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二章 スリヨータイ・トーナメント開催 3


 ソイカウボーイから離れ、別地区にある居酒屋までサクチャイたちは来ていた。

 

 花柄の安っぽいスツールに座りながら、テーブルに並べられたつまみを食べている。

 

 豚肉にもち米を混ぜて腸詰にし、それを発酵させたものを焼いたサイクロッイサーンを口に入れる。食べきったら、ピンクグアバのトロピカルジュースを飲んだ。

 

 さっぱりした甘味が、癖のある後味を洗い流す。


「呑まないのでござるか?」

「タイでは飲酒は二〇歳からだ」

「そういうところは、日本と同じなのでござるね」

 

 サクチャイの対面で食事しているのは、カジノで助けた日本人であるイチロウだ。

 

 七三分けで四角い眼鏡をかけている。ビジネススーツが似合いそうな見た目をしているが、ゆったりとした半袖のシャツとハーフパンツという格好を今はしている。


「先日、引退した野球選手と同じ名前だな」

「左様。けれど世界に名を轟かせている偉大な彼と比べられるのは、気が引けるでござる」

「持っているくせに、他人に借金を全て払わせるような意地汚いやつだものな」

 

 尖った語気で言うと、イチロウは満面の笑みになる。


「わははは。これでは足らなかったうえに、宿代や生活費まで取られたとなっては死んでしまうでござるからな」

「あそこで死んでいた可能性だってあったんだぞ?」

「はい。この恩については、たとえ何があっても報いさせてもらいます」


 両手を合わせて、カジノの店前と同様にまた深く頭を下げた。


 謝罪や感謝をする時だけは、真面目そうな風貌も相まって真摯な態度に見えてしまう。


 調子狂うな。


 今さら何を言ってももう終わってしまったことなので、サクチャイはいいかげん水に流して、奢られた料理を食べる。


 焼いたエビをレモングラスやミントのハーブで和えたプラ―クンを、フォークで刺す。


「なんでタイに来たんだっけ?」

「観光でござる。拙者、普段は日本でサラリーマンをしているのでござる。そこで貯めたお金と有給休暇を使って、色々と外国を回ることにしたのでござる」

「そしてその第一歩目のタイで、ギャンブルをして失敗したと」

「左様。拙者、美味い飯と女と賭け事には目がないのでござる」

「よくそれで貯金できたな?」

「最低限の貯金はせよというのが、母の言いつけでござる。なので日本にいる間はギリギリまともな生活をしていたのですが、異国の地でテンションアップしてしまって」


 イチロウは、カイチヤオというタイ式の油で揚げた卵焼きを箸で器用に口まで運んでいく。


「なるほどな。タイ語が上手いのは勉強したのか?」


 ゴクゴク……プハー


 シンハービールを一杯飲みほしてから、サクチャイの質問に答えた。


「確かに勉強はしましたが、しばらく前に通信講座で教わったくらいで、今でも勉強中の未熟な身でござるね」

「どおりで、ござるとか変な語尾がついてるわけだ。タイ語にそんな言葉はないぞ」

「いえ。これはタイの言葉でなく、我が故郷である日本の誇り高き言葉でござる」

「へー。じゃあ日本人はみんなそんな感じで喋るのか?」

「左様でござる」

「日本って変な国だな」

「そういえば話が変わるでござるけど、サクチャイ殿は新設中のスタジアムがなんだか知っているでござるか?」

「さあ。ただのあの大きさだとサッカーじゃないかな?」

 

 サクチャイとイチロウは、各々に食事をしながら会話を続ける。

 

 チリンチリン

 

 上半分にガラスが嵌った扉が開くと、客が来たという呼び鈴を鳴らす。

 

 もう深夜だ。

 こんな時間に営業している店もなければ、訪れる客も少なかった。店内にはサクチャイたちを除けば、カウンター席で呑んでいる年寄りがひとりだけいた。


 そのため、新しく入ってきた客の顔ははっきり見えた。


「あいつは……!」

「どうしたのでござる? 急にそんな怖い顔して」


 入店してきた客は、カウンターとテーブルの窮屈そうな狭い間を歩いてくる。


 サクチャイが座っているテーブルの横で立ち止まった。


「よう。久しぶり」

()()()()!」

 

 仁王立ちのまま見下ろしてきたのは、二年前にサクチャイが敗北を喫したあの男だった。

 

 以前と変わらない姿で、あの日と同じ猿柄のクルタを着ていた。


「お知り合いでござるか?」

 

 ふたりの因縁を露も知らないイチロウは、ほろ酔い状態で尋ねた。

 

