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エピローグ


「あばよ」


 かつての仇敵へサクチャイはお別れを告げると、モンクットのところへ向かった。

 

「ひぃいいい! やめてくれ。こないでくれ!」

 

 さっきまでの戦いを見て、すっかりサクチャイに怯えているモンクット。

 

 札束を投げつけられながら近づく。


「なんで? なんで拾わないんだ貧乏人?」

「こんなもの、いらん」


 地面に落ちたバーツを踏みつけた。


 その様子を前にはモンクット顔を青ざめさせると、今度は逆に土下座してすがりついてきた。


「なんでも言うこと聞きますから、なんとかお命だけは!」

「なんでもか?」

「はい。お金でも薬でも会社でもなんでも渡しますから」

「……じゃあ。その女を返せ」

「うっ……ううう。今までで、一番のお気に入りだったのに」


 本気で嫌そうだったが、モンクットは泣く泣くチャッマニーを手放すことにした。


「サクチャイ!」

「チャッマニー!」


 抱きしめ合うふたり。


 サクチャイは壊さないように優しく、でももう離さないように強く抱きしめた。


 憎らし気に下唇を噛むモンクットだが、サクチャイが顔を向けた途端に媚びへつらった下賤な笑みになる。


「サクチャイさん。これでよろしかったでしょうか?」

「ああ。これ以上は、おれはもうなにもいらん」

「ありがとう……本当にありがとうサクチャイ……」


 チャッマニーは心の底から幸せそうにサクチャイの胸に顔をうずませて涙した。


「あたしね。ほんとはもう助からないと思ってた。だからせめてサクチャイが傷かないように毎日、神様にお祈りしてた」

「おれが最後まで倒れなかったのは、そのおかげかもな」

「ううん。サクチャイ自身の力だよ。だってサクチャイずっと頑張ってたもん。他の子たちと違って遊ぶことなんてせず、いつもいつも修行を頑張ってた」

「……チャッマニーは飽きもせずに、暇があれば見にきてたな」

「そりゃそうよ。だって好きな男の子が頑張ってるだもの。かっこよくないわけないじゃない」


 いつもどこかで自分のことをからかってくる美人の女の子。

 それはどうやら好意の裏返しだったようだ。


 気づいたサクチャイは、そのことを含めてより愛おしいと感じた。


「ごめんな。鈍感で」

「ほんとよ。あの別れる日、あたしあんたのことをデートに誘おうとしたの。ここに連れてこられても、ずっとあんたのこと考えてた。それであんたと再会して嬉しかったのに、誘いを断られちゃったし……女の子が自分からあそこまで言うなんて、恋してる相手だけに決まってるじゃない」

「悪い」

「ううん。こっちこそ……こんな汚くなった女の子でも愛してくれますか?」

「ああ。大好きだ」


 告白したサクチャイは顔を近づける。チャッマニーも応じて、二人は唇を合わせた。

 

 涙と血混じりの接吻は、しょっぱくて苦かった。

 一生の思い出になりそうな味だった。


 サクチャイはそのままチャッマニーを連れて帰ろうとする。


 ガチャッ


「……へへ。そうはいくかよ」

「まだやる気か」


 サクチャイが背中を見せた途端、モンクットが拳銃を構えた。


 一〇〇〇万バーツの入ったケースを握りしめながら、邪悪な笑みを浮かべる。


「悪いが、その女に買い取り手がついていてね。とある石油王が、妾に欲しいんだと」

「もうおれのものだ」

「あたしも、もう金で売り買いされるのはごめんだわ」

「黙ってろチャッマニー……なあサクチャイくん。その女が、どれだけ俺様に犯されたか知っているか?」

「……」

「挿入はしてねえけどよ。でも毎日、キスしたんだぜ? 白い柔らかいおっぱいを揉みしだき、舐めたんだぜ? その女の肌の全部に、俺様の唾液が染みわたっているんだよ。そこで提案だ。そんな中古品は騙して売り払っちまおうぜ。そうだおまえ、俺様のボディーガードになればいい。そうすればいくらでも色々な女を買い与えてやる。なんだったら新品をダースで用意してやるよ」

「……救えないな」

「あっ?」

 

 サクチャイはチャッマニーを突き放した。

 それからモンクットのほうへ一歩近づく。


「あっ……やっぱり……そうだよね……うん分かってた」

 

 気持ちを沈ませて暗くなるチャッマニー。

 

