06 理解不能な意図
最初の一羽の鳴き声を皮切りに、咸陽中の鶏が一斉に喧しく朝の訪れを告げる。
毎朝必ず同じ時刻に耳を衝くその音でとろとろとした心地よい微睡みから目覚めた彼女は、どういう訳か自分がぬくぬくと温かな腕の中にいることに気付いた。
「…?」
ぼんやりした頭で数度 瞬きし、眼だけ動かして腕の主を見上げる。
「――ハッキ?」
無意識に零れた呟きをすぐさま打ち消す。
違う、この青年は白起ではない。
彼女の声にも眼を覚まさず、遜雄は瞼を閉じて微かに寝息を立てている。
影の落ちた端整な面を見つめながら、昨夜、少しでも長く遜雄にくっ付いていたいと彼の寝室に突入し、話している内にそのまま眠ってしまったことを思い出す。
この状況に至った経緯を推測するに、きっと彼が見かねて自分を寝台に引き上げてくれたのだろう。
いつも頸が痛くなる程高い位置にある顔がすぐ近くにあるというのはとても新鮮だ。
彼女はこれ幸いとばかりに気が済むまでまじまじと遜雄の寝顔を観察してみた。
――やっぱりハッキにしか見えないなあ。
ほうと息を吐き、そろりと指を伸ばして、スッと通った鼻先を人差し指でチョンチョンと突付いてみる。
遜雄の眉間に皺が寄り、瞼が持ち上げられ――そのまま固まった。
「…ぁ…ゆう、き…、…その…これは」
涼しげな目許を薄らと染め、遜雄は常になく動転した様子でどもり気味に言い繕おうとする。
が、そんなことには眼もくれず、彼女は屈託なくにこりと白い歯を見せた。
「おはよう、ソンユー」
「……ああ」
この状況について何か思うことはないのか……と思わず落胆を覚えてしまう遜雄だった。
「幽姫、剣を」
「ん。どーぞ」
差し出された大きな右手に、両腕で抱えていた剣を渡す。
遜雄に拾われ、この邸で過ごすようになって僅か二週間足らず。
遜雄が着替えている間に彼の剣を預かるのは、今やすっかり彼女の役目になっている。
「じゃ、部屋戻るね。いってらっしゃい」
「…いや、暫し待て」
「?」
低い声音で言葉少なに引き止められ、彼女は足を止めてくるりと振り返る。
遜雄は徐に机上の箱に手を伸ばし、片手で器用に蓋を開けると、中から何かを取り出した。筋張った手に握られているのは、翡翠でできた大振りな玉の輪だ。
見慣れぬそれを不思議そうに観察しながら、彼女は小さく頸を傾げた。
「それ、なに?」
「知らぬのか。これは玦【⋆1】だ」
「けつ?」
「持ってみよ」
均一な円を保つ碧の玉は遜雄の手をするりと離れ、受け皿の形を作る彼女の手の上にそっと落とされた。彼女は今一度解析を試みる。
〈何だろう、これ。一体何に使うんだ? …何回見ても判らないな〉
顔が映る程綺麗に磨かれた環状の宝玉に、複雑に編み込まれた手触りのいい絹糸の房飾りが結び付けられている。素人目にも高価な品だと容易に見分けがつく文句なしの一級品だが、いかんせん用途がよく判らない。
ただ、実用性は限りなく低そうだ。
結局、装飾品と判断するのが一番妥当そうだが、だとしても一体どこを飾るのか。
いや、そもそも、徹底した実用本位主義の遜雄がこんな役に立たなそうなものを所持していたこと自体が驚きだ。
「えと、何かの飾り?」
「そうだ。普段は装飾品として帯に結び付け、吊るして使う。待っていろ、今つけてやる」
遜雄は彼女の手から玦を受け取り、長身を屈ませて、正面から見てやや左寄りの辺りに括り付けた。
何とも言えない表情で困惑する彼女を見上げ、彼はふっと笑う。
「よく似合っている。そなたにやろう」
「でも、すごく高そう。扱うも丁寧。…大切なもの、違う?」
背を伸ばした遜雄に向かって、恐る恐る問う。
遜雄は彼女をちらりと見遣り、コホンと咳払いをしたかと思うと、殊更に何でもない調子でさらりと言った。
「…童子の頃、母から伝えられたものだ。白家に嫁いだ時に、母自身が父から譲り受けたものだそうだから、大切なものかと問われれば確かにそうかもしれないな」
「ええっ!」
彼女は飛び上がって仰天した。
それは、つまり、家宝ということではないか。
そんな大層なものをおいそれと受け取れるものか。
「いい、いらない、返す!」
「何故だ」
切れ長の双眸が険しく眇められる。そこにほんの一瞬だけよぎった傷付いたような光に、しかし彼女が気付くことはない。
「これ、ソンユーの宝物。そんな大切なもの貰う、ダメ! できないよッ」
「大切なものだからこそそなたにやるのだ、幽姫」
「――へ?」
どういうことなんだろう。
彼女は間の抜けた顔でぽかんと口を開け、パチパチと眼を瞬かせる。
「……とにかく、持ち主であるわたしがよいと言っているのだ、何も言わずに受け取れ」
「…でも…」
「よいか、幽姫。いつ、いかなる時も、肌身離さず身につけておくのだぞ。――頼む」
「ええぇぇ……」
真摯な眼差しで乞われ、図らずも拒否の声が尻すぼみになる。何故遜雄は、自分が彼の玦を持つことに、こうも執拗にこだわるのだろう。懇願する程のことでもなかろうに。
〈どうしよう。本当に貰ってしまっていいのかな?〉
理由は定かではないが、自分が玦を所持することを遜雄が強く望んでいるのだけは彼女にも判る。
しかも「頼む」とまで言われてしまって、これ以上断るのも気が進まなかった。
「…ぅ、ん、判った。じゃぁ…貰う、よ。…ありがと」
自分から欲した訳ではないのに礼を言うのは、おかしな気がしたけれど。
多分に躊躇いを残しつつも、彼女は大人しく遜雄の要求に従った。
彼女は知らない。
――無上の幸福を得たが如く、この上なく嬉しそうに微笑む遜雄から今し方与えられた玦が、白家当主の正室に代々伝えられてきた婚姻の証であることを。
【⋆1】貴人が腰におびる飾りの玉の輪。佩玉。佩環。