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810Hz

作者: 平田智剛
掲載日:2026/08/08

## 1 8月9日、午後8時10分


 最初にそれを聞いたとき、神谷悠真は笑った。


「810Hzなの出来スギィ!」


 大学の夏休み。8月9日、午後8時10分。悠真は自室のパソコンの前で、翌日に迫った「野獣の日」のための動画を編集していた。毎年のことだった。8月10日になると、810や114514という数字がネットを埋め尽くし、昔の映像から生まれた語録がタイムラインを流れ、下北沢には物好きが集まる。悠真も高校生のころから、その馬鹿騒ぎの1人だった。去年は友人の颯太と下北沢まで出かけ、ネット上で「野獣邸」と呼ばれる場所から少し離れた道で、知らない男たちと一緒になって笑った。今年はさすがに現地へ行く気はなかった。大学4年にもなって何をやっているんだという自覚くらいはある。それでも動画くらいは投稿するつもりだった。


 そうして編集ソフトをいじっていた午後8時10分、耳の奥で突然、高い音が鳴り始めた。


 キィィィィィ――。


「うわ、何だこれ」


 悠真はイヤホンを外した。音は止まらない。パソコンのスピーカーをミュートにしても、窓を閉めても変わらなかった。疲労から来る耳鳴りかと思ったとき、スマートフォンが震えた。颯太からだった。


> お前なんか変な音聞こえない?


> 高いやつ?


> そう


> 俺も


 続けてグループチャットの別の友人からもメッセージが来た。


> 俺もなんだけど


> 何これ


 悠真は録音アプリを起動して30秒ほど録り、音声解析ソフトに放り込んだ。スペクトル上に、不自然なくらい細く強い線が立っていた。約810Hz。数秒黙ったあと、悠真は吹き出した。


> 810Hzなの出来スギィ!


 スクリーンショットを投稿すると、仲間から次々に反応がついた。


> やりますねぇ!


> 怪異まで淫夢営業してて草


> 今年は気合入ってますねぇ!


> 神のお告げ


 悠真も声を出して笑った。投稿はあっという間に拡散され、知らないアカウントからも引用され始めた。その直後、グループチャットの1人が書いた。


> ちょっと待って


> 俺、今まで聞こえてなかったんだけど


> 何が


> 810Hz


> 今聞こえ始めた


 悠真の笑いが一瞬止まった。けれど、その時点ではまだ、それすら今年の野獣の日を彩る出来の良すぎたネタに思えた。


     *


 同じころ、下北沢の住宅街では、小さな鳥居の設置作業が終わっていた。高さは大人の胸ほどしかなく、神社が建てたものでもなければ、正式に祀られた祭神がいるわけでもない。毎年8月10日になると押しかける若者たちの騒音や無断撮影に耐えかねた近隣住民が、厄除けと願掛けを兼ねて用意したものだった。


「こんなもので本当に効くんでしょうか」


 近所の男が苦笑すると、住民会の世話役をしている三宅澄子は「気休めでいいんですよ」と答えた。


「去年なんて夜まで大声だったでしょう。警察の人も大変そうだったし。今年も来るでしょうから、お願いだけでも」


 澄子は鳥居の前で手を合わせた。正しい作法など知らない。誰に願えばいいのかも知らなかった。ただ、心から願った。


「今年こそ、静かな8月10日になりますように」


 午後8時10分。


 カーン。


 澄んだ鈴の音が住宅街に響いた。


 全員が顔を上げた。誰かの家から聞こえたのかと見回したが、周囲に鈴はない。風も吹いていない。鳥居だけが、日暮れの住宅街に静かに立っていた。


## 2 眠れない夜


 午後11時になっても810Hzは消えなかった。悠真はシャワーを浴び、音楽を大音量で流し、最後には両耳を塞いだ。それでも音量はほとんど変わらない。耳で聞いているというより、頭蓋骨の内側に細い金属棒を差し込まれ、それが一定の速さで振動し続けているようだった。


 タイムラインの雰囲気も、数時間前とは明らかに変わっていた。


> これいつ止まるんだよ




> 絶対ふざけんな


> 最初笑ってたけど普通にきつい


> 耳鼻科行った奴いる?


