四章 象衛騎士と真実 6
「……水くれ」
「はいでござる」
「んっ……ありがと」
自分のコーナーに戻ったサクチャイは、持ってきた水を一口で飲み干した。
「いいのでござるか? こんなに飲んで」
「どうせ長くはもたない」
「そうなのでござるか?」
「ああ……あいつは強い。あんなのがこの世にいたのかってくらいに」
ムエタイルールで使えそうな技は全部使ったが、それでもまだダウンすら取れていない。しかも初見の技にすら最後は対応されて相打ちされた。他の技ももう見抜かれるため、二回目は使えないだろう。
「おまけにこれだ……」
全身に巨大な跡が複数できていた。
全て、プラヤーの打撃が当たったところだ。
どこからも普段なら立てないほどの苦痛を感じる。
いや興奮状態で感覚が麻痺している現状ですら、気を抜くと倒れそうになる。
「それで勝機はあるのでござるか?」
「ああ。次の一撃で仕留める」
ダメージは与えきれるだけ与えた。これ以上の長丁場は、逆に回復の時間を延ばすだけだ。
油断していて、体がまだ凝り固まっている二R開始直後。
そこでトドメを差すしかなかった。
サクチャイはインターバル中も体を小刻みに動かして、熱を保って解している。
対面のプラヤーへ視線を向ける。
いつもランニング途中で出会う好青年の姿はそこになく、殺気を体中から迸らせた戦士がいた。
(恐ろしいな。足がすくんじまいそうになる。でも……)
一R終了直前の視線の立ち合い。
あの時、よく観察したら、プラヤーの息が荒かった。
負傷したのか、体の一部の動きもぎこちなかった。
――これならいける。
こちらと同じくらいには、向こうも消耗していた。
あとは決定打さえ打ち込めれば、とサクチャイは想う。
第二Rが待ちきれないでいると、審判がやってきた。
「サクチャイ」
「どうしました?」
「目。出血したままだぞ」
「あっ」
サクチャイは瞼に手で触れてから、目の前に持ってくる。
青いグローブにべったり血がついた。
最後の顔面落下の時に発生した傷だった。
「運営からは客を長く楽しませるために多少は見逃せとは言われているが、さすがにその量はまずい。インターバル中に止まらなかったら、ドクターチェックさせてもらうぞ」
「待ってください。いけます」
「駄目だ。選手の自己判断ほど未熟で身勝手なものはない」
審判は絶対に譲ろうとはしなかった。
サクチャイの前で、無線で医者を呼び出している。
「どうだ? イチロウ」
「駄目でござる。いくら拭いても血が流れてくるでござる」
「くそ!」
ドクターチェックをやり過ごしても、している間にプラヤーが回復しちまう。さすがに元気な状態で倒せるとは思えない。
さっきまで散々、攻撃を打ち込んでそれは実感していた。
しかし血は止まらない。止血剤を塗っても、まだ流れている。
ここに来ての不運としか思えない展開に、サクチャイはただ打ちのめされるばかりだった。
審判は冷静に言ってくる。
「あと十五秒だ」
「……審判殿。血を止めればいいのでござるよね」
「ん? ああそうだ。だけど君はただの素人と聞いたが」
条件を確認すると、イチロウはサクチャイのほうへ体を向けた。
借りていた道具袋から剃刀を取り出した。
「君! それは素人では持つだけでも危ないぞ!」
「……サクチャイ殿。拙者を信じてもらってもよいでござるか?」
サクチャイはイチロウを見上げる。
初めて見る真剣な眼差しだった。審判からすると狂気に走ったとしか思えないその姿に、頷いて返した。
「……頼んだ」
「承知いたした」
「あー!」
狼狽える審判。
イチロウは剃刀を瞼の別のところに当てると、そこを切った。
当然とばかりに切られた箇所から血が流れ出す。
蛍光板に別の数字が次々と刻まれで、インターバル終了の電子音が響いた、
当てていたガーゼを外す。
「嘘だろ?」
「これでいいでござろう?」
まるで魔法でも使ったように、瞼から血が流れなくなっていた。
ドクターチェックなしでの試合再開が認められる。
「また何かの忍法かこれ?」
「いえ。ただ止血しやすいほうに血を流しただけでござる、確かにこれで血は止まったでござるが、おそらくあと一回でも掠ればまたすぐに出血するでござる」
どこでそんな技術を?
説明を聞いたサクチャイはそんな疑問を浮かべたが、で口には出さなかった。
いつものイチロウならば、こちらがなにも問わずとも自分から自慢してくるくらいだ。
そうしないということは、なんらかの事情があるのだろう。
サクチャイは、立ち上がってイチロウから離れた。
「勝ってくるでござるよサクチャイ殿!」
信じろと言われたのに頷いたのだ。ならばもうこちらから言うことはない。
サクチャイはイチロウの応援を受けて、突き進む。
中央に行くまでに、背後から他の声も聞こえてきた。
「負けるな! サクチャイ!」
「がんばれー」
「オレたちとの経験を活かせー」
大男たちが混じった観客たちの声援。
そして、
「無事に帰ってきて!」
昔から聞き慣れた女の子の声。
様々な人からの声に背中を押され、サクチャイは前方に立ちはだかる巨象のような男へ前進する。
「――マイペンライ」
声がかき消されるように、甲高い音がゴングから聞こえた。
サクチャイは一気に相手コーナーへ真っすぐ疾走した。
「あの低い姿勢は!」
「くるのか!? 二R目にいきなり!」
その異様な走り姿に。大男たちが反応を示した。
リング上で間近に見ているプラヤー。
彼の視界では、まるでキャンパスに張り付く影のようになっていた。
影が猛速度で近づいてくる、
(ここからくる攻撃はなんだ? そしてぼくができる迎撃は?)
