12月23日
今この瞬間に、二酸化炭素排出量を抑える画期的な方法が発表されてすぐに実行された場合、実際に地球温暖化を食い止める効果が現れるまで何年、何十年の時間が必要なのだろうか。
……と、考えてみたところで専門知識を欠片も持ち合わせていない一般高校生男子に、その解を求めることはほぼ不可能だった。
だがそんなことを無作為に思考するほど、今の僕は暇を持て余しているのである。終業式、ホームルームを終え、誰もいなくなった教室の窓際で、だ。
「何をしていたのか?」と尋ねられたら「黄昏てましたぁー」としか答えようがないほど何もしていない。
どこからともなく出てきた小さなため息を吐き、先程からそうしていたように、窓の外を頬杖を突きながらただ眺める作業に戻るのだった。
ちょうど去年の今頃ならば、校舎の三階から見える生まれ故郷の街並みは、幻想的なまでのスノーホワイトに染まっているはずなのだが、今年はクリスマスイブを明日に控えているというのにも関わらず、目に入るのは無機質な灰色、黒、そればかりだ。
雪国生まれ、雪国育ちの僕としては、その事実が少し寂しく感じる……と見せかけてその実、除雪作業の煩わしさや公共交通機関の遅れなどの心配がなくなり「ヒャッホォウ!!」といった気持ちが九割九分九厘を占めている。
「地球温暖化万歳!!」とは口が裂けても言えないが、この街限定で気温が上がってくれるのは大歓迎だ。雪が降って喜ぶのは子供だけ、というのは恐らく豪雪地帯に住む人達の共通認識だろう。
ふと、先程まで同じ教室にいたクラスメイト数人が、楽しげに校門を潜り抜けていくのが見えた。彼ら、彼女らはクラスで中心的なグループのメンバーで、きっと明日の「二年C組クリスマスパーティー☆」についてあれやこれやと盛り上がっているのだろう。
反転、僕の立ち位置といえば、クラスメイトのほとんどが出席するその集まりに誘われなかった事実から察して欲しい。
いや、別にいじめられてるとかそんなんじゃないんだけどね。ほら、どこの学校にもいるじゃん。周りから少し浮いてて、みんなから距離を置かれてる奴って。そんな一匹狼的なポジションを格好いいと思っていた時期が僕にもありました、はい。
かといって、彼ら、彼女らに対し「リア充爆発しろぉぉぉ!!」なんて惨めな気持ちになるだけの呪詛を唱えるようなことはしない。
なぜなら例え青春の思い出を作る絶好のチャンスイベントにお呼ばれされなくたって、僕にはクリスマスを一緒に過ごす相手がいるからだ。
現に、放課後の教室にぽつんと残っているのは、学校が午前中に終わるというのに真っ直ぐ帰宅してしまい、親に「あの子、友達いないんじゃないのかしら……?」と余計な心配をされたくないからなんて理由ではなく……。
自分による、自分のための言い訳を自分の中で繰り広げていたところで突然、勢いよく戸を引く音が響いた。
噂をすればなんとやらだ。恐らく僕の待ち人である先輩が職員室から帰ってきたのだろう。眺めていた無機質な風景から視線を外し後ろを振り返る。
「遅かったですね先ぱ……」
水色と白のストライプが、そこにはあった。
シャンプーの残り香かなんなのか、先輩の黒髪から発せられる甘い匂いに引かれるようにして、顔の横を通り抜けていくそれを思わず視線で追ってしまう。
我ながら、こういう時の瞬間的な動体視力は凄いと思う。何も僕に限ったことではないだろうが。
これは全世界の男子の本能に刻み込まれた、初期状態から保有しているスキルに違いない。
と、そんな風に魅惑の縞々トライアングルを堪能し、脳内の鍵付きフォルダにしっかり保存している間にも、先輩の小さな体は僕が肘を乗せていた手すりに飛び乗り、窓を開け、身を乗り出し、雨どいに手を掛けると言う動作を手際良くこなしていた。
