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一章 古式ムエタイ使いサクチャイ 2

 

 サクチャイたちの目の前では、軍のように正確に統一された黒いスーツを着た男たちに、チャッマニーの父が玄関前で囲まれていた。

 

 見慣れない男たちの中で、ふたりだけ別の格好をしていた。

 

 ひとりは腹の出ただらしない体を緩い茶のジャケットとスラックスで包み、高級そうな金の腕時計を巻いている中年男。

 もうひとりは猿が一匹描かれた古びたクルタを纏った中背中肉の青年だ。

 

 中年男が前に出ると、黒スーツたちは邪魔にならないようにどく。


 チャッマニーの父の前に立つと、口を開いて金歯を見せた。


「よう。あんた」

「お、お久しぶりです。モンクットさん」


 モンクット・ヴァイナテーヤ。

 今やバーツあるところにモンクットありと言われ、タイのあらゆる産業を仕切っているとまで噂されている大企業ガルーダの社長だ。

 

 そんなモンクットが、なぜこんな辺鄙な村に来たのか?

 

 チャッマニーの父は唇を震わせながら、モンクットと会話をする。


「申し訳ありません、どうかあと一か月だけでも返済を待ってもらえませんか?」

「あんた。前もそんなこと言ったよな?」

「そうですけど……金融関係を回ってもまだ必要分のお金を集めきれなくて」

「はっ。そんなもの言い訳にすぎないよ」


 チャッマニーの父の願いを、鼻で笑って切り捨てるモンクット。

 

 へらへらとまるで面白いものでも見ているように言う。


「どうやらこの件はあんたには荷が重すぎたような。田舎者が身の程を知ったろう」

「なんだと……!」


 その言葉で顔を真っ赤にしたチャッマニーの父。


 ガシッ、と力任せにモンクットの胸ぐらを掴んだ。


「……本来の契約通りなら、もう充分に返せていたはずだろ! おまえが書き換えなんてしなければ、私たちが不当な借金なんて背負わなかったんだ!」

 

 近年、増加の一途を辿る外国人観光客。

 チャッマニーの父は彼らに向けての商売を考え、事業を始めた。元手に金融会社から多額の金を借りたが、無事に事業は成功して、投資に見合った分を儲けたはずだった。


 返済をするため、金融会社に行ったチャッマニーの父に提示されたのはなぜか想定以上に膨れ上がっていた借金の金額。

 

 契約書を確認したところ、項目がいくつも書き換えられていた。

 裁判もしようとしたが、自分の手元に書き換えされていなかった頃の控えという徹底的な証拠があるはずなのに、誰もが必ず負けるからと弁護を引き受けてくれていなかった。彼らの内のひとりが事情を教えてくれたところ、借金をした金融会社は、なんとあのガルーダの系列だった。

 モンクットは何人もの名弁護士を雇っているだけでなく、裁判所側にも賄賂を贈って丸め込んでいるため、どれだけ証拠があろうが裁判では絶対に負けてしまうそうだ。

 

 打つ手が無くなってしまったチャッマニーの父は事業を終わらせて、設備などを売却して借金を返すが、それでもさらに勝手に項目が書き換えられて借金は増えるばかりだった。


「わたしが、わたしたちがいったい何をしたというんだ!?」


 憤るあまり手が震えるチャッマニーの父。


 不思議と、ボディガードのはずの黒スーツたちは微動だにせず見守っていた。


 モンクットは相変わらずへらへらと笑い続ける。


「別に。貧乏人が破滅するのを見たかっただけさ。誰でもよかったよ」

「なんだと!?」

「色々と細工した割に、思ったよりもしぶとかった。ここ半年は楽しかったよ、真っ黒なゴキブリを弱らせていくみたいで」

「ゴキブリだと! きさま!」


 見下した物言いに、ついにキレたチャッマニーの父は殴りかかる。


 バチンッ


「ぐわっ」

「……」


 振り上げられたチャッマニーの父の手がはたき落された。

 

 集団から飛び出た黒スーツのひとりが、いつのまにか二本の金属棒を手にしている。

 

 チャッマニーの父はもう冷静でなくなっていて、邪魔をする黒スーツを排除しようと襲いかかる。すると金属棒は双方とも綺麗な半円を描いて、下半身と頭部へ連続して打ち込まれた。

 

 痙攣したままチャッマニーの父は地面へ倒れる。


「聞こえているか分からないが、クラスウはクラビクラボーン(タイ剣術)を習得している剣士だ。ここにいる黒服たちは全員、何かしらの武術の達人でね。殺意を感じたら、その通りさ」

「くそ……くそ……」

「おそらく骨が折れたろうけど、まあ正当防衛だし許してくれたまえ」

「お父さん」

「待てチャッマニー! よく分からないけど、今はまずい気がする!」

 

 父の負傷を前にして、駆け寄るチャッマニー。悪い予感がしたサクチャイは、彼女を止めようとするが遅かった。


 サクチャイが伸ばした手から遠ざかっていくチャッマニーは、父の傍に来て、心配の声をかける。


「お父さん。大丈夫!?」

 