> 耳栓意味ない


> 録音できる人とできない人がいるっぽい


 悠真はベッドに横になった。目を閉じても810Hz。寝返りを打っても810Hz。午前0時、午前1時、午前2時。人間は単調な音ならそのうち慣れる、とどこかで聞いた記憶があったが、嘘だった。いつ消えるか分からない音ではない。「消えない」と思い始めた音は、1秒ごとに存在感を増した。


 午前3時18分、颯太から電話が来た。


「寝られた?」


「寝られるわけないだろ。お前は?」


「無理。あとさ、これ……語録言ったら聞こえるようになるって話、マジっぽい」


「どういうこと?」


「最初聞こえてなかった奴に、意味を分かった上で語録を言ってもらった連中がいる。17人やって17人、直後から聞こえ始めた」


「検証する奴もアホだろ……」


 悠真はそう言いながら、午後8時10分に自分が投稿した文章を思い出した。


> 810Hzなの出来スギィ!


 すでに表示回数は2万を超え、引用欄には大量の語録が並んでいた。その中には、こんな書き込みまであった。


> この投稿見て「やりますねぇ!」って声に出した瞬間から聞こえるようになった


「俺の投稿……」


「消した方がいいんじゃないか」


 悠真はすぐに削除した。だがスクリーンショットは回り、転載され、まとめられていた。自分の手元から消したところで、もう自分のものではない。


「でも、語録言ったら耳鳴りするだけだろ。明日の夜になれば終わるんじゃねえの。野獣の日なんだから」


 電話の向こうで颯太は少し黙り、「終わればいいけどな」とだけ答えた。


 午前4時を回るころには、タイムラインから淫夢語録がほとんど消えていた。例年なら8月10日が近づくほど加速するはずの文化が、今年だけは日付が変わった途端に沈黙していく。


> 未感染の人は語録を使わないでください


> 意味を知らずに言ったケースでは今のところ発症報告なし


> 動画の自動再生を切れ


> 音声でも駄目らしい


 冗談めかした書き込みに対して、本気で怒る人まで現れ始めた。


> マジでやめろ。まだ聞こえてない奴まで巻き込むぞ


 それでも面白がる者はいた。


> 怪異まで語録使うとかやりますねぇ


 数十秒後、そのアカウントが続けて投稿した。


> 待って


> 聞こえる


 それきり、そのアカウントは夜明けまで何も書かなかった。


## 3 8月10日、午前8時10分


 悠真は一睡もできないまま8月10日の朝を迎えた。カーテンの隙間から白い日差しが差し込み、外では蝉が鳴いている。そのすべてに薄い膜を被せるように、810Hzだけが途切れず鳴っていた。


 午前7時59分、颯太から配信のリンクが送られてきた。昨夜から有志で810Hzの解析を続けている集団で、中心にいるのは音響工学を研究している大学院生の深町だった。画面に映る深町も、徹夜したのだろう、目の周りが黒ずんでいる。


「昨晩から、全国243人分の音声データを比較しました。先に結論を言います。810Hzは、単一の正弦波ではありません」


 スペクトルが表示され、810Hzの基音を除去した音声が再生された。ザーッというノイズの奥から、無数の笑い声が浮かび上がる。男の声、女の声。その中に、何年もネットを使っていれば嫌でも耳にする言葉が混ざっていた。


「やりますねぇ」


「ありがとナス」


「いいよ、来いよ」


 何百、何千という声が重なっている。いつもの8月10日なら爆笑で埋まるはずのコメント欄に、ほとんど語録は流れなかった。


「さらに、昨夜からの感染経路もある程度追えています」


 深町が別の画面を出した。無数のアカウントが枝分かれした図だった。


「最初から810Hzが聞こえていた人は少数でした。しかし、午後8時10分以降、怪異について語録を使った人へ急速に広がった。大きな拡散経路がいくつかありますが……これもその1つです」


 画面中央に、見覚えのある投稿が表示された。


> 810Hzなの出来スギィ!


