山への誘い
灯の兄叶介は土日の二日間何処かへ行ったまま連絡が無かった。
灯は叶介が何処へ行ったのかは気にしたが、心配はしていなかった。
灯と叶介は歳が七つも離れている。幼い頃から、一緒に居る機会は少なかった。子供が一日の大半を過ごす学校に、一度も一緒に通えなかったのが大きいのだろう。
それに、叶介は活発で留守が多く、早くから叶介は家の中で自立している様に、灯には見えた。
灯の中で叶介の存在は希薄だった。家族というより、同居人だった。
しかし、お互い親愛の情はあった。一緒に行動する時は、普通の家族だった。
お互い社会人になってからも、灯も叶介も実家暮らしをしていた。
叶介は一度県外へ出たが、数年で帰って来た。山が沢山近くにある、ここが良いという。叶介は登山が好きだった。それ以外の叶介の事を灯は知らない。
叶介は秘密主義だった。灯も叶介に倣った。自分だけ、ペラペラ話すのもしゃくだったのもある。
しかし、それが兄妹の暮らしに、悪影響を及ぼす事など無かった。
顔を合わさない二日は長くなかった。
そして、叶介は二日目の夜に帰って来た。いつものように、ただいまも言わず。
灯はお茶を注ぎに行くついでと、自室から出て、叶介の様子を伺った。叶介は疲れた様子もなく、後ろめたそうな素振りも見せなかった。
「山登り行ってたの?」
「うん」
それは、叶介の服装ですぐにわかった。前に登山に出る時に、着ていた服装と同じだった。
「お前も、来いよ」
「えっ?」
叶介は面と向かって灯を誘った。初めての事だった。叶介は無表情で、声に抑揚もなく、灯はそれほど本気じゃないなと判断した。
「いいよ、疲れるもん」
灯は子供みたいな言い方をしたので、まさか、怒られるんじゃないだろうかと、叶介の顔をチラッと伺った。
叶介は表情を変えていなかった。少し疲れている様にも見えてきた。
「呼ばれているんだ」
「誰に?」
叶介は思い出す様に目線を上にすると、口を僅かに動かした。
「ん?」
灯は思わず眉間にシワを寄せた。
「知り合い、山の近くで暮らしてる」
「そっかぁ⋯⋯」
灯はその人を想像してみた。叶介の知り合いということは、単純に考えて、灯と十歳近くは離れているだろう。もしかしたら、中年の男性か、もしかしたら女性かもしれない。灯は興味が沸かなかった。
「私はいいから、お父さんとお母さんを誘ってあげなよぉ」
灯は愛想笑いを浮かべて、片手を振ると、そそくさと台所に向かった。
◇◇◇◇◇◇◇
「ホントに行くんだね」
次の土日、灯が朝起きると既に、両親と叶介がリビングで旅行仕度を整えて、今まさに出掛けようとしているのを見て呟いた。
「あんたも行くんなら、今からでも間に合うから、早く着替えなさい!」
母が寝間着姿の灯を咎めるように言った。
「私はいいよ、留守番してるから」
「お土産は無いわよ、山なんだから」
母が素っ気なく言った。兄と父はさっさと玄関へ向かった。
「お兄ちゃんが初めて旅行に連れてってくれるんだもん、山でも何処でも嬉しいわ。ホントに行かないの?」
「うん三人で楽しんできて」
「あんたがお留守番しててくれた方が、家の事、気にしなくていいかもね、よろしくね」
母は早口でそう言うと、遅れまいと玄関に向かった。灯もついて行った。
「じゃあねー」
母はそう言うと、灯に手を振った。父もつられた様に手を振った。二人が車に乗り込むと、叶介は発進させて、灯に見向きもしなかった。
そんな叶介を見て、ちょっと怒らせたかなぁと、灯は頭を掻いたが、今さら追いかける気は起きそうもなかった。
灯はリビングに戻ると、無意識に伸びをした。灯はのんびりと過ごすつもりだったが、母の実況に返事をしなければならなかった。
それも午後を過ぎると落ち着いてきて、そして次の日は一度も連絡がないまま、三人は夕方帰って来た。
「写真撮った? 見せて」
両親が着替えてリビングにやって来たのを見計らって、灯は二人にせがんだ。
ソファーに座った父が、デジカメをいじりだしたので、灯は横に座って覗いた。
写っているのはほとんど母で、風景をバックに遠くでも近くでも歯を見せて笑っていた。
風景だけの写真もあったが、名山ではないので、どこを狙って撮ったのかさえわからない。
旅館の部屋の写真になった。すると、叶介が写っていた。浴衣姿で山が見える窓を背景にしている上半身の写真だった。
しかし、撮るタイミングが悪かったらしく、目線が上を向いていて、口も僅かに開いていた。
なにかを見ている様にも、呆然としている様にも見えたが、悪い印象は無く、何故か灯にはいつもより男前に見えた。
「浴衣が似合うね」
きっとそのせいだと、灯は感想に込めて言った。
その後、食後の後片付けをしている母にくっついて、灯は言った。
「今度は、私がどっか旅行に連れてってあげる」
