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暁の煉獄【番外編】  作者: 野津
過去編:episode白遜雄【武官】
5/7

04 無邪気さは時に罪

今日も今日とて、男心を翻弄する『彼女』。

 朝。鶏がときを告げると同時に、彼女はぱちりと眼を開いてすぐさま寝台から飛び起きた。

 目指すは遜雄の居室だ。

 彼は早起きなので、もたもたしていると見送る間もなく邸を発ってしまう。


 夜着のままくつも履かずに寝室の出入り口に直行するも、手水と着替えとを持って入室して来た二人の女にいつもの如く行く手を阻まれた。


「おはようございます、幽姫さま」


 時間がないのに!


 焦る彼女は盛大なむくれ顔を作り、挨拶もそこそこに捲くし立てる。


「うんおはよ。今すぐソンユーのとこ行く、だからそこ退くッ」

「いいえ、いけません。申し訳ありませんが、そのお姿のままここをお通しするわけにはまいりません。最低限の身支度を整えてからご主人さまのもとに参られてくださいませ」

「やッ、時間ない! 急ぐしないと、ソンユーいなくなるっ」

「その心配はございません。ご主人さまは本日非番で参内なさらないとのことですから」

「――ほんと?」

「はい」

「わー、やたっ!」


 遜雄が一日中邸にいる!


 彼女は見る間に眼を輝かせ、喜色満面でパチンと手を打った。


 これで今日の予定は決まった。どこで何をするにもずっと遜雄の背にくっ付いて回るのだ。

 多少鬱陶しがられるかもしれないがそこはご愛嬌だ、我慢して貰おう。


 本人の承諾を得る前から、彼女は早くも密着する気満々だ。


「――幽姫さまは本当にご主人さまのことがお好きでいらっしゃるのですねえ」


 世話をする二人のうち、中年のほうの女がクスクスと笑いながら実に微笑ましげな眼差しで言った。

 彼女が眼を覚ました時に介抱してくれた下女で、名をかんという。

 叫び怒鳴る、という意を持つその名に反し、慎ましく穏やかな婦人である。


「う? スキ?」


 左程頻繁にではないものの、これまで幾度か耳にしてきた単語だ。

 だが、彼女は未だにその語義を理解しかねていた。ただ、悪い意味ではないことだけは何となく判る。


 眉根を寄せ、くびを傾げて暫し逡巡したのち、肯定しても問題はないだろうとの判断を下した彼女は、屈託なくにこりと笑って大きく頷いた。


「うん、ソンユー、好き!」

「まあまあ、それはようございました。これならば、ご主人さまの想いが報われる日もそう遠くはなさそうですね。まことによろこばしいかぎりですこと」

「…?」


 報われる? 悦ばしい? 一体何のことだろう。


 脳内で疑問符を飛ばし、頸をひねって考え込む彼女を他所よそに、喊は同僚である歳若い下女と互いに目配せし合いながら含み笑いを交わしていた。







 遜雄が外出することはないと知り、すっかり安堵した彼女は、いつもより余裕を持って朝餉と身支度を済ませ、依然意味深に笑い合う下女二人に見送られて意気揚々と部屋を出た。