 けれどその前でサクチャイとドゥアンは睨み合い、眼光同士がぶつかり合って火花を散らしていた。


「ふっ……相変わらずガキだな」


 先に視線を外して、冷笑するドゥアン。


「なんだと!?」

「そういうすぐ頭に血が登るところがだ。これだから猫科は頭をろくに使わなくて嫌いだ」


 馬鹿にした様子で言う。


 それを聞いたイチロウは、ビールの入ったコップを口から離した。


「サクチャイ殿はネコなのでござるか? それを知っているということは……そういう関係なのでござるね。このタチ殿とは」

「なに言ってるかよく分かんないけど、こいつの生まれた場所がリン()村で、おれの故郷がスア()村だからだと思うぞさっきのは」

「なるほど。サピエンスのほうござったか」

 

 勝手に納得するイチロウだった。

 

 酔っぱらいは放っておいて、ドゥアンのほうへ向き直すサクチャイ。


「なんであんたがここに?」

「うちのカジノに行っただろ。あそこでおまえを知ってるやつと出会ったはずだ。まああっちも思い出すのに時間かかったらしいから、分からなくてもしょうがねえが」


 どうやらカジノで会った黒スーツは、サクチャイを覚えていたそうだ。


「カジノじゃ相当溶かしたみたいだな。おまけに八百長扱いされて出場停止。これじゃ愛しのお嬢ちゃんを救えないな。無様にもほどがある」

「そういうあんたは馬鹿にしにきただけか。暇人かよ」

「いいや。そうでもない」


 ドゥアンは振り返ると、ひとりでいた年寄りに歩み寄った。


「あん? なんだあんた」

「これだけやるから今日はもう出ていけ」


 ばん、とカウンターに五万バーツを叩きつけた。


 年寄りは死んでいたはずの瞳を輝かせて、金を受け取るとすぐさま店から出ていった。

 

 居酒屋の店主たちにも同じ金額を渡す。


「いいか。あんたたちはこれから俺らが店内で話すことを、絶対に外で口にするな。もしばれたらガルーダがこの店ごと潰すと思え」


 ガルーダの名前を聞いて、心の底から怯える店主たち。彼らは関係すら持たないように、二階の居住部屋へ逃げていった。


 店内は、サクチャイとイチロウとドゥアンの三人だけとなった。


 他のテーブル席から椅子を持ってきて、ドゥアンは横に座る。


「あいつらは絶対に後で他人へ喋るだろうな。まあ期間的にはそこまで黙っていてほしい時間は長くないから、問題はない。喋ったらさっき渡した金を回収するだけだ」

「あっ、拙者のお酒」


 ドゥアンはシンハービールを瓶からそのまま飲む。瓶を空にすると、次の酒瓶に手を付けながらガイヤーンという骨付き鶏肉を手掴みして齧る。


「報酬ももらったんだぞ。わざわざ喋るわけないだろ」

「いいや。小銭欲しさでやつらは話す。俺からもらった金額よりも低くてもな。ここはそんな街だ」

「……」

 

 拒絶したいはずの言葉なのに、サクチャイにはそれができなかった。

 

 先日の試合での八百長騒ぎは、ギャンブルに負けた客たちからの私怨もあった。

 サクチャイが勝ったことで、絶対にチャンピオンが勝つだろうと賭けた大金がものの数十秒でかっさらわれていったのだ。

 しかも本来なら様子見するはずの一R目に決まったのが客側の心象としてよくなかった。怒り狂った客たちは、金を奪い返すため抗議をした。スタジアム側も毎日来るギャンブル客が大事なため、特に調査することもなくサクチャイの出場停止をルンピニー合わせて決断した。

 

 信頼や誇りよりも金。

 サクチャイからすると。確かにバンコクとはそういう都市だった。

 

 店内では、イチロウは年寄りが残していったつまみと酒をくすねてきた。


「それで、ここまでして人を退去させて、いったいなんの用だ?」

「説明したいところだが、まずは単刀直入に言わせてもらおう……優勝したら一〇〇〇万バーツの懸賞金のムエタイトーナメントが開催される。おまえもそれに出ろ」

「一〇〇〇万バーツって、三五〇〇万円(※一バール=約三.五円)でござるか!?」

「そうだ。タイの試合で短期間にここまでの大金を稼げるなんて歴史上でもないほどだ」

「一〇〇〇万って……」


 ちょうどチャッマニーを救える金額だ。


 あまりの動揺に二の句を告げなくなってしまったサクチャイへ、ドゥアンは説明する。


「今度、新設されるスタジアムを知っているか?」

「ええ。ニューペップリ通りで見たでござる」

「あそこはガルーダが、タイのスポーツ界隈に参入するため建てているものだ」


 話によると、新スタジアムは様々な競技を行う会場らしい、


「国内で一番人気のスポーツであるサッカー。そのプロリーグの新チームのホームにもするつもりだ。外国の名プレイヤーに名監督を集めて、結成一年目でリーグ優勝が確定なほどの戦力を集めた。これで国内の集客はかなり高まるはずだが、()()()()()()()()()()()()()()()。人口の半分近くをも訪れる観光客を集客できれば、より多くの金額が獲得できるから、社長はそっちも狙うことにした。しかも観光客はタイ人よりも金を持っているからな……ではここでクイズだ、タイで外国人に人気のスポーツってなんだろうな?」