 サクチャイは彼女へ背中を見せながら言った。


「抱いたか抱いてないかがそんなに重要か!?」

「なにっ?」

「傷をつけられたかつけられてないかがそんな大事なら、ほら、おれなんて傷だらけだ! むしろこんなおれをよく顔も合せていなかったのに好きでい続けてくれたよチャッマニーは」

「そ、それとこれとは別」

「チャッマニー! おまえはどうだ!?」

「えっ、あのその」

「そんなに気になるなら、これからいくらだって抱いてやる――結婚しようチャッマニー! 今から死ぬまで同衾すればこの(サッ)にされた回数なんて余裕で上回るさ!」

「なにを!」


 目の前のモンクットのことなど眼中にないように、サクチャイはチャッマニーへ語りかける。


「答えは?」

「うん。あたし、サクチャイのお嫁さんになる。サクチャイと毎日ちゅーする! サクチャイの汗も唾液も染み渡るくらいセックスする!」

「こ、こんな状況でふざけやがって」

「てめえが言い出したことだろうが! 黒豚!」


 サクチャイは駆けた。

 

 モンクットの指は既に引き金にかかっている。この距離では、一発は覚悟しなければならなかった。


 心臓と頭部をガードする。

 先程までの死闘で体力は尽きたため、華麗に回避なんてことはもうできない。手をどちらか失うが、死にはしないため勝てた。


 ――だが、おそらくムエボーランは続けられなかった。


 運良くできるようになったとしても、後遺症が治療するまでは十年以上かかるだろう。


 そうなったらもう今回のトーナメントのような試合は二度とできなかった。


 ……それでもいい。


 元よりムエボーランは戦闘のための技術。実戦で使うとしても、一度や二度。現代では日の浴びる存在であるムエタイとは真逆に影の存在でしかない。


 一生分の戦いはもうした。

 

 これまでの人生と若さを全力に注ぎこんだ。


 あとはチャッマニーを救うという勝利さえ掴めば悔いはサクチャイになかった。

 

 悔いは――


「ぐっ」


 まだ弾は放たれてないのに、サクチャイの目が潤んだ。

 

 視界が滲んではいけないと、全てを忘れて突っこんだ。

 

 バァーン!


 空に響く銃声。

 銃口から、狼煙がゆらゆらとあがる。


 人の右手に、穴が開いていた。


「お、おまえ」

「いけ。すぐ次はくる」

「――」

 

 止まりかけた足を一気に全開速度までサクチャイは加速させる。


「うわ待て。待っ、うわああああ!」


 リロードの最中に、サクチャイはモンクットの顔面に膝蹴りをかました。


 一発で意識を失うモンクット。


 拳銃を回収すると、サクチャイは振り返った。


 視界に、二人が現れた。

 一人はチャッマニー、もう一人は――


「なぜおれを助けたドゥアン?」


 さっきまで倒れていたはずのドゥアンが、弾丸が埋め込まれた右手を抑えていた。

 

 殺し合っていた二人は、顔を見合わせる。

 

「さてね。おまえにやられたせいで、ふらついてたらああなったんだろ」

「それはすまん」

「真面目かおまえは……分からねえよ。自分でも分からないけど、サクチャイ、おまえが両手を犠牲にするのが分かったら気づけば割りこもうと走っていた」

「なんとなく分かるよ」

 

 絶対にないことだろうが、もしドゥアンがそうなっていたらサクチャイも同じような真似をしていた。

 

 サクチャイは笑いながら声をかけた。


「おれ、またドゥアンとムエボーランの試合がしたいもの」

馬鹿(バー)だなおまえは。本当に骨の髄までムエボーラン馬鹿(バー)

 初めて見せる表情。

 ドゥアンもまた子供のように笑っていた。


 昇っている太陽は、今日もまたタイを暑く照らす。


「なあ最後に聞いていいか?」

「なんだ? こっちも早く医者に行かなきゃならないんだが」

「ああそれなら、さっさと行け。なんだったら付き添うよ」

「いちいち本気に受け取りやがって……別に大丈夫だ。ここで時間を潰しているのが、一番の近道だ」

「?」

「ああもう質問したいならさっさとしろ。これっきりになるかもしれないんだから、聞きたいことは今の内に全部聞いとけ馬鹿」

「ふふっ」

「な、なんだよ?」

「いやおれって祖父からひとりで教わってんだけど、兄弟子ってのがいたらこんなんだったのかなって」


 のほほんとしたやり取りにサクチャイは微笑み、ドゥアンは恥ずかしがった。


「ドゥアン。あんたさ、やっぱりおれがチャッマニーを助けられるように手助けしてなかったか?」

「そんなわけないだろ。俺はおまえたちをこんな不幸のどん底に落としこんだ張本人だぜ?」

「いや少なくともそれは事実なんだけど、バンコクに来てからのあんたの行動はよく考えてみれば全ておれの救いになっていた」

「……」

「金が尽きていたら、トーナメントへの出場を誘致。クアーンの悪魔のイタズラも、自分の試合後のスピーチでおれに警告していた。プラヤーの試合に勝てたのだって奥義を練習できたからだ。そのおかげでさっきの奥義の撃ち合いだって、崩れないほど鍛えられていた」

