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三章 悪魔の左脚 1

 

 トランクスから私服に着替えたサクチャイは客席を歩いていた。

 上はTシャツに下はデニムを着ている。

 

 大金星とはいえ、二試合だけした新人では顔も覚えられてないため素顔のままでも平気だった。気付くものもいたが、その誰もが憎しみを込めた視線をぶつけてきた。

 

 手すりにもたれているイチロウを発見する。

 脇まで近づくと、向こうから声をかけてきた。


「お疲れさまでござるサクチャイ殿。ドクターチェックは終わったようで?」

「ああ。さっきはありがとうな、イチロウ」

「自分からしても拙い手つきだったでござるが、そう言ってもらえると何よりでござる」

「ところで試合は?」


 本来はセコンドのイチロウも医務室まで付き合うはずだったが、試合をチェックさせるために外させた。


 しおりと結果が書かれた文字を見ながら、イチロウは話す。


「第三試合まで終わったところでござるね。試合結果はやはり――」

「どっちもKO?」

「左様。しかも片方は一Rで、サクチャイ殿の予想通りでしたでござる」


 ムエタイは通常、判定による試合結果が多い。


 これは短い期間に多くの試合をこなすため、それぞれの選手が自分も相手も怪我をしないように気を付けているからだ。またギャンブル客は選手の調子を直に見てから賭けたいため、序盤での決着を好んでいなかった。運営側もその要望に合わせて、選手たちに最初は手を抜かせている。


 このスリヨータイ・トーナメントにはそういう制約はない。そしていくら客に嫌われようが一〇〇〇万バーツという大金さえ手に入ってしまえば、もう稼ぐ必要がなくなる。


 だから選手は最初から全力で試合をする。

 その結果が、審判に媚びたような貼り付いた笑顔が消え、鋭い目つきによる真剣な面立ちで殴り合う短期決戦によるKOの連続だった。


「会場も大盛り上がりでござるよ。やっぱり倒し合いこそが、格闘技の楽しみでござる」

「ガルーダの思惑通りってことか」

「インターネットによる国外への放送も好感触なようでござるね」


 話している内に、次の試合が始まる。


 サクチャイも同じように手すりに手をかけながら観戦する。スタジアムはムービングブロック構造のため、今は専用のムエタイ会場のように上からでも試合が見やすい形状になっていた。


 小さなリングの中で、打ち合う選手たち。


 技が決まるごとに声があがり、選手が倒れるとより大きな声があがった。


 それからサクチャイたちは第七試合まで観戦した。


 第五試合を勝ち上がったのは、アメリカ人キックボクサーの(ジェイ)

 ムエタイの技術は未熟だが、一一〇キログラムという大会出場選手の中でも最重量が持つパワーは侮れない。

 第六試合勝者はムエタイ最年長でベテランのコンゲー。

 選手の誰もがいつものムエタイの試合と違うことをやろうとしているのに対して、この男は普段のムエタイと変わらない。熟練したテクニックで相手をいなすことで、ここまでの試合で唯一の判定勝利で二回戦進出を果たした。


 そして第七試合――


「勝ちましたぞ! よく知らない競技でも知り合いが勝つと、やはり嬉しいものでござるな!」

「……ああ。そうだな」


 勝者を称える声が、会場からあがる。


「ドゥアン!」「ドゥアン!」

「やはり強いドァウン! この大会の優勝候補の一角。ルンピニーとラジャダムナンのタイトルを統一し、勝ち過ぎたあまりに相手がいなくなったことで引退を余儀なくされたあの伝説の男が、今宵リングに蘇った!」


 敗者を前に、ドゥアンはリングで拳を掲げた。


「……」


 会場内で唯一、冷たい目線を送るサクチャイは試合内容を回想する。


 ドゥアンの対戦相手のミョーナインウーは、ミャンマーのラウェイの選手だった。ミャンマーとタイは、隣国であるはずなのにそんなに仲が良くない。出入りの時も、タイ人の観客からはドゥアンとは真逆の冷ややかな視線を送られていた。


 しかし、その実力は本物だった。


 試合の開始直後、ドゥアンのローキックが直撃した。

 金属バットを思いっきり叩きつけたような音がだった。


 勝利を確信する観客たち。

 

