二章 スリヨータイ・トーナメント開催 1
青に赤に紫。
下品なほど濃い色をしたネオンの光に包まれた道を、薄着の男女が行き交っていた。タイ人だけではなく、彼らの中には外国人も紛れている。
ここはソイカウボーイ。バンコクの歓楽街だ。
屋台やバービアもあるが、通りの脇にある店のほとんどがゴーゴーバーやキャバクラだ。もはや下着同然といえるほど肌を晒した恰好のタイ人の男女が、外国人の異性を誘っている光景が多く見られる。
そんな道を、十六になった現在のサクチャイは女性からの呼び込みを断りながら進んでいた。
「あなた、ここじゃ見ない顔ね。お客さんでしょ? じゃあうちで遊んでいかない」
「悪いけど、あんたたちに用はない」
「もう照れちゃって。ほんと慣れてない若い子ってかわいいわね。気に入ったわ。お姉さんが直接、教えてあげるから来なさい」
「……断る。すまない」
恥部だけを隠した水着を着た女性に腕を絡ませて連れていかれそうになったので、スルっとすり抜けて、遠ざかっていく。
女性は少年がいきなり目の前から消えたことに慌てていた
呼び込みから逃れたサクチャイは、女性に再び見つけられないように移動する。
彼は、別にここへ遊びにきたわけでなかった。
(ジムからつまみ出されて、宿がないと途方に暮れて考えなしに歩いていたら、たまたまここに行きついてしまった)
渡された一万バーツを、クシャクシャになるまでポケットの中で握りしめる。
ラジャダムナンでのチャンピオンとの試合。あれが、八百長扱いにされてしまった。
もちろん八百長ではなかった。そもそもチャンピオンと面識もなければ、トラブルで突然の決定がされてしまった試合で八百長なんて仕掛けるなんてことは不可能だ。
しかし客はそうは思わなかった。
二階級上のチャンピオンが、今日初出場の新人に負けるはずがない。ましてや一RKOなんて有り得ないと判断してのことだった。そしてそれは客だけではなく、ジムのオーナーや控室の選手たちもがサクチャイへ疑いの目を向けた。
(なんでだよ? 相手より、おれのほうが強かっただけだろ。試合をちゃんと観戦してれば、そこははっきり分かるはずだ。本気で戦い合った結果だ)
得るはずだったファイトマネーも少なくされ、そのうえ八百長の疑いでしばらくムエタイの試合への出場が禁止されてしまった。ジム側も世間からそういう風に見られたくないと、疑いが晴れるまで姿を現すなと追い出されてしまった。
(バンコクに来てからの寝泊まりは、ずっとジムでしてたからな)
近くの安宿にでも泊まればよかったのだが、ショックでそんなことも思いつかなかった。
(八百長の濡れ衣。チャッマニーを返してもらうための金稼ぎの方法の消失……嫌なことが重なって。頭が混乱する。もう何も考えたくない)
サクチャイは無心でゴーゴーバーの呼び込みを断りながら、通りを立ち去ろうとする。
道の半分辺りまでくると、前にタイ人の男が腕を広げて壁のように立ちはだかった。
さすがに停止するサクチャイ。
男はサクチャイが動く前に、ささっと話しかけてきた。
「こんばんは。あなた、お客さんでしょ?」
外国人だけじゃなく、金を持った客と判断すれば同国人も誘ってくる。
彼らからすると、サクチャイは貯めた金で初めて夜遊びにきた田舎の少年に映るのだろう。
実際、一万バーツもあれば一晩くらいなら充分に遊べる。
(……もしくは勘がいいのか)
サクチャイは簡単に外れないように、リュックをきっちり背負い直した。
その前で、男は話し始める。
「ここらへんじゃ見ない顔? どこから来たの?」
「スア村。イーサーンでも田舎のほうだから、バンコクに住んでるあんたじゃ分からないだろ」
「わたしの故郷もイーサーンね。ここには出稼ぎにきたよ。お兄さん小さいけど、いい体してるね。もしかしてサッカー選手?」
「似たようなものかな……用がないなら、いいかげん通してくれないか?」
サクチャイが男の脇を通ろうとすると、急いで肩を抑えてきた。
「待って。実は、お兄さんが女の子の誘いを何件も断ってるの見たらピンときちゃってね」
「なにが?」
「ソイカウボーイに来る客のほとんどは、だいたいが女の子目当てさ。でも違うってことは……そういうことなんでしょ?」
「……まあ。そういうことだ」