どういう意図でその行動を取るに至ったかは謎だが、危険なことだというのは良くわかる。縞パンに思考を犯されている場合じゃない、止めなければ。
「先輩っ、ごちそうさまでし……じゃなくてっ!! 何やってるんですかっ、危ないですよ!?」
お礼、もとい静止の言葉に振り返った先輩は、身体の半分以上を外の世界に出しながら、いつになく真剣な表情をしていた。
「交渉は決裂、我々の作戦は失敗に終わった。よってこれより一時戦線を離脱する」
ショートカットの髪型にアクセント付ける、星型の飾りが可愛らしいヘアピンを太陽光に反射させ、堂々と言い放つ。なんだよ、我々の作戦って。
「何訳のわからないこと言ってるんですか!? 危ないから早くこっちに降りてください!!」
「そうよ、私は降りるのよ。びゅーん」
全く躊躇する様子もなく、校舎の壁を這う雨どいのパイプを両手両足で掴み、緊張感ゼロの掛け声と共にするすると滑り降りていく。
その間の僕はというと、呆気に取られながら「ちょ、え、ま、危なっ」という情けない声をかろうじて出しているだけだった。
「ほぉぉぉしぃぃぃざぁぁぁきぃぃぃっっ!!!!」
先輩が無事に地面に着地したのを確認したところで、後ろから物凄い剣幕の怒鳴り声と、ドタドタという足音がやってきた。
見れば、先輩を職員室に呼び出した担任教師が肩で息をしながら立っていた。
「ハァ……ハァ……ほ、星咲はっ……どこだっ?」
担当科目は生物と科学、といった理系人間に迫力で押されながら窓の外を指差す。状況を理解したらしい三十二歳独身の男性教師は軽く舌打ちし、僕の隣から身を乗り出して叫んだ。
「星咲ぃぃぃぃぃぃっっ!! まだ話は終わってねぇぞぉぉぉぉぉぉっっ!!!!」
鼓膜が破けそうな程のボリュームに僕は耳を塞ぐ。なんだって人の耳傍でそんな大声を出すんだ馬鹿野郎。
当の先輩はというと、既に校門付近まで辿り着いていたのだが、自分を追ってきた声に振り返り、両手を口元に添えて反撃する。
「しつこい男はもてねぇぞぉぉぉぉぉぉっっ、ざまぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
「うるせぇぇぇぇぇぇっっ!! ぶっ殺すぞぉぉぉぉぉぉっっ!!!!」
仮にも聖職者という肩書きを持つ人間が、生徒に対して「殺す」などという単語を使ってもいいのだろうか。
そんな教師とは思えない教師に対してあっかんべーをした先輩は、くるりと方向転換して颯爽と駆けていった。
「星咲ぃっ、明日、ちゃんと行くんだぞぉぉぉっ!!」
それが、姿が見えなくなった先輩の耳に届いていたかはわからないが、横にいた僕にはしっかりと聞こえていたし、引っかかった。
「……明日、何かあるんですか?」
明日、クリスマスイブに。
「ん? あぁ、まぁな……」
僕の疑問に対し曖昧な返答をしてくれた先生の顔には、彼女に浮気がバレた彼氏が必死で言い訳を考えている時のような気まずさが出ていた。この人に限ってそういうシチュエーションは経験したことないだろうけど。モテないし。
「……後で本人に訊いてくれ」
そう言って僕の肩に軽く手を置き去って行く横顔はやつれ気味。まるで重石がぶら下がってでもいるような足取りから、先輩を追いかけるのに相当校内を走り回ったことが窺える。
そんな背中に哀れみの眼差しを送っていると、出入り口のところで「あ、そういえば」と振り返ってきた。
「星咲の鞄、職員室に置きっぱなしだから持って帰ってやってくれ」
「……はい」
結局、先輩と一緒に帰るために待っていた僕は、彼女の付属品と仲良く下校することになった。
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星咲宇宙。「うちゅう」と書いて「そら」と読む。それが僕の先輩であり、恋人の名前だ。