 だが、対戦相手のミョーナインウーは憮然とした表情を崩さないまま自分もローキックで反撃した。

 

 地球上で最も過激な格闘技ラウェイ。

 ラウェイはグローブではなくバンテージで殴り合ううえ、頭突きや関節技も有りだ。そんなルールでミョーナインウーはKOどころかダウンすらしたことがなかった。ムエタイ以上に凶暴なルールで猛威を奮った頑丈な肉体は、ムエタイのリングではまさしく鉄の鎧のようだった。


 防御を捨て、ノーガードで打ち合うミョーナインウー。

 殴り合いならば、自分の体が先に倒れるわけはないという自信によるものだった。トーナメントではたとえ勝ち上がっても絶対に回復しきれずに、どこかで敗退する戦法だが、一回戦だけに絞るなら、今大会最強だ。ミョーナインウー自身もムエタイのスター選手に勝ったなら、祖国の威信を保てて本望だった。


 一発打たれても、三発返すドゥアン。それでもドゥアンが一方的に消耗していった。


 そして一R終了寸前、明らかに衰えたハイキックをドゥアンは放った。

 隙ありと見て、ミョーナインウーも全力のハイキックをぶつける。僅かにミョーナインウーのほうの蹴りが早く当たるかと思われたが、


 ――戦場で刃を折る(ダーブパッブ)


 蹴り同士が当たった。技のインパクトの位置的に普通ならば触れさえもするはずないが、ドゥアンの脚は空中で曲がって、膝をミョーナインウーの脛へ突き出していた。


 硬いものほど、壊れる時は一気に崩れ去る。

 先程までの勇猛な姿などなかったように、情けない悲鳴をあげてミョーナインウーは倒れた。

 彼の脛の骨は折れ、そのまま試合はドァウンのTKOテクニカルノックアウト勝利だった。


 戦場で刃を折るは、達人なら裸身でも鋼の剣と衝突して、剣の側を折るともいわれているムエボーランの技だった。


(分かってはいたが、やっぱり勝ったか……)


 二年前と変わらない技のキレ。観衆さえ騙す戦巧者ぶり。


 ドゥアンは相手を倒した後にはもうケロっと元気な顔をしていて、どうやら消耗や最後のハイキックは技へ誘い込む演技のようだった。

 

 今の試合を観戦して、サクチャイは改めて、ドゥアンの強さを実感していた。


 リングに残ったドゥアンは余裕の笑みで、勝利者インタビューを受けている。


「先程の試合の感想は?」

「かつてのスリヨータイ戦争のようにいかないよう、ビルマに負けないため頑張りました。リベンジできたと思います」


 そのコメントで会場が湧き上がった。特にタイ人は大盛り上がりしている。

 

 引き続き、質問に対して答えを返す。その最中に、またサクチャイはドゥアンと目が合った。


「それでは最後に、何か言いたいことはありますか?」

「そうですね。()()()()()()()には気を付けろってことですかね」

「え? 悪魔?」

 

 困惑するアナウンサー。


 ドァウンは合わせていた視線を外す。


「日本のことわざで魔が差す。人間、誰しも油断があるので気を付けたいということです」


 補足の言葉に納得するアナウンサーと観客。そのままインタピューが終わると、ドゥアンは花道を凱旋していった。


(もしやさっきの発言、おれへ言ったのか?)


 明らかに故意で、目を合わせてきた。最後の言葉も、その場で考えたように取って付けたような感じだった。


 ならば何かしらの意味があるのだろうか?


