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第14話『散りし花 還らぬ春の 疵ひとつ 君を想ふぞ 我が身の咎か』

これぐらいなら、大丈夫だよな……?

 ――あの日も、酷く暑い夜だった。



「オレ、孝子ちゃんのことが好きなんだ!!」


 頭上の月だけが青白く闇を照らしている。遠くで聞こえる不気味な虫のさざめきが、夜の静寂をかき乱していた。

 誰もいない夜の空き地に、オレは孝子ちゃんを呼び出していた。格調高い地主の家で育った孝子ちゃんが、夜中に家を抜け出せるはずもない。それなのに、こっそり抜け出して会いに来てくれた――ただそれだけで、胸が千切れるほど高鳴っていた。

 一目見るなり、溢れ出た告白の言葉。突然の想いに、孝子ちゃんは激しく動揺していた。そして、震える声でぽつりと告げたんだ。


「……ご、ごめんなさい。私、龍ちゃんのこと――」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白に染まった。二人で過ごした今までの思い出が走馬灯のように駆け巡り、目尻に一気に熱が集まっていく。全身に雷が落ちたような、激しい衝撃に襲われた。


「あぁぁぁぁぁ! ああぁぁぁ! 誰かに……誰かに取られるくらいならぁぁぁぁ!!!」


 自分では叫んでいたつもりだった。だが、恐怖と怒りで固く引き攣った喉からは、掠れた呻き声しか出てこない。手に強烈な力が籠もり、何か柔らかくて細いものを夢中で掴みしめていた。視界は涙と血の気で激しく霞み、己の身体が四つん這いになっていることすら分からなくなっていた。振り下ろす腕で必死に地面を叩き、この狂いそうな悔しさを打ち消そうとしていた。

 ゴキッ、という鈍い感触にすら気づかず、ただひたすらに力を込め続けていたんだ。


「……た、龍ちゃ……っ」


 蚊の鳴くような声が聞こえた時、ふと我に返った。目の前にいたのは、孝子ちゃんだった。だが――その瞳の焦点は定まっておらず、開いた口からはダラダラと唾液が溢れ出していた。

 オレの両手が孝子ちゃんの首を力任せに絞めあげており、その首元には、苦し紛れに藻掻いた孝子ちゃんの細い手がしがみついていた。


「ひぃ……っ!? なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ……っ!!」


 頭の理解がまるで追いつかなかった。ただ、孝子ちゃんの体温が冷たい地面へと徐々に吸い取られ、急速に冷たくなっていく感触だけが、恐ろしいほどの現実味を持って伝わってきた。


「オ、オレが……オレが殺しちゃっ……殺した、のか……?」


 それを理解した瞬間、喉の奥から猛烈な吐き気が突き上げてきた。手で口を覆うが、指の隙間から酸っぱい胃液がダラダラと溢れ出る。内臓が裏返るような気持ち悪さを抱えたまま、パニックを起こした頭で狂ったように考えを巡らせた。


(どうしようどうしようどうしよう! 殺しちゃった、殺しちゃったよ! なんで!? 何で殺したの!? と、とりあえず隠さなきゃ……隠さなきゃッ!)


 冷たくなり始めた孝子ちゃんの体を、力任せに背中へ担ぎ上げる。背中に伝わる孝子ちゃんの感触に狂気的な高揚感を覚えながら、おぼつかない足取りで暗い山の方へと向かった。途中で誰一人としてすれ違わなかったのは、悪魔の加護としか思えなかった。


 山奥に辿り着くと、地面を素手でがむしゃらに掘り返した。爪が剥がれ、指先から血が滲み出ても、狂ったように穴を掘り続けた。

 やがて完成した暗い土穴へ、孝子ちゃんの遺体を滑り込ませる。その光景を目にした瞬間、胸の奥からドロリとした異常な熱が沸き上がってきた。抑えきれない歪んだ欲情が、まるで百足の群れのように全身の肌を這い回る。気がついた時には、オレは冷たくなった孝子ちゃんの上に覆いかぶさっていた。



 ――孝子ちゃんを完全に土へ埋め終えた頃には、夜はさらに深く更けていた。熱の引かない荒い息を吐きながら、冷え切った山中に立ち尽くす。とてつもない虚無感と倦怠感が、ずっしりと身体に伸しかかってきた。そして直後、逃げ場のない恐ろしい罪悪感が脳髄を叩き割るように支配した。


 そこからどうやって家に帰ったのかは、ほとんど覚えていない。「孝子ちゃんに振られた」というショックだけで心がボロボロになり、もう会えないのだと思うと涙が止まらなかった。そのまま逃げるように、深い暗闇の底へと意識を落とした。