その文字が示す通り、彼女の脳内は宇宙電波の侵食を受けており、日常的にやや常識から逸脱した行動や発言を繰り返している。
しかし僕が惹かれた理由は、変人的な感性の裏に潜む、天才的な感性にある。
彼女の指先から描き出される世界は見る者を圧倒し、テーマによって様々な感情を与える。某イラスト投稿サイトに上げられた作品は、多くのユーザー達の目に止まり、絶大な評価を受け、その筋の人達の間ではちょっとした有名人にまでなっている。所謂、天才という奴だ。
そんな彼女との出会いはなんてことのない日常の中だった。
試験勉強のため、昼休みに図書室を利用していた僕は、教科書や参考書を開く傍らで、趣味である小説の執筆を行っていた。
時々、登録してある小説投稿サイトにオリジナル作品を上げてみたりするのだが、目にしていただいた方達からの評価は厳しいもので、「謎世界過ぎるww内容全く理解できねぇww」というコメントを頂いたこともある。
それでも書くことが好きだった僕は、ノートの隅に自分の中にだけ存在する世界を綴っていたのだ。
簡単に言えば自己満足。僕一人が楽しむにはそれで十分だった。
しかし、それは一人の人物の登場により簡単に壊されてしまう。
ある日、参考書に並んだ数式達と睨めっこする作業に集中力を切らしてしまった僕は、いつもと同じように誰に見せるでもない物語をノートの端に書き込んでいた。
その日は特に調子が良く、次々に沸いて出るストーリーにシャープペンを握る指が止まらない。
荒廃した未来の世界を舞台にしたSFアクション。書き手である僕自身が物語に吸い込まれていくような感覚。
はたから見ればニヤニヤしながら筆を走らせるその姿は、とても異様で不気味に映っただろう。だが、昼休みの図書室にはそんな気味の悪い男子生徒に興味を持つ人間はいない。だから周りの目というものを気にする必要はない。
と、完全に油断していた。
気が付いた時にはもう遅い。僕の姿勢の悪い背中の後ろから、こちらを覗き見ていた少女の視線と目があった。
「わあああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
慌ててノートを隠すように机に伏せる。突然叫んだことに驚いた様子だったが、すぐに笑顔になり、羞恥心で死にたくなっていた僕にこんな言葉を掛けたのだ。
「ねぇねぇ、続きは?」
「…………へ?」
馬鹿にされると思った。気持ち悪がられると思った。羞恥に慌てふためく姿を見て立ち去って欲しかった。
けれど彼女は、侮蔑の眼差しを向けるでもなく、批判の言葉を吐きかけてくるでもなく、僕の目を見て、笑顔で、物語の続きをねだったのだ。
「え、ちょ、そのっ……つづ、き、って……」
予想もしていなかった事態にただただ困惑する。その間にも、彼女は机を挟んだ正面の椅子に座り、手にしていたスケッチブックを広げ、なにかを描き始める。
まるで下書きをなぞるかのようにスラスラと動く彼女の指。滑らかに描かれる線の集合体は徐々に形を成していき、一枚のイラストがその全貌を現した。
「じゃーん」
そういって掲げたスケッチブックを見て、僕は言葉を失った。
形が崩れ、かろうじて原型を留めているだけのビル群が建ち並ぶ旧都市の上空で、炎と雷を散らしながら戦う二人の青年。
それはつい先程まで僕が書いていた物語の、僕の頭の中にだけあった世界を、高い完成度で表現していた。廃ビルが建ち並ぶ街の雰囲気も、大気汚染によって濁った空の色も、戦う二人の表情も、全てが僕の空想の風景と完全一致していた。
そんな奇跡のようなイラストに僕の心は惹かれ、その横にあったドヤッとした笑顔に僕の魂は恋をした。
その日から僕と先輩は、図書室の隅っこで様々な世界を作り上げていった。
時には先輩の家にお邪魔して創作談義に花を咲かせたり、お互いの趣味についてマニアックなトークを繰り広げたりした。
