01 もしも望みが叶うのなら
本文を読まれる前に少し注意書きをば。
拙作『暁~』の中で、筆者が最も贔屓している『彼女』の相手役というのが、護衛役の白起。
何を隠そう、筆者は大の武官キャラ好き。
優先順位をつけるとすれば、軍人(時代で言えば近代、将校クラスなら尚グッド)>武官(東洋の王朝風)>騎士(イメージは中世ヨーロッパ頃)、といったところ。
主人公と結ばれる登場人物の王道とも言える王子やら神官やら魔法使いやらといった、何となく文官寄りの、どうにもなよっちい奴なんぞ、本当は好みでない。
(この辺の特殊な嗜好については、自サイトからリンクしている筆者の日記の過去記事に眼を通せば一目瞭然かと…)
…というわけで、この番外編は白起――正確には彼に繋がる別の人物――と『彼女』との絡みに焦点を当てた、本編の進行とは全くの無関係の、完全なる別話となります。
「パラレルOKバッチ来い」な方のみ、眼を通されることをお勧めします。
さる朝。
食事を終えた彼女が身支度を整えようとした時、房室に白起が現れた。
「お早うございます、幽姫さま。先日ご希望されていた咸陽宮の城塞見学の件ですが、幽姫さまの強いご要望を交えて殿下に掛け合いましたところ、今朝方許可をいただきました」
「えっ、ほんとに!?」
普段一歩たりとも宮殿から出ることを認められていない彼女は、白起が齎した情報を俄には信じられず、素っ頓狂な驚きの声を上げる。だが、眼前に立つ生真面目な白皙の青年武官が嘘をつくなど、これまでの経験上万にひとつも在り得ない。
案の定、白起は特段顔色を変えずに落ち着いた表情で首肯した。
「はい。献公さまも既に許諾済みです」
「わあぁい! やった、やった、ハッキ、ありがと!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて全身で喜びを表現する彼女に、常から無表情でいることの多い白起も珍しく怜悧な面を綻ばせる。初めは警戒心の塊のようだった彼女が、こうして自分に対しても屈託なく微笑んでくれるようになったことが嬉しいのだ。
彼女は暫く跳ね回っていたが、不意に思案顔になって足を止め、次いで白起を見た。
「んー…じゃあね、ごほーびあげるよ」
「褒美…ですか?」
「うん。コーシのくれるお菓子でも、あっちのよく判んない変な置物でも、何でもいい。あれ欲しい人、今までいっぱいいっぱいいた。だからきっと、ハッキも欲しい、もらったら嬉しい、思うよね? おすすめはお菓子。でも、ハッキの好きなの選ぶ。さ、どーぞ」
まるでそこらの小石でもくれてやるような気軽さで言ってのける彼女だが、彼女の言う『コーシ』こと申生公子は紛うことなき王族の一員であり、国政になくてはならない上大夫である。
そんな彼から熱愛されている彼女の許には連日公子の名で様々な贈り物が届けられ、その尽くが貴族であっても滅多にお目に掛かれない西域渡りの高価な菓子であったり、特定の地域でしか入手できない珍品財宝であったりした。
未だに自身の置かれた立場を理解していない彼女は、他人が見れば喉から手が出る程欲しいそれらの物品にさしたる執着がなく、請われれば簡単に手放した。彼女の無知と無欲に付け込み財物を巻き上げたことが露見して厳罰に処された者の数は十指では足りぬ程だ。
幾度も同じ被害を蒙っていながら、それを被害だとも思わず尚も身辺に無頓着なままの彼女に苦笑しつつも、白起の食指はそんなものには全く動かない。
白起の欲しいもの――それは、下から見上げるように上目遣いで答えを待つ彼女その人だ。
彼女に触れたい。
(だがそれは許されない)
ならば代わりに、彼女から自分に触れて欲しい。
気付けば彼は、無垢な黒眸に吸い寄せられるように背を屈ませ、望むままに口にしていた。
「……では、褒美を頂戴する代わりに、『よくやった』とわたしの頭を撫でて下さい」
「へ?」
あんぐりと口を開け、眼を丸くしてぽかんとする彼女を見て、白起ははっと我に返る。
――今、自分は一体何を口走った?
