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最終章 嵐の拳 5


(どうだ! 二年前とも三日前の時とも違うぞ!)


 心の中でガッツポーズするサクチャイ。二年間の修業が報われた瞬間だった。


 あれ?


 ドゥアンが小さく笑った気がした。


 動くドゥアン。

 サクチャイの右足を左手でキャッチすると、右肘を降ろした。


(ほくそ笑んでいただけかよ!)


 もらえば挟まれて骨が折られる。


 サクチャイは気を取り直して、左脚を浮かせる。こちらを掴んでいる左手を踏み台にして、延髄へ爪先蹴りを放った。


 ――鷹狩り(イアウラーサット)


 後ろから風を感じると、ドゥアンはサクチャイの右足から左手を外して屈んだ。さすが元は同じ流派。バンコクで披露するのが初めてでも既に知っているため避けられた。


 空振り。

 宙に浮いた状態になるサクチャイ。


 ドァウンは背中目掛けて上段前蹴りを打つ。


 ズシッ


 後頭部に、爪先が突き刺さった。

 ラピットパンチなどが有名だが、多くの格闘技で禁止されている後頭部への打撃。決まってしまえば、相手の意志までではなく、その後の人生まで奪いかねなないからだ。


「いつっ」


 サクチャイは手へのダメージに悲鳴を漏らす。事前に警戒して、後頭部だけ防御していたのだ。


 もらった衝撃を利用して、猫の木登りで地面に二本の足で立った。


 そのまま戦闘再開しようとしたところで、


「シャッ!」


 前蹴りが、サクチャイの顔面を襲った。ドゥアンはこの結果を予測していた。 


 弾かれてバランスを崩すサクチャイ。


(まずいっ!)


 試合ならスリップ判定が出されるが、これは実戦だ。


 ドゥアンは一切待たずに、転倒したサクチャイを思いっきり踏みつけた。


 ――象が足で踏む(チャークチークローン)

 

 動いたことで顔面すれすれで躱したサクチャイ。下はアスファルトだ。当たったら土の地面よりもまずい。

 

 安心していると、ドゥアンはまた踏みつけてきた。

 

 外しても連続して打ってくる。

 

 サクチャイは地面を転がって回避する。

 

 リングと違って、刈られただけでも地面に落下した部分が痛む。

 転がっていると目にも映らない微細な破片が当たる。

 

 サクチャイは自分があるべき場所に戻ってきたことを実感した。


(リングの上はとても輝しく素晴らしい場所だ)


 けれど、こここそがおれにとっては馴染んだ場所だ。


 気持ちが活き活きとし始めるのをサクチャイは感じた。


 ついに屋上の端まできた。これ以上、転がったら落ちる。

 

 ドァウンは躊躇なく踏みつける。

 

 サクチャイは躱さずに受けた。

 

 アスファルトに挟まれたことで衝撃は倍増する。


「くっ」

「ぐぅううう!」


 呻きをあげるサクチャイとドゥアン。しかもドゥアンのほうが苦悶の表情をしていた。


 ――蛇の捕食(ングーラップラターン)

 

 ぶつけられたはずのドゥアンの足を、踵ごと腕を回して掴んで、両足で膝の関節を極めていた。


 こういう時のためにスア流ムエボーランには立ち技だけじゃなく、寝技まであったのだ。

 

 ドァウンは逃げようとするが、右足を動かすごとにより深くまで関節は極まっていく。

 

 細胞が潰れ、靭帯が伸びて硬く脆くなっていく音が肌を通してサクチャイは聞こえてきた。

 

 サクチャイは自分が回復しきるまで、折るのを待つ。


「……しゃらくせえことしてんじぇねえ!」


 ドゥアンは左足を浮かせた。空中ての反転についていって、右足にさらに深くサクチャイの体が食い込む。


 上空でドァウンの左足が尖った。


 膝蹴りがサクチャイの顔面に落ちていった。


「ぐぶっ」


 外れるドゥアンの右脚。


 お互いに地面に寝転んだ形になった。


「ちっ」


 追撃を警戒したサクチャイだったが、ドゥアンは舌打ちしただけですぐに動かなかった。


 強引な技の解除の代償に、足に大きな負荷がかかったようだ。


 間ができたのを確信したふたりはひと呼吸の後、同時に立ち上がった。


(高い位置からの攻め……考えてることは一緒。ならそれが失敗したということは――)


 (ソーク)


