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三章 悪魔の左脚 5

 

 サクチャイはリングの上にいた。今宵、これから二回戦が始まるのだ。

 

 もう自分の入場は終わっている。

 一回戦同様、最初の試合のため空間内では独特で無機質な匂いがした。


「ほぼ無名ながらもあの期待の新人ングーを倒して、二回戦に進出しましたねサクチャイ」

「実力は本物ということでしょう。しかしそれでも、クアーンに勝てるかというと怪しいですね。彼は中軽量級にも関わらず、優勝を対象にした賭けのオッズが高いのは、重量級でも当たれば倒しかねないあの左脚があるからです。近い体重しかもクアーンよりも軽いとなると、確実に前回と同じく一撃で沈みます」

「ギャンブルの話が出ましたが、今回の試合は五対一でクアーン有利な予想なようです。サクチャイの快進撃はここにて打ち止めなのでしょうか?」


 実況は時間を確認して、そこで言葉を切った。


 数秒後に、クアーンがゲートを潜って姿を露にする。


 我が目を疑う光景を目の当たりにして、観客たちはざわめきだした。


「おおっとこれはハーレム! 美女集団を引き連れて今日は入場だ!」

 

 裸すれすれの格好をさせた十人の美女にクアーンは囲まれていた。美女全員の肉体の一部が必ずどこかに触れている。


 ❤❤❤

 

 一歩進むごとに別の美女とキスをする。

 そして同時に観客を煽るように挑発的に舌を出す。

 

 罵倒の嵐の中心にいたまま、リングに上がってきた。

 

 クアーンは夜景の下でもきらりと輝くスーツを脱がさせると、地面へ放り投げた。


「それいらねえからやるよ」

「きゃー!」


 リングから降りて、スーツに群がる美女たち。奪い合いになると、他の女に暴力を振るってでも欲しがる。


「あれ。本物の金を使っているから高いんだよな」

 

 クアーンは目の前にいるサクチャイへ話す。


「趣味が悪いな」

「服? それとも今やらせていること?」

「どっちもだ」

「……はん。モテない貧乏人の戯言だな」


 客たちへの行動と同様に、サクチャイを挑発するようベロを出した。


 審判の道具のチェックが終わると、ふたりは離れた。


 もうすぐ試合が開始する。


 クアーンは一呼吸入れ、サクチャイは相手の一挙一動を観察する。


 審判が腕を交差させた。あとはもうグローブ同士を突き合わせたら、後はもう言葉のやり取りはなくなり、肉体同士をぶつけ合うことしかここではできなくなる。


 辛い時間が始まる。


 苦しみから逃れられるのは、自分が倒れるか――相手を倒すかしかない。


「……!」


 クアーンはグローブが離れきる前に、蹴りの態勢に入った。紳士協定に反するが、明確なルール違反ではない。


 ブオン!


 大きく重い斧が、空気を切り裂く音。

 横からそれが聞こえたサクチャイは、跳躍するようにバックステップした。


 ロープに背中をぶつける。そのまま体を預けるなんてことはなく、立ち上がって構え直した。


「おおっと悪魔の左脚の奇襲は外れたか!?」

「いや。そういうわけではないようですね」


 熱い。


 サクチャイは腹の辺りに熱を感じた。斜めに伸びた大きな痣が浮かび上がっている。


(掠っただけでこれかよ)

 

 ぞくり、と背筋に恐怖を覚える。

 

 ロープ際にクアーンは詰める。サクチャイは横へ逃げるが、追うように左蹴りが迫ってきた。

 

 一発当たれば致命傷。しかも戻しが素早いため、隙を突くなんてことはできなかった。

 

 逃げていると、ついにコーナーマットにぶつかる。


 袋小路に追い詰められたサクチャイ。


 左ミドルキックが打たれる。


(ここで仕掛けないと、もう後はない)


 逃げ切れないと判断するやいなや、サクチャイは行動した。


 敵に背を見せた。

 蹴りの途中で、クアーンは思考する。


裏拳(トイガップ)! 背中で止めるつもりか!)


