05 少しは警戒しろ
今回、恋慕と情欲を持て余す遜雄が、無防備な彼女を前に延々と悶々しています。
自覚のないまま、日がな一日いいように遜雄を振り回した彼女は、その夜も無邪気な顔で再びやらかした。
夕餉を終えるなり、彼女は喊の制止を振り切って遜雄の居室へと直行した。
――未婚の女子が夜半男の部屋をおとなうなど在り得ない――
当然、遜雄の居室内を片付けていた家人は非常識な彼女の行動に仰天したが、彼女はお構いなしだ。
遜雄の就寝を知ると、欠片の躊躇いもなく奥の寝室に足を踏み入れる。
「ソンユー、いる?」
一応声をかけてみるが、寝台に臥する遜雄からの返事はない。
いつも遅くまで起きているのに珍しく早寝だなと頸を傾げる彼女は、遜雄が己の言動に心を掻き乱され、一日中忍耐を強いられたせいで精神的に疲れ切っているのだとは夢にも思わない。
固く瞼を閉じた遜雄の枕元にとたとたと歩み寄ると、寝台横の床にちょこんと坐り、硬質ながら端整な面をまじまじと覗き込む。
「……何だ、幽姫か。どうした」
気配を察した遜雄が疲労をおして薄らと眼を開け、頸だけを動かして小声で問うてくる。
「んー」
凭れるように腕を交叉させ、その上に顎を乗せた彼女は、目尻を下げてふにゃりと笑った。
――微かに部屋を照らす燭台の頼りない灯りでも判る程、鮮やかに。
「ソンユー、やっぱりハッキにそっくりだぁ」
嬉しげに言い、そろっと伸ばした右手でぺちぺちと遜雄の白皙の頬に触れる。
「…」
温かく柔らかな、子どものように小さな手。
その握り拳は、きっと遜雄の片手で易々と包み込んでしまえるだろう。
…否、それだけではない。
顔も、肩も、腕も。彼女の小柄な躰の何もかもを、すっぽりと懐中に覆い隠してしまえるに違いない。
――己の内から湧き上がってくるこの感覚を、一体何と言うのだろうか。
屈託なく表情を綻ばせ、臆することなく自分に触れてくる彼女が、譬えようもなくいとおしい。
無邪気で幼い触れ合いが何ともくすぐったい。こそばゆい。面映い。
反面、猛烈な、より凶暴でどす黒い衝動が、同時に魂の奥底からぞわりと競り上がる。
――欲しい。
疑念を抱くということを知らず純粋に懐き、とことん自分を信じ切っている彼女を、渇望のままに奪い去ってしまいたい。
〈この娘が欲しい〉
〈ああ、欲しい〉
〈ほしい、欲しい、ホシイ!〉
妻にしたいという欲求の更に上――自覚せぬよう厳重に蓋をし、何重にも鎖をかけて意識の奥深くに封印していた欲望と激情という名の獣が目覚め、彼女を求めて狂ったように咆哮を上げる。
このまま彼女を己の下に組み敷き、思うがままに貪ってしまえれば、どれ程か満たされることだろう――。
そう夢想してしまう程無防備に、彼女は遜雄の前にあった。
〈だが〉
常と同じく童子の如き幼稚さを覗かせる彼女は清く、全くの無垢だ。
恋慕と情欲に眼が眩んでいる今の遜雄には、彼女が尚更穢すべくもない神聖な存在に感じられた。
何より、身勝手な想いを押し付けて彼女を傷付けたくなかった。
それは彼女が寄せてくれている無償の信頼に対する裏切りだ。
愛らしい笑みの消えた彼女から憎しみの双眸を向けられでもしたら……考えただけで眼の前が真っ暗になる。
きっと自分は耐えられない。
力任せに想いを遂げることは赤子の手を捻るよりも容易い。
だとしても、嫌われてしまっては意味がない。
願わくば彼女からも、同じように想い返されたい。
とどのつまり、相思相愛の関係を望む遜雄に、無体など働ける筈がなかった。