爪楊枝で1/50スケールの戦艦大和を作ったり、「ぐっ……右眼……邪眼が……ッ!」とか言い出した時には中二病ごっこにも付き合ってあげた。
「クリオネが見たい」と言われた時には水族館に、「マンモスが見たい」と言われた時には博物館に連れて行ったりもした。さすがに「この世の終りが見てみたい」と言われたときには頭を抱えたが。
とにかく、そんな日々を一年間過ごした僕達は、思春期の男女なら当然というか……その……まぁ、なんだ。今の関係に発展したのである。
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月光を遮る分厚い雲が、街明かりに照らされて紫色に染まる午後八時過ぎ。テニスコートや運動場などの施設が集まった市民公園のベンチに、自販機で購入したホット缶コーヒーで両手を温めながら僕は座っていた。
先輩に「鞄、届けますよ」という内容のメールを送ったところ、待ち合わせ場所に指定してきたのがここである。
本当はすぐにでも家まで届けて、ついでに先輩の部屋にお邪魔しようかとも思っていたのだが、「星咲家ヲ訪レルコト、コレヲ禁ズル」といった文面の返信がきたため、大人しく待ち合わせの約束に従った。きっと家まで来られては不味い事情でもあったのだろう。例えば学校での出来事が親の耳に入っていて、こっぴどくお叱りを受けているとか。そうでなければ……単純に僕のことが嫌いになった、か。うん、それだけは考えないようにしよう。
しかし、一度脳内を掠めたその不安は、強靭なツダ植物のように僕の心に絡みついて離れない。
自信がなかったのだ。先輩から好かれているという自信が。
先輩はよく「好き」という言葉をくれる。でもそれは僕自身にではなく、僕の作品に対してだ。
約半年前、先輩に告白した日。その時も「付き合ってください」に「いいよ」と返事はしてくれたが、僕のことを好きとは言ってくれていない。
思えば恋人関係になってからでさえも、好きと言われたことはなかったはずだ。
もちろん僕は先輩のことが大好きだし、愛しているし、あどけなさを内包したソプラノボイスを聴けば耳が幸せになるし、コロコロと変わる表情や子供っぽい仕草を愛おしく感じるし、歳の割には全く成長していない女性らしさを象徴する部分にムラムラもする。
先輩はそんな風な感情を抱くことがあるのだろうか。
もう冷たくなってしまった缶を握り、自分の吐息が白く広がり消えていくのを見つめながら考える。考えて、考えるだけ無駄だと、そう思った。
先輩の心の中は本人にしかわからないものだし、この感情には今の二人の関係に致命的な亀裂を生んでしまう危険性が秘められているような気がしたのだ。
結局、傷つくのが恐い臆病者の僕は、先輩が振り向いてくれるのをこうして待つことしかできないでいる。
「……っくしゅ!!」
それにしても遅い。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。いや、先輩が時間を守ったことなんて一度もないから慣れてはいるのだが。
冷たくなった携帯電話をポケットから取り出すと、ディスプレイには「20:32」と表示されていた。約束の時間から既に三十分以上が経過している。
多分、先輩がだらしないだけのことだとは思うが、念のため連絡を入れておこうと、アドレス帳を開いた時だった。
「めり~くりすますいぶいぶぅ~」
後ろのほうから、とても聞き慣れた声がした。
「遅いですよ、先輩」
何もなかったことに安心しつつ、ベンチから立ち上がり振り返ると、両脇に何かを抱えてサンタ帽をかぶった先輩がいた。
「……何ですか、それ?」
「見てのとーりだよ、じゃーん」
そういって差し出してきたのは、トナカイと思われる動物の被り物と、プラスチック製の赤いソリだった。