 悠真のものだった。


 そこから何百本もの線が伸びている。引用した人。音読した人。それを見て別の語録を書いた人。その先でさらに語録を使った人。


「もちろん、これだけが原因ではありません。ただ、この投稿を起点に新たに810Hzを聞くようになったと推測できるアカウントが相当数あります」


 悠真はスマートフォンを握ったまま動けなかった。昨夜は、ただ面白かった。面白いから投稿した。それを見た誰かが笑い、言葉を返した。その結果、その人の頭の中でも今、同じ音が鳴っている。


 午前8時8分、深町は再び音声解析画面へ戻った。


「もう1つあります。810Hzと笑い声、語録を除去したさらに下に、昨夜から一定間隔で繰り返されている音声があります」


 午前8時10分になった瞬間、再生ボタンが押された。


 ノイズの底から、ひどく遠い声が浮かび上がった。男とも女とも分からず、若者にも老人にも聞こえる。


「8月10日」


 悠真の背中が冷えた。


「午後11時45分14秒」


 短い間。


「お迎えに参ります」


 コメント欄が止まった。


「こちらで」


 大きなノイズが入り、最後の言葉だけが妙にはっきり聞こえた。


「静かに」


 深町はしばらく黙っていたが、「この音を現在聞いている全員のデータから、同一のメッセージが抽出されています」と言った。また、810Hzを聞いている一部の端末で、GPS上の位置は正常なのに、加速度や方位などのセンサーが一瞬だけ現実には存在しない値を記録していることも説明した。


 コメントが流れた。


> 異世界に連れてかれるってこと?


 深町は「分かりません」と答えた。


 その直後だった。


> 怪異まで114514なの出来スギィ!


 続けて別の誰かが、


> やりますねぇ!


 数秒後。


> あ


> 待って


> 聞こえる


> 嘘だろ


 コメント欄が一気に荒れた。


> やめろって言っただろ!


 深町が机を叩いた。


「語録を使わないでください! まだ聞こえていない人は絶対に書かない、言わないでください。意味を理解した状態で発した時点で、対象になる可能性があります!」


 悠真は自分の手が震えていることに気づいた。午後11時45分14秒まで、あと15時間35分4秒。


 そしてその15時間35分4秒後に連れていかれる人間の中には、自分の投稿を見なければ810Hzを聞かなかった人もいる。


## 4 午前11時45分14秒


 下北沢は静かだった。


 三宅澄子は自宅近くの道を見ながら、不思議そうに首を傾げていた。例年なら午前中からそれらしい若者が現れ、スマートフォンを片手に住宅街を歩き回る。年によって人数の差はあっても、8月10日に誰も来ないことなどなかった。


 午前11時40分になると、例年の混乱を見越して警察官が数人やってきた。その1人も周囲を見渡し、「今年、静かですね」と戸惑ったように言った。


「そうでしょう?」


 澄子は嬉しそうに答えた。


 午前11時45分14秒。


 何も起こらなかった。大声も、集団も、家へスマートフォンを向ける人間もいない。近所の男が小さな鳥居を指差して、「御利益あったんじゃないですか」と笑った。


「ほんとに効いたのかしらねえ」


 澄子も笑った。


 鳥居は静かに立っていた。その向こう側で何が鳴っているのか、住民には聞こえなかった。


     *


 同じころ、悠真は自宅の洗面台で吐いていた。徹夜と810Hzに加え、朝から音の種類が増えている。笑い声、語録、知らない人間の声。ときどき自分が何も言っていないのに、耳のすぐ後ろから自分自身の声で「やりますねぇ」と聞こえることさえあった。


 口をすすぎ、顔を上げる。鏡の中の悠真が、一瞬だけ遅れて顔を上げた。


「……は?」


 動きを止める。鏡の中の自分も止まった。今度は同時だった。徹夜のせいだと思おうとしたところで、深町から電話が来た。


「神谷さん、今どこです?」


「家です」


「方位磁石のアプリ、開けますか。音に方向性があるかもしれない」


 言われるまま身体の向きを変えると、ある方向を向いた瞬間だけ810Hzがわずかに強くなった。深町は全国の感染者から同じデータを集め、音量が最大になる方角を地図上へ引いていた。送られてきた画像には、日本中から無数の線が伸びている。それを関東、東京と拡大すると、すべてが世田谷区の一点へ収束していた。


