プロローグ
かつてタイがアユタヤだった頃、戦争でビルマに敗退した。
敵国に捕らわれの身となったアユタヤの戦士ナーイカノムトムは、共に捕虜になったアユタヤの民たちの解放をビルマ王に求め、要求を成立させる条件に武装するモン族の戦士九人へ素手で挑むこととなる。
不可能だとせせら笑うビルマの王と兵士の前で、彼は勝利を積み重ねていく。
カノムトムが九人全員を倒すと、ビルマ王は彼を認め、捕虜の解放とカノムトム自身への褒美に美しい女性を与えた。
そのナーイカノムトムが使っていた拳法こそがムエタイ――嵐の拳である。
約六メートル四方をロープで囲んだ周囲で、叫び声が響く。
月曜日の今日は、ここラジャダムナン・スタジアムでムエタイの試合が開催されていた。
先程、第七試合が終わった。
外国人観光客が座っている一階席と二階席からは、勝敗に関係なく試合を頑張った選手たちに拍手が送られる。
スポーツマンシップにのっとった礼儀正しい観戦の姿勢だった
しかし最上階である三階席からは、礼節とは真逆の怨嗟の声が聞こえてきた。
鉄網によって仕切られた空間内で、椅子にも座らず、地元住民であるタイ人たちが立ち上がってひしめき合っている。ほぼ密着状態の観客間では、金の受け渡しが行われていた。ムエタイの試合はタイでは合法化されたギャンブルでもあるため、この光景は日常茶飯事であった。
試合結果が出たため、胴元に集めた金が予想的中した客に分配されたり、また個人で賭博をしていたもの同士での賭け金のやり取りが行われる。
トラブルが起きて取っ組み合いの喧嘩がところどころで発生して、賭けを外した客たちは敗者にブーイングを飛ばし、勝者には賭けが当たった客たちの歓声が湧く。その激しい熱量と動きは、まるで炎の揺らめきのようだった。
試合を終えた選手たちがリングから去ると、スタジアムの観客全員がメインイベントである第八試合を待った。
わずかな待機時間の後、入場口に人の影が見えた。
静まり返る会場。
民族楽器であるピーナチャイの音色が特徴的な音楽だけが唯一鳴り響く。
独特なリズムを刻む音色の中で、ピラット・タンスリンク選手は入場してきた。
ピラットの全身は引き締まりつつも、筋肉が付いた部分は逞しく盛り上がっている。速度と力を両立した強い選手だと、ムエタイを見慣れていない一階や二階の観客たちでもひと目で見て取れた。
リングに上がってワイクルーを踊った彼は、曲の途中で切り上げてコーナーマットに寄りかかった。
「なんでオレが先なんだ? 予定では普通に後だったろ?」
セコンドと会話するピラット。
音楽で聞こえにくいため、お互いに耳元で話す。
「どうやら対戦相手が遅れているらしい」
「おいおい。ラジャダムナンの現ウェルター級王者のこのピラット様を待たせるつもりなのかよアイツは。お仕置きで一RKOしてやろうか?」
「客が騒ぐからやめとけ。下手したら賭けに負けた客から刺されるぞ」
「他より秀でた実力があるのに、手加減しないといけないボクチンかわいそう」
やがて音楽がやむ。
そのまま相手が来るまで、ピラットは待機する。
ざわめき始める観客。
「さすがに遅くねえか?」
「あ、ああ」
十分待っても、対戦相手は入場してこない、
その間もリングに独りでいたピラットは、セコンドを怒鳴りつける。
「どういうことだ! 相手が来なければ、いつまで経っても試合が始まらねえぞ!」
「相手もなんらかの事情があるんだろう。もしかしたら、このまま中止しかねないが」
ズシン!