「はい、これ被って」
すぽっ、という間の抜けた音と共に、頭の上にずしりと重みが加わる。
「んでこれ持って」
ソリに取り付けられた紐を握らされる。
「よし、出発しんこー!!」
先程まで僕が持っていた鞄をちゃっかり掴み、ソリの上で体育座りをした先輩は、元気いっぱいに号令を出す。
「いやいやっ、全く状況が理解できないんですけど!?」
「のんのん、理解する必要はないのだよ。いつ、いかなる時でも、主人であるサンタクロースの要望に応えて、ただソリを引く……。それがトナカイがトナカイ足り得る、トナカイ魂だ!! さぁ、ソリを引くんだあああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
暗くなった市民公園の広い敷地に、楽しそうな声が響き渡った。
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「……先輩」
「ん~、なぁ~に~?」
「これ、どこに向かってるんですかね」
一応、噴水のある広場に向けて散策コースを進んではいるのだが。
「それは神のみぞ知る、だ。俺達はただ進むだけさ」
「アンタ座ってるだけだろ!! 進めてるの僕ですからね!? もう腕が限界なんですけどっ!!」
「限界を定めてしまった人間は、そこで歩みを止める。成長し続ける人間というのは、常にゴールのない道を進み続けているものなのさ」
「何カッコ良さげなこと言ってんですか!? 成長止まってるのはアンタの脳みそだろ!! 先輩、お願いだから大人になって!!」
できれば身体のほうは可愛らしいチンチクリンでいてください、というのは僕の中だけに留めておく。
ひと気のない公園の奇妙な一行。雪のないアスファルト上でソリを引けば、摩擦によってガタガタと酷く嫌な音が生じる。
「ねぇ先輩、そろそろ止めません? この音、耳障りですし」
「ががががががが」
騒音がまた一つ増える。こういう時の先輩には何を言ったって返事は期待できない。ならばと僕は話題を変えることにする。
「……明日、何かあるんですか?」
「…………」
傍迷惑だった先輩の声が途切れる。それに合わせて僕もソリを引いていた手足を止めた。
突如訪れた静寂に、胸の中で濁った空気のような不安が生まれる。それを払拭したくて、言葉を紡いだ。
「何も予定がないなら僕と一緒に……」
「明日は何もしない」
はっきりとした声が、冬の澄んだ空気に響いた。それは先程までの騒々しいものとは違い、いやに暗い影が差していた。
二週間前から考えていたクリスマスイブを二人で過ごす計画は、内容を語ることすらできずに遮られる。
「何もしないって……用事があるわけじゃないんですよね?」
「…………」
「だったら先輩の家に……」
「それはダメ!!」
言ってからハッとしたように、しまったという顔をした先輩。
「え、えーっと……じ、実は明日お爺ちゃんの家に……」
「嘘だ」
「は、歯医者の予約が……」
「嘘だ」
狼狽える先輩に対して次々とカウンターを放つやり取りは、いつもと立場が逆転していた。
普段の行動は意味不明だが、こういう時の先輩はとてもわかりやすい。彼女は僕に何かを隠している。
誤魔化すのは無理だと悟ったのか、諦めた顔で鞄の中から冊子を一つ取りだし、手渡してくれた。
「これは……」
それはイラストレーターやシナリオライター、ゲームエンジニアなどを育成する、有名な専門学校の案内パンフレットだった。
「明日、そこの説明会に行こうと思ってるの」
俯いてしまっているため表情は見えないが、声色から気まずさが伺えた。
理由はわかっている。それはこの学校が海を渡り遠く離れた場所、文化の最先端、東京にあるからということに他ならないだろう。
嫌な予感が、徐々に確信へと変わっていく。