「下北沢……」


「現地、行けますか」


 悠真は鏡を見た。今度は自分と同時に動いている。


「行くしかないでしょ」


## 5 鳥居


 午後1時過ぎ、悠真と颯太は下北沢で合流した。2人とも徹夜明けで、顔色はひどかった。


「静かだな」


 颯太が言った。確かに人はいる。買い物客も、飲食店へ入る客もいる。しかし、例年の8月10日に現れるような人間だけが見事にいない。


「そりゃ来ないだろ。みんな午後11時45分14秒のことで頭いっぱいなんだから」


 スマートフォンの簡易測定器を頼りに住宅街へ進むほど、810Hzは強くなった。やがて基音の中に何十人分もの語録まで混ざり始め、ある角を曲がったところで悠真は足を止めた。


「……あれ、昨日まであったか?」


 小さな鳥居が立っていた。


 鳥居の向こうには何の変哲もない住宅街が続いている。悠真が1歩近づくと810Hzが強くなり、もう1歩進むと頭の中を削るような轟音になった。


「これだろ」


 颯太が言った。


 悠真は柱へ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、世界から音が消えた。車も、蝉も、風も、810Hzさえも聞こえない。鳥居の向こう側の景色だけが変わっていた。


 同じ道路。同じ家並み。しかし空は黒く、街灯はついているのに人影がない。道の奥に1人だけ男が立っていた。顔は暗くて見えず、口だけが動いている。何かを言っている。しかし完全な無音だった。


 悠真は反射的に手を離した。蝉と車と810Hzが一気に戻り、思わず尻餅をつく。


「何見た?」


「向こうに……別の下北沢がある」


 深町へ連絡し、今度は颯太と2人で鳥居の柱を握った。すると電話の向こうで深町が叫んだ。


「今、小さくなった! 全国の810Hzが一瞬だけ弱くなりました!」


 2人は顔を見合わせた。


「これを外せば、接続が切れる」


 悠真は鳥居を持ち上げようとした。びくともしない。工具を探そうとしたところで、颯太が「勝手に壊すのはまずい。設置した人くらい探そう」と止めた。


 そのとき背後から、「あなたたち、それに何してるの」と声がした。三宅澄子だった。


## 6 1年に1度


 悠真は事情を説明した。鳥居が設置された午後8時10分と810Hzの発生時刻が一致していること。鳥居に触れると全国の音が弱まること。そして午後11時45分14秒に、音を聞いた人間がどこかへ連れていかれる可能性が高いこと。


「だから、これを撤去してください」


 澄子は黙って最後まで聞いたあと、「勝手ですね」と言った。


「君たちは1年に1度のお祭りかもしれないけど、私たちはここに住んでるんですよ。夜中まで大声を出して、道を塞いで、人の家を勝手に撮って、ゴミを置いていく。警察が来ても、次の年にはまた来る。それが何年も続いてる」


「でも今回は命がかかってるんです」


「今年はね、初めて静かなんです」


 遠くで蝉が鳴いていた。


「今日が8月10日だって忘れられるくらい、普通の日なんですよ」


 悠真は反論できなかった。去年、自分もここへ来た。大声を出した覚えも、ゴミを捨てた覚えもない。それでも人の住む住宅街を観光地のように歩き、問題の家を見て笑った。


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃないの。ただ、私たちが何でこんなものまで建てたのか、少しは考えてください」


 住民の多くは鳥居の撤去に反対した。彼らからすれば、今年初めて願いが叶ったのだ。悠真たちは説得しながら時間を失った。


 午後5時を回ったころ、悠真は何気なくタイムラインを眺めていて、見覚えのあるアカウントに目を止めた。


> 昨夜から810Hzという高い音がずっと聞こえています。耳を塞いでも消えません。眠れませんでした。本当に怖いです。同じ症状の方はいませんか


 悠真が以前からフォローしているアカウントだった。AV出演者の権利や、過去作品の削除について頻繁に発信している。数か月前には、こんな投稿もしていた。


> 出演したという事実だけで、その人の性的な映像が本人の望まない形で永久に消費されていいことにはならない


 悠真も「いいね」を押した記憶があった。


 何気なく投稿履歴を遡った。淫夢についての書き込みは1つもなかった。語録も、810も、114514もない。


 それなのに、その人には810Hzが聞こえている。


 現在までに判明している条件が正しいのなら、鳥居が建ったあと、どこかで意味を理解したうえで語録を使ったということになる。少なくとも、公に見える場所ではないどこかで。