「……」

「あっ、もしかしたらスリヨータイ・トーナメント自体あんたのアイディアじゃないか? だってモンクットにこんなの思いつけるほどムエタイが詳しいとは思えないし」

「ち、違っ」


 顔を真っ赤にして否定しようとしたドゥアン。


 その前に、屋上のドアが開いて人が流れこんできた。


「ICPOだ! 武器と麻薬の密造、人身売買の容疑者であるモンクットを確保しにきた!」

「ち、ちくしょー」

「サクチャイ殿ーご無事でござったかー?」

「イチロウ! 大丈夫だったのか!?」

「死にかけのところを、やっと到着した仲間に救ってもらったでござる」


 イチロウを含めたICPOの警官たちが、クラスウに手錠をかけながら屋上へ駆けこんできた。

 

 気絶したモンクットを発見すると、さっそく捕まえる。


 ドゥアンの前まで来ると、イチロウは敬礼する。


「情報提供感謝します! ドゥアン・リン殿! あなたのご協力で、犯人はこうして捕まりました!」

「そうかい。よかったな」

「つきましては感謝状と――」


 ドゥアンが伸ばした両腕に、イチロウは手錠をかけた。


「暴行容疑またモンクットの罪に加担した件で逮捕させていただきます」

「おう。ありがとよ」

「本当に減刑はよろしかったのですか?」

「全部受けるさ。これで全部終わらせる」

「分かりました。ですが怪我の治療だけは済むよう、至急、病院へ連れていきます」

「ドゥアン……」

「だから言っただろ。これっきりになるって」


 イチロウは深々とサクチャイへ頭を下げると、屋上から出ていく。


 抵抗せずに同行するドゥアン。

 彼は本当にモンクットがしでかした全てについて終わらせるつもりだった。自分さえも含めて、モンクットに加担した全員を罰させるつもりだった。


 彼のおかげで、サクチャイの救出劇は完全に成功した。


「ドゥアン!」


 立ち去る前に、目が合った。


 足を止めるイチロウ。

 急かされても動かずにいると、ドゥアンは諦めて口を開いた。


「サクチャイ、一つだけおまえの言葉で訂正したいことがある」

「なんだ?」

「最後の奥義の撃ち合い。あれについては、本気で勝つつもりだったぜ」

「知ってた」

「まあ実際に戦ったんだからそりゃそうだろうな」


 自嘲するように軽く笑うと、サクチャイは大声で言った。


「ドゥアン! またやろう!」

「――」

「あんたが何年刑務所にいようが、あんたの怪我がいつ治ろうがそれまで待ってる! 待ってるからさ! 今度は決勝で戦おう!」

「……馬鹿だな」

「そこが拙者の大好きなところでござる」

「おい。そろそろ行けエセ日本人」

「エセって。でも、これだけでいいのでござるか?」

「いいんだよ――」


 促されたイチロウは、ドゥアンを連れていく。

 彼らの背中に、未来への言葉はずっとかけられた。


 タイは、今日も暑かった。




 二十年後。


「さて第二十一回スリヨータイ・トーナメントの決勝です。本日のゲストは二人です」

「どうも。元ウェルター級チャンピオンのピラット・タンスリンクです」

「……後輩のングーです」

「てめえ、オレより現役の頃のベルト多いからって調子に乗ってるんじゃねえぞ! ちゃんと言え!」

「だってこの前言ったら、勝手に恨んできてボクが先輩にゴーゴーバー連れていかれた時のこと話したじゃないですか!」

「おまえの初恋だもんな。ブスなのにちょっとオッパイ見せられたら盛り上がっちゃって」

「もうやめてくださいよ」

「しかもそれでできちゃって結婚。今の嫁さんだもんな」

「やめてくださいよ!」


 熊落とし。

 解説者席で二人は首相撲を開始する。


「なにやってんだか。あのアホたち」

「そういうきみも。よくここに今日来れたね」


 客席で、プラヤーとングーが隣に立った。

 気づいた観客たちにひそひそと噂をたてられるが、気にせず会話する。


「来ちゃ悪いか?」

「いや。きみはもうムエタイを離れて、サッカーチームを経営しているからさ。恵まれない子供たちでもできるよう格安のお金で道具まで貸して」

「そういうあんたこそ、今じゃただの象の飼育員じゃないか。あのムエタイ史上最強のプラヤーが」

「元々、戦うことは苦手でね。象を育ててるほうが性分に合ってる」