「――そう、か。似ているか」
口の中がカラカラに渇き、掠れた声でそう答えるだけで精一杯だった。
無論、その程度のことで、彼女が遜雄の胸中に渦巻く懊悩に気付くことはなく。
「うん! えへへー。ハッキ、ソンユー、そっくり!」
そっくり、そっくり、と愉しげに何度も繰り返し、遜雄の胸の上にぴとっとくっ付く。
鍛えられた体躯がぴくりと強張り、意志の強そうな黒眸がゆらりと揺れた。
「ゆ、ぅき」
「う? なぁに、ソンユー」
きょとりと眼を見開き、左頬を遜雄の胸元に密着させたまま、もぞもぞと頸を傾げる。
「……っ」
ごくりと遜雄の喉が鳴る。
何かに耐えるように、整った顔が苦しげに歪んだ。
ギシ、ギシ、と軋む音が聞こえてきそうな、酷くぎこちない動きで、遜雄の両腕が持ち上がる。
彼女の肩と背に指先が到達した途端、きゅっと力を込めて抱き締めた。
「む、ぅ?」
一瞬瞠目して驚きの声を漏らすも、抵抗はしない。
寧ろ、遜雄の体温と鼓動とを一層近くに感じられて心地よい。
彼女は猫のように眼を細めて益々擦り寄った。
〈このまま眠ってしまおうかな。うん、それがいい〉
遜雄の腕の中は、白起と同じであったかくて少しむきむきで、何故だか安心するのだ。
「ゆ、幽姫……こら」
想定外の事態に遜雄が動揺を見せる。
一方の彼女はどこ吹く風で大欠伸だ。
「く…ふわゎぁぁ…。…んー、眠い…寝るー…」
こてん。
瞼が完全に落ちる。
間もなく、薄く開いた唇からすやすやと健やかな寝息が零れ始めた。
――この状況で寝るというのか、この娘は。
暫し茫然とした後、遜雄は信じられないとばかりに溜息を吐いた。
今まで自分を欲望と理性の狭間に立たせて散々苦しませておきながら、この娘ときたら!
ここまでくると、いいように弄ばれているとしか思えない。
「まったく……少しは警戒したらどうだ。わたしは決してそなたが思っているような安全な男ではないぞ…?」
憤りとも気落ちともつかぬ口吻でぼやき、遜雄は若干身を引いて蒲団の中に空間を作る。
おかしな態勢のまま眠ってしまった彼女を寝台に引き上げ、初秋の冷え込みで小柄な躰が冷えぬようしっかりと懐に抱き込んでから、ふっと苦笑する。
常勝将軍と謳われ、諸侯からも遍く恐れられているこの自分が、子どものように無知であどけない小さな娘に振り回され、惑わされている。傍から見れば、さぞ滑稽な図であろう。
〈幽姫、そなたは魔性の女か、小悪魔か?〉
腕の中にすっぽりと収まる彼女をじっと見つめる。
平凡で人畜無害そのものの平穏な寝顔を見る限り、どちらも似つかわしくないが、今の遜雄には彼女が紛れもなくそう見えた。
「ん……ぅ、…っふふ、えへへー」
一体どんな夢を見ているのか、口元をむずむずさせてへらりと笑う。
「…」
眉間に皺が寄る程きつく眼を眇め、遜雄は無言で彼女の背に回した腕に力を入れた。
鎖骨の辺りに当たる鼻先と吐息に胸を掻き乱されるが、何とか理性を総動員して膨れ上がる衝動に押し流されそうになるのをぐっと堪える。
…それにしても。
〈忍耐を強いられる夜になりそうだ――〉
大切に思うが故に手を出せないという、ある意味生殺しの葛藤地獄にありながらも、遜雄の心は不思議と満たされていた。
本来、古代中国に悪魔などという思想や概念がないことは百も承知ですが、どうにもしっくりくる表現が他に見つからなかったもので。
そもそも、話の土台となる世界観や設定自体がユルユルなので、細かい点はスルーでお願いします。