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四章 象衛騎士と真実 4

 

 朝まで、大男たちとの実戦形式の鍛錬は続いた。

 

 サクチャイは朝食を済ませると、トレーニングルームでバーベルを握っていた。Jの体重と同じ重りを乗せたバーを下から見つめる。

 

 サクチャイは椅子に寝た姿勢で息を胸が膨らむほど吸うと、バーベルをラックから外して落とした。


(最低でも、これを押し返さなければならない)


 胸のほうへ寄せてから、腕を伸ばして上昇させる。

 負荷を与えられて、背筋が悲鳴をあげている。


 痛みを訴える肉体を無視して、サクチャイはベンチプレスの回数を増やしていく。


 やがて肉体が失ってしまったかのように力が抜ける。


 その状態でサクチャイはバーベルを上下させた。


 伸ばした腕をゆっくり縮めて、バーベルを固定場所に戻す。


「ふー」

 

 溜まった疲労を吐き出すかのように、思いっきり息を吹く。


 背中を触ると、筋肉がパンパンになっていた。


「なるほど。確かにこれは、鍛えられる」


 大男たちとのスパーリングで分かったが、どうやら根本的にサクチャイにはパワーが足りていないようだった。

 少し上程度の階級ならば逆にねじ伏せられるほどの力をサクチャイは持つが、今度、彼が戦うのはヘビー級と正面から打ち合えるプラヤーだ。


 どれだけ未知の技で奇襲しようが、それでダメージを与えられなければ無意味でしかない。


 だからサクチャイはともかくパワーを付けるための練習をするようにした。


(食事はタンパク質多めで、プロテインも取った。ムエボーランの流儀に反しますが、申し訳ありません祖父)


 これらは、ドゥアンからのアドバイスだった。


 最新式のトレーニング器具は確かに危険性が低いが、ひとつの狭い目標に向かって鍛えるならこちらのほうが適していると。食事についても同じである。


 サクチャイも自分自身で体験してみて、その言葉に納得した。


 幼き頃より鍛錬してきた技術で、負けているつもりはない。

 しかしどうしても力では負けてしまう。

 

 今からそこで勝てるほど身に付くはずもないが、それでも暗闇に潜んでいる一点の光明のような勝機を見つけられるくらいにはしなければならない。


 サクチャイは筋肉に力が戻ったのを頃合いに、もう一度、ベンチプレスをしようとする。


「うおっと!」


 ラックが壊れて、バーベルが上から落ちてきた。


 手はまだ触れていない。

 おでこ辺りに降ってくる。当たれば額が割れ、頭蓋骨が砕ける。

  

 ガシッ


「おおっと」


 死の予感に、サクチャイは即座に身を翻して椅子から落ちた。

 

 これでバーベルが先に椅子に当たって止まるかと思ったが、音ひとつしなかった。

 

 バーベルは、空中で静止していた。

 

「余計なお世話だったかな」

「なんでここにあなたが?」


 プラヤーは片手でバーベルを持ち上げていた。


 まるで空気でも握っているように、力が全く込もっている様子がない。

 床に置いたが、もしその気になればずっと持ち続けていられそうな余裕を感じた。


 あまりの力の差に、助けてくれたことに対する感謝も言えず、サクチャイは電撃を浴びたように戦慄する。


 逆にプラヤーは平然としたまま、話しかけてきた。


「わりと重いのやってるね。これなら元気そうだ」

「まさか心配でもしにきてくれたんですか?」

「うん。いつもは公園に来るのに、ここ二日は来なかったからね。もしかしたら病気かもって」


 どうやらプラヤーは、純粋にサクチャイのことが心配で様子を見にきたらしい。


 Jとの試合中に見せた鬼の形相からは、考えられない心遣いだった。

 

 いまいち掴めない男だなと、プラヤーに対してサクチャイは思った。そのままマシンから降りる。


「トレーニングかい? 付き合うよ」

「あっ、はい」


 帰ろうかと思ったが、プラヤーに推されて鍛錬を続行することにした。


 上半身だけを使ったメディシンボールの投げ合いをする。


 一歩も動かないまま、バスケットボールのように相手へ投げつける。押す力が上昇する練習だ。

 

