一章 古式ムエタイ使いサクチャイ 1
ラジャダムナン・スタジアムの試合から二年前。
タイの東北地方イサーンにおける辺境にあるスア村。そこの近くにあるソンクラーム川のほとりに、当時十四歳のサクチャイがいた。
現在よりも身長も低ければ肉体の厚みも少なく、ひと回り小柄だった。
それでも腹筋は八つに割れていて。幾重にも拳タコができたことで拳自体が石ころのように丸くなっていた。
彼の前には、いくつもの小舟が川で浮いていた。形状も大きさもバラバラだった。
隣にいたサクチャイの祖父が声をかける。
「はじめ」
聞こえると、サクチャイはほとりから川へジャンプした。
船へ着地する。どこにも括りつけられていないため揺れる。水飛沫を浴びながら、安定しない船上で体を動かす。
「蛇の牙」
祖父がそう言うと、サクチャイは左拳を前に伸ばしだす。
縦に横に斜めと向きが変化する拳が、様々な軌道を描いて一か所に集まっていく。
バチャンバチャン
全身運動で体勢さえも変えていく。船がさらに激しく揺れるが、サクチャイは決して落ちることなく、また拳の勢いを緩めるなんてこともしなかった。
「灯火を消す」
別の船へ飛び乗るサクチャイ。
そこでは船に足が触れたらすぐにまた飛んで、空中で縦に一回転しながら蹴る。
船を乗り換えながら、祖父の言った通りに技を繰り返す。
やがて元いた位置にサクチャイは帰ってきた。
祖父の前に立つと、岩の上で膝をついて頭に両手を置いた。
ひと呼吸入れてから、祖父は告げる。
「重心を保ちにくい水の上で、乱れることなく型をこなした……上出来だ。サクチャイ」
「ありがとうございます」
礼節のために丁寧語を使いながらも、嬉しさを隠しきれずにサクチャイの口元はニヤケてしまっていた。
祖父も今日ばかりはと見逃して、話を続ける。
「今日まで、お前へ先祖代々伝わるスア流ムエボーランを教えてきた。スア流は伝説のナックモエであるナーイカノムトムが使っていた誇り高き流派じゃ」
「はい。大いなる先祖たちに恥じないくらいの使い手になりたいと思います」
「うむ。だが正直言って、お前はスア流の歴史でも類を見ない天才じゃ。その歳で奥義を除いた全ての技を覚え、船上での型さえもこなしてしまった……あとは奥義を学べば、史上最短でおまえがスア流の皆伝者になるであろう」
「はい。必ずや習得してみせます」
「……しかし奥義を覚えたところで終わりではないぞサクチャイ」
「え?」
褒められ、気概を見せるサクチャイだったが、次の祖父の言葉で困惑する。
それを見た祖父は、わざとらしく咳をした。
「ごっほん。サクチャイ、師の前で下手に狼狽してはならんぞ」
「あっ、すみません。でも奥義を覚えても終わりはないとはどういうことでしょうか? 祖父」。
祖父は謝罪を聞き遂げてから言った。
「お前は、なんのためにムエボーランをする?」
「なんのため……祖父やスア流を継いできた先祖に恥じないためです」
その答えに、祖父は溜息を吐いた。
「残念ながらそれでは駄目だ」
「そうなんですか!? なぜだめなんです?」
「わしからは答えを教えられない。自分で考えなさい……さて今日はもう帰ろう。家で鉄柱打ちをやりなさい」
「……分かりました」
釈然としないまま、船の片付けを始めるサクチャイ。荷台にまとめて積むと、リアカーを引いて帰っていく。
竹林から材料を収穫して、自分たちで建てたバンブーハウスにスア村の住民たちはそれぞれ住んでいた。じめじめと暑い中で、風が穴から入って抜けていく。
村に戻ってきたサクチャイは、自宅でムエボーランの鍛錬の続きをする。
家の中央に天井まで伸びた鋼鉄の柱があり、それに肉体を打ち付ける。拳、肘、膝、脛、と次々と全力でぶつける。
修行を始めた頃は皮が破れて肉が裂けた。露出した骨が欠けたりすることなどもあった。しかし傷を重ねながらも鉄柱へ体をぶつけることで身体は順応し、今では鋼鉄並みの硬さをサクチャイは得ることが出来た。
この時のサクチャイが鉄柱を連打しても、皮膚がほんの少し赤くなる程度に済んでいた。
規定の回数をこなしたところで、サクチャイは手を止める。川の水を浴びて帰ってきたのかと思うくらい大量の汗をかいていた。
「……」
休憩してから、サクチャイは借りた船を大工に返しにいくことにした。
村内を歩いている途中で、桃色のシワーライを着ている少女が前に現れた。
タイでは珍しい白い肌。しかも絹のようにきめ細やかで綺麗だ。艶のある長い黒髪と相まって、まだ幼いはずなのに女の色気を感じさせる。
整った顔で笑みを作る。それだけでサクチャイの胸がドキッとした。
「おはようサクチャイ」
「もう昼だぞ」
「今日初めて会ったから、こんにちはじゃなくておはよう」
話している内に少女の性格を思い出したサクチャイは冷めていく。
彼女の名前はチャッマニー。サクチャイの幼馴染だった。
