最終章 嵐の拳 4
クアーンとプラヤーによって、サクチャイたちを阻む新たな脅威は去った。
「止まった」
「あそこがガルーダ本社でござる」
前方で停車したモンクットの車。ドアが開くと、チャッマニーを建物の中へ連れていった。
すぐに急ブレーキするイチロウ。
モンクットたちと同じくガルーダ本社前で停止した。
車から出ると、ガラス扉の向こうにモンクットたちがいるのが透けて見えた。
サクチャイたちは追いかける。
二重扉で片方は電子ロックで封鎖されていたが、解説者からもらった社員証で開けた。
サクチャイたちが社内に侵入すると、中の従業員が驚いて、奥のほうに目線をやっている。
閉じたエレベーターの扉。
モンクットがエレベーターを使ったことに気付いたサクチャイたちは、別のエレベーターで屋上まで昇ることにした。
ボタンを押すと、部屋が上昇していく。
「もしかしてモンクットが高飛びするってこと知らないのか部下たちは?」
「おそらくは」
呑気に仕事をしていた社員たち。あの驚きは、連絡もなしにいきなり帰ってきた社長が必死に走っているのを見かけたからだった。
「だったら注意すべきなのは、あの黒スーツとドゥアンか」
「左様。ヘリも運転まで多少の時間がかるため、まだまだ間に合うでござる」
階数の数字はどんどん上昇していくのに、最上階までは遠い。
どうやら屋上まで昇るのにも、少し時間がかかるようだ。
その間に、イチロウはサクチャイへ話しかけた。
「サクチャイ殿に教えたいことがあるでござる」
「何だ?」
「黙っていようと思いましたが、やはりここに来て、言わなければと思いました……実は、我々をここまでの手引きをしたのはドゥアン殿でござる」
「どういうことだ?」
サクチャイは困惑したまま、話の続きを促す。
「モンクットがいつ高飛びするという情報は、ドゥアン殿からもらったでござる。発信器をつけたのも彼でござる」
「なんでそんなことを? あいつはモンクットの味方だろ」
「それが、ちょっと事情がありまして。これから話すことは直接ドゥアン殿からは教わらず、自分で調査したものでござる」
ドゥアンのことを、イチロウは喋り始める。
「ドゥアン殿には、妹がいたのでござる。体が弱くて病気がちで。村での収入じゃ成人前に死んじまうくらいひどい体質だったそうです。その体質を直すために莫大な金が必要でした」
「それって」
「お察しの通りでござる。ドゥアン殿もまた、モンクットに交渉を持ちかけられ弱者なのでござる。モンクットは期日までの間に妹と関係を持っていたそうでござる。それでも命さえあればと、ドゥアン殿は懸命にムエタイ選手として金儲けをしたのでござる」
「……でも、死んだんだろ?」
チャッマニーとの話をサクチャイは思い出した。
彼女が最後の一線を守れていたのは、前例があるからだと。
おそらくその前例こそが――
「はい。医者が示した余命よりも一年前に……あと半年もてば、モンクットが示した金額のラインに到達していました」
「どうせ金を持っていっても駄目だったけどな」
金で済むのなら、おれは今ここにいない。
サクチャイは、痛いほどに拳を強く握る。
「しかし、あいつもまたおれたちと同じ存在だったのか」
ここまでの手引きを行ったのもあって、もしかしたらドゥアンはモンクットを裏切って、こちら側についてくれるかもしれないと期待できるようになった。
イチロウが話したのも、そのためだろう。
個人的な恨みはあるが、協力してでもチャッマニーを救うのがサクチャイの一番の望みだった。
ピンポーン
電子音が鳴って、最上階で停まったエレベーター。
扉が開くと、そこは白一色の空間だった。
奥のほうに屋上への階段があって、その前に黒スーツが仁王立ちしている。
「挨拶がまだだったね。久しぶり。二年前に不意打ちで僕を仕留めたガキ」
「……あんたか」
クラスウ。
こうして言われて、やっと名前を思い出した。
「おまえのせいで、僕はボディガードとして一番上だった地位を奪われたんだ。だから僕だけ蜥蜴の尻尾切りのようにここに置かれたんだよ」
サクチャイへの恨み節を語るクラスウ。
憎しみが顕現でもしたように特殊警棒をサクチャイの前に出した。
クラスウは二本とも構えたまま、サクチャイへ疾走した。
(どれほど強いのかは知らないが、距離感の把握があまい!)