 後ろに向かって回転しているサクチャイ。このタイミングではクアーンの左脛は背中に衝突する。

 そして自分は顔面へ握りしめた手の甲を叩きつける。

 

 ミドルキックの防御をしつつ攻撃するという攻防の両方を考えた対策。

 

 クアーンからすると、サウスポーより嫌な作戦ではあった。


(だけどあまい。おいらの左脚は、背骨ごと砕く)


 背中は筋肉が集中している場所で、防御だけを考えると人間の肉体部位で最も優れていた。

 けれどクアーンの左ミドルキックはそれを容赦なく断裂する。

 前に同じ手を使ってきた相手もいたが、ヒビを入れてやった。

 

 大金が懸かったこの大会では普段と違って手を抜く必要なんてないから、その時よりも遥かに強い蹴りをぶつける。

 

 クアーンは軌道に乗ってくるはずの背中へ向かって、全力で左脛を加速させた。

 

 衝突までの一秒にも満たないとても短い時の間に、クアーンの蹴りの勢いがわずかに緩まる。

 

 サクチャイの右の太腿の裏側が、クアーンの太腿に当たっていた。

 

 蹴りよりも先に、裏拳がクアーンの顔面に襲いかかる。


「ぐおっ」


 予想外のことに思わずのけぞるクアーン。


 幸い、右腕のブロックに当たったことで直撃は免れた。


 ダメージこそ少ないが、精神に動揺が走る。


(そうきたか。脛と違って太腿は柔らかく、おまけに力も乗らない。なのに根元に近いせいで、ここの勢いを止められると爪先まで止まってしまう)


 サクチャイ側は上半身の動きなので、太腿にぶつかっても平気だった。


 完全に左ミドルキックが封じられた。


 コーナーマットから離れるサクチャイ。リングの中央を挟むように、クアーンと正対する。


 出方を待つクアーン。


(確かにミドルキック(テッラントァー)のほうはもう出せないな。だけどよく考えたら、その作戦だと太腿ががら空きになるぜ小僧)


 サクチャイの太腿の裏にローキックをお見舞いすることにした。

 

 こりゃ痛いぜ。想像できないくらい痛い。

 

 普通に当たるだけでも立てなくなるほどの激痛なのに、裏という当たり慣れてない部位だともっと痛みは増大する。MMAミックスマーシャルアーツではカーフキックと呼ばれる技としてあった。

 

 邪悪な企みに、クアーンは顔を歪ませて白い歯を見せた。

 

 そんなことを考えているなんて知るはずもないサクチャイはじっと待っていた。左ミドルキックにカウンターをぶつけることに専念しているのだろう。クアーンが技を打つまで、自分も動かないつもりだ。

 

 それならお望み通りにしてやる。結果は真逆だろうけどな。一生、思い出したくないほどの苦痛を刻んでやるよ。

 

 クアーンは左ミドルキックと同じ始動をする。

 

 顔を真後ろに向けて、見えなくなっている間にローキックに変化させるつもりだった。


(きた!)


 重心を移動させて、軌道を内側に曲げる。

 狙い通りに太腿に直撃するコースになった。


 クアーンは裏拳に備えて、右腕のブロックを固めておく。


(今度はこっちの番だ。死ね)

 

 あれ?

 

 視界の中で予想とはズレていくサクチャイの両足。

 

 かなり近い。

 これじゃ拳だと縮み過ぎてしまって、威力がない。

 

 そこまで考えが回ったところでようやくクアーンは気付いた。

 

 しかしもう遅い。

 

 ブロックを抜けたサクチャイの()()は、クアーンの頬に突き刺さった。

 

 衝撃によってクアーンは倒れる。

 

 うわあああああ!

 

 大声で盛り上がる観客。

 

 作戦通りの行動をしたサクチャイは、悠々とコーナーマットに向かった。


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