「先輩は……ここに進学しようと考えてるんですか?」
いつもはオウム返しのように言葉が飛んでくるのに、辺りを包む静寂は破られる気配がない。だからといって催促をかけるようなことはしない。本人の意思で、聞かせて欲しいから。
しばらくしてから、先輩はぽつりぽつりと語ってくれた。
専門学校のほうから入校してみないかという誘いがきたこと。経済的に難しい事情があるなら奨学金まで出してくれると言われたこと。卒業したあかつきには、学校に縁がある数々のゲーム会社や出版社に、イラストレーターとして斡旋してくれるということ。
一つ一つこぼれてくる言葉に相槌を打つでもなく、ただ黙って耳を傾けた。
「……電話で説明してくれた人がね、才能があるって、磨くべきだって、言ってくれたの。だからね、行こう、って思ったの。そこで頑張ろうって」
いつの間にか先輩の視線は抱えていた膝ではなく、僕の顔を真っ直ぐに捉えていた。瞳には決意の光を灯して。
そんな目、初めて見た。
けどこれが、先輩が元々持っている芯の部分で、その先は溢れんばかりの才能にも直結する強さなんだろう。
なんだよ、嫉妬してしまうじゃないか。
進路の話というのは、恋人同士にとってとてもデリケートなものだと僕は思っていた。それとなく空気を読み、本人が聞かせてくれるまでと避けていた。
こんな事態を招くことになるとも考えずに。
けど、いつも隣にいると思っていた先輩は実は遠いところを歩いていて。その歩みを止めるには距離が開きすぎていて。……まぁ先輩の夢を邪魔しようなどとは微塵も思っていないのだが。でも……。
「……どうして、隠してたんですか」
先輩の恋人で、先輩の夢の理解者で、先輩の一番のファンである僕に。それだけが納得いかなかった。
「うぅ……」と小さく呻いた先輩の瞳が、再び揺れ始める。
「だ、だって、後輩クンにこんな話したって、嫌な思いするだけだろうし、私だって嫌だし、それに……」
なんとなく、予想していた答えが返ってくる。自信はなかったのだが、離れるのが嫌だというニュアンスが含まれているように思われるその言葉に、少し安心した。が、それと同時に胸の中に熱いドロドロとしたものが流れ込む。
先輩は上を目指すべき人間だ。本人もそうありたいと思っている。しかし、こうして立ち止まりそうになっているのは、僕がいるからなのか?
「……それに、後輩クンが、お、怒ると、思ったか……」
「違うっっ!!!!」
自分でもビックリするくらい、大きな声だった。
先輩の小さな肩が、ビクッと跳ねる。けど、一度暴れ出した感情の塊はもう抑えていられない。
「ち、違わないよっ! いまだって怒っ……」
「ああ怒ってますよっ! でもそれは進路のことを勝手に決めたことでもなければ、隠していたことでもなくてっ!」
僕が怒っているのは。
「先輩が……先輩が僕のことを、話をしたら引き止めるだろうって、そんな器の小さい男だと、そう思ってたことに怒ってるんですよっっ!!!!」
叫び声は、反響することなく周囲に霧散していき、後にはお互いの荒くなった呼吸音だけが小さく、リズムを刻んでいた。
口に出して、ぶつけて、少し冷静さを取り戻す。
「そりゃあ離れるのは嫌ですよ。大好きな先輩と会えなくなるなんて、考えただけで死にたくなる。でもね、先輩。僕は恋人である前に……いや、恋人だからこそ、先輩が迷ってる時に優しく背中を押せなくてどうするんですか」
彼女の才能を求めている人達がいる。彼女も自身の可能性に何かを見出そうとしている。だったら。
「僕は止めません。ホントは引き止めたいけどっ、そんなことはしない。僕に……僕に堂々と見送らせてください」
たとえその先に待っている未来が「別れ」の二文字だったとしても。
「後輩クン……」
普段は活気と自身に満ち溢れている瞳が、とても弱々しい光を浮かべている。そんな姿も愛おしく感じてしまうくらい、先輩が大好きだ。