 悠真はしばらくそのプロフィールを見ていた。女性の出演者が、出演したことを理由にいつまでも性的な素材として扱われることには、これほど敏感な人だった。そのことと、810Hzが聞こえていることが、その人自身の中では何の矛盾にもなっていなかったのだろう。


 その瞬間、悠真は他人を責める気になれなくなった。


 自分も同じだからだ。


 AV女優の削除請求の記事を見れば、本人の意思を尊重するべきだと思ってきた。それなのに「野獣先輩」という言葉を見たとき、そもそも「本人」というものを考えたことすらなかった。ネットミームだから。文化だから。みんなが笑っているから。その3つで思考が止まっていた。


「どうした?」


 颯太に聞かれ、悠真は「何でもない」とスマートフォンを閉じた。


 まだ、うまく言葉にできなかった。


 午後6時。


 810Hzの奥から、泣き声のようなものが聞こえ始めた。


## 7 もういいから


 深町から緊急の連絡が入り、悠真たちは近くの貸し会議室へ集まった。


「新しい音が出ています」


 解析画面には810Hz、笑い声、語録、そのさらに下にごく小さな波形が見える。深町が増幅すると、細い呼吸音が聞こえた。


 はぁ。はぁ。


 泣いているようにも聞こえる。


「ここからさらに、既知の語録と一致する成分を引きます」


 ノイズが減った。


「……いいよ」


 部屋の隅で誰かが小さく吹き出した。反射だったのだろう。有名な言葉の一部に聞こえた。


 しかし、声は続いた。


「……もう……いいから」


 部屋から笑いが消えた。


「もう1回」


 悠真が言った。


 深町が再生する。


「……いいよ。もういいから」


 今度は誰も笑わない。


「これ、語録じゃない」


 悠真が呟いた。


 深町は頷いた。


「知っている音声に近い部分だけを人間が勝手に補完して聞いている可能性があります。特に元の語録を知っている人ほど、その傾向が強い」


 別の箇所を処理する。


「……忘れて」


 ノイズ。


「……くれれば」


 笑い声。


「……よかったのに」


 声の主が誰なのか、証明する方法はなかった。しかし何年分もの笑い声と語録の下に、ずっと1人分だけ違う声が埋もれている。


 悠真は耳を澄ませた。今まで810Hzの中から「知っているもの」を探していた。どの語録か、どのネタか、何に使えるか。そればかりだった。


「怒ってるんじゃないのかもな」


「何が?」


 颯太が聞いた。


「向こうの奴。俺らを恨んで、呪って、連れていこうとしてるんだと思ってた。でも……」


 鳥居を建てた住民たちは願った。


 静かにしてほしい。


 そして、向こう側から聞こえる声も同じことを願っている。


 静かにしてほしい。


 もし鳥居が、ただその2つの願いを繋いでしまっただけだとしたら。


 祈りを叶える何かに、人間の都合を理解する必要などない。


 悠真のスマートフォンが震えた。午後7時26分。タイムラインに、犬の動画が流れてきた。


> うちの犬、さっきから吠えてるのに声が出ない


 動画の犬は何度も大きく口を開けている。だが、何の音もしない。


 悠真は窓を開けた。外では蝉が鳴いていた。


 ただし、昼より明らかに少ない。


 世界が少しずつ、住民たちの願ったものへ近づいていた。


## 8 消えていく音


 午後8時、蝉が鳴かなくなった。


 8月の東京で、1匹も。


 午後8時10分。怪異が始まって丸1日が経った。世界が静まり始めても810Hzだけは鮮明だった。むしろ周囲の音が減るほど、それだけが際立っていく。


 午後9時、車の音が消えた。エンジンもタイヤもクラクションも聞こえない。ただ無音の車が道路を滑っていく。


 午後10時、テレビとラジオとスマートフォンのスピーカーから音が消えた。


 午後10時30分になると、住民たちもとうとう異常を認めた。三宅澄子は鳥居の前に立ち、「外しましょう」と言った。


「お願いします」


 悠真たちは工具を用意した。設置に関わった住民たちが固定金具を外し、柱の根元を掘った。しかし鳥居は動かない。そもそも柱はもう土に埋まっていなかった。根元から伸びる黒い影のようなものが、地面の下ではなく、奥行きのない暗闇へ続いている。