 ――二人して何をひそひそと笑っていたんだろうか。


 小走りに駆けながら頸を傾げる。

 大した動作ではなかったが、弾みでこうがい【⋆1】と歩揺ほよう【⋆2】が外れ、高い位置で無理に束ねられていた髪がパサリとほどけて落ちてきた。


「わっ、わっ、あわわわ」


 足を止め、慌てて頭に手を遣る。しかし下女たちと同じように上手く纏められる筈がない。

 彼女は早々に諦めた。只管ひたすらうきうきしていた高揚気分が少ししぼむ。


 折角遜雄が邸にいるのに、初手からいきなり出鼻を挫かれた。

 そもそも、短い髪なのにこんな複雑でむちゃな髪型を作ったのが悪いのだ。こっちは何も頼んでいないのに。


『…あぁもうッ!』


 段々腹が立ってきた彼女は母語で喚き、頭をぐしゃぐしゃに掻き回す。


 そこにちょうど遜雄がやって来た。


 彼は面喰ったように眼を見開き、尚もわしゃわしゃと髪を乱す彼女の手を掴んだ。


「何をしている」

「…ぅ、あ、ソンユー」


 当初の目的であった人物の予期せぬ登場に、彼女はようやく動きを止める。


「これまでと違い、待てど暮らせどそなたが現れないので何事かあったのではと思ったのだが、どうやら杞憂だったようだな。――ところで、この頭はどうした」

「んとね……ソンユーのとこ行ってたら、髪留めが外れてバラバラなった。それで頭にきた、髪ぐっちゃぐちゃしたの」

「では、今日は髪を結い上げていたのか」


 平坦な声音で返しながら、さり気なく筋張った大きな手で彼女の乱れた髪を優しげに撫で付ける。

 無論、自分の為に女らしく装おうとしてくれていたのでは、という淡い期待は噯気おくびにも出さない。

 現時点でそれはまだまだ望むべくもない夢の話だ。


 案の定、彼女は嫌そうに顔を歪めて強い憤りを見せた。


「もう髪結う、しない! すぐバラバラなるし、むり! ジャラジャラもいらない!」


 きっぱりと言い切り、笄と歩揺を握り締めた手を振る。


 遜雄は少しばかり切なそうに眼を細め、やや伏し目がちに視線を外すと、元来た通路を引き返し始めた。


「あッ、ソンユー待つッ」


 二つの髪飾りを懐にしまい、前方を歩く肩幅の広い長身の主を追い駆ける。


 遜雄の一歩は彼女の二歩に相当する為、気を抜くとすぐに置いて行かれてしまう。

 しかもどういう訳か、今日に限って早足と言っていい程進む速度が速い。


 彼女は駆け足気味に必死に足を動かした。





 遜雄は、彼女がついて来ていることを承知で、わざと邸内をぐるぐると歩いて回った。


 彼女は遜雄の名を呼びながら彼に続く。

 やがて歩調を緩めた遜雄が不意に立ち止まった。


「わっぷ」


 突然の静止に対応出来ず、彼女は顔から遜雄の背にぶつかった。

 潰れかけた鼻を押さえて数歩後ろにつんのめると、こちらを見下ろしている切れ長の双眸と眼が合った。


「…わたしの後などついて回って愉しいか?」

「? ん、愉しい」


 不思議そうにまばたきしつつもこくりと頷く彼女には何の忖度もない。


 ――この娘は男女の情というものをまるで判っていない。


 恋慕の情を知らない童子に当たったところで無意味だ。

 腹を立てたとて、そう容易くどうこう出来るものではない。


 己の想いを察しもうともしない彼女と思い通りにならない苛立ちから、つい大人気おとなげない態度を取ってしまった自身を恥じ、遜雄は深く溜息をいた。







 奇妙な邸内巡りを終え、彼女は遜雄の書斎であり居室でもある広い房室に立ち入った。

 遜雄は自由にしているよう彼女に告げるなり、房室の奥の文机に平積みされた竹帛のひとつを手に取り、黙ってそれを読み始めた。


 仕事かどうか判らないがとにかく邪魔だけはするまいと、彼女も敢えて声はかけない。

 …が、徐々に沈黙を守ることに飽きてくる。


「ソンユー、ソンユー」


 少し離れた席から膝立ちでつつつと近寄り、控え目に呼びかける。


「何だ」

「えへへー、呼んでみただけー」


 何がそれ程愉しいのか、彼女は思い切り頬を綻ばせてにこにこしている。


「…」


 引き結ばれていた遜雄の口元が、僅かずつながら柔らかく緩んでゆく。

 ほんの些細な言動ひとつ取っても、何故こうも彼女を愛らしいと感じてしまうのか――


「ね、そっち行く、いい?」

「…? …、…ああ」


 恐らく、傍に来てもよいかという問いだろう。

 若干の時間をかけて文意を理解した遜雄は短く諾する。


 お許しが出たので、彼女は早速とてとてと駆け寄り、文机に向かう遜雄の左横にちょこんと坐った。

 行儀よく膝に手を揃え置き、びっしりと文字が書き込まれた竹帛を覗き込む。


 好奇心旺盛な童子そのものだなと思いながら遜雄はくっと笑いを噛み殺し、見 やすいようにさり気なくからだをずらす。その分だけ、彼女は更に身を乗り出した。


「ほー…」


 さっぱり読めない。ちんぷんかんぷんだ。


「書いてある、何?」


 てちてちと竹帛を指差し、若干頸を伸ばして、下から見上げるように遜雄の顔を覗き込む。

 途端に、切れ長の黒眸が不自然に揺れ、涼やかな眼元に薄らと朱が散った。


「う? ソンユー、どした?」


 目敏く変調を嗅ぎ付けた彼女は心配から眉根を寄せた。

 ぴとっと遜雄の額に手を当ててみたところ――……何だか、一気に体温が上がったような気がする。


「ソンユー、熱い! 風邪? 病気? だいじょぶ?」

「…っ、いや、大事ない」


 仰け反って彼女の手から逃れ、遜雄は常よりも熱を持った自身の顔の下半分をてのひらで覆う。

 どう見ても挙動不審だ。


 彼女は益々不安になる。


「――ほんとに大丈夫?」

「ああ、勿論だとも。わたしは至って健康だ」


 幸いなことに、武官という職業柄芯から染み付いている無表情が恰好の隠れ蓑となり、遜雄が必死になって言い繕っていることに彼女は気付かなかった。


作中用語解説


【⋆1】結い上げた髪を留めて安定させる髪飾り。

【⋆2】婦人の頭上の飾り。

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