護衛役に徹すべき身にあるまじき失態に、すぐさま詫びを口上してその場を退こうとする。
しかし、それより早く、伏せた頭に小さな手がそっと乗せられた。
「えーと……こう?」
遠慮がちながら、彼女は冠で綺麗に整えられた白起の頭を丁寧な手付きで撫でた。
不意を突かれた白起は身動ぎひとつ出来ず、彼女の手の動くに任せた。
まさか本当に撫でてくれるとは思っていなかったのだが、童子の如き彼女の素直さを考えればこうなって当然だった。
……いや、本当は心のどこかで、こうなることを予期して、期待していたのだ。
止めなければ――脳裏を占める意志に反し、白起は心地よい彼女の手に顔を擦り寄せた。
「ハッキ、犬っころみたい」
彼女は可笑しげにくすくす笑う。
いつもならばただの皮肉にしか聞こえない言葉なのに、彼女が言うと不思議と裏のないそのままの意味として抵抗なく受け入れられる。
反面、元来有する王室への忠誠心と芽生えたばかりの彼女への恋心という、互いに相反する二つの感情によって、白起の心身は雁字搦めに縛られていた。
生まれて初めて想いを寄せた女人がよもや公子の妃とは…。
白起の口元が自嘲に歪む。
叶うならば、気が狂わんばかりに燃え滾るこの胸の内を、彼女に全部ぶちまけてしまいたい。ある筈のない出口を求めて詰まり募る想いをひと息に吐き出してしまいたい。
だがそれはどうあっても叶えてはならない大それた望み。成就されることのない泡沫の夢だ。
絶対に悟られてはならない、なれども消すことも出来ぬ想い。この国に仕える武官である以上、生涯胸に秘したまま死ぬまで誰にも明かしてはならない。そう、譬え相手が彼女であっても、だ。
判り切っていたことだが、それは想像を遥かに超えた苦痛だった。
「えへへー、ハッキ、おっきい犬っころ、わんこー!」
彼女は無邪気な笑顔を満面に浮かべ、わしゃわしゃと白起の頭を掻き回す。あまつさえ長身の彼に短い腕を精一杯回して抱き付く姿は、まるで本当に大型犬と戯れているようだ。
〈そうです、幽姫さま。わたしは狗です。王室を警護する忠実な狗であり、あなたを何ものからもお守りする番犬でしかありません。――いえ、そうであった筈でした。
ですが今や、狗に過ぎないわたしの心は過分にも王弟殿下の妃であるあなたに恋い焦がれ、決して越えてはならぬ臣下の則を越えてしまった〉
心の中でだけ苦衷を吐くと、白起は無言のままゆっくりと瞼を閉じた。無意識の内に握り締めた拳に力が入る。
優しく温かな彼女の懐中にいられることはこの上なく幸福なのに、愛しくてならない彼女の躰を抱き締め返せないことが他に比べようがない程苦しかった。
完全お忍びということで、彼女は侍女に扮して白起の背に従った。
裙子を捌く足取りは頗る軽快だ。
湧き上がる高揚感に、自然と笑みが零れる。
申生は兄・献公の補佐として日中はずっと執務に忙殺され、世話役の陳平と張良も共に複数の庶務がある為不在だ。なので、今日傍にいるのは白起ひとりだけということになる。
――いやあ、本当についてるなぁ。ハッキって、意外と大目に見てくれるんだよね。
いかにも融通の利かない堅物そうな外見と異なり、白起は彼女に滅法甘かった。
さすがに宮殿からの脱走は許さないが、その他の行動に関しては比較的管制が緩く、普通なら大いに窘められ咎められるような行状であっても、少しばかり眉を曲げて弱々しく取り縋れば大抵の場合追及することなく黙認してくれるのだ。
それなりに目敏いところのある彼女は、日頃からちゃっかりそれを利用している。
ただ、何故白起がそこまで自分に弱いのか、その理由までは知る由もなかった。
「――幽姫さま、到着致しました」
先を行く白起が歩みを止めて振り返り、彼女を傍らに誘った。
複雑に張り巡らされた内宮の回廊を通り、所々石段を登って、遂に目的の城塞に辿り着いたのだ。
「わあぁ…!」
想像以上に壮観な眺望に、彼女は眼を輝かせて歓声を上げる。平原一の規模を誇る広大な咸陽の街市を一望出来るのは、都広しと雖もきっとここだけだろう。
高欄に突いた両腕に体重を掛けて見事な景観に見入っていると、斜向かいに立つ白起が風に吹き上げられて靡く額髪を押さえながら忠告してきた。
「本日はいつにも増して風が強いようですので、足元には充分お気を付け下さい」
「ん! 判ってるよ!」
勢いを付けてくるりと躰を反転させ、咸陽の街並みに背を向けた一瞬のことだった。
突如吹き荒れた突風に足を掬われ、彼女の小柄な躰が何の支えもない後方にぐらりとよろめく。
次の瞬間、世界が上下逆転し、頭を下にして宙に投げ出されていた。
「…あ、れ?」
「幽姫さま――!」
高欄から半身を乗り出し、血相を変えて必死に手を伸ばす白起の姿が一気に遠くなる。
内臓が浮き上がるような浮遊感はすぐさま重力に押し潰され、脳がぐらぐらする程激しい衝撃に襲われた彼女は、反射的に固く両の眼を瞑った。