閑話1【白遜雄視点】
機嫌を直した彼女が居室を出て行ったところで、沈黙を保っていた家宰の李栄が重々しく口を開いた。
「――旦那さま。臣李栄、ご質問の場を頂戴いたしたく」
「…構わん。何だ」
「では、お叱りを承知でお訊ね致します。本日只今をもって、幽姫さまに剣を預けられると――それはまこと旦那さまの嘘偽りなきお気持ちであると判断してよろしいのでしょうか」
「……ああ」
遜雄は無に近い硬い表情のまま、感情が削ぎ落ちたとしか思えない著しく抑揚を欠いた平坦な声でただ一言、肯定の意を述べる。
傍目には甚だ不十分な会話であっても、遜雄が生まれる前――彼の両親の代から長年仕えてきた李栄には、それで十分だった。
「――承知致しました。それでは、今すぐにも邸内の使用人一堂に旦那さまのご意向を通達し、今後はこれまでにも増して手違いや非礼の断じてなきよう周知徹底させまする」
「まだ内々のことだ。余り大仰にはせぬように」
「無論心得ておりまする」
「お前の手腕はわたしもよく知っている。李栄、任せたぞ」
「もったいなきお言葉」
膝を突き、合わせた手を高く掲げて一礼すると、李栄は頭を下げたまま背を見せず後 退るようにして遜雄の居室を去った。
「――やはり、そうなのか」
自分以外の人間が消えた静謐な居室で、遜雄はひとり呟く。
それは、己の心に芽生えた感情を再確認する為の自問であり、容認を渋る自身を納得させる為の自答でもあった。
〈もうこの胸の内に兆した想いにごまかしは効かない。自分にも――彼女に対しても〉
彼女が他国の間諜ではという危惧はおろか、官吏の邸から逃げ出して来た側妾かもしれないという憶測すらも、最早歯止めにはならなかった。それどころか、今では仮にそうであったとしても構うものかと開き直るまでになってしまっている。
――認めるしかないな。
整った遜雄の面が、自嘲とも諦観ともつかない表情に歪む。
古今より、身分の上下に関係なく、夫の身支度を整えるのは妻の務めだとされている。夫が武官である場合は更に、戦に赴く際に使用する武具一式の管理をも一任されるのである。
その中でも特に、平時であっても常に必携とされる剣は武官の命も同じだ。
衣服を替える一時の時間に過ぎないとはいえ、本来は妻たる女以外の誰にも触れさせることを許さないそれを預けるということは、即ち遜雄が彼女を自身の妻同然の存在として目していると公言することに他ならない。
現在、妾を含め、遜雄に妻はいない。
邸の外でのんびりと隠居生活を送っている両親からは、息災の便りと共に「早く孫の顔が見たい」と定期的に縁談話が持ち込まれているが、全て断っている。
これまでは単に、妻帯するにはまだまだ未熟な身だという意識から拒否してきた。しかし、今は違う。
『…えへへへー』
遜雄の脳裏に、先程眼にしたばかりの愛らしい彼女の微笑みが蘇る。
否、それだけではない。この幾日かの間に見た、ありとあらゆる彼女の仕草が、ふとした表情が、寝ても覚めても瞼に焼き付いて離れない。
「幽姫、そなたを愛している。わたしが妻にと望むのはそなただけだ」
まるで疑うという言葉を知らぬ無垢な童子の如く無邪気に己を慕い、無条件の信頼を寄せてくれる彼女。
いつも全開の笑顔を向けてくれる彼女をこそ、己の妻にしたい。
ただひとつ、憂うべき要素があるとすれば――
愛しい娘を想い、柔らかな光を宿していた両眼が昏い翳りを帯びる。
彼女が己に『ハッキ』なる人物の姿を投影して見ていることは判っている。
そして、彼の人物への揺るぎない信頼故に、その『ハッキ』にそっくりだという己を信じてくれていることも、充分承知している。
だからこそ腹立たしい。忌々しい。
彼女からこれ程までに深く信用されている『ハッキ』という男――己に酷似した、全くの赤の他人!
ハッキ、と呼び間違えられる度に、遜雄の心はいとも容易く冷静さを失い、忽ち激しい妬心に総身を支配される。どろりと競り上がってくる不快感で胸がむかつき、不愉快極まりない。
裏を返せば、それだけ深く彼女に心奪われ、想いを寄せているということになる。
「このわたしに、これ程に熱い感情があったとは、な――」
遜雄は、彼女と出会ったことで生まれて初めて人を愛しいと思う気持ちを――身を焦がすような恋情というものを知り、同時に焼け付くような嫉妬というものも知ったのであった。
あっけなく落ちた遜雄。
安定のお約束展開ですすみません。