 互いの鼻先が触れかねない密着状態での打撃。両者ともに、引くことなく攻めに入る。


 肘。肘。肘。膝。肘。膝。膝。肘。肘。肘。肘。肘。


 肉ではなく、尖らせた骨をぶつける。当たると肉が壊れ、掠れると皮膚が切れ、直撃すると骨か内臓が破壊される。相手の命まで奪いかねない一撃必殺を連打する。


 ――走る猪の鼻(ムーパーウィン)


 サクチャイもドゥアンも頭突きを繰り出した。


 額がかち合った状態になる。頭から出血し、相手の血が目元を伝って赤黒い涙となる。


「あぁああああああ!」


 叫ぶ。言葉にならない声を喉が張り裂けるほどまであげ、頭で相手を押す。


 狂獣の殺し合いだった。

 スポーツならばとっくの昔に無効試合になっていた。


 凄惨な光景に、モンクットもチャッマニーも青ざめている。


 どちらからともなく、目の前の敵の後頭部を掴んだ。


 首相撲だ。


 振り回し、膝をぶつける。いや膝だけじゃない。隙あらば肘も頭突きもする。固めた指で弱点を打ったりもした。


 だがこういう状態では有効とされている引っかきと噛みつきだけは、どちらもしなかった。


 なぜなら――


(ムエボーラン。おれ()たちが使っている技は例外なくムエボーランだ)


 サクチャイもドゥアンも、これまで鍛錬してきた全てをぶつけていた。


 サクチャイは、ふと、自分の中に勝利の心以外のなにかが芽生えていることに気付いた。だがそんなもの、勝利には不要なため探ることなく、ただひたすら己の身体に染みこませた技を状況に応じて放っていく。


 サクチャイが一発を出すと、次はドゥアンの番だった。


 ドゥアンがサクチャイを引き寄せようとした途端、血で手が滑った。


 隙が生まれた。


 サクチャイは足を頭上まで振り上げた。


 ――月虎


 奥義を始動する。

 意志どころか、命まで一瞬で奪いにきた。


 踵が高速で落下する。


 ブウウウウウン


 落下し続ける。本来ドゥアンの顔面が当たる位置はとっくに過ぎていた。


 ドゥアンはサクチャイの踵と紙一重の距離を保ちながら、後ろに倒れていた。


 地面すれすれで、翻る。


 ――猿竹(トンパイ・リン)


 ドゥアンの踵が上昇した。


 蹴り同士がぶつかりあう。


 弾かれたのは――サクチャイのほうだった。


 サクチャイの顎がかち上げられた。


「っっっ!」


 上半身への攻撃を避けながら、最終的には両手をも地面に接着させながらの攻防一対の蹴撃。


 三点立ちにより、片足だけで放つ月虎より安定度が上だった。


(なんだ……それは……?)


 サクチャイも知らない技。


 だがそれも当然だった。ドゥアンが今したのはスア流では月虎に値するリン流ムエボーラン奥義だったからだ。

  

「これで終わりだ」


 まだギリギリのところで意志を保っていたサクチャイへ、ドゥアンは馬乗りになった。


 これもまた、スア流に――いやムエボーラン自体にそもそもない体勢。

 

 象が足で踏むをサクチャイは警戒していたせいで、すんなりと入りこまれてしまった。

 両足の太腿でサクチャイの胴体を挟み込んで動けないようにすると、上から肘を振り下ろした。


 縦肘(ソークボン)


 なんでもありと謳われている総合格闘技ですら、その殺傷能力の高さゆえに反則とされる技だった。


 頭部がアスファルトに挟まれることで衝撃の逃げ場が消え失せ、内部で爆発する。


 サクチャイの後頭部では皮膚が剥がれ、肉が露出していた。その肉もどんどん削られて、骨が見え始めてきていた。


 肘が一発当たるごとに鮮血が舞った。

 



 お前はなんのためにムエボーランをする?




 打たれ続けるサクチャイの脳裏に、声が聞こえてきた。


 これは祖父から尋ねられたことだ。


(そういえば……なんでおれはやっているんだろうな?)


 本当に気付けばやっていた。


 もはや生活の一部と化していて、動機なんてなかった。

 祖父のためや先祖のために絶やしたくないのも本音だけど、ではそれが動機かというと

違う。


(これじゃ前と一緒だ……少し発想を変えてみるか)


 ムエボーランを使って何がしたかったのか?


(チャッマニーを取り戻すためだ)


 チャッニーをなぜここまでして救いたいのだろう?


