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暁の煉獄【番外編】  作者: 野津
過去編:episode白遜雄【武官】
3/7

03 全開笑顔にもう降参

 白遜雄なる青年に保護され、彼の邸で厄介になる身の上となって数日が経過した。

 この短い期間で唯一彼女が理解し得たのは、ここは申生や張良、陳平たちが存在していない世界だということだけ。

 勿論、黎という国号も、その首都が咸陽であることも、以前と何ら変わりはしないし、人々の生活様式や儒教的な国家体制――延いては平原内における各国の勢力的構図も大差なく同じだ。だが、どういう訳か、前言で述べたようなる筈の人たちが誰もいない。

 現君主も、献公ではなく呈公というのだそうだ。


 ただ、それらの事実を知って衝撃を受けはしたものの、彼女は左程動じることはなかった。

 理由はただひとつ、四六時中自分の護衛役として傍に付いていた白起に瓜二つの遜雄がいるからだ。

 彼女は幾日もせずに自然と彼の姿に白起を重ね見るようになり、結果として今までと似て非なる不可解な世界に紛れ込んでしまった不安と恐怖を感じずに済んでいる。


 そんなこともあり、今や彼女は全幅の信頼を置いて無心に親鳥を追い駆ける鴨や家鴨の雛の如く、遜雄の在邸中はずっと彼のあとを付いて回るようになっていた。




「ハッキ…じゃない、ソンユー、待つ」




 時折名を呼び間違えながら、長身の遜雄の後ろに小柄な彼女がちょこちょこと続く。

 ――前者は武官らしく硬い表情を崩さず、後者はあどけない子どものように無邪気な顔付きで。


 対照的な両者の違いとも相 って、その光景は見る者の笑みを誘い、総じて彼女を見る邸の者の眼も温かだった。







 この日も、宮中での勤めを終えて遜雄が帰宅したことを聞き付けるなり、彼女は長らく家を空けていた飼い主を出迎える忠犬の如くパッと顔を輝かせ、パタパタと邸内を駆ける。

 ここ数日、遜雄の後を付いて邸の中を歩き回っただけに、内部構造はばっちり把握済みだ。

 後は、彼が今、邸のどこにいるのかを知りさえすれば事足りる。


 庭に面する通路の中程で足を止め、周囲をキョロキョロと見回す。

 ちょうどそこに竹帛ちくはく【⋆1】の束を抱えた若い家人が通りかかり、彼女はこれ幸いと声を掛けた。


「――あ! ね、ちょっと待つッ」


「…え? ああ、これは幽姫さま。何かご用ですか」


「あのね、あのね、ハ…違う違う、ソンユーいる、どこ?」


「旦那さまなら、もうご自分のお部屋にお下がりになりましたよ」


「そっか、ありがとっ」


 屈託ない笑顔で元気よく礼を言い、家人に向かってブンブン手を振ると再び駆け出す。


 残された家人はというと、微かに痘痕あばたの散る頬を少しばかり紅潮させ、その場に突っ立ったまま、暫くの間彼女が消えた曲がり角をぼうっと見つめていた。


「…可愛いなあ」


 ――その瞬間、彼女の微笑みに魅了された使用人が、又ひとり増えた。







 帰宅した遜雄は、老家宰の手を借りて着替えている最中だった。

 普通なら入室を躊躇うところであるが、彼女は一切気にせず遜雄のもとに駆け寄った。


「ハッキおかえり! …あ、また間違った。ソンユー、おかえり」

「ああ」


 遜雄が袖を通しつつ返事をする。

 そっけない返しだが、彼女は微塵も気にせずにこにこしながら彼の傍らで大人しく更衣が終わるのを待った。


「…」


 途中、時折ちらりとこちらに視線をれる遜雄と眼が合い、その度にことりと小さくくびを傾げながらにこりと笑い返す。そうすると、遜雄は決まって一瞬ハッとした様子で眼をみはって動きを止め、すぐに避けるようにそっぽを向いてしまう。


〈――何だろう、この反応は。そんなに眼が合うのが嫌なら、こっちを見なければいいのに。部屋から出ろと言えばいいのに。…それとも、わたしのことが嫌いなんだろうか〉


 嫌われているのかな――何度も視線を逸らされる内に、彼女はそう思って哀しくなる。

 一旦悪い方向に考え始めると、後はもう落下する一方だった。


 連日身元不明の女から四六時中付き纏われたのだ。顔には出さなかったが、内心鬱陶しかったに違いない。

 最初の勢いはどこへやら、彼女は次第にしょんぼりと俯いていった。


 だとしたら、こんなに辛いことはない。

 前の世界との繋がりを連想させてくれる唯一のよすがである遜雄に嫌われるのは、今の彼女にとって彼に生き写しの白起に嫌われるに等しいことだった。


 鼻の奥がツンとしてきて、突き出した唇をグッと噛み締める。


 泣くまいと必死に涙をこらえる彼女の様子に家宰がいち早く気付き、物言いたげに主を見遣るも、いかんせん顔を背けたままの遜雄がそれを察する気配はない。


 ――やっぱり、部屋に戻って大人しくしていよう。


 これ以上この房室には居られないときびすを返そうとした、将にその時。


「――!」


 遅ればせながら、ようやく遜雄も彼女の沈み具合を察した。

 肩を落とし、力のない足取りでとぼとぼと己の傍を離れようとする彼女に慌てて手を伸ばし、腕を掴んで引き止める。


「…なに?」


 やや棘のある声を出して彼女は振り返る。

 今にも泣き出しそうな程くしゃくしゃの顔を見て、遜雄は面喰らったようだった。いつも揺るぎのない双眸に明らかな動揺が窺える。


「――」


 遜雄は困惑するように形のよい眉をひそめて少し思案した後、徐に腰に佩いていた剣を外して彼女の前に差し出した。途端に家宰の顔色が変わる。

 が、一方の彼女はというと――


「?」


 一体どうしろって言うんだ。

 唇をむぅと尖らせ、睨むように遜雄を見上げる。


 対する遜雄はもう彼女から眼を逸らさなかった。

 彼は声を上げようとする家宰を鋭い横目で黙らせると、観念したように短く息を吐き、落ち着いた低い声音で静かに告げる。


「出て行く必要はない。代わりに幽姫、そなたに役目を与えよう。これからは衣服の着脱の間、わたしの剣はそなたに預ける。わたしが邸を出る時、そなたはそれを準備してここで待っておれ。そしてわたしが帰って来た時は、着替えが終わるまで持っていろ。いいな」


「? …? ぅ、ん…。判った」


 尚も頭の中で疑問符を飛ばしながらも、両手を伸ばして素直に受け取る。

 装飾などない、どこまでも無骨で実用本位の長剣は見た目以上にずしりと重かったが、その重みが自分への遜雄の信頼の度合いの強さを表しているようで、何だか無性に嬉しくなった。


「…えへへへー」


 笑みを取り戻した彼女はぎゅっと剣を抱き締め、この上なく嬉しげに顔を綻ばせる。

 遜雄も僅かながら眼元と口の端を緩め、彼女の頭をそっと撫でた。


 そんな二人の横で、家宰は沈黙を守りつつも、未だ驚愕の眼差しで眼の前の光景を正視していた。


作中用語解説


【⋆1】書物。

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