「昨日、私たちが建てたものなのに……」


 澄子の声が震えた。


 深町が測定器を向け、「少なくとも、昨日と同じ物体じゃない」と言った。


 午後11時、人間の声が遠くなった。聞こえないわけではない。喋っている本人にさえ、自分の声が別室から聞こえてくるように感じられる。


 午後11時20分、足音が消えた。


 午後11時30分、悠真は胸に手を当てた。心臓は動いている。だが鼓動の音がない。


「あと15分」


 颯太の口が動いた。声はかすかにしか届かなかった。


 鳥居は撤去できなかった。固定金具を外しても、地面を掘っても、住民が「願いを取り下げます」と鳥居の前で何度繰り返しても、黒い影は少しも揺れなかった。


 悠真はスマートフォンを開いた。通信はまだ生きていた。過去の投稿を遡り、自分が転載した動画、切り抜いた画像、書き散らした語録を、消せるものから削除していく。


「全部は消せないぞ」


 颯太が言った。


「分かってる」


「転載されてるのも山ほどある。今消しても、たぶん何も変わらない」


「それも分かってる」


 悠真は削除を続けた。


「でも、俺が残しておく理由もないだろ」


 ある投稿で指が止まった。


 半年前、AV出演者が過去作品の削除を求める権利についての記事を引用し、自分で書いた文章だった。


> 出演したときの同意と、一生晒され続けることへの同意は別だろ


 悠真は長いこと、その文章を見つめた。


 その言葉を書いたとき、自分の頭に浮かんでいたのは女性の出演者だった。


 なぜか、それだけだった。


 男性の出演者を同じ場所へ置くことなど、1度も考えなかった。


「……男でも、同じじゃん」


 ほとんど音にならない声で、悠真は言った。


 颯太は何も答えなかった。


 AV女優に向けていた想像力を、なぜあの男には向けなかったのか。出演した。だから使っていい。もう有名になった。だから本人の意思は関係ない。そんな理屈を女性に対して誰かが言えば、自分はおそらく怒っていた。


 なのに自分も知っていた。


 最初から。


 ただ、相手が男に変わった瞬間、知っていたことを使わなかっただけだった。


 午後11時40分。


 鳥居の向こう側が、肉眼でも揺らぎ始めた。


## 9 神域


 午後11時42分、鳥居の向こうに別の街が現れた。


 誰もいない下北沢。黒い空。青白い街灯。建物の看板には言葉の代わりに、810や114514といった数字が並んでいる。道路のあちこちに人影が立っていたが、誰も動かず、口だけを一定の間隔で開閉している。


「これが……向こうなのか」


 颯太の声はもうほとんど聞こえない。


 午後11時43分。


 鳥居の奥から1人の男が歩いてきた。


 顔は暗くてはっきり見えない。体格も服装も、どこにでもいる人間にしか見えなかった。怪物らしいところなど何もない。だから悠真は怖かった。


「……あんたなのか」


 男が口を開いた。


 その瞬間、世界中から声が押し寄せた。


「やりますねぇ!」


「ありがとナス!」


「いいよ! 来いよ!」


 何百万という声。男の唇は別の形を作っているのに、その声だけが聞こえない。男がもう1度喋ろうとすると、今度は笑い声が重なる。何年分もの音が、1人の声を押し潰していく。