男の会話内容が分かってないにも関わらず、サクチャイは頷いた。
この男が纏っている雰囲気は、かなり怪しい。今まで声をかけてきた女たちが比較にならないくらいだ。それは分かっている。
(けど今のおれは、無性にこいつから放たれる未知に惹かれている)
通りに漂うアルコールの匂いや性の饗宴が放つフェロモンにあてられたのかもしれない。
心に渦巻くむしゃくしゃを、なんでもいいから吹き飛ばしたかった。
サクチャイの態度を確認して、やっぱりと予感が当たったと反応する男。
「いいよ。じゃあこっち来て」
男に連れられて、サクチャイは横道に入る。
人ひとりがやっと通れるくらいの隙間を進んでいく。そこには直接の光はなく、後方にあるネオンサインによってわずかに照らされる。
前方がほとんど暗闇に包まれると、男は隣の建物のドアを開いた。
男に引き続いて、サクチャイも中に入る。
店内は、表と同じく濃い原色の光に包まれていた。肩や足を大きく露出した女が数人いる。
「ゴーゴーバーか……」
「手数料を払えば、好きに持ち帰ってもいいよ。いくらで出ていくかは、当人同士の交渉に任せるけど。それとも女性には興味ないタイプ?」
「……興味がないわけではないけど、女を金で買うことはしたくない」
「そっ。なら早く行こう」
サクチャイの返答をどうでもよさそうに流すと、男は店の奥まで移動する。
頑丈そうな扉の前に立つと、パスワードを打ち込んで電子ロックを解除した。扉の先には、地下へ続く階段があった。
そこを降りていくと、さっきまでのゴーゴーバーとは別空間が広がっていた。
ルーレット、カード、スロット。多くのタイ人が、チップを賭けてゲームをしていた。どこもかしこも白熱している。
なんと店の地下は、裏カジノだった。
「そういうことか……」
女でなければ金ということだ。
確かに求めているものがある場所だと、ここに来たことに納得するサクチャイ。
不思議そうに、隣にいる男は尋ねる。
「もしかして知らなかったのこういう場所って?」
「いや知ってたさ……なあ、ここってどれくらい出る?」
「……そうね。わたしの記憶だと、一日に三〇〇万稼いでいった人がいたよ」
「三〇〇万!?」
びっくりして、つい大声を出してしまうサクチャイ、それでも他の客たちは目の前のギャンブルに熱狂していて、気にすることもなかった。
「普通の所だとせいぜい一〇〇万が限界だけど、ここはバンコクでも大きめなところで、著名人たちも結構来てるよ。ほらあそこ、現在公開中の映画で主演の俳優さん」
男の指先には、三十代前半の髭が似合う美丈夫がいた。酔っているらしく、テレビでは映ったことないくらいだらしのない表情を晒している。
彼の出演している髭剃りのCMは、サクチャイも知っていた。
「いいのか? そんなこと教えて」
「いいのいいの……でも、ここでのことは外に漏らしちゃいけないよ。もし変なことしようとしたら、銃を持った怖い人も出てくるし、もし外でここについてばらしたら主催のガルーダが居場所を突き止めて処分されちゃうから」
「ガルーダか」
たった数日だがバンコクに住んで、ガルーダがどれほどタイに影響を及ぼしているか分かった。食品、生活用品、エンターテイメント、医療、福祉、その他も合わせてタイのありとあらゆるものにガルーダが直接または間接的に関わっていた。
調べたら、ガルーダという会社は先代がここまで大きくしたらしい。
そして先代の頃はまだ不満もなかったのだが、息子のモンクットが二代目を継ぐと評判が一気に悪くなった。曰く、全ての品や仕事の料金が安くなったが、商品のどれもが質が落ちて、仕事に至っては不手際が格段的に増えた。
当のモンクット自身は気にすることなく経営をせずに遊んでいるばかりか、マフィアと関わって麻薬の密売を行ったり、はたまた人身売買に手を出し始めたと噂になっている。どの業界も本当は関わりを断ちたいそうだが、懇意にしているマフィアの暴力や悪徳政治家の権力を恐れて、今でも関係を保っている。
(本当かどうか疑わしい話も混ざっていたが、チャッマニーのことやこことの関わりを見るかぎり概ね真実とみてようだな)
俳優が、周囲の人物たちと一緒に葉巻のようなものを吸い始めた。
大きく開いた口元から涎を垂らしている。
