三章 悪魔の左脚 6
「カウンターの回転肘! 美しいくらいに見事な攻撃だ!」
「いやー素晴らしいものを拝ませてもらいました。一回目の裏拳を撒き餌にして、ほぼ同じ態勢から、より鋭い肘を打ち込む。ムエタイとしてもこれ以上にないくらいの回転肘で、芸術技賞を贈りたいくらいです。一回戦を見て分かってましたが、やはりムエボーランは凄い」
絶賛されるサクチャイの技の組み立て。
カウントを告げられるが、誰もがサクチャイの勝利を確信していた。ギャンブルの券を捨てるものもいた。
「二、三、四」
「……」
「これはもしや!? もしや立ち上がるのかクアーン!?」
「あそこまで上手く決められちゃうと、普通は立てないですけどね……」
「しかし本人は立ち上がるつもりだ! 重そうに体を動かしていく!」
のそりのそりと上半身を少しずつ起こすクアーン。
鉛の重りでもついているかのように、肉体が床へ落ちようとする。
観客が騒ぐ先で、悔しそうに歯ぎしりをする。
「うるせえよ……」
おいらを馬鹿にするんじゃねえ。
視界が点滅して、闇と現実が繰り返される。
クアーンにとって嫌な思い出が、脳内をよぎる。
クアーンは昔、近所の子供たちから嫌がらせを受けていた。家は貧乏で顔は不細工さらには喧嘩も弱いと、弱者を痛めつける趣味があるものからすると最高の標的だったからだ。
周囲は、誰も味方はしてくれなかった。
石を投げられても、水をかけられても、針で刺されても。周囲の人間は何もせずに見ているだけだった。むしろ加担する人物ばかりが増えた。
両親からさえも、首謀者である子供の親が仕事の雇い主だからと見捨てられた。
……何もないんだよ。おいらには。
本当はサッカーをやりたかったけど、動きもどんくさければスパイクさえ買うお金がなかった。学校もいくお金もなければ、奨学金を得られるほどの頭の良さもなかった。仕事だって不器用で要領も悪いからろくなものを選べそうになかった。
(――こいつ以外、おいらにはない。それも負けちまったら、本当に何もなくなっちまう)
クアーンは全身に力を漲らせる。
肉体の状態なんて考えていない。この後、どうなってもいい。ただ負けたくないと、必死に敗北を覆そうとしていた。
ふいにクアーンの視界の中で、真っ白な床が遠ざかっていった。
「八、九――」
「――立ち上がったぁああ! クアーンついに立ち上がりました!」
「彼にこんな根気があったとは……」
審判のカウントが止まった。
状態を訊かれると、クアーンは頷いた。頭が虚ろな感じで、何を言っているのかもう分からなかったが、こういう時は頷きを繰り返せば続行させてくれた。
クアーンが思った通りに、審判はTKOの判定を出さなかった。
試合の再開が決まる。
残心をしていて、油断はなかったサクチャイ。即座に遠ざかった分を詰めると、蛇の牙で消耗させていく。
(なんだこのパンチ。フリッカーに近いけど、あれよりも重く、しかも的確に防御をすり抜けてくる)
スウェーバックなどのボディワークで致命傷は避けるが、体を大きく動かすごとに体力は消費していく。
勝つには、こちらも攻めるしかない。
クアーンは絡みついてくる蛇の牙を左腕で振り払うと、そのまま左ミドルキックを放った。
「……!」
待っていましたとばかりに、サクチャイは回転肘のモーションに入る。
ローキックでも駄目となると、左の蹴り技でこの肘を防ぐ術はない。
サクチャイからすると避けられるのだけが怖いが、カウンターならば問題ない。
たとえ強引に回避行動を取ったとしても態勢を大きく崩すため、そこに追い打ちをかければよかった。
この敗北必至の危機に、クアーンは普段よりも右に大きく軸足を踏み込む。
――悪魔の左爪
ローキックよりもさらに内側へカーブする左ミドルキック。
それが、サクチャイの右の脇腹へ叩き込まれた。