ピラットはコーナーマットを蹴った。あまりの威力に反対側のロープまで揺れる。
青筋を立てたまま、セコンドに話しかける。
「それじゃ困るんだよ……今、財布がスッカラカンなんだよオレは……」
「おまえ。また夜遊びで使い果たしたのか?」
「そうだよ。それの何が悪い? オレが稼いだ金だろ。オレが何に使うのかは自由じゃねえか?」
何度も注意したのにも関わらず、まったく悪びれないピラットにセコンドは呆れた。
ずっと来ない試合相手にイラつくピラット。
その内、セコンドの元に会場スタッフが訪れる。観客に聞こえないよう、ひそひそと話し込む。
セコンドが頷くと、スタッフは去っていった。
「なんだって? もし中止だったら、アイツらの誰かを蹴り殺して金を奪ってやる」
「本来の試合相手は、急病で来られないそうだ。昨日まではそんな前触れもなく元気だったから、おそらくおまえと対決して負傷するのを恐れた仮病だろ。おまえ最近、荒れがちだし」
「腰抜けが。ナックモエなら、死ぬ気できやがれ」
「いくらムエタイと言えども、選手が戦士と呼ばれる時代でもないだろ……ちょっと待ってろ。試合は代理を立てて、ちゃんと行うそうだ」
「代理? 誰だ?」
「ティアウジムの二階級下の新人らしい」
「……噛ませ犬ってことか」
「他のみんなは、おまえを怖がって受けなかったそうだ。感謝してほどほどに手加減してやれ」
てことは、おれにビビんなかったってことか。新人のくせに生意気だな。
ムカつきはするものの、相手をしてくれたことについてピラットはありがたく思った。
スタッフが慌ただしく会場を駆け巡っている。どうやら痺れを切らした観客が暴れているらしい。それにつられて、他の客も騒ぎだす。
さっきまでと違って、喧騒がスタジアムを包む。
その中で鳴り始める入場曲。
予定とは違った選手が顔を出してきたことで、観客たちはよりいっそう大騒ぎする。
「……」
黒髪で色黒。
タイ人にとっては凡庸な容姿の少年は、たどたどしい動きでリングまで来る。
「ビビッてんのか?」
「初戦なうえに噛ませ犬だ。しょうがないことだろう」
白いキャンパスの上でワイクルーを舞う少年。
床に膝をついて頭を下げる。上半身だけを浮かせた状態で。手を回しながら構えを取る。立ち上がると、また手を回しながら構えつつ、リング全体を歩き回る。
既にピラットの倍以上の時間ワイクルーをしている。
それでも終わらないことに、観客は苛立ち始める。
「時間稼ぎか!」「さっさと始めろ!」
罵声を浴びせられても、やめる様子を見せない少年。
気にすることなく、神々と自らのムエタイの師に感謝を捧げる舞を踊る。
ふと目が合うピラット。
じっとこちらを凝視する瞳。反らす時も慌ててではなく、まるで実験途中の研究対象を見終えた研究者のように堂々とした態度でワイクルーに戻る。
「ムカつく……」
「おまえまで乗せられてどうする。明らかにおまえの平常心を崩すための作戦だろうが」
「新入りが小賢しい手を使ってんじゃねえよ!」
教えられたことで、余計にピラットの怒りは募った。
制御不能になった激情は、時に普段では絶対にしないことをも選択させる。
「決めた。手は抜かねえ、一RKOだ」
「だからそれはやめろって」
「チャンピオンと階級が軽い新人だ。どうせ大穴狙い以外は、オレに全部賭ける。それに審判も客も長いワイクルーをするヤツにイラついていて、生意気な新人があっけなく負けて現実を教えられることを望んでいるだろうよ……あと一Rで済ませば、七日間の休憩で次の試合をしてもいい。試合をすればアンタの懐も潤うんだから、悪い話ではないだろう」
「……スタジアムとジムの外まで責任は取れんぞ」
ピラットの提案を、セコンドは呑んだ。
音楽が止まると、ついに少年はワイクルーを終えた。
コーナーマットで試合開始を待つ彼を、ピラットは注視する。
(傷が多いな。そして新人とは思えないほど鍛えられている。なるほど、これなら調子に乗っているのも頷ける。だけど所詮は田舎で猿山の大将を気取ってた程度だろ。場数が違う)