 プラヤーは、イチロウよりも手早く胸元へ正確にボールを飛ばしてくる。


「そういえばなんだけどさ」

「はい」

「ごめん。要件言う前に敬語やめてくれる。前までは違ったのに、急にそうされるとすごい距離感を感じる」


 実際、今のサクチャイはプラヤーにとてつもなく精神的には遠ざかっていた。


 サクチャイは違和感を覚えながらも、前に会っていた時と同じ話し方を心掛ける。


「わ、分かってんだよ。このやろう。ばかやろう」

「えっ?」

「あっ、いや」


 下手に意識したせいで、普段の自分とも全然違う喋り方になってしまった。


 恥ずかしくてこの場から離れたくなるサクチャイ。

 

 プラヤーは心の底から楽しそうに笑い声をあげた


「ははは。なんだそれ?」

「ごめん。おれもよく分からない」

「うんうん。そういうこともあるよね」


 よほどおかしかったのか、声がまだ上ずっている。


 おかげで緊張感が解れたサクチャイは、一緒になって笑った。


 以前と同じようにやり取りするふたりの間を、メディシンボールが飛び交う。


 やがて上半身も疲れてきたので、相手から次の一投を受けたら終わると決めたサクチャイ。プラヤーの胸元目掛けて投げた。


 ポスン、と掌に収まる。


 プラヤーは投げ返そうとせず、ボールを下ろした。


「なあサクチャイくん。このあと、うちに来ないか?」

「うちって自宅に?」

「違う。ジムさ。ぼくが籍を置いているジム。ぼくの練習を見学しないかい?」

「えっ、いいの?」

 

 こういう重要な試合の前は情報規制を行うものだ。記者さえも数日前にはジムにさえ入れなくなるのに、対戦相手に練習の見学までさせるなんて。


「もちろん直前まで見にきていい。他の連中にも邪魔はさせない.」


 練習というのは、ある意味では選手の全てだ。どのような練習をしているのか掴めば、その選手の全てを把握したといってもいい。


 それをわざわざ自分から見せようとするなんて。


「なんであんた、おれにそこまでしてくれるんだ?」


 この前も昨日も同じことを言ったなとサクチャイは思った。


 前に聞いた時と同じく、プラヤーの表情に憂いが帯びる。


「言っただろ。親友に似ているからさ」

「嘘じゃなかったのか?」

「嘘なわけないだろ!」


 激昂するプラヤー。

 僅かだが、鬼の片鱗がそこにはあった。


 言ってから、やってしまったと後悔するように頭を抑える。


「……すまん。多分、きみはクアーンへの対策をぼくが教えたことが、トーナメントで勝ち上がるための戦術と考えたのだろう……でも違うよ。そんな計算で、きみにあの作戦を仕込んだわけじゃない」

「どうしても勝ちたいってわけじゃないのか?」


 サクチャイの質問に、クアーンは縦に頷いて返した。


「一〇〇〇万にも新しいベルトにも興味はない。なんだったら、ぼくは負けてもいいくらいだ。でもだからといって手は抜くのは。ぼくとの試合に全力で臨んでくる選手とこれまでぼくが勝利してきた相手のためにもできないけどね」


 そう言ったプラヤーが纏う雰囲気は、Jとの試合後と同じものだった。


 栄光も金も勝利も既に掴んでいるはずなのに、彼はとても寂しそうだった。


 準備をすると、サクチャイはホテルから移動した。今回はイチロウが見当たらなかったので、連れてこなかった。


 運んできてくれた三輪タクシーの運転手に金を払う。




 木造りの施設。

 天井だけで壁はなく吹き抜けだらけで、並べて吊るされたサンドバックや川の上に設置されたリングが外から見える。


 どうやらここがプラヤーのジムのようで、練習していた他の面子から挨拶される。当然、サクチャイは警戒されるが、プラヤーが話すと歓迎してくれた。

 

 椅子が出されて、チャーを渡される。


「すみませんね。こんなものしかなくて」


 サクチャイの隣に座るのは、ジムの経営者にしてプラヤーのトレーナーだった。


「いえ。ほどよい甘味で美味しいです」

「ほう。おまえさん、どうやら味が分かるようだね。どうだい? トーナメントが終わったらプラヤーと一緒に食事でもいかないかい?」

「すみません。大会が終わったら、イーサーンの実家に帰る予定でして」

「ほう、イーサーンか。北のほうとはいえ、あいつも田舎出なんだ」


 バンテージを巻いているプラヤーへ視線が送られる。


「あいつの実家は象衛騎士の家系でね。あっ、まず象衛騎士というのは」

「知っています。かつてタイでは兵器として戦象を用いていました。象はその頑丈さから騎馬にも負けないほど突撃に優れていましたが、足の付け根などの柔らかい部分へ攻撃されることには弱く、それらの脅威から守るために周囲に配置されたのが象衛騎士ですよね」