「そのわりには途中までこのトーナメントに出場し続けたじゃないか」

「だって楽しいんだもの。きみたちとの試合」

「……一回は、おいらの勝ちだからな」

「ぼくは五回優勝したけどね」

「ムカつく。ここで一戦、交えてやろうか」

「おいおい。さっきまであの二人を馬鹿にしてたのに」

「おいらはいいんだよおいらは……あと、今日はあの時に見れなかったカードだ。そりゃ今が忙しい時期でも予定を開けてまで来るよ」

「だね」


 アナウンサーから伝えられる入場の声。

 クアーンもプラヤーも視線を、リングへ下ろした。


「じゃあ行ってくる」

「うん。待ってるね」


 七人の子供を傍に置きながらさらに赤子を抱える女性に見送られて、男は太陽の下へ足を踏み入れた。


 男の姿が見えると、会場は一斉に湧く。


「サクチャイ! サクチャイ!」

「うおぉおおおサクチャイ! 今日も優勝だ!」

「サムライ魂でござるよ!」

「応援団長と副団長やっぱりすごいな……まあ初トーナメントから応援しているらしいからそりゃ熱が入るか」

「サクチャイ・シリラック! 前回の第二十回の大会で四度目の王者となりましたが、今年こそ初連覇となるのか!?」


 三十六歳になったサクチャイは、リングに登っていく。

 

 この日のために、肉体は全盛期と同じ状態に戻している。


 そんな万全のサクチャイに挑むのは――


「ドゥアン・リン! 刑務所帰りの英雄が、強敵たちを打破して昇り詰めてきた!」


 あのドゥアンだった。

 刑期をこなした彼は、再びリングへ舞い戻ってきた。


 選手が揃ったことで、鳴り始める入場曲。


 ひそひそと若い客が観客席で話す。


「相変わらず長いなサクチャイのワイクルー」

「ばか。あれは儀式であると同時に、場所の状態を確認しているんだよ」

「でも他の選手たちはそんなに」

「おいあのドゥアンってやつ。まだ踊っているぞ。サクチャイと一緒だ」


 ざわざわと動揺する観客たち。

 

 サクチャイとクアーンは目で話す。


 どうやらだいぶ客層が入れ替わったようで。

 驚きだな。昔ならたぶん、おれがあんたみたいだって言われていた。

 しかしよく続いたものだなこのトーナメント。

 大会自体のウケはよかったから、他の会社が買い取って運営しているのさ。

 ガルーダは空中分解。モンクットは終身刑でもう出てこられない。

 あんたについては、イチロウが色々と世話したんだっけ?

 なにもするなって言ったのに、エセ日本人め。

 

 でもおかげで、こうしてまた立ち会えた。


 ピーナチャイの音がやむ。

 ワイクルーを終了させた二人は、リングの中央で向き直った。


「一勝一敗だ。今日勝って決着をつける」

「いいや。おれが勝って連覇だ」

上等(ラッサー)。体の調子はちゃんと整えてきただろうな。おっさん」

「そっちこそ」


 ゴングが鳴る直前、サクチャイとドゥアンは二十年越しに拳を突き合わせた。


「――マイペンライ」


 カンカンに照った太陽とじめじめしたタイの湿気の中、二人は白いキャンパスの上で踏みこんだ。


完結です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

いや実はですねこのエピローグについてはストックを一から書き直しというより、もっと短かったんでほとんど書き加えた部分です(遅れた言い訳です。すみませんでした)

それにしても一度は書きたかったムエタイ小説。こうして満足いくまで書けて、本当に生きててよかった。

作者としては、満足度については一番の作品です。ムエタイについて調べ、タイについても大使館から資料を送ってもらい(できればタイ本国に行きたかったけど)、これまでの経験から必死に想像して自分にできること全部やって書きました。

本当にエタらせずに完結までいけてよかった。何度、途中でくじけそうになったことか。でも読者様たちが増えてきたことが実感できたことで折れずに書ききれました。ありがとうございます。


それでは最後によければ今後のたや次回作のために、ご意見ご感想をお願いします。


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