最終章 嵐の拳 1
最終章のはじまりはじまり~
はたして本当にサクチャイはチャッマニーを救えるのか!?
決勝戦の前日。サクチャイはホテルにいた、
「……」
壁をずっと眺めている。
なにかを観察しているというわけではない。ただ目線を送っているだけなのだ。
(チャッマニーの誕生日は明日か……)
結局、サクチャイはチャッマニーを救い出せなかった。
一〇〇〇万を手に入れようが、全てを無に還される。
サクチャイができることは、チャッマニーの綺麗な柔肌がモンクットの汚らしい手が触れるのを想像するくらいだった。
(もう何も考えられない……)
チャッマニーを取り返すこともできず、だからといって使命から逃げ出して家に帰るなんてこともしない。
宙ぶらりんの気分だった。
(せめて、おれに力さえあれば)
結局は金ではなく力なのだ。
相手が争うのを回避したいほどの力があって初めて、金という道具を使って取引できる。
でも、サクチャイがモンクットを襲ったところで数と兵器の力によって、指先ひとつ触れることなく途中で力尽きてしまう。
所詮ムエボーランが得意なだけのたったひとりの少年では、現代兵器を持った大組織には対抗できなかった。
(ムエボーランなんて学ぶ意味あったのかな……)
結局、あれだけ苦痛な鍛錬を積んでも望みひとつ叶ってない。
サクチャイは自分の人生にすら、疑問を投げかけるようになっていた。
そのまま壁の前で呆けていると、ドアが開いた。
イチロウだ。
あのホテルから追い出されても、ふたりは一緒だった。
「ごはん買ってきたでござるよ」
「うん……」
サクチャイは渡された栄養調整食品をポリポリ食べる。
「またそれでござるか。ちゃんと食べないと、動けないでござるよ」
「普通の食事だと、喉が通らないんだよ」
口の中で細かくしたのをジュースで流し込んだ。
パッケージに表示されている通りなら味があるはずなのに、どちらからも感じられなかった。
感覚がどんどん鈍くなっている。
自分が真っすぐ座っているかどうかも曖昧になってきていた。
イチロウはトムヤンクン味のラメーンを啜っていた。
「そういえばサクチャイ殿?」
「何だ?」
「明日、チャッマニーさんの誕生日でござるね」
「……なんでおまえが知ってる?」
ぎろりと睨むサクチャイ。
イチロウは麺を咥えたまま、慌てて訳を話す。
「なんでってサクチャイ殿が教えてくれたのでござろうが」
「……そうだっけ?」
「そうでござるよ。優勝して一〇〇〇万を獲得できたのなら、ちょうどその付近に彼女を迎え入れられるから、一緒に誕生日でも祝おうって言ってくれたのではないでござるか?」
そんなこと言ったっけ? 巻き込みたくないから、チャッマニーのことは他の誰にも言わないようにしていたはずだけど。
記憶にない言葉に疑問符を浮かべながらも、結果的に関係ない人間へ悪意をぶつけるような形になってしまったことを反省する。
麺を啜ることを再開しながら、イチロウは半笑いする。器用なものだ。
「しかしサクチャイ殿。まだチャッマニーさんを諦めきれてないご様子で」
「うるさいな。おまえになにが分かる?」
チャッマニーの話題が出ると、サクチャイはつい反射的に語気を荒くしてしまう。
イチロウは麺を啜り終えると、カップを置いた。
中身はまだ残っていた。
「サクチャイ殿の闘志がくすぶっているのが分かりました。やはりまだあなたは、チャッマニーさんを助け出そうとしています」
「……たとえそうだとしても、結局は金も力もない俺には何もできない」
「お金ならここにあるでござる」
イチロウはベッドについた箪笥を開く。
鍵付きのため、持っている鍵を差し込んで回した。
内部には、大量の札束が敷き詰められていた。ざっと数えただけで五〇〇万はあった。もしサクチャイのベッドのほうにも同じ金額が埋まっているなら合わせて一〇〇〇万になる。
唐突過ぎる出来事に、サクチャイは大口をあんぐりと開けて驚くしかなかった。
「な、なんだこの金? どこからこんなものを持ってきた?」
「持ってきたというか……稼がせてもらったのでござる。サクチャイ殿の勝利に毎回賭けて」
イチロウはスタジアムで見たあの横長の紙を扇のよう煽ぐ。
「おまえ……結局ギャンブルやってたのか……」
「そこはほらまあ、結果的に必要になったのでお咎めなしということで。決勝戦はまだでござるけど、サクチャイ殿は毎回が大穴でござったから一回ごとの伸びがすごかったでござるよ。ああよかったら一緒に楽しみたかったでござる」
「ギャンブルはもうやらん……というか本当にくれるのか? このお金」
「左様。最初に借りた十五万のし付けて返すでござる」
ギャンブルの借金を肩代わりして払ったお金が、こうなってて戻ってくるとはあの時どころか少し前の自分でも予想できていなかった。
サクチャイはベッドで正座してから、頭を下げる。
「ありがたく借りさせてもらう」
「拙者としてはあげたつもりなので別によいのでござるが、それでサクチャイ殿の気が済まないのなら。ともかく今はこれで惚れた娘を救い出してやってください」
「でも、結局それについてはな」
そうなのだ。
お金をいくら手に入れても、モンクットは必ず約束を破る。
折角の希望だったが、全ては徒労に終わるしなかった。
サクチャイは理由を説明して、受け取りを断った。
「俺は、お金なんていらない。チャッマニーを取り返せれば、それでよかった」
「……それは本心でござるか?」
「ああ」
頷くサクチャイ。
すると、イチロウの目つきが変わった。最初にお礼を言ってきた時や血止めをしてくれた時と同じ種類のものだった。
「分かりました。本当はこのままお金だけ受け取って、幸せになってほしかったでござるが、それではどうやらサクチャイ殿は真の幸福を掴めない様子……サクチャイ殿。まだあなたには打ち明けてない秘密が、拙者にはあるでござる」
胸の裏ポケットをまさぐると、そこから手帳を出した。
パカっと開いて中身を見せる。
「実は自分は、ICPOの刑事なのです。モンクット逮捕のために、身分を隠して今日まで調査していました」