「さすがムエボーランの継承者。よく知っておる」

「はい。先祖には戦場でそういう仕事をしていたものもいましたから……そういえばプラヤーもムエボーランを?」

「いいや。あいつはムエボーランなんて学んじゃいない。先祖が象の世話に専念する際に、その手の資料は捨てて、とっくの昔に途絶えてしまったらしい」

「……よかった」


 もったいないと思いつつも、プラヤーがムエボーランの知識を持ってないことにサクチャイは安心した。


 トレーナーはチャーを啜る。


「あいつは十五の時にここに来るまでムエタイすら知らなかったが、象の飼育によって体は鍛えられていた。実家にいる時は群れを連れるために象の上を飛び交って一匹ずつ制御したり、暴れた象を素手で止めたりしたらしい」

「……」

「見ろ。あれが象の鼻(チャンチューヌオン)象の牙(ガーチャーン)だ」


 バゴン! バゴン!


 プラヤーから前蹴りと膝蹴りが交互にぶつけられて、サンドバックが変形する。そしてその度に、ジム全体が揺れた。

 

 プラヤーが練習し始めてから、まるでここだけ局所的に地震でも到来したようだった。


前蹴り(ティープ)が象の鼻で、膝蹴り(テンカオ)が象の牙だそうだ。象衛騎士の子孫と知ったメディアが大層な名前を付けてな」

 

 サクチャイはトレーナーへの反応ができなかった。

 

 プラヤーの一挙一動に目が釘付けになっている。同じ人間とは思えないほどの凄まじいパワーが研ぎ澄まれた肉体から無駄なく放たれる。

 

 震える足を抑える。

 サクチャイは逃げ出しくなる気持ちを我慢して、プラヤーの技を目に焼きつけようとした。

 

 サクチャイは準決勝が始まるまで、昼間は見学と鍛錬をして、夜の間は大男たちとの実戦訓練を行った。

 



 二回戦から十日後の今日。

 スリヨータイ・トーナメントの準決勝が行われる。


 控室にいるサクチャイ。


 準決勝まで勝ち上がった選手は、それぞれ専用の控室を用意されていた。


 使わないロッカーに囲まれ、ひとりでは余るほど大きな椅子に座っている。サクチャイは表示された数字から計算できる体積よりも、部屋が広く感じられた。 


「くう……」


 いや、そうではない。

 部屋が広いのではなく、自分が小さいのだ。

 壁と天井が遠くなっていく。部屋の中心で自分の肉体が縮小されていく。

 

 ここ数日、サクチャイはプラヤーを見続けた。

 

 あの肉体のどこに秘められているのかと不思議になるほどの強烈な力。ただでさえ大きな体が、より巨大に映る。

 

 プラヤーに比べれば、自分は蟻んこだ。

 

 蟻んこが巨象に挑むようなものだ。


「……怖い……怖いよ」


 負けるのが怖い。


 生まれ、才能、努力、知恵、発想。


 武道とは自分の人生の全てをぶつけるようなものだ。

 

 人生をかけてムエボーランを鍛錬してきた。奥義まで習得し、祖父に認められた。

 

 これまで自分を築いてきたもの全部が、たった少し未来の敗北でひとつ残らず破壊され尽くされるかもしれないのだ。

 

 接戦ならばまだ自分を保てる。


 あそこではこうすればよかった。事前にこれを習っていれば負けなかった。

 

 言い訳に過ぎないが、実際、再戦すれば勝てるかもしれないという希望は自分を壊さずに繋いでくれる。


 だけど、あのプラヤーにはそんな言い訳の余地すらないほどの惨敗を喫する可能性を感じる。


「戦いたくない……」


 サクチャイは遠くにある扉を見つめる。


 あそこを開いて外に出てしまえば、逃げられる。


 今ならJの気持ちが分かる。あの男も、こうして戦場から逃げ出したかったのだ。


 サクチャイは力なくふらふらと扉まで近づいた。ドアノブに手をかける。


 カシャ

 

 ドアノブが回った。


 あれ?


