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一章 古式ムエタイ使いサクチャイ 3


「おお! ドゥアン!」


 彼が現れると、モンクットは喜びだす。

 黒スーツは全員、武術の達人らしいが、どうやら青年はその中でも特別なようだった。


「……」

 

 再度、嫌な予感がサクチャイの背筋を這いずった。


「ドゥアン。おまえ今までどこに行っていたんだ!?」

「陰から覗いていた村人たちがいたので、始末しておきました」

祖父プー!」


 ドゥアンが来た方向には、サクチャイの祖父や村の男衆が地面に伏せる光景があった。

 

 僅かに小さくなっていた怒りの炎が、一気に燃え盛る。

 

 頭の内で唸る警報を無視して、サクチャイはドゥアンに不意打ちする。

 

 ジャンプして、膝を上から打ち下ろす。


足で顔を拭く(ブンホーッ)……か」

 

 かなり素早い速度で頭蓋を粉砕する打撃が近づいているはずなのに、じっと技を眺めるドゥアン。

 

 膝が届く寸前に、己も反対側に飛翔した。

 

 重なる影。

 

 ドゥアンとサクチャイは、まるで入れ替わるように自分たちが元いたところとは反対方向にそれぞれ着地する。

 

 なんともないように振り返るドゥアンに対して、サクチャイは右脇腹を抑える。


「サクチャイ! どうしたの!?」

「なんでもない……」


 ドゥアンを倒さなければ追われるため、モンクットのことはとりあえず無視して、ドゥアンへ集中する。


 態勢を整えると、また勢いよくよ跳ぶ。


「灯火を消す」


 ドゥアンは鏡合わせのように地面から浮くと、縦回転して蹴りを振り下ろす。


 サクチャイの蹴りよりもドゥアンのほうが速くキレもあったため、先に当たってそのま

ま空中から叩き落とされた。


「がはぁ」

「サクチャイ!」

「わははは。いい気味だ」

 

 呻くサクチャイを見て、モンクットは嘲笑する。

 

 吸い込んでしまった土煙を血に混ぜて吐き出しながら、サクチャイは立ち上がる。


(また同じ技……こいつ。まさか……)


 浮かび上がる最悪の考え。


 鉄錆の味がする口元。

 唇から滴り落ちる赤い液体を拭ってから、サクチャイは構える。


(それでも、おれにはこれ(ムエボーラン)しかない)


 前後に伸ばしていた両足を、ほぼ肩と並行に立たせる。

 両拳も並行に並べる。


蛇の巣穴(バーングー)か……足技が駄目なら、次は拳ということか。いいだろう。面白い」


 主に話しかける時とは違った口調になるドゥアン。


 また鏡合わせのように、同じ構えを取る。


 ジリジリと互いに近づく。


 ドゥアンの拳が届く紙一重ほど前の位置から、サクチャイは大きく踏み込んで自分の距離にした。

 足を前方に出すのと同時に、蛇の牙を放つ。


 首を捻って躱すドゥアン。

 引き戻されるサクチャイの拳と並走して、自分の拳を打った。

 

 お互いに変幻自在の蛇のような軌道の拳を打ち合う。

 

 攻防一対。拳で攻撃をしながら、腕で相手の拳を逸らす。また拳を相手の顔面ではなく手首に打ち込むような、反撃で攻撃を相殺させる動きをする。

 

 それぞれ対象に位置する巣穴から飛び出してきた蛇と蛇が絡み合う。


(……まずい! やつに持っていかれる!)


 形勢が不利になっていくことに勘付くサクチャイ。


 サクチャイの拳が普通の蛇なら、ドゥアンのそれは大蛇だ。


 蛇の細々とした群れが、大蛇の波に呑まれ、押し潰されていく。


 サクチャイは右の蛇の牙から、変形して肘を打つ。

 

 ドゥアンは畳んだ自らの肘で攻撃をかち上げると、螺旋回転の縦拳をサクチャイの顔面にぶつけた。

 

 めりこむ鼻。

 軋みをあげて、頬骨が砕ける。

 

 この時、脳内に電撃のようなものが走ったのをサクチャイは覚えている。

 

 痛みが、脳が感じる限界値を越えて、眼前が白い光に包まれる。

 

 倒れたサクチャイは、意識が朦朧とした状態でもう立てなかった。

 

 サクチャイ! ねえ起きてサクチャイ!

