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四章 象衛騎士と真実 2

 

 翌日の正午過ぎに、サクチャイはトレーニングルームにいた。

 

 最新のトレーニング機材に囲まれる中で、逆立ちしながら腕立てをしていた。


「器具は使わないのでござるか」

「ムエボーランの練習に、そんなものは必要ない」


 最新器具は安全で便利なぶん使用してしまったら甘えて、厳しさを失ってしまうため鍛錬にはならない。


 祖父からそう教わったサクチャイは、ジムに入ってからもずっとトレーニング機材を使わなかった。


「そういえば朝は珍しくここにいたでござるね」


 朝、サクチャイはいつものように外にランニングにいかず、トレーニングルームでマシンを使って走っていた。


 そして六時頃にこの場所に来たイチロウにそれを見られたというわけだ。


 サクチャイは心苦しそうに答えた。


「会いたくなかったんだ」

「誰にござるか?」

「プラヤーに」


 サクチャイは初めて青年の名前を口にした。


 頭に浮かぶ彼にその名前はしっくりきた。本当にあの優しい目をした青年と戦うんだなと実感する。


「走っている時に、いつも会っていたでござったっけ? 騙されて、むかっ腹が立ったというところでござるか?」

「そうっちゃそうなんだけど……」


 サクチャイの今の感情は、怒りではなく恐怖だった。


 昨日の試合を見て、プラヤーに勝つイメージが分からない。クアーンの時は対策さえあればと思ったが、プラヤーにはそんなもの通用するとは思えなかった。そもそもそのクアーンへの策もプラヤーが考えたものだった。


 たった一晩で、サクチャイの青年に対する思いは恐怖心に染まりきってしまった。


「ほー。そうなんでござるか」


 それをイチロウに話すと、返ってきた反応はただの相槌だった。


「軽いな」

「尻も軽ければ頭も軽い女性も好きでござる」

「そうじゃなくてだな」

「実はそんなにプラヤー殿の強さが拙者には分からなくて。ほんとあっというまに終わってしまったでござるから」


 呑気に笑うイチロウ。どうやら本当に分かっていないようだった。


 サクチャイは呆れながら説明する。


「体重差は分かるよな?」

「それくらいなら。ムエタイは全十八階級でござるよね?」

「その内、国内でまともに試合があるのは十二階級くらいだ。重量級はほとんど試合をやってない。まあそれについてはどうでもいい。大事なのはその階級差は、大体一~三キログラムで分かれていることだ……Jの体重は一一〇。昨日のプラヤーの体重は七五。その差は三五キログラムで、ライト級がヘビー級を正面から圧倒したようなものだ」


 八階級も上の相手。

 一階級や二階級程度ならよくあることだが、ここまで差が開くと普通はどうしようもない。素人相手ならまだやりようはあるが、別競技とはいえJは仮にもプロだから、それには当てはまらなかった。

 

 ここまで話して、ようやくプラヤーの脅威を理解したイチロウ。

 

 納得してから、ふと浮かんだ疑問を投げつけてきた。


「でもサクチャイ殿らしくないでござるよね。その理屈」

「はあ?」

「いやだって、実戦では体重で相手が分けられてないとかいつもなら言いそうでござるし」

「……」


 認めるのも小癪だが、イチロウの言い分はその通りだった。


 本当は、自分がプラヤーに勝つ想像が浮かばないのだ。それを体重差どうこうで取り繕っていた。


 あの前蹴りが迫ってくると思うと、あの膝がもし当たったと思うと。


 自分が地面に這いつくばっているイメージしか浮かばなかった。


 とりあえず鍛錬を継続するが、サクチャイの悩みは夜まで続くこととなった。




 夜になると、サクチャイはホテルのベッドに座っていた。イチロウは出かけていて、今はいないため部屋にひとりだった。


「ちくしょう! これじゃ負けちまう!」


 ベッドを叩くが、スプリングによって手が跳ね返った。


 サクチャイは苦しそうに声を出す。


「負けちゃ駄目なんだ……負けたらチャッマニーが……」


 あんなにも追い込まれていたチャッマニー。


 何もしてないのに、ただ美人に生まれただけであそこまで悲しむ羽目になるなんて不条理だ。


 絶対に、助けてやりたい。


「でも、おれなんかじゃ……」


 二年前を思い出す。


 正直、あの頃の自分は調子に乗っていた。

 スア流のほとんどを極め、祖父に認められたことで自分が最強だと勘違いしていた。万能感に溢れていて、なんでもできると思っていた。


 でも、そんなことはなかった。

 

 ドゥアンと対決して、上には上がいる現実を思い知らされた。

 

 あれから必死に鍛えて昔とは比較にならない実力を身に付けたが、まだ自分より格上がいた。

 

 何のためにムエボーランをするのか?


「分かりません。祖父。おれは初めて、ムエボーランのことが嫌いになりそうです」


 あの日の祖父の疑問に、未だサクチャイは答えを出せずにいた。


 自我が生まれる前から当たり前に行ってきたこと。そこへ芽生えた最初の感情は、なんと嫌悪だった。


 こんな小さな力しかないことが、サクチャイには許せなかった。

 

 できることなら、今からでもチャッマニーを奪い返せるほど強い力が欲しかった。

 

 コンコン

 

 ドアがノックされた。

 サクチャイひとりの時は特に閉めてはいない。廊下側からドアが開けられると、外から部屋に人が入ってきた。

 

 イチロウならばノックはしない。


 では誰だ? 