特殊警棒の射程に入っても、クラスウは攻撃を放たない。
サクチャイは踏み入ってくるタイミングと合わせて、射程ギリギリで右ミドルキックを打ち込んだ。
「きぇぁああああ!」
「くっ!」
右の特殊警棒でサクチャイの右の脛を止める。
さらに反転して左の特殊警棒で横一文字に打ってきた。
サクチャイはスウェーバックをさらに崩して躱すと、バク転でクラスウから距離を取った。
お互いに構えて、仕切り直す。
(なるほど。言うだけのことはある)
右脚がひりつくように痛む。
殺気を察せずに、勢いを落とさなかったら折られていた。
クラスウは距離感が把握できてないのではなく、わざと自分から攻撃せずに待ったのだ。防御とは、時には攻撃よりも相手に損傷を与える。また。得物持ちによる優位を最大限に利用としての戦術だった。
不意打ちには弱いが、正面からにはめっぽう強いクラスウ。
無傷では勝てないことを悟ったサクチャイは、覚悟をすることにした。
(いいぜ。二本はくれてやる)
急所だけは守って、特殊警棒を二本とも受け止める。
無事だった部位でがら空きのクラスウに攻撃して、サクチャイの勝ちだ。
ドァウンとの戦いを考えると致命傷ではあるが、まずこの黒スーツを倒さなければ先に進むことはできない。
いくら多少の余裕があるとはいえ、時間はあまりかけたくない。
巧遅よりも拙速の場面だった。
サクチャイは防御の準備をする。
「サクチャイ殿! あなたは屋上に行くでござる!」
ドゥアンが駆け込んできたところで、発砲音が聞こえた。
イチロウが手に持っていたのは拳銃だった。
銃口を、クラスウへ向ける。
「邪魔したら、撃つでござる」
「はいはい」
クラスウは警棒ごと両手を上げた。
サクチャイは脇を通り抜けた。
「イチロウ」
「はい!」
「すまん。頼んだ!」
「カップラメーン五つでござる!」
サクチャイが去って、最上階の廊下はイチロウとクラスウのふたりだけになった。
クラスウは特殊警棒を下ろす。
「ほんとうは僕が仕留めたかったんだけどね。でも、ドゥアンがどうしてもあいつとやりたいって言ってたから」
「なるほど。意外にもあっさり通したのは、理由があったでござるか」
「代わりに、おまえの骨を全部砕いてやるよ」
お互いに武器持ちといえども、距離がある以上は射程が遠いイチロウのほうが有利に見えた。
クラスウは片方の特殊警棒を投げる。
曲がってから、吸い込まれるようにイチロウの右手へぶつかった。
「ぐはっ」
強烈な痛みとともに、拳銃を手放す。
すかさずクラスウは間を詰めてきた。
イチロウは拳銃を拾いながら、近づいてくるクラスウへ引き金を引く。
バババン!
「はい外れ」
手元に残しておいた警棒で、イチロウの喉元を突いた。
イチロウは血を吐き出して、膝をつく。
「ひゅうひゅう」
「不十分な体勢おまけに怪我したままじゃそりゃ何発撃っても当たらないよ」
「……それでも、サクチャイ殿を不利にするわけにはいかないでござる」
離れたところで、もう一度、拳銃をイチロウは構えた。
クラスウは特に警戒することなく、ノーガードで近づいてくる。
残りの弾数はたった二発。
間合いを見計らって、イチロウは慎重に狙い撃った。
「ブッブー。残念でした」
「もう一発ある。ここまで近づけば」
「この距離は、僕の距離だよ」
クラスウの振り下ろしは、銃撃よりも先にイチロウの脳天を叩いた。
皮膚が破れ、血が垂れる。
クラスウはさらにそこを特集警棒で狙う。
乱打されるイチロウ。
やがて気を失いかけたところで、
「残念ながら、拙者の勝ちでござる」
バン!