 自分の無事を願う声が聞こえるが、何も考えられなかった。


 その声も、救助を願うものへ変わる。


 最後に聞こえたのは、チャッマニーを返してほしければ一〇〇〇万バーツを返済しろという男の濁声だった。


 暗い海の底に沈む。


 自分から浮上することはできない。心地良ささえ感じる場所だった。


 やがて海面からこちらに近づいてくる。

 逃げようとしたが、下は砂で固まっていた。

 落ちてきたそれを口に含むと、苦くしょっぱい味がした。

 海面は体を潜り抜けて、太陽の元に自分を晒す。

 

 陽光は、マンゴーの中身のように橙色だった。


「……」

「どうやら起きたようだな。サクチャイ」

 

 サクチャイが目を覚ますと、空はもう夕方だった、黒雲は、遠ざかっていた。

 

 周囲には祖父とチャッマニーの両親がいた。

 

 涙とそれによって固まった砂が、サクチャイの顔に張り付いている。それを取らないまま、サクチャイはまず祖父へ尋ねた。


「……チャッマニーは?」

「連れていかれた」

「そうですか……そうだよな……」

 

 分かってはいた。あの時点で、村で戦えるものが自分ひとりだったから、負けたらチャッマニーが攫われるのは分かっていたことだった。


 それなのに負けた自分が歯がゆかった。

 あの一発を受けて、意識を保てなかった自分が憎かった。

 

 サクチャイは大粒の涙を流す。


ちくしょおおお(ジャーーーーイ)!」

「サクチャイくん。きみはよくがんばったよ」

「自分を責めないで。あの娘も、あなたが自分のためにあそこまで頑張ってくれたことにきっと満足しているわ」

 

 悔しがるサクチャイを、慰めてくれるチャッマニーの両親。

 

 隣に立つ祖父。


「わしもあの男に挑んで負けた。おまえを責める資格はない」

「あの男はいったい誰なのですか? ムエボーランの技を使っていました」

「リン流ムエボーラン……スア流から派生した流派じゃ。五年前、隣村から継承者が失踪したという話を聞いた。おそらくその失踪者こそが、あのドゥアンという男じゃ」


 ドゥアンはサクチャイとまったく同じ技を常に打ってきた。

 同じ技なのに向こうのほうが先に当たっていたのは、身体能力の差もあるが何よりも技の質で上回られていたからだ。


 サクチャイよりも洗練されて無駄がなく、力が乗っていて速かった。


 言い訳の余地のない完敗だった。


 おそらくあのまま戦い続けることができても、負けは決定していた。


 むしろあれ以上のダメージを受けて、下手をしたら死んでいたかもしれない。


(なに言い訳がましいこと考えているんだおれは……チャッマニーが攫われた。なら救うのが先決だろ。うだうだ後悔して自分を慰めている間にも、あいつは傷ついているのかもしれないんだぞ。そんなだから負けるんだよ臆病者!)


 サクチャイは自力で涙を引っ込めると、周囲に問いかける。


「ガルーダっていうのはどこですか? あいつらの根城でしょ? 乗り込んでチャッマニーを取り戻してくる」

「サクチャイくん。それはやめなさい。いくら君が強くても、ガルーダ本社でやつを襲うのは無理だ。モンクットは武器商売も取り扱っていて、会社には銃を持ったボディガードもたくさんいる」

「そうよ。あなたまで不幸な目に遭うことはないわ」

「なんですかその言葉!? 娘が奪われたのに、なんでもう諦めたつもりなんですか!?」


 自分を引き留めるチャッマニーの両親へ、サクチャイは問い詰める、


 父親のほうが、力なく首を左右へ振った。


「……サクチャイくん。モンクットには勝てないんだ。わたしら弱者は、やつに黙って従うしかない」

「そんな……」

「サクチャイ。わしからも、その方法はやめとけと言わせてもらおう」

「祖父までですか!?」


 祖父も一緒になって、モンクットの襲撃を取りやめるように言ってきた。


「この機会に教えておこう……ムエボーランがいくら強くても、この世には不可能なことのほうが多い。そしてそれは、昼におまえが答えを導けなかった問いにも通ずる」


 なんのためにムエボーランをするのか? 