瞬時に分析して、決断するプラヤー。
大きく踏み込んで相手の想定された距離感を外すと、象の牙で蹴りつける。
総合格闘技でベルトを取った頃も、タックルにきた選手には同じ対応をしてカウンターをぶつけていた。
膝が目の前に来ると、サクチャイはさらに沈みこんだ。
もはや地面に這っているとしか思えないほど低く前後に伸びた態勢。普通ならば技なんて打てないここから、サクチャイは何をしようというのか。
(浮いた!? 蹴りか! 空手の上段前蹴り!)
跳躍から繰り出されるのは、下に弧を描いて上空まで至る蹴り。
顎すれすれで、プラヤーはそれをスウェーバックで回避した。
変則的な軌道だが、類似していたものを知っていたのと予兆が大きいため見てからでも間に合った。
このまま足がどくのを待ってから、不安定な態勢へ攻め込む。
太陽にかざすように伸びたサクチャイの右足。
やがて落ちるが、その方向はプラヤーの思ってみなかったところだった。
重力に引かれたと思いきや、さらなる加速が起きる。
そして落下先は地面ではなく、サクチャイから逆側――プラヤーの顔面だった。
「虎の爪を食らえ!」
踵落としが、直撃した。
硬い踵が、柔らかい顔面を潰す。
顎の骨が外れたのが、サクチャイは感触から分かった。
一部を除いて、会場全体が、サクチャイが勝利を掴んだのだと思った。
ガシッ!
プラヤーの左手が、サクチャイの右足首を掴んだ。
「……まだ……だ」
プラヤーは倒れなかった。
潰すつもりで足首を握りしめる。猛烈な握力に、掴まれた部分の皮膚と肉が変形していく。
そのまま、反撃に象の牙を打とうとする。
もしも当たれば、衝撃が逃げないことで威力は倍増し、サクチャイの体のどこに膝がぶつかろうがその部分は破壊される。そうなればもし立ったままでも、出血多量によるTKOは免れなかった。
試合を終わりにする一撃を、プラヤーは放つ。
プラヤーの膝は、サクチャイの背中にぶつかる軌道を描く。しかし衝突直前に、サクチャイは消失した。
空を切るプラヤーの膝。
サクチャイは、宙に浮いていた。
(爪は終わった――次は、牙だ)
踵の下にある顔面を踏み台にして、サクチャイは跳んだのだ。通常ならばサクチャイとプラヤーの身長差ではそんな人並外れた動きは不可能だったが、足首が固定されたことによって可能になった。
練習で、大男たちも同じことをしてきたのをサクチャイは思い出した。
心の内で、彼らに感謝しながら技の最終段階にかかる。まだ、この技は終わりではなかった。
地面にいた時に伸ばした右足よりも、さらに高い位置に到達している左足。サクチャイはそれを振り下ろす。
――月虎。
スア流ムエボーランの奥義がプラヤーに激突した。
「がっ……はっ……」
踵落としの連打によって、ついに倒れるプラヤー。
カウントが取られる。
「一、二、三」
「立つな。立つな」
「四、五、六、七」
「た、立ちやがったぁあああ! やっぱり化け物だぁあああ!」
上半身を起こすプラヤー。
そのまま構えて、後は下半身さえ立てばよかった。
声を張り上げ、足に力を漲らせる。
「くぅうううう」
「八」
「はぁああああああ」
「九」
「うぉおおおおおおおおお」
ついには足が浮いて立ち上がろうとしたその瞬間、サクチャイと目が合った。
鬼の形相のはずなのに、なぜかその両目は澄んでいて、奥は安らいでいるように見えた。
「十」
プラヤーは途中で力尽きて、膝から崩れ落ちた。
勝者が告げられる。
張り詰めたものが消えて、サクチャイはその場に尻もちをついた。
うぉおおおおおお!
会場全体が唸っていた。あまりのことにスタジアムが揺れている気がする。
「勝ちました! サクチャイ!」
「素晴らしい試合でした……わたしからは、それ以上は何も言えません。ただ勘違いされないようにつけ加えておきますと、プラヤーは決して油断などせずに全力を尽くした立派な選手でした。ただ今回はサクチャイがそれを純粋に上回ったのです」
分かっているとばかりに、プラヤーを応援していた観客までもがサクチャイの勝利へ拍手を送ってくれた。
ングー、クアーンと続いてプラヤーまで。
難癖を付けていたものも、さすがに認めざるをえない戦績と試合だった。
「やったでござるよ!」
「あいがとうイチロウ。今回ばかりはおまえのおかげだ」
サクチャイを肩車して、イチロウは下で喜ぶ。
サクチャイ! サクチャイ!
コールで名前を呼ばれたため、高い位置からスタジアム全体へ手を振るう。
「なあイチロウ」
「なんでござるか?」
「いいものだな。ムエタイって」
見世物と馬鹿にしていたムエタイ。
ここまで多くの他者に認められ、祝福されることが気持ちいいものだと思わなかった。
サクチャイは人生においても初めて得た爽快感に身を浸した。