自分の手首に嵌めた手錠を、イチロウは撃ち抜いた。繋がった鎖の先には、クラスウの足首を嵌めた輪があった。
「離せ! 離せ!」
特殊警棒で殴りながら、クラスウは命令する。イチロウはそれを鼻で笑った。
「鍵は壊してしまったでござるからな。もう拙者からは何しても無理でござる」
「くっ」
クラスウは手錠そのものを壊そうとするが、実際に打ってみて、警棒では破壊にはかなりの時間がかかるのに気付いた。
「くそくそくそくそくそ!」
クラスウはひたすら怒りをイチロウにぶつける。
徐々に頭が朦朧になりながら、イチロウはサクチャイのことを想った。
(唯一できた異国の友のために、身を捧げられて幸せだったでござる……頑張って、愛する人を取り戻すでござるサクチャイ殿)
屋上に到着したサクチャイ。
プロペラはもう回っているが、モンクットたちはまだヘリコプターには乗り込んでなかった。
「サクチャイ!」
チャッマニーが叫ぶ横で、ドゥアンは天を仰ぐ。
「あーあ。追い付かれちまった」
「早く出すんだ。パイロット」
「やめといたほうがいいですよそれは。さすがにあいつも破れ被れで飛び乗ってきて、最悪。墜落してしまいますから」
「なに!?」
モンクットはサクチャイへ視線を注ぐ。
獰猛な肉食獣のような雰囲気で、目的のためなら自分の命さえ捨てる気概を感じられた。
モンクットはドゥアンへこびへつらうように声をかける。
「なあドゥアン。また任せてもいいか?」
「またって?」
「二年前のようにだ。俺様はよく覚えてないんだけど、おまえはあいつを倒したんだろ?」
「あーそういえばそういうこともありましたね。俺もすっかり忘れていました」
ドゥアンはヘリポートの中央から端へ歩いていく。
「でも、それならいいですよ。二年前と同じく、地べたを這わせてやります」
ドゥアンは右拳をかざした。
「……」
サクチャイとドァウンは五メートルほどの距離を開けて、向かい合った。
プロペラからの風で着ている服がたなびく。
「本当に戦うのか?」
「ん? ああ。そういうことか。あのヘボ警官に聞いたのか」
ドゥアンは事態を把握すると、首を左右へ振る。
「俺が手引きしたのは、おまえをこの手で倒すためさ。ムカつくんだよな。同じような境遇のやつを見ると」
「なるほど。どうやらおれとあんたは殴り合うことでしかできないようだ」
「腑抜けちゃいないだろうな」
「ああ」
「これでおまえとの戦いは二度目だ……三度目はねえ。おまえが負けたらここから突き落とす」
「……そんな程度でいいのか?」
「あっ?」
疑問を呈すドゥアン。
サクチャイは構えた。
「おれは今から殺すつもりでおまえに技をぶつけるよ」
言われて、ドゥアンも構えた。
「そうだったな。俺たちの技術は本来そういうものだった」
お互いの間にある空気が変質した。
まるでそこだけ世界から切り離されたようだった。
サクチャイもドァウンも動かない。
「あれ?」
外部からは、動いていないはずなのにふたりの位置が狭まっているように見えた。
錯覚だと思ったが、時間経過ごとに本当に近くなっていた。
――昆虫が進行する。
足の指先だけで移動する歩法だった。知らない相手ならば、瞬間移動でもされたかのように感じる。
ふたりの場合は知っているため、そういう錯覚はしない。
けれど同じ技だからこそ、ぶつかれば未熟なほうが負けるのはサクチャイが誰よりも知
っていた。
ふたりともミリ単位で距離を狭めていく。
(入った!)
どちらからともなく発した心の声。
両者ともにまったく同じタイミングで相手へ右ミドルキックを放った。
タイの天空で今、嵐の拳が吹き荒れる。
衝突したふたつの嵐。
その先にあるのは、大きな嵐がより大きな嵐に呑みこまれる未来だけだった。
はたして、どちらの嵐のほうが強いのか――