「がはっ」
サクチャイの体が横にくの字に曲がる。
回転していた勢いも足されて、猛烈な衝撃力が体内に発された。
今度はサクチャイがダウンした。
「うぉおおお! これはなんということだ!? 勝ち寸前までいっていたサクチャイが一撃でダウンを取り返された!」
「悪魔の左脚ですね。これだから彼は怖い」
どれだけ相手が丁寧にダメージを積み上げても、一発で全て台無しにする。まさしくクアーンの左脚は対戦者からすると悪魔だった。
「それにしても、状況に合わせた上手い蹴りでした。発想力もですが、足腰がしっかり鍛えられて基礎ができていないと、それを土壇場で応用するなんてことは難しいんですよね」
「でも彼は練習をしていないとか?」
「ほんと羨ましい才能ですよ」
実況と解説の声がマイクで会場中に聞こえる。
リングの下から立っているクアーンを見上げるトレーナーは独り言のように話す。
「いいや。練習ならうちのジムでは一番しているさ」
彼は今でも、クアーンに初めて出会った時のことを覚えていた。
パンクしてぺちゃんこになったサッカーボールを持った裸足の小汚い少年。自分を馬鹿にするみんなを見返したいから、ムエタイをやらせてくれと言ってきた。
貧民層がムエタイ家になるのは珍しいことではない。成長するまでは最低限の衣食住を用意してくれて、若い内から相当な金額を稼げるからだ。
現在ではクアーンは人前では努力をしない遊び人のフリをするが、昔は昼夜ぶっ通して長く厳しい練習をする男だった。それでも、最初のほうは芽が出なかった。他人より十倍の努力をしても、素質が十一倍劣っていたら人並み以下だからだ。
負けがこんで引退を考えていた時期もあった。
けれどそんな時に、遊びでサッカーをやらせたら偶然見つかった今のスタイル。ボレーシュートの形での蹴りが、悪魔の左脚を生んだのだ。
生きる価値がないと思っていた男に、ようやく降り注いできた才能だった。
「今でも、練習の密度自体は変わっていない」
アヒルの子がチャンスを掴んだことで、醜さを隠して白鳥になろうともがいている。
人によっては愚としか考えられない行為だが、これまで付き合ってきたトレーナーは応援してやりたかった。
「はあ……はあ……」
どうやらリングの上に変化が起こったようだった。実況が唸る。
「サクチャイ立ち上がった! カウントはまだだ!」
「ちっ。じゃあ今度はその無駄な根性も発揮できないように眠らせてやるよ」
「クアーン!」
クアーンがコーナーマットから出ていく前に、セコンドは叫んだ。
「あっ?」
「冷静にいけ。おまえもかなりのダメージを抱えている」
「分かっているよ」
「ならばいい……それじゃ勝て! 勝ってこいクアーン!」
「おうよ!」
トレーナーの声を背中に受けて、クアーンは突き走った。
クアーンが接近してくるのが、サクチャイの視界におぼろげに映る。
(強い。本当に強いこいつ)
実戦ではないムエタイを、サクチャイは本心では舐めていた。
殺す気がない技術などあまい。所詮は見世物だと。
けれど実態は違っていた。殺さないことで、相手は技を知ったままリベンジしてくる。見世物な分、ムエタイ選手は何度も技を見られて研究される。そんな環境で勝利を得続けるには、知られていても問題ないほど飛び抜けた何かを持っていなければならないのだ。
目の前にいる男が、無知な自分でも分かるようにそれを証明してくれた。
(今では、あなたたちを尊敬している。ただの見世物小屋の演者ではない。立派な戦士だ)
だからこそ、次は敬意を表して技を出そう。
左ミドルキック。
サクチャイは蹴りの始動に合わせて、後ろへ回った。
(潰された手を二度も使うのかこの馬鹿は!)
この変形左ミドルキックは回転肘でも裏拳でも関係ない。
クアーンは横に大きく踏み込んだ軸足に合わせて蹴りを行う。
グオン!