「……ムエタイか」

「正解」

 

 ドゥアンはふざけた様子で、空いている指で丸を作った。


「タイの中ではただのギャンブルとしてしか見なされず、選手も競馬の馬同様の扱いをされているが……なんと世界では立ち技最強の格闘技と呼ばれ、またタイ独自の文化としても注目されている」

「いくら大金で豪勢な施設を造っても、文化としての価値なら、歴史的にも古くからやっているラジャダムナンやルンピニーには勝てないぞ」

「そんなもの今さら言われなくても分かっているさ……だから現存のスタジアムとは趣向を変える。ギャンブルではなく、エンターテイメント。客と胴元の金のやり取りがメインじゃない、選手同士が全力でムエタイの技術と肉体をしのぎ合うのを魅せる」

「魅せるか……くだらないな。技を無駄に人目に晒すのも、不必要な制限を課された戦いを本気で楽しむ観客も」

「じゃあやめるか出場? 一〇〇〇万がなければお嬢ちゃんは返ってこないぜ」


 それを聞いて、サクチャイはギリッと苦虫を嚙み潰したような表情になった。


 どんな粗末な茶番でも、受けるしか道はないのだ。おちょくるようなドゥアンの申し出も、素直に断るなんことはできない。


「いいや。出場はさせてもらう」

「頑張れよ。本来ならおまえが倒したチャンピオンに受けてもらう予定だったんだが、八百長騒ぎに負けでイメージだだ下がりだからな。おまえには、ヒールとして来てもらう。罵倒の嵐に突っ込むようなものだが、まあ愛しの彼女のためなら耐えられるだろ?」


 ドゥアンは肉を食い切って、手元には骨しかなくなっていた。

 口の中に放り込むと、ボキボキと歯で潰しながら飲み込んでいく。


「タイにはスワンナプーム国際空港とドンムアン空港があるが、スワンナプームのほうが観光客数は多い。だけどルンピニースタジアムがドンムアン空港の近くにあるのに、スワンナプームには何もない。だからバンコク内でも空港に近いニューペップリ通りに建てることで、ムエタイ目当ての観光客を全員奪う」

「バンコク直通の鉄道がある駅からも近いでござるしね」

「開催の言葉はタイを世界に発展させていこうという趣旨で、海外の選手も呼んで外国人VS(バーサス)タイ人という対立の形式を作り出す。そのうえでエンターテイメント性を重視して、ムエタイを見慣れない外国人でも普段からムエタイを観戦しない客でも楽しめるような作りにする。タイ国民も楽しめるようにしているのは国民に愛されてもいない文化は、観光客からしても嫌だからだ」

「文化で稼ぐのは、商魂たくましいというかなんというか」

金の亡者(バーホーファーン)って言うんだよ。こういう連中は」

「文化なんでどうでもいいからな、あの社長は。自分の欲望を満たすもの以外は、搾取するための家畜としか見ていない」

「おまえはどうなんだ?」

 

 まるで自分は違うとでもいう物言いだったので、サクチャイは訊いてみた。

 

 ドゥアンはなぜか自信満々に返す。


「俺もそうさ。いやもっと言うなら、俺以外の全てが金にしか見えない。この世全てが金稼ぎのための道具だ」

「ムエボーランもか?」

「そうだ」


 迷いない答えだった。

 

 サクチャイは聞いた後、唾でも吐き捨てるように言葉を呟く。


「やっぱりおまえとは相容れない」

「別に仲良しこよししたいわけじゃないから、好き勝手に嫌え。あと外人との対立と言ったが、別にどちらが勝ってもいい。八百長はないから、完全にフェアな状態で全力で戦い合え。真剣勝負こそがエンターテイメントであり、ムエボーランだ」

 

 それで言いたいことを言い切ったのか、店を去ろうとするドゥアン。

 

 ドアを開いて、出入り口の溝を跨いだ。


「――ちなみに、トーナメントには俺も出るからな」


 最後にそう言ってから、ドアを閉めた。


 その後、別のガルーダの社員に呼ばれて大会に関する正式な契約を行うことになった。

 必要な情報を書き込んだ書類が受理されたことで、サクチャイのスリヨータイ・トーナメントへの出場を決定した。


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