まりきった虚ろな瞳で、尋ねてきた。


 そのまま一歩下がって、サクチャイから遠ざかる。


「駄目だよね。こんな汚い体と接触させて、サクチャイの綺麗な体を汚しちゃ。さっき言ったことは忘れて」

「――おれは、チャッマニーをモンクットから取り返しにここへ来た」

「え?」


 離れたはずのチャッマニーへ、サクチャイはにじり寄った。さっき隣にいた時よりも、さらに近くへ立った。


 さっきまでより首を下に曲げて話す。


「おれがバンコクに来たのは、ムエタイで稼いで、チャッマニーの両親の借金を返すためだ。一週間後にトーナメントがある。そこで優勝すれば、おまえをあいつの元から解放できる」

「……あたしなんかじゃなく、自分のために使いないよ」

「大金なんて、おれには必要ない。チャッマニーをこの不幸のどん底から救うために、おれはあの日から今までを生きてきた」


 心身共に限界以上が何度も訪れるほど辛い修行の日々だった。


 それが間違っていなかったことが分かったサクチャイは、再び、心の炎を灯す。


 チャッマニーは悲しそうに表情を歪ませる。


「じゃあ今すぐ抱いて」

「……それは本当に好きになった男としろ。無理に慌てて、俺とすることはない、なにおまえ以上の美人なんてこのバンコクにもそうはいなかったさ。きっといい人が見つかる」

「び、美人って……あっ」

「じゃあな。絶対にトーナメントで優勝してみせる」


 言いたいことを言いきったサクチャイは、満足して鍛錬に戻った。

 

 急いで離れていくサクチャイを、チャッマニーは切なげな表情で見つめていた。

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