 父のこめかみは赤くピンポン玉のように大きく腫れ、太腿からは血が垂れていた。右手首も折れている。

 

 父は、チャッマニーの存在に気付く。


「心配してくれてありがとう……でも今は来ちゃだめだ……早くどこかへ行きなさい」

「いいから。怪我を治しにもらいに、早くサクチャイのお爺ちゃんのところに行こう」

「……これは……おいきみ。顔を見せてくれないか?」

「離してよ! お父さんをこんな目に遭わせたクセにあたしに触らないで!」


 モンクットが、後ろからチャッマニーの肩を掴んだ。


 嫌悪感丸出しで振り払われる。


 自分の手を放されながらも。チャッマニーの顔を正面から捉えたモンクットは、まるで獲物を発見した獣のように唇を舌なめずりした。


 遠くでそれを見ていたサクチャイの心に、ふと怒りのような感情が芽生えた。


「きみ。名前はなんていうのかな?」

「誰があんたなんかに言うものですか。お父さんを連れていくのに邪魔なんだから、早くそこをどいて」

「気が強いな。そういうところもまたいい」

「はあっ?」

「おいそこのおやじ。この娘を寄越せば、おまえの借金をチャラにしてやってもいいぜ」


 驚愕の言葉を、モンクットは言い放った。


 下賤な欲望に満ちた瞳で、チャッマニーへ目線を送る。この時点で寄越せという意味を、その場にいる誰もが察した。


 父はチャッマニーを振りほどいて、怪我も厭わずその場に土下座した。


「どうかそれだけはお許しください。わたしをいくら傷つけてもいいです。なんなら命だってあげます。ですからどうか、娘だけには手を出さないでください」

「自分からもお願いです!」

「お母さんまで!」


 ずっと自宅の中から、様子を見ていた母親が飛び出してきた。


「なんでもします。心も体も先祖の誇りさえも捨てます。ですからどうかこの娘だけは」

「チャッマニーだけは見逃してください!」


 夫婦揃っての必死な申し出に、モンクットは満足気に何度も頷いた。


「感動的だな。そこまでお願いするなら、借金をチャラにしてこの娘を代わりにもらっていくというのはやめよう」

「ありがとうございます。では――」

「三年間待ってやる分の担保にする。それまでの間もらっていくぞ」


 チャッマニーを強引に腕で抑えるモンクット。


 奪わせまいと食らいつく夫婦だが、指示で動き出した黒スーツたちによって袋叩きにされてしまう。


「お父さん! お母さん!」

「おっと。彼らはせっかくの救われるチャンスを無下にした愚か者たちだ……じじいやばばあの腐った体なんていらないんだよ。そんなものどれだけ積まれようが、この瑞々しく美しい若い牝の代用品にはならない」

「放せ!」

「いたっ……この女。ペットには躾をしてやらんとな!」


 モンクットの腕を噛んだチャッマニー。


 ばしん、とビンタされる。

 白い肌に、赤黒い模様が浮かび上がった。


 涙ぐむチャッマニー。

 目の前で傷つけられる両親たちを助けようとするが、モンクットの腕の中でもがくことしかできずに、ただ見ているしかなかった。

 

 両親の頭へ、黒スーツが特殊警棒を振り下ろす。

 いくら軽い金属とはいえ、当たれば頭蓋骨を砕きかねない勢いだった。

 

 ゴツン

 

 鈍く重い音が、響いた。


「クラスウさん!?」

「はあ……はあ……」


 力が抜けて、沈む黒スーツ。

 彼の後方には、ハイキックを終えたサクチャイの姿があった。


「このガキが! よくもやりやがったな!」

「所詮、不意打ちしかできないガキだ。全員でかかれ!」


 黒スーツたちはサクチャイへ一斉に襲いかかる。


 サクチャイはその場から逃げる。


 味方がやられたことで血が登っている黒スーツたちは追う。


 リアカーの寸前までくると、サクチャイは大きく跳躍した。


(仕掛けはもうしてある)


 船を留める縄は、奇襲の前に緩めておいた。


 リアカーの持ち手に全体重をかけて着地する。てこの原理で起き上がった荷台から、数隻の船が飛び出した。


「うわぁああ!」


 ズガガガガ

 

 向かってきた船にぶつかって、そのまま潰される黒スーツたち。


 これで黒スーツ全員が戦闘不能の状態に陥った。

 

 サクチャイは、チャッマニーを取り押さえているモンクットのところへ歩いていく。


「な、なんだおまえは!? もしかしてこいつの男か!?」

「違う。ただの腐れ縁だ」

「そ、その程度でガルーダの社長であるこの俺様に逆らうのか!?」

「気付いたら動いてた。それだけだよ……あとガルーダとやらは。おれはよく知らん」

「な、なんだと!? もはや一企業を越えて、タイ全土を支配するガルーダを知らんだと!?」

「知らんものは知らん。さっさとチャッマニーを放せ」

「ぐおおお。嫌だ嫌だ。この娘はもう俺様のものだ。だれか!? だれかまだいないのか!?」

「――はい。ここに」


 サクチャイとモンクットの間に割って入ったのは、クルタの青年だった

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