戦力分析を済ませたピラットは深呼吸する。
見上げると、光の反射をする箱に詰められた眩い大型ライト。
息を吸うと同時に匂ってくるリングに染み込んだこれまで戦ってきた選手たちの汗とわずかな血の匂い。
ただでさえ湿って暑いタイなのに会場の熱気によってさらに温まった空気が、口内を渦巻いた。
審判に少年の名前が呼ばれる。サクチャイ・シリラックと。
三階の観客席では賭けが始まる。一R目なのに、どの客も大金をピラットの勝利に積む。
互いの選手が中央まで進むと、ゴングが鳴った。試合開始だ。
「……」
「なんだあの構えは?」「まともに戦えるのかその体勢で?」
サクチャイはオーソドックスのまま足を大きく広げ、ベタ足で構えた。
拳の位置も顎まで下げている。
背をまっすぐ伸ばし、足も拳も高い位置に置く正統派のピラットとはまったく違うサクチャイの構えに、観客たちは怪訝な反応を示した。
「防御なんてまるで考えてなさそうだな。習いたての幼児でももっとましだぞ」
馬鹿にするピラット。それでもサクチャイは構えを変えないまま、じっとその場から移動せずにいた。
「来ないなら、こっちから行くぜクソガキ……痛みは勉強料だと思いな!」
ツーステップから、しなるピラットの左脚。鞭のような強烈な蹴りがサクチャイを襲った。
太腿の内側に当たる。
衝撃が肉を貫いて、深くまで届くのを観客は予感した。
ピラットはすぐに足を引き戻すと、右のミドルキックを脇腹にぶつける。こちらも腰の入った重い蹴りだ。
高速でスイッチを繰り返しながら、左右からの蹴りを連打する。
防御で手一杯で反撃しないサクチャイは、一方的に攻撃され続ける。腕や脛で受けても、ピラットの蹴りはそこから衝撃が浸透するため、ダメージは免れていない。
拷問のような音が、リング中央から聞こえてくる。
「うわぁあああ!」
試合どころか残酷なショーになっているも関わらず、観客はヒートアップする。
――これでトドメだ。
ピラットはハイキックを打ちこんだ。
「ぐふっ」
ピラットの首が後ろにひん曲がって、上下の歯をかち合わせた。蹴りの体勢が崩れて、足をバタつかせながら後退する。
蹴りがインパクトするよりも先に、サクチャイの拳がピラットの顎に衝突していた。
ピラットは倒れないように踏ん張るものの、力の入らなくなった足が震えている。
(最短距離で左ストレートを打ち込んできやがった。しかも縦のまま。なんだそのパンチは!?)
普段ならそのまま打たれても、腕でブロックできた。けれど完全に意識が攻めになっていたことで虚を突かれてしまった。
いつまでも回復しない脚から、想像以上に効いていることを理解する。
ひとまず攻撃は中止して、ピラットは守りに専念することにした。
(このパンチの強さからして、ヤツはムエマッド(※パンチが得意な選手)。動けないけど、所詮は軽量級の拳だ。このままゴングが鳴るまで防げる)
そこまで時間を稼げば、完全に元通りになるはず。
追撃にきたサクチャイのワンツーを両腕でブロッキングする。階級に見合わない重さだが、防御が成功していれば耐えられる。
ピラットはブロッキングをわずかに開いて、そこから次のパンチを見切って防ごうとする。
覗いた先にあったのは、キックの体勢に入っていたサクチャイだった。
気付いた瞬間には、もう遅かった。
ガードの下を通って、サクチャイのミドルキックが炸裂する。
(……なんだこの威力……おまえはムエマッドではなかったのか?)
鋼鉄の棒が腹にめりこんだ感覚だった。
当たった部分のあばらが砕かれた。ピラットのキックが重い衝撃を伝えてダメージを与えるものなら、サクチャイのそれは狙った敵を粉砕する破壊の蹴りだった。
もがき苦しみながらダウンするピラット。
十カウントが告げられても立ち上がれなかった。
一斉に湧く観客。三階席は阿鼻叫喚と化した。
様々な感情を乗せた声が飛び交う中で、大番狂わせを起こして勝利したサクチャイは想う。
(たしかチャンピオンやメインイベントでの試合は十万バーツ……残りは、四九〇万。待ってろチャッマニー。おれは必ずおまえを救う)