 美人だから。

 惚れたから。

 腐れ縁だから。

 悲惨な運命だったから。

 

 どれも要因のひとつではあるけど、核とは違ったものだった。


(駄目だ。だんだん思考する力さえももがれていく)


 虚ろになったサクチャイの頭の中に、これまでの記憶が蘇る。


 おぼろげな母と父の顔。


 ひとりになったおれへ祖父はムエボーランを教えてくれた。


 チャッマニーを助けて、一緒に飯を食べて、一緒に過ごして。


 近くにいる男ふたりにそんな幸せな生活を奪われた。


 そしておれはバンコクへきた。


(……楽しかったな。トーナメント)


 色々な相手と戦って、認め合って、協力して、最後にはあんなにも祝福されて。


 またやりたいなみんなで。


 みんなで?


(そうか。こいつとはやれなかったな)


 目の前のドァウンに対して言った。


(おれが二年間、頑張ったのはそういえばこいつのためか)


 ドァウン打倒を目標に、技を磨き、肉体を鍛えた。


 あの日のリベンジがしたくて、今日まで頑張ってきた。


 おれのムエタイをずっと見てて――


(――ああそうか、そういうことか)


 サクチャイの右腕が綺麗な直線を描いた。


「ぐふっ!」


 肘と肘がぶつかった。


 硬いもの同士が激しい勢いで当たってしまえば、壊れるのが必然だった。


 どちらの肘も砕ける。


 予想外の反撃に、ドゥアンは硬直した。

 その内にサクチャイは這い出ようとする。


「逃すか」


 ドァウンはまだ残っている肘を振り下ろす。


 するとまた、ふたつの肘が衝突した。


 両腕が壊れた。

 

 サクチャイもドァウンも苦悶をあげる。


 サクチャイはじたばたともがいてドゥアンを落とすと、立ち上がった。


 象が足で踏むをするも、ドゥアンはすぐに転がって回避して、その勢いで地面から離れた。


 ふたりとも血だらけの状態で相対する。


「……」


 殴り合っているのに、とても静かだった。


 実際は人の声やプロペラの音が鳴っているが、もう耳に入ってこなかった。


(祖父。おれがムエボーランをするのは――好きだからです)


 ムエボーランをするのが好き。ムエボーランが上達するのが好き。ムエボーランで褒められるのが好き。


 おれはもうとことんムエボーランが好きなんです。


 だからチャッマニーには悪いけど、この戦いが楽しいです。


 ムエボーランの全てを――己の全てをぶつけられることにこれ以上ない至福を感じます。


 もうすぐ終わってしまうのが名残惜しいくらいです。


 けど、何事もいずれ終わりはきてしまいます。


「わ、笑ってる……」


 戦うふたりを見て、チャッマニーが遠くから呟いた。


 壊れた肘を相手にぶつける。悲鳴をあげている肉体を叩きつける。泉のように湧いてくる力が乾くほどに振り絞る。


 力強さを越えて、もはや愚かさえ感じる光景の中で、サクチャイもドゥアンも唇の端をあげた。


「あははははは!」


 サクチャイはドゥアンを見た。

 ドゥアンもサクチャイを見た。


 もはやフェイントもする力も枯渇した両者は、最後の一撃を放った。


 スア流ムエボーラン奥義――月虎。

 リン流ムエボーラン奥義――猿竹。


 虎は飛び、夜の天に半弧を作る。

 猿は竹を伝って天まで登る。

 

 逃げるドゥアンを追うサクチャイの足。そして先と同様に、ドゥアンの踵はサクチャイの踵を打ち落とすような軌跡となる。


 勝った。

 

 勝利を確信したドゥアン。


 ……だが直後、ドゥアンの背中に猛烈な衝撃が発生した。


「かはっ」


 肺が潰れ、ドゥアンの動きが止まった。


 月まで浮いた虎は、全身をしならせてもう一度跳躍し、月を越えた。


 サクチャイはドゥアンの後頭部へ、追撃の踵落としを見舞った。


「う、嘘だろ。あのドァウンが……」

 

 力尽きたドァウン。

 両手がバランスを保てなくなり、そのままうつ伏せとなった。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

次回で最終回です。

田舎で古式ムエタイを習うだけだった少年サクチャイは幼馴染のチャッマニーを助けに村を出て、ムエタイトーナメントに出場して強敵たちと熾烈な争いをし、時には戦った相手とお互いを称え合って友情を築いたりもしました。

そして最後に因縁の敵ドゥアンを倒した彼には、どういう未来が待っているのか?

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