「なにその呆れたような表情? こんな美少女が、村では変人扱いされて他の誰も話しかけない平凡な外見の男の子にせっかく声かけてあげたのに」
「……はあ。おまえほんと性格ひどいよな」
これではいくら見た目が良かろうが、百年の恋も冷めてしまう
サクチャイは止めていたリアカーを引き出して、そのまま彼女から離れようとする。
チャッマニーは並行して歩いてきて、そのまま話しかけてくる、
「あんたにだけよ。女の子相手にこんな風に話したら美貌で嫉妬されちゃうし、男なんて会話しただけで大抵は付きまとわれるからそもそも口すら聞かないもの」
「それでおれだけ迷惑被るってわけか」
「いいじゃない。あんた、あたし以外に子供の知り合いいないでしょ?」
「……うっせーな」
「あははは。怒った怒った。図星なんだ。よかった」
「なにもよくねえよ」
昔からチャッマニーはこんな調子だった。
会うたびにサクチャイをからかって、反応されると楽しそうに笑いだす。
当のサクチャイ自身は、あまりいいとは思っていなかった。
「それで? また修行?」
「そうだよ……さっきやっと完全にひと通りの型ができるようになったんだ」
「ふーん。嬉しそう」
「今まで頑張ってきたことが実ったんだぞ。嬉しいに決まってるだろう」
「そっ……だから友達できないんだよ」
「それとこれとは関係ないだろ!」
修業の成果なんてどうでもよさそうな態度からの当てつけ。
やっぱりこの女は好きになれない。と心中でぐちるサクチャイだった。
強く言われると、チャッマニーは顔が見えないように横へ回す。
「まあよかったんじゃない……あたしにはよく分からないけど」
そう言った彼女の表情は、少しばつが悪そうだった。
位置の都合上、見えないサクチャイは、おまえのことなんて知るかよと邪険に思ってしまう。
「こっちは悩んでいるっていうのによ……」
「なになに? なにかしでかして、おじいちゃん怒らせちゃったの?」
「おまえほんとおれが不幸になると、生き生きとしだすよね」
「うん。あたし、サクチャイの困った顔大好き」
笑顔で言ってから、恥ずかしそうに手を隠す。
(こんなやつに言いたくないけど、もしかしたらヒントくらいは聞けるかもしれないしな)
帰り道ずっと祖父の問いかけを考えていたのだが、あれ以上の答えはサクチャイには思いつかなかった。
知らないことで却って良い提案が浮かぶかもしれないと、嫌々ながらも彼女へ話してみた。
「あははははは! なにその答え! だめ。お腹痛い!」
聞き終えたチャッマニーは大笑いする。
そんな簡単に思いつくようなことなのかと、サクチャイは唖然としながら尋ねる。
「なにが悪いのか分かったのか?」
「いいや、なんにも。ただ、すごいあんたらしいなって」
「なんの答えにもなってないな。どうやらおまえに訊いたおれが馬鹿だったようだ」
後悔してから、足を早めるサクチャイ。
チャッマニーはそれにも合わせて隣をキープする。
「待って。はっきりとは分からないけど、多分あんたの考えすぎなんだって」
「どういうことだ?」
「あんたってともかく頭固くて融通が利かないでしょ」
「悪口ならもう聞かんぞ」
「そうじゃないって……あんた真面目に考えすぎなんだって。もう少しリラックスして、今とは違う視点で考えてみるとか」
「ふむ。言われてみればそんな気もする……けど違う視点とは?」
「たまにはムエボーラン以外のことを考えてみるのもいいんじゃない?」
「ムエボーランじゃないことか……」
体の弱かった母はサクチャイを産んで死に、父も自我が芽生える前に事故で死んだ。
周囲に祖父しかいなかった彼は、二本足で歩けようになった頃にはもうムエボーランの後継者として育てられていた。
そんなサクチャイの記憶には、祖父とのムエボーランの修業しかなかった。
(強いて他にあるとしたら、こいつくらいかな。村の子供たちにいじめられていたところを助けたら、こうして出会った時には話しかけられるようになった)
今では村で慕われているチャッマニーも幼い頃は大人たちからその可憐さを褒められていたことで、子供たちからは妬まれていたのだった。助けるためにムエボーランを使ったせいで、次の日から、サクチャイ自身は他の村の子供たちから恐れられて一切話せなくなってしまったが。
「思い返すとおれの人生、ムエボーラン以外はまったくないな」
虚空を見るように、いつもと同じ青い空を見上げるサクチャイ。
見ていないところでチャッマニーは急に頬を赤らめて、早口で語り出した。
「それでね。ここにバンコクの遊園地のチケットが二枚あるんだけど……もらいものなんだけど、お父さんは忙しいらしいしお母さんも家を離れるわけにはいかないって言うから。たまの息抜きも兼ねて、もしよかったらあんた……あれ? お父さん?」
話している途中で、彼女は自宅に異変が起きているのを発見する。
天に異変が起こる。
晴天だったはずの空に、暗雲が立ち込めてきた。