 サクチャイは手を動かしてない。ドアノブがひとりで回ったのだ。


 扉が勝手に開いた。


「……」

「……ひどい顔」

「チャッマニー」


 自分が逃げようとした先には、自分が助けようと思っていた少女がいた。


 チャッマニーが部屋に入ってくると、サクチャイはよろめくように後退する。


「どうしたのいったい?」

「ごめん……ごめん……」


 青ざめたまま謝罪を繰り返すサクチャイ。


 椅子に躓いて、背中からバタンと倒れた。


 サクチャイはそれでも足を使って後退していこうとした。


「ねえ。だからどうしたの?」


 するとチャッマニーが上から手を押し付けて、逃げ道を塞いだ。


 前も横も後ろももうどこにも行けない。


 サクチャイは横に顔を背けながら答えた。


「おまえを置いて、逃げようとした」

「……」

「自分で助けるって言っておきながら、いざ自分の力が及ばなそうな相手になるとこうだ。情けないったらありゃしない。どれだけ修行しようが、二年前と性根は変わってないよ」


 自分よりも圧倒的に強い相手に、何もできずにチャッマニーを奪われていく。


 チャッマニーはサクチャイの言葉を聞くと、顔に両手を伸ばした。


「うごっ」

「……こっち見ろ」

「おまえ、いきなり何をしやが――」


 チャッマニーの顔が異様に近いことにサクチャイは気付いた。


(すげーいい匂い。息当たる。垂れた髪が頬に張り付く)


 おでこに滑らかな感触をサクチャイは感じた。


 チャッマニーの顔が離れていく。そこでやっと自分が何をされたのか気付いた。


「あっ、あっ」

「元気、出たみたいね」


 チャッマニーは唇に指で触れた。

 とても愛おしそうに撫でる。


「ねえサクチャイ、少なくとも今のあんたは二年前とは違うよ」

「え?」

「あの時は、少なくともあたしを助けようと果敢に挑んでくれた。逃げるなんてことはしなかった」

「あっ……」


 言われて、やっと分かった。


 サクチャイは二年前のことがトラウマで、また同じ失敗はしたくないと無意識に挑戦さえも避けようとしていたのだ。


 サクチャイはあの弱かった頃の自分より、今の自分のほうが全て優れていると思っていた。

 けれど少なくとも土壇場での勇気に関しては、二年前のほうが上だった。


「ありがとう。チャッマニー」


 初心を思い出したサクチャイは、モンコンを装着する。


 村のみんながチャッマニーを救うために糸一本一本に祈りを捧げて、編んでくれた。


「うん。いつものサクチャイに戻った。ちょっと会おうと寄っただけなのに、いきなりあんな病気にでもかかったみたいな状態になっていて驚いたよ」

「ごめんな。わざわざこんなことまでしてもらって」

「ううん。好きでやったからいいの」


 それを聞くと、サクチャイはチャッマニーを宥めようとする。


「おいおい。いくらもうしたからってあまりみだりに惚れた男以外に接吻はしないほうがいいぞ。たとえ口以外でもな」

「……口は大事なの?」

「当然、一番大事だ。他はまだしも、口は恋人同士だけだ」

「じゃあ勝ったら、ご褒美に次は口にしてあげる」

「はっ?」

「あたし、サクチャイのことが好きなんだ。ずっと昔から」

「……」


 固まって、フリーズするサクチャイ。


 チャッマニーは、がんばってねーと最後に激励すると控室から出ていった。


 取り残されるサクチャイ。


 既に開かれた出入り口から、今度はイチロウが中へ入ってきた。


「遅刻して申し訳ないでござる! でも今しがたドゥアンがコンゲーに勝ったことで第一試合が終わったため、セコンドとしてはギリギリ間に合ったので許してちょんまげ!」

「……いいよ」

「こんなふざけた謝り方でもいいのでござるか!? たまにはノリがいいでござるなサクチャイ殿!」

「それよりもさ、キスの味ってどんなのだろうな?」

「ご乱心!?」


 アナウンスに呼ばれても、蕩け切った表情でいるサクチャイ。いつまでも動かない彼をイチロウは引きずりながら、入場ゲートまで運んでいった。


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