 疑問に思うサクチャイは、入ってきた人物へ目線を向けた。


「おまえは……!」

「よう。元気かい?」


 ドゥアンがソファの前に立っていた。


 サクチャイは憎悪剥き出しで問い詰める。


「なにをしに来た?」

「部屋を間違えた」

「そんなわけないだろうが!」

「そうだな。俺はこんな小さなツインじゃなくて、最上階のスイートルームだからな」


 ドゥアンはソファには座らず、ガラスのテーブルに腰をかけてサクチャイを見下ろす。


「わざわざ挑発しにきたか?」

「おまえ如きを? はっ。プラヤーに負けるおまえに、そんなことする必要がどこにある?」


 冷笑するドゥアン。


 さっきまで悩んでいたことと同じことを言われて、サクチャイは胸に硬いものがつっかえる思いをする。


 それを見透かしてか、蔑むようにドゥアンは言ってきた。


「その顔はどうやら図星みたいだな。ああそうさ。あんな化け物、おまえじゃ逆立ちしたって勝てん。俺のオッズが二位なのも、あいつがいるからだ」

「あんたも負けるのか?」

「一〇〇回やって九九回は負けるだろうな」


 薄々と勘付いてはいたが、やはりプラヤーはドゥアンよりも強かった。


 ドゥアンを基準にずっと修行していたのだ。ならばそれよりも格上には勝てるはずがない。


 サクチャイの心に暗い陰りがさした。


「とりあえず今夜ここに来た用事を果たすことにしよう」

「なんだそれは?」

「契約書だ。本当におまえが金を支払いできたら、あの娘を返すというな」


 内容を読み取ると、ドゥアンの言った通りだった。

 借金を全て返し終わったら、もうチャッマニーの周囲に近づかない。


「次の試合、おれが負けると思ってるのにこんなもの渡すのか」

「……仕事だからな。それに、契約書をちゃんと読めば分かるはずだが、期限までに返済が終わらなかったらおまえ自身がお嬢ちゃんの三〇メートル以内に近づいてはいけないことになるからな。もし破ったら法律を違反したことにより、その場で銃殺刑だ」


 首をかっ切るジェスチャーをするドゥアン。


 やはりこの男とは相容れない。


 サクチャイは同じムエボーランを習ったはずなのに、ドゥアンに対して深い地割れに近い隔たりを感じた。


「それじゃあばよ。次に出会う時は、そっちは死体になってるかもしれないが」

 

 ドゥアンは振り返って、部屋から出ようとした。


「――待て」


 しかしドゥアンが歩き出す前に、サクチャイは背中へ声をかけた。


「あっ? なんだ?」

「あんた、さっき一〇〇回中九九回は負けるって言ったな」

「……その通りだ」

「じゃあ一回は勝てるのか?」


 違和感を覚えたので、試しに尋ねてみた。


 ただ絶望感を煽るための言葉だったら、意味はないだろう。だがなんらかの確信があって言ったのならば。

 

 ドゥアンは顔を見せないまま、わずかに両端の唇の角度を上げた。


「そうだ。一回だけなら俺はやつに勝てる。しかも、偶然によるものではなく、その勝ちを初戦に持ってこられる」


 ドゥアンがなんの勝算もなく大会に挑むとは考えられなかったが、やはり策があったらしい。


 確かに初戦さえ勝てれば、トーナメントとしてはそれでよかった。



「そしてそれは、おまえにも可能なはずだ」

「おれとあんたに共通しているもの……ムエボーランか。だけどムエボーランなんかじゃ」

「スア流にも、()()があるだろ?」

 

 矢で射抜かれたような思いを、サクチャイは味わう。

 

 自分から目を反らす。


「存在自体はある。だけどあれだけは絶対に使わないと、祖父には宣言している」

「負けちゃ駄目なんだ……負けたらチャッマニーが……」


 聞いていたのか、サクチャイの独り言を声まで真似るドゥアン。


「っ……!」

「いいかガキ? あのお嬢ちゃんを今回救えなかったら、もう絶対に助けられない。社長は骨の髄まであの娘をしゃぶるつもりだろうな。どうしても助けたいなら、流派のことなんて捨てちまえよ」

「それは……」

「こっちに来て数か月。もう気付いちゃいると思うが、どうせ技の公開なんてしたって、誰も死なねえぞ。殺し合いの時代はとっくに終わっている」

「うう……」


 ドァウンの言う通りだった。


 このバンコクで暮らし、ムエタイに携わることで分かったが、数十年前から厳守されていたスア流の掟というのはもう古かった。


 自分がこれまで必死に守ってきたことが否定されて悔しかったが、サクチャイは何も言い返せなかった。


「確かに未知のアドバンテージは大きい。試合前は取材厳守する選手も多いしな。だが負けたからと言って、それだけで死ぬような時代ではもうなくなったんだ」

「そうだな……うん。そうだ」


 薄々感じていたことを明言されて、ようやくサクチャイは認められた。


 少し気持ちが軽くなったところで、話題を戻す。


「言いたいことは分かった。でもスア流の奥義は、あそこまでの巨漢を想定していない」

「だと思った。よし、ついてこい」


 言うと、ドゥアンは部屋から出ていく。サクチャイは迷ったが、彼についていった。


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