 どれだけサクチャイが考えても、ドゥアンの思惑は読み切れなかった。


(悪魔のイタズラ……知ったところで、何にもならないか。結局、俺が頑張れることは次の相手に勝つことだ)


 いなくなったことで、余計な考えをする必要はないとサクチャイは思い直した。


「さて次が第八試合で、これで最後か」

「いえ。次は第二試合でござる。あと第八試合はないでござる」

「どういうことだ?」


 急なイチロウの話に、困惑するサクチャイ。


 サクチャイの次の対戦相手が決まる第二試合はもう終わっているはずだ。それとこのスリヨータイ・トーナメントの出場枠は十六人なため、第八試合までないとおかしい。


 浮かんだ疑問を尋ねると、イチロウはひとつずつ教えてくれた。


「選手が遅刻したらしくて、第二試合を最後に回したそうでござる」

「遅刻? そんな馬鹿な」


 ムエタイの試合を戦ではなく見世物と見下すサクチャイだが、それでもわざわざ大事な大会で遅れるなんて考えられないことだった。


 どんな選手なんだと怪訝に思うが、自分の眼で次の相手の動きを見物できるのはいい収穫なので、サクチャイは素直に残って試合を観戦することにした。


「第八試合については、どうやらそれだけ、別の日でやるようでござる」

「なんでだ? 一回の戦いだけならそんなに時間も取らないだろ」

「そこまでは拙者には……」

 

 イチロウも首を横へ傾げるばかりだった。

 

 特別扱いなのか? 逆に異端扱いでハブかれているのか?

 

 ここで訊いたとしても、先日までムエタイそのものをろくに分からなかったイチロウが知る由がないと諦める。

 

 近くの観客席を眺めると、別の客同士のやりとりが気になった。


「なんだ? あの横長い紙は?」

「あーあれでござるか。試合の勝ち負けを予想して、購入するものです。勝ったらお金が倍率に応じてお金がもらえるでござる」

「エンターテインメントじゃなかったのか?」

「あくまで重視するだけで、ギャンブル自体は行うということでござろう。度を過ぎなければ、ギャンブルもまたエンターテイメントでござる。他のスタジアムと違うのは、トラブルの原因となる個人同士の賭けは禁止して、観光客でも分かりやすいように簡略化し、会場の入口付近でお手軽に買えるようにしたところでござるな」


 試合の勝ち負けだけじゃなく、誰が優勝するのかを当てる賭けもあるらしい。


「それの倍率によると、さっき戦ったングーは上から九位でござるね」

「あれより強いのが八人もいるのか……ちなみに俺は?」

「ビリで、一六一倍の万馬券でござる。あとさっきの試合は五対一で個人同士の試合では、最高倍率と最低倍率のオッズでござった」

「期待はしてなかったけど、いざ言葉にされると心にグサッとくるものがあるな」


 傷つくと同時に納得するサクチャイ。


 先程の試合の後、この前以上のブーイングの嵐を浴びたのだ。八百長の疑いがある選手が勝ったことによるものだと半信半疑に納得していたが、やはり金が絡んでいた。


「というか、やけに詳しくないかおまえ?」

「い、いえ。そ、そんなことはないでござるよ。これくらい日本人なら一般教養でござる」


 指摘されると、ばればれの嘘を吐くイチロウ。

 サクチャイは呆れる。


「なんでこの前、異国で作られたばかりの賭けの倍率を知ってるんだよ……イチロウ。おまえ、また賭けやったな。この前の失敗で懲りたんじゃないのか? おれと繋がりがある間は、やめろとも言っただろう」

「分かりました。絶対にもうやりません」


 勢いよく頭を下げて、謝罪するイチロウ。

 

 サクチャイはもう信じてないが、とりあえずこの場は何も言わないことにした。

 

 話していると時間が経った。遅れた選手が着いたと場内アナウンスされ、ようやく今日最後の試合が始まる。

 

 手すりに乗り出すサクチャイとイチロウ。


「ところでなせ遅刻なんてしたのだろうな?」

「さあ? ただこんな大金がかかった試合でいいかげんな理由で不戦敗になんてことにはなりたくないでしょうから、よほどの事情があるのでござろう。たとえば病気のブラコンの妹の手術が試合の前にあったりして」

「変な本の読み過ぎだ……あっ、来たみたいだ」

「おお義兄者! 拙者に美少女の妹をくだされ!」


 懇願するイチロウだったが、現れた選手を前にすると石のように固まった。


「な、なんですとぉおおおお!?」


 ゲートにいるそいつは両脇に美女を抱えていた。

 黄金色の派手なスーツを着て、大きな宝石が嵌められた指輪を両手にいくつもしている。

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