 それとこれとがどうして繋がっているかも分からないサクチャイでは、やはりその答え

は不明だった。


 分からないまま、サクチャイは祖父へ言った。


「だったらこのまま悪を見逃すのですか!? 助けを求める弱者を見捨てるのですか!? チャッマニーが悲劇に陥っているにも関わらず、それを無視して今までのように無心でムエボーランの修業を成せとあなたは言っているのですか!?」


 サクチャイは祖父を怒鳴りつけるように叫んでいた。

 

 今まで自分を育ててくれた恩人でもあり、師匠として敬っていた祖父に対して、それは人生で初めてのことだった。


「――違う」


 サクチャイの言葉を、祖父は否定した。


「では、どうしろというのですか!?」

「方法を変えろということだ。おまえはムエボーランが強い。それは紛れもない真実じゃ。しかしどれだけ武に優れていようが凶弾の雨に敗北するのは、戦争から武術が消えて、現代兵器が跋扈している歴史が証明している……されど並みの人間より秀でたものがある人間には、必ずそれを輝かせる場がある。そしてその場所は、戦場ばかりでない」


 聞いている内に落ち着いたサクチャイは、祖父の言葉をよく考える。


 閃く。

 けれどその方法は、目の前の祖父に教えられた考えからは、反れるものだった。

 

 思いついた提案を、信じられないままサクチャイは言葉にする。


「ムエタイをしろということですか? 試合で見世物になって、稼げということですか?」

 

 祖父はそれを耳にすると、顔ではなく背中を見せる。


「流派以外の人間に、ムエボーランを無闇に見せてはならんとわしは教えておる。だから、当主としてのわしはそれを否定する――しかしおまえがスア流の現当主となれば、いくら元当主のわしとはいえ口が出せん。スア流をどうするも、全ておまえの自由じゃ」

「……スア流を潰してもいいと?」

「その覚悟が、おまえにあるのならば」

 

 チャッマニーを救うことは、代償に今まで祖父たちが継いできたスア流を滅亡させる。

 

 流派の技は、基本的には口外すら厳禁。かつては目にしたものは皆殺しにした時代もあったという。現在はそこまで厳しくはないが、それでも衆人環視の前で見せるのは憚られている。

 

 技術の公開は、スア流を学ぶ戦士の死を招く。

 

 幼少の頃からそのことを徹底的に叩き込まれたサクチャイ。

 

 そう言われると怖気づいてしまうものの、チャッマニーがモンクットに抑えられている時の顔を思い出す。


(泣いていた……俺の涙はもう止まった。けどあいつの涙はずっと流れ続けるはずだ。泣き疲れて意識を失っても、体内にある涙の源が一度枯れ果てても、あのままだと可能になったらまた泣きだしてしまう)

 

 チャッマニーの涙を止めるため、サクチャイは決意する。

 

 祖父の背中へ向けて、正座した。


「首都バンコクで、スア流ムエボーランを使わせてもらいます」

「ルンピニーとラジャダムナン。バンコクには、ムエタイの二大殿堂と呼ばれるスタジアムがある。ムエタイで稼ぐのならば、あそこが最適じゃな……」


 祖父は口では認めつつも、隠した顔では寂しさを見せた。


 彼自身、スア流が亡びること自体はさせたくなかった。

 けれどドゥアンに敗退したことによって、その汚名を返上できないことのほうがよほどスア流の名誉に傷を付けることになるため、見世物になることを促した。

 

 仕方ないことだと割り切ろうとすると、


「祖父は言いました、スア流を潰してもいいと……だけどおれは、スア流をこのまま継続させてみせます。後悔する技術は最小限。多数の目がある前で、奥義は絶対に使用しません。祖父から受け継いだスア流を絶対に滅ぼしたりはしません」

「……そうか」


 驚いてから微笑む。

 弟子であり孫であるサクチャイが成長したことに、大きく喜んだ。


(もうサクチャイは、わしの手から離れておる、何も心配することはあるまい。奥義さえ覚えてしまえば、もう立派な当主じゃ)

 

 崩れる口元を無理やりに尖らせてから、祖父はサクチャイへ振り向く。


「目指す場所は決まった。ならば傷ついた体を治療し、その後は奥義を伝授する」

「はい」

「バンコクにはガルーダの本社がある。あそこでムエタイをやっていれば、必ずやあのリン流の使い手が立ちはだかるはずじゃ。やつを倒すためにも、徹底的に鍛え直すぞ」

「はい!」


 場を離れる祖父に、サクチャイはついていく。


 水平線に浮かぶ夕日へ向かって、ふたりはいつまでも歩いていった。

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