 ……翌朝、目が覚めると全身が痛むように痛んでいた。なぜこんなに身体が重いのか、自分でも分からなかった。昨日、振られてショックで落ち込んで帰ってきたはずだ。なのに……どうしてオレの手は、こんなに爪が割れて血塗れているんだろう。


 あれ?そもそもオレは一体――誰に告白したんだったっけ。確か……地主の娘さんだったか。顔は可愛らしかったはずだ。……名前は、何だっけな。まあ、いいか。振られたんだし、もう二度と会うこともないんだから。




 ◇◆◇◆◇◆◇





「ああぁぁぁ……全部、全部思い出した!! オレのせいだったんだ!! オレが……っ! オレが……ッ!」


 声にならない悲痛な叫びが、激しい雨の音にかき消されていく。涙にまみれた龍五郎を、鈴蘭は冷め切った眼差しで見下ろしていた。すると不意に、濡れた両肩を強く掴まれる。


「なぁ、嬢ちゃん!! オレは、オレは一体どうやって償ったらいいんだ……! この罪をどう贖えば……っ!!」


 ぐしゃぐしゃに顔を歪ませ、赦しを乞うように縋りついてくる老爺。鈴蘭は自分の肩に置かれた震える手をそっと取り、静かにその場へしゃがみ込んだ。龍五郎の手を両手で優しく包み込むと、自分の顔の前まで引き寄せる。


「龍さん。……罪はね、消せないよ。償うことも、贖うことも、何一つ許されないの。貴方はその罪を抱えたまま、死ぬまで苦しみ続けなきゃいけないんだよ。……人の人生を奪うことは、この世で最も許されない過ちなんだから」


 慰めでも救いでもない。追撃するように放たれた冷徹な一言。龍五郎の顔から色が失われ、力なくその場に崩れ落ちた。鈴蘭は二度と振り返ることなく、泥の中に打ち伏す龍五郎を残してその場を去っていった。


 激しい雨に打たれながら、一人学校へ向かって歩く。

 胸の奥で渦巻く龍五郎への激怒に焦がされるように、自覚なく足取りが早くなっていく。その時、背後から荒い息遣いとともに叫び声が上がった。


「――おいっ、鈴蘭……っ!」


 東だった。大雨を突いて走ってきた彼は、手に持っていた傘を無造作に差し出してきた。それを受け取って開くと、息を整えた東が鋭い視線で問い詰めてくる。


「……さっきの、何のつもりだ」


「……聞いてたんだ、東くん」


 感情の失われた、力のない声。雨に濡れた制服が肌にへばりつく不快感に顔を顰めつつ、鈴蘭は東へと視線を向けた。


「……人生ってね、一回しかないんだよ。そのたった一回を誰かに壊されるなんて……絶対に許されることじゃない」


「だからって、あんな追い詰め方を――」


 責め立てる東の声を、鈴蘭は淡々と遮った。


「龍さんは苦しむべきだったの。孝子さんの分まで、ちゃんと死ぬまで苦しまなきゃいけなかったんだよ。……その永遠の苦しみだけが、龍さんの……唯一の償い方なんだから」


 降りしきる雨の中、東の顔は苦々しく歪んでいた。反論の言葉すら見出せず、ただただ目の前の少女の異質さに困惑するしかない。そんな東の表情を見つめながら、鈴蘭はふっと哀しげな笑顔を浮かべて囁いた。


「やっぱり……東くんには『賢者』の生き方は向いてないよ」


 東の眉間がさらに固く寄せられる。激しい雨音だけが二人の間を埋める重苦しい沈黙の中、やがて東が諦めたように深く息を吐き出した。


「……言いたいことは山ほどある。……だが今は、学校に戻るぞ。みんなが心配してる」


 背を向け、大股で歩き出す東。思いがけない言葉に数秒だけ立ち尽くした鈴蘭だったが、置いていかれないよう、少しだけ足早にその背中を追いかけた。

 止むことのない雨の音が、二人の間に横たわる静寂を深く塗り潰していた。




 ◇◆◇◆◇◆◇





 数週間後の出来事である。

 薄暗い病室のなか、窓から差し込む静かな陽光だけが部屋を照らしていた。龍五郎はベッドの上で、静かに横たわっている。


 あの日、鈴蘭に真実を突きつけられた後、龍五郎は家へ戻り、ただひたすらに泣き続けた。押し寄せる激しい後悔と罪悪感に苛まれ、幾度となく強い吐き気に襲われる。そんな絶望の日々を繰り返すうちに身体は限界を迎え、倒れているところを近隣の住民に発見されて病院へと搬送されたのだった。