けれどあと数ヶ月もすれば、遠い世界へと歩き出していく。もう手が届かない高みへ。
……なんて考えていたら、目の奥が熱くなってきた。
「うぅ……ぐっ……」
気が付くと、視界がぼやけていた。
なんて、なんて情けないんだろう、僕は。背中を押すなんて言っておきながら、いざ離れてしまうことを想像するだけでこの様だ。
「わわわっ、な、泣かないでよ後輩クン」
先輩が慌てて駆け寄ってくる。
「うぅ……ご、ごめんなさい゛……ぃ」
「ううん、謝るのは私だよ。後輩クンがそんなことを思ってたなんて、全然気付かなかった……気付こうともしなかった。ごめんね」
そういった先輩は、僕の目元を細い指でそっと拭ってくれた。その優しが涙腺の緩みに拍車をかける。
「……い、いつだっ、て……せ、先輩は、ズルい……。じぶっ、勝手、に……ふ、振舞って……」
自分でも引くぐらい気持ち悪い。恥ずかしい。死にたい。
でもこれが、殻を破り捨てた裸の感情だ。壊れるのが嫌で、傷つくのが恐くて、触れないようにしていた、僕の。
「キス、だって……まだ、だし……ぃ……て、手もっ、つなが……」
「後輩クン、目、瞑ってて」
「…………え?」
「いいから、ぎゅーって」
言われたままに、目を閉じる。そして。
唇に、何かが触れた。
それはとても柔らかくて、温かくて、甘い匂いがした。
よく「ファーストキスの味は……」とか言う奴がいるけど、そんなもの堪能する余裕なんてどこにあるんだ。現に、今の僕は心臓を動かすことすら忘れてしまうほどに、頭の中が真っ白だ。ただただ、先輩だけを感じてる。それだけで僕は満たされる。
どれだけの間そうしていただろう。一瞬とも、永遠とも取れる時間の中で。
やがて名残惜しむかのようにゆっくりと、離れていく。
「……せ、先輩……?」
「……少し早めのクリスマスプレゼントでした~」
そう言った先輩の口調はいつも通りの飄々としたものだったが、頬はほんのりと朱に染まっていた。はにかむ表情も、いつもの無邪気な笑顔と違い、恥じらいを潜ませた大人びた笑みだった。
「――――――――――っ!!」
僕は堪らなくなって、先輩を抱きしめた。
「わふっ、ちょ、後輩クン!?」
戸惑う声をあげても、嫌がる素振りはない。
「先輩、大好きです!!」
図書室で出会ったあの日から、ずっと。
「ん、私も大好きだよ、後輩クンのこと」
僕の腰あたりに、そっと腕を回してくれる。
――『私も大好きだよ、後輩クンのこと』
心の中で、繰り返す。
僕が、ずっと欲しかった言葉。これを聞くのに、半年もかかった。
やっと、やっと先輩を捕まえれたような気がして、だからこそ離したくない気持ちが強くなって。でも、今の僕なら。先輩が好きな、僕なら……。
「あっ。見て見てっ、後輩クン!! 雪、降ってきた!!」
その先の言葉は、冬の奇跡によって邪魔される。
お互いに腕をほどいて空を見上げれば、外灯の明かりに照らされた氷の結晶が、幻想的な情景を創り出していた。
あれだけ煩わしかった雪だが、今だけはとても綺麗に見える。それはきっと、僕の隣に先輩がいるからだ。彼女が触れればどんなものだって、神秘性と美しさを織り交ぜたような色に染まってしまう。ならば僕も、それにあやかろうじゃないか。
「先輩」
彼女の右手をそっと掴む。
「僕は追いかけます」
一つ、夢を見つけた。
「物語を書くこと、勉強したいんです」
それは僕一人では叶えられないこと。
「いつか隣に立って肩を並べられる日が来たら」
どれだけ時間が掛かるかわからないけど。
「その時は一緒に、僕達の最高傑作を作りましょうね」
いつか叶うと、この手の温もりを通して信じられるから。
「うん。頑張ろうね、後輩クン」
降り積もった雪はやがて溶けてしまうけど、二人の夢と気持ちはこれからも積み重ねていける。