風が巻く。結果は空振りだった。
「なにっ」
クアーンが感触のなさに驚いた瞬間、左の横腹がとんでもない硬いもので貫かれる思いを味わった。
飛び後ろ回し蹴り。
サクチャイは、今度は自分からは前に出ずにクアーンの蹴りをその場でやり過ごすと、脚が通り過ぎるのを見計らって、軸足で跳躍して足の裏を相手へ当てた。
回転と跳躍。
そして隙だらけの個所に打ち込まれたことで当たられた威力は大きかった。
「……まだだ。まだ終わっちゃいねえ」
「クアーン! 痛みを我慢して、すぐ反撃を仕掛けた!」
飛び後ろ回し蹴りなら、そのままの左ミドルキックが邪魔されずに打ち込める。
今度こそ背骨を破壊しようとクアーンは蹴るが、すると今度は回転肘が振り返ったサクチャイの肩口から伸びてきた。
「うおっ」
足を即座に戻して、スウェーバックで肘を躱すクアーン。
トレーナーの冷静になれという言葉が、蹴りの寸前に頭によぎったことで攻めに全神経を費やさなかったからこそできた芸当だった。
(……落ち着け。やつがしてくることをよく考えろ)
裏拳。回転肘。飛び後ろ回し蹴り。
全部、左蹴りへのカウンターで途中までモーションが同じだ。
(裏拳、回転肘には変形ミドルを打てばいい。飛び後ろ回し蹴りには、普段の左ミドル――)
サクチャイの蛇の牙が、クアーンの思考を分断した。
応戦して、クアーンは蹴る。蹴りながら、どうするか考える。
「攻撃をぶつけ合うふたり! 一Rからのノーガードの殴り合いに、会場の熱もグングン上昇する!」
「三択を押し付けられていますね。クアーンは」
「三択? それはどういうことでしょうかクームーさん」
「牽制を除いて、サクチャイが使用している技は三つです。それらは守りや回避にもなっていて、クアーンが左キックを決めるにはこの技のどれかを抜くしかないのですが、それぞれ別対応をしなくてはいけないのです」
裏拳と回転肘を悪魔の左爪ひとつで済ませられると、先程クアーンは考えていたがそれは思い違いだった。もし選んだ蹴りが外れだった時のことを恐れて、前半よりも踏み込みが浅くなっている。
そのため、今では背中でも止められるほどまでに脚撃の威力が軽減している。なので敵を仕留めるには裏拳にはローキックを合わせるしかなかった。
突き付けられた選択肢に、クアーンは翻弄される。
それでも対応が正確だったのならば、一回当たっただけでまた倒されるほどの破壊力を持っているから、サクチャイかするとたまらなかった。
現在、両者の間で行われているのは削り合いだ。
皮が細切れとなって剥がれ、肉が潰れて骨が削れ、血が口内に溜まっていく。相手からの攻撃が掠るごとに恐怖し、自分の技が失敗すると怒りが募る。精神も肉体も、両者の体がぶつかるごとに消耗する。
それぞれが困難を打破したいのに、ワンミスでもしたら負けという状況維持を強いられている。
グローブが弾ける音が耳元で響く。相手の汗が飛んできてかかる。
自分の拳が相手の肉体にめり込むと、その部分と混ざり合ったような感じがして、なんだか相手と一体化したようだった。
おいらにはこの左脚しかない。この左脚で稼いだお金に、みんな寄ってきてるだけだ。
打撃に乗って、相手の心の声が聞こえてくる。
この左脚が通用しなくなれば、また馬鹿にされる。そんなの嫌だ。
体内に伝わる衝撃から相手のこれまでの人生が視えた。
全て気のせいかもしれない。
だけど――これまで培った技術を、鍛えた肉体を、育てた精神を――この目の前の男がぶつけていることは本当だった。
(認めてやるよ。おまえの強さを)
裏拳がクアーンの鼻先を掠る。ザシュッと切れたのは分かった
脳内麻薬が出ているため、もう痛みはない。
血で空に線を描きながら、クアーンは次の手を繰り出す。
(これはあいつに使う奥の手だったが、ここで負けても意味がねえ。使わせてもらうぜ)
左キックの姿勢から、右拳が大きく動いた。
「なんとこれは!?」
右ショートフック。
クアーンが現在のスタイルになってから、長いこと使用していなかった左の蹴り以外の攻撃技だった。
左脚を磨け。だが左脚にお前自身が殺されずに活かせ。
トレーナーから言われて、欠かさず練習しておいた。
(おいらは、左脚以外は並み以下の選手だ)
だけどそんな拙い拳でも、場面さえ選べば効果を発揮する。
――悪魔のイタズラ。
事実、観客も実況も解説も控室にいる他の選手も、この場にいる全員が度肝を抜かれていた。その誰もが、もしリングにいたのならこの右フックをもらっていたのは間違っていなかった。
力いっぱい握った拳がサクチャイの頬に接触した。
ぐるりっ
「!?」
サクチャイの首が真後ろまで回転する。一周すると、鞭のようにしなる右腕が後からついてくるのが見えた。
(風で巻かれる風車。ここまで打ち合って分かった。あんたは怠けものなんかじゃない。日頃からしっかり鍛錬を積んでいる。だからこそ、この瞬間をおれは待っていた)
右フックの勢いが加算されて威力が増した裏拳が、クアーンのこめかみに叩きつけられた。
床にふせるクアーン。
どうやら意識を失ったようだ。
審判は十の数字を数えると、サクチャイへ手を向けた。
「勝者――サクチャイ・シリラック!」