 病床の中でも、脳裏にはあの日の鈴蘭の冷ややかな言葉が容赦なく渦巻いていた。あの真夏の夜の凄惨な記憶が、一瞬たりとも離れてくれない。


 ――今日は、いつもより暑い日だった。


 ふと重い瞼を開けると、目の前に孝子の姿があった。昔と少しも変わらない、あの愛らしい顔立ちに涙が溢れ出していく。


「た、たか……孝子、ちゃん……?」


「うん。そうだよ、龍ちゃん」


 全身の残された力を振り絞り、身体を起こして孝子の元へ伸ばした手でその小さな身体を強く抱きしめた。溢れ出る涙とともに、止まっていた謝罪の言葉を紡ぎ出す。


「ごめん……ごめんなぁ、孝子ちゃんっ! オレ、孝子ちゃんのことが大好きで……他のやつに奪われたくなくて……オレ……っ!」


「うん……全部、分かってるよ龍ちゃん。私もね、龍ちゃんのこと、ずっと大好きだったよ」


 泣きじゃくる龍五郎の背中を、あやすように優しく撫でる。その声はどこまでも慈愛に満ちており、龍五郎の犯した残酷な罪ごとすべて包み込んでいくかのようだった。龍五郎は子供のように涙を垂れ流しながら、謝罪を重ねた。孝子はそれを静かに受け止め、彼の頭を胸元へ引き寄せて温かく抱きしめ続ける。

 やがて龍五郎の涙が収まったのを確認すると、孝子はそっと身体を離し、静かに口を開いた。


「あのね、龍ちゃん。私ね……許嫁がいたんだよ。だから、龍ちゃんのお嫁さんにはなれないんだって言われたの」


「許嫁……っ。もしかして、あの時断ったのは……」


「うん。龍ちゃんに私の運命を背負わせたくなかったの。だって……許嫁がいるから付き合えないなんて言ったら、龍ちゃん、私と一緒に夜逃げしてくれたでしょ?」


 少し悪戯っぽく微笑みかける孝子。その言葉に、龍五郎は鼻水を啜りながらも力強く頷いた。


「当たり前だろっ! 孝子ちゃんのためなら……オレは夜逃げでも何でもしてやったよ!」


 しわがれた声で叫ぶ龍五郎に、孝子は切なげな表情を浮かべた。


「だから……だから断ったんだよ。私のことなんて忘れてほしくて。龍ちゃんの人生を、私が邪魔したくなかったから……っ」


 孝子の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。声は次第に震え、嗚咽に飲み込まれていく。その涙を見た龍五郎は、反射的に彼女を固く抱きしめ返した。


「違う……っ! 邪魔になんてなるもんか! オレは……オレの人生は、孝子ちゃんがいてくれたから楽しかったんだ!!」


「……龍ちゃん。大好きだよ……」


「オレもだ、孝子ちゃん……。これからは、ずっと一緒にいような」


 その言葉を最期に、二人を包み込むように赤黒い闇が広がっていった。二人の酷く歪で、美しくも残酷な愛は、底知れぬ地の底へと深く深く落ちていく。


 享年八十二歳。

 五十嵐龍五郎の人生は、消えぬ後悔と狂おしい愛に苛まれながら、その長い苦しみの歴史に静かに幕を下ろした。

私の手で散らしてしまった、愛しい花よ。消えない傷をこの身に刻み、果てのない贖いを抱き続けるなら、散ってしまった春の面影に、あなたを想い続ける罪はお赦しいただけますでしょうか。




◇◆◇◆◇◆◇





ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!これにて、第一章完結となります。

サブタイトルの短歌――『散りし花 還らぬ春の 疵ひとつ 君を想ふぞ 我が身の咎か』。……ちょっと過言かもしれませんが、まさに第一章のすべてがこの歌に詰まっています!

愛する人を自らの手で殺めてしまい、あまりの罪の重さに記憶を封じていた老爺・龍五郎。鈴蘭によって暴かれた真実の先で、彼を包んだのは冷たい現実と、最後まで消えなかったあまりに歪で切ない愛でした。

罪とは何か。贖いとは何か。人生の終着点で痛切な記憶を取り戻した彼にとって、あの残酷な夜こそが、遅すぎた「青春」だったのかもしれません。


さて、物語は第二章へと突入します。

はたして鈴蘭たち人生満喫部は、どのような青春を送るのか。引き続き、彼らの青く未熟な物語を見守っていただけたら嬉しいです。

それでは、第二章でまたお会いしましょう!

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