写真の母の笑顔を見て、灯も親孝行したくなった。
「それなら、あんたもお兄ちゃんが連れてってくれたところに行きなさい」
「また同じところ? 気に入ったの?」
母は食器を洗う動きを止めた。
「呼ばれているのよ」
「えっ」
「お兄ちゃん、そこの娘さんと、結婚するのよ」
「えー!」
灯は本当に腰が抜けそうになって、ふらついた。
「どんな人? 写真は?」
「写真は無いよ、会いに行ったんだから」
「それならそう言ってよ、そしたら、行ったのに」
「だから、今度行きなさい」
「うん」
「まだ、人に言っちゃダメよ。上手くいくかわからないんだから」
母の用心深い忠告に、灯も真剣な顔でうなずいた。
◇◇◇◇◇◇◇
叶介の結婚相手の家は、古く大きな木造だった。山の近くも近く、敷地を見渡して、灯は山の中かと錯覚した。
灯と叶介と両親を、玄関で和服の男女が迎えた。男性は青い着物姿の白髪の初老で、お辞儀をして迎えてくれた。
女性は美人で、叶介と歳が近く見えた。叶介に負けず色白で、黒髪を綺麗にまとめて上げて、細い体に、茶色に銀の斜の模様が入った着物姿だった。
この人が、兄の結婚相手だと、一目でわかった灯は、多少緊張しながら、お辞儀した。
畳の広い座敷で、改めて挨拶が交わされた。
女性は媛代といって、叶介と同い年だった。男性は媛代の父親で、母親は既に他界したとのことだった。
◇◇◇◇◇◇◇
その後、灯と両親は座敷に残されてたので、灯はぼんやり部屋を見回した。
「広いねぇ」
「そうね」
母が気の無い相づちをくれた。灯は襖の方に耳をすませてみた。
「静かだねぇ。こんな広い家、お兄ちゃんに不似合いじゃない?」
「そうね」
また、母が気の無い相づちをうった。灯も気が抜けてしまったが、息子が急に結婚する母の気持ちを思うと、灯はなにも言えなかった。意味もなく静かに座り直した。
父は背を向けて、何度もお茶を飲んでいる。
灯は縁側を見た。庭に名前はわからないが、立派な木が生えていた。木の幹というものは、どうしてあんなにも、人が隠れるのに丁度いい太さに育つんだろう? と灯はとりとめもなく考えた。
そして、そんな木が沢山生えている山を怖く思って、灯は母の腕にしがみついた。
母は何事かと身を固くしたが、優しく灯の肩を撫でてくれた。
そこへ、襖がスーッと開いて、和服の女性が現れた。灯は媛代かと思ったが、媛代より年上だった。
女性は大きな四角いお盆を脇に置いて、灯達の前に正座すると、お辞儀をした。お盆にのっているのは、畳んだ黒い着物だった。
「この度はおめでとうございます」
灯達も正座して、お辞儀を返した。すると、また一人和服の女性が現れて、同じお盆を灯の前に置いた。
「お父様は、こちらへ」
灯がじっとお盆の着物に見入っていると、後から来た女性が父を介抱する様に、親切に立ち上がらせた。父は黙ってついて行った。
襖が閉まると、今度は残った女性が灯に向かって言った。
「さぁ、この着物に着替えてください」
「ええ?」
「今夜、お兄さんと媛代さんの結婚式ですよ」
女性は着物を広げ始めた。それを母も手伝いだしたので、灯はされるがままになるしかなかった。
灯と母の着付けが済むと、女性は二人に赤い口紅を塗った。女性は鏡のある部屋に二人を連れていった。
薄暗い部屋で、姿見に映る灯は、黒髪を肩で切り揃えた髪型のせいか、日本人形を連想してしまい、自分がいつもより子供っぽく見えた。
「さぁ、もう準備が整いますよ」
女性が嬉しそうな笑顔を見せて言うと、さっきの座敷に灯と母を戻した。
座敷は薄暗くなっていた。部屋の真ん中に四角い箱が置いてあり、オレンジの光を放っていた。
灯はそれをしげしげと見てから、縁側に行った。
曇ったのかと思って空を見ると、夜になっていた。
灯がスマホの時計を確認すると、着付けをしている間に数時間が経っていた。
「お母さん、見て!」
母は灯の差し出したスマホの時間を見て、眉を寄せたが目を閉じた。
「お母さん?」
「お母さんは、お兄ちゃんの結婚式に来ただけだから⋯⋯」
母は目を閉じたまま、力無く言った。
「なに言ってんの!」
灯はスマホを操作したが、圏外になっているのに気づいて、カバンの中にスマホを放り投げると、母と父のカバンも持って襖へ向かった。
「帰るよ! 早く、お母さん!」
灯はカバン三つに、母まで手でどうにか動かすわけにはいかなかった。
早く早くと急かしている内に、足音が聞こえて襖が開いて、着付けをした女性が現れた。
「もう、式が始まりますよ」
灯は膝をついていたので、反射的に逃げる事が出来なかった。灯が呆然と女性を見つめていると、縁側にも女性が現れて、雨戸を閉めた。
二人の女性に、前から引っ張られ、後ろから押されて、灯と母は暗い部屋を出た。