 その中には、悠真自身の声もあった。


「810Hzなの出来スギィ!」


 昨日の自分。


 たった1日前だった。


「黙れよ……」


 悠真が呟いた。


 語録は止まらない。


「黙れよ!」


 叫んだ声さえ群衆に呑まれた。


 午後11時44分。


 男が泣いていた。


 悠真は鳥居の前に膝をついた。


 深町が言っていた。


 知っている言葉を、脳が勝手に補完している。


 自分はずっとそうやって聞いてきたのだ。相手が何を言っているのかではない。自分が何を聞きたいか。何の語録にできるか。何に重ねれば笑えるか。


 悠真はスマートフォンを地面に置いた。解析画面を閉じ、イヤホンも外した。


 聞き取ろうとするのをやめた。


 ただ、目の前にいる1人の男の声を聞こうとした。


 午後11時45分。


 残り14秒。


 13秒。語録。


 12秒。笑い声。


 11秒。810Hz。


 10秒。男の唇が動く。


 9秒。


 知らない声を、知っている言葉に変えない。


 8秒。


「……静かに」


 聞こえた。


 7秒。


 悠真は息を止めた。


「もう」


 6秒。


「静かに」


 5秒。


 男は泣いていた。


「してほしかった」


 4秒。


 悠真の喉が震えた。


 3秒。


「聞こえてる」


 それは、語録でも引用でもない、自分自身の言葉だった。


 2秒。


「今は」


 1秒。


「聞こえてるから」


 男が悠真を見た。


 その唇が最後に1度だけ動いた。


「ありがとう」


 PM11:45:14。


 悠真の世界から音が消えた。


## 10 静かな日


 三宅澄子の耳には、その瞬間、音が戻った。


 蝉が一斉に鳴いた。


 道路を走る車のエンジンが唸り、タイヤがアスファルトを踏んだ。どこかの家からテレビの音が漏れ、犬が吠えた。遠くで電車が走り、誰かが驚いて声を上げた。数時間かけて1つずつ奪われていった音が、午後11時45分14秒を境に、一度に日常へ雪崩れ込んできた。


「……戻った?」


 澄子はそう言ってから、目の前を見た。


 悠真がいない。


 颯太も、深町も、そこにいたはずの人間の何人かだけが消えていた。衣服も靴もスマートフォンも残っていない。


「神谷さん?」


 返事はない。


 住民たちは名前を呼びながら周囲を探した。つい数秒前までそこにいた若者たちだけが、初めから存在しなかったように消えていた。


「鳥居……」


 誰かが言った。


 澄子は振り返った。


 鳥居もなかった。


 いつ消えたのか、誰にも分からなかった。午後11時45分14秒の瞬間までそこにあったはずなのに、音が戻ったことに驚いたわずかな間に、鳥居の立っていた場所には何もなくなっていた。黒い影も、掘り返された土も、固定金具の跡さえない。ただ普通のアスファルトが続いている。


 その夜、全国各地で同様の失踪が報告された。家族の目の前から消えた者。病院のベッドから消えた者。自宅から消え、翌朝になって初めて気づかれた者。


 不思議なことに、消えたのは810Hzを聞いていた者だけだった。


 彼らのSNSアカウントは残った。写真も動画も、過去の発言も残っていた。


 本人だけがいなかった。


     *


 8月11日の朝、下北沢の空はよく晴れていた。


 澄子は家の前を掃いていた。蝉がうるさいほど鳴き、車が走り、近所の家から掃除機の音が聞こえる。昨日の夜にあれほど恐ろしく思えた「音」が、今朝はどれも当たり前にそこにあった。


 例年なら8月10日の翌朝には、何かしらゴミが残っている。今年は空き缶1本、煙草1本、紙切れ1枚落ちていない。鳥居が立っていた場所にも何の痕跡もなく、いつもの住宅街が戻っていた。


 近所の男が家から出てきた。


「……おはようございます」


「おはようございます」


 2人ともしばらく黙っていた。男は道路を見渡し、昨日まで鳥居があった場所へ視線を移した。


「今年は、本当に静かでしたね」


 澄子は返事をしなかった。


 願った通りだった。


 8月10日に集まる若者たちの声は、今年はほとんど聞かなかった。夜には彼ら自身までいなくなった。


 静かにしてください、と願った。


 誰に願ったのかも知らずに。


 澄子は箒を動かした。


 シャッ、シャッ、と穂先がアスファルトを擦る。


 蝉時雨。


 車の走る音。


 人の話し声。


 遠くを走る電車。


 元通りの日常だった。


 ただ、昨日までここに立っていた小さな鳥居だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。


 澄子は一度だけ、その場所を振り返った。


 何も聞こえない。


 810Hzも、もう聞こえなかった。


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