ガルーダは許されざる巨悪だが、なによりもまずチャッマニーを返してもらわねば。
「けど、その金を稼ぐ方法が失われてしまった」
他に聞こえないくらい小さな声でサクチャイは呟いた。
「おにいさん、賭けないの?」
「ギャンブルか」
悪い方法ではなかった。話を聞くかぎり、ここに何日か通いつめれば一〇〇〇万稼げる。
元手だって、充分にある。
(でも、このお金は)
悩むサクチャイ。
八百長疑惑が晴れて、謹慎が解けるまでいつかかるか分からない。
下手したら、返済期限の一年後までずっとこのままの可能性だってある。他の仕事で給料を得ようにも、タイの平均年収は約四〇万バーツで残りの借金にはとうてい及ばない。しかもこれは医者や飛行機パイロットなどの高収入が上げているだけで、今すぐサクチャイができる仕事となるともっと低くなる。
考えれば考えるほど、他に手はなかった。
サクチャイは決めた。
「やろう」
「分かった。お金はここではチップになるけど、どのくらい交換する?」
「現金じゃなくてもいいのか?」
「カード対応もしてるし、金や宝石みたいな高価なものだったら、鑑定士もいるから担保にしてひとまずお金を貸してもいいよ。他には銀行にツテもあるから、ここで預金から引き出すことも出来るよ」
「だったらこれを」
サクチャイはリュックから小切手を取り出した。
正式な銀行のものと確かめてから、男は額を見て仰天する。
「五〇〇万!?」
あの後、二年かけてチャッマニーの両親がかき集めたお金だった。
取引はバンコクのガルーダ本社であるため、ちょうどそこで出稼ぎをしようとしていたサクチャイに託されたのだ。
いや、実際はそんなわずかな面倒を避けるためではなく、彼を信頼してのことだった。
サクチャイ自身、それはよく分かっていたからこその躊躇だった。
(どのみちチャッマニーを取り戻さなければ意味なんてない)
エアコンのクーラーが効きすぎたのか、サクチャイは全身におぞましいほど寒気を感じた。
男はチップを持ってきた。
「言われた通り、百万バーツ分ね」
サクチャイは受け取ると、ちょうど席が空いたポックデンのテーブルに座った。
ディーラーと一緒にプレイする客に挨拶を交わす。
「いくら賭けます?」
「一〇〇万」
いきなりの大金のベットに、周囲はどよめく。
この無謀としか思えないサクチャイの強気には、実は理由があった。
仏教において、徳を積めば、それに応じて必ずや結果が返ってくる。善行を成せば幸運に恵まれ、悪行を成せば不幸に見舞われるということだ。
タイ人の価値観であり、たとえ知らなくても本能の根底にあるものであった。
サクチャイは今、その教えに則って行動している。
(悪党の手から、攫われた娘を救う。これが善でなくしてなにが善だ)
善をしている自分に、必ず幸運が訪れると信じている。
他の客はベットせずに。ノーゲームにしようとしていた。いくら他の裏カジノよりも高い金額が飛び交うとはいえ、さすがに躊躇する額だった。
「……ではわたしが」
「いいの?」
「初めてがノーゲームとなっては、お客様も興ざめでしょう。ではカードを配ります」
唯一、ディーラーだけが乗ってきた。同じ額をベットしてくる。
二枚のカードが配られる。この合計値が九に近いほうが勝つルールだ。
「もう一枚どうですか?」
「マイペンライ」
三枚目のカードを配るか尋ねるディーラー。サクチャイは断って、自分のカードを捲った。
「ポック九」
合計数字が九の最高の手札。
ディーラーはさらに引いても七だったため、サクチャイの勝利だ。一〇〇万バーツ分のチップが手に入った。
いきなりの幸運に喜ぶサクチャイ。周囲の客も、すごいと褒めそやしてきた。
「たはは。負けてしまいました」
「次もやるぞ。今度は二百万だ」
「すみませんお客様。他の方がゲームに参加できないので、もう少し下げてもらいないでしょうか?」
「そう言われてみればそうだ。気付けずに申し訳ない……よし、なら三〇万だ」
「それならわしは乗った」
「わたしも」
三〇万バーツが次々に賭けられる。ひとり勝ちすれば、総取りで一五〇万だ。
上昇した金額に興奮して、カードが配られるごとに自分の内にある熱狂の炎が高まっていくのをサクチャイは感じた。
「ほどほどにね」
そう言い残して、サクチャイをここまで連れてきた男が後ろから離れた。