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第31章 婚約編 結婚の勧め⑤ 【後編】——これから暮らす家

昼過ぎ、越さんの家を訪れると、部屋の中にはすでに昼食の準備がされていた。


「すごい……」


思わず声が漏れる。


この前会った時、たまには俺が作ると言ってくれて、ずっと楽しみにしていた。


机の上には、湯気の立つ野菜炒めと卵のスープ、それに炊き立てのご飯。


どちらも、すごくいい匂いがする。


「大したものじゃない」


越さんはいつも通りの調子で言うけれど、これ、絶対に美味しいやつだ。


「いただきます」


箸を伸ばして、一口食べる。


「……美味しい」


思わず、ぽつりと声が漏れた。


越さんって器用だから、料理も出来るんだろうなとは思っていたけど、これは完全に予想を超えていた。料理屋さんレベルだと思う。


野菜の火の通し方も絶妙だし、味付けもすごくちょうどいい。


「それは良かった」


越さんが、ほんの少しだけ表情をやわらげる。


「この野菜炒め、味付けって何入れてるんですか?」


気になって聞くと、越さんは使った調味料を淡々と教えてくれた。


私は思わず目を丸くする。


「それだけですか?」


「あぁ」


「じゃあ、味付けが上手なんですね。私のより絶対美味しい」


本当に、ご飯がどんどん進む。


すると越さんは小さく首を振った。


「ただ炒めただけだ。姫香の料理の方が美味しい」


「その……ありがとうございます。でも、本当に美味しくて」


少し迷ってから続ける。


「今度、作ってるところ見てもいいですか?」


「構わないが、本当に大したことはしていない」


「それでも、見せて欲しいなって」


そう言うと、越さんは「わかった」と小さく口元を緩めた。


食事を続けながら、ふと思い出したことを口にする。


「そうだ、越さん」


「なんだ」


「もし良ければ、他のお部屋も見せてもらっても大丈夫ですか?」


その瞬間、越さんの動きがぴたりと止まった。


数秒してから、


「……そういえば、案内してなかったな。すまない」


と、小さくため息をつく。


「いいんです。私も何も考えてなかったので」


慌てて首を振りながら苦笑する。


「この間、静華さんに言われて。洋服とか小物とか、色々入れる場所を見ておいた方がいいって」


「あぁ」


越さんは納得したように頷いた。


「食事が済んだら、一通り案内する」


「はい」


返事をしながら、なんだか少し不思議な気持ちになる。


こういう話をしていると、本当にこれからここに住むんだなって、少しずつ実感が湧いてくる。


それに、越さんといると、胸の奥でザワザワしていたものが、少しずつ落ち着いていく気がした。


――――――――――――


1階は居間や台所だけじゃなく、玄関から見える範囲だけでも、なんとなく間取りが分かっていたので、簡単に見せてもらった。


そのまま階段を上がり、一度も来たことがなかった2階へ案内される。


「こっちは物置として使っている」


階段を上がってすぐの部屋を開けながら、越さんが淡々と説明する。


「やっぱり、部屋数、多いですね……」


日本の一般家庭の一軒家より、明らかに広い。


しかも、どこもきちんと掃除されていた。


「というか、越さん。これ、掃除ってどうしてるんですか? 前から思ってたんですけど、どこも綺麗ですごいなって」


「週3回、手伝いを頼んでいる。仕事で不在の時にだが」


「あ、そうなんですね……。ちょっと安心しました。ここ、広くて……私、掃除って苦手で」


少し苦笑いしながら白状する。


「それなら良かった」


越さんは特に気にした様子もなく言った。


「必要なら、手伝いを増やして食事も作ってもらうことはできるが」


「それは大丈夫です」


私は慌てて首を振る。


「その、家にいる時に手伝いの人がいると、ちょっと落ち着かないというか……。毎日ちゃんとしたものは作れないかもしれませんけど」


「食べられれば何でもいい。それに、夕食は姫香に負担をかけるかもしれないが、朝食は作る。朝、起きるのが苦手だと言っていただろう」


「……はい。かなり。ギリギリまで寝ていたいというか……。でも、いいんですか?」


「元々、鍛錬で早く起きているし、今も自分の朝食は作っている。得意な方がやればいい」


なんだろう。


越さんって、本当に何でもできる。


もはや、妻、いらなくない?


こうなってくると、本当になんで私と結婚しようと思ったのか、ますます分からなくなってくる。


……いや、普通、美人な奥さんとか欲しくならないんだろうか。


「姫香?」


「あ、なんでもないです。あの、この部屋は?」


慌ててネガティブな思考を振り払って、私は越さんが開けてくれた部屋へ視線を向けた。


そこには、上品な木目の鏡台と、大きめの箪笥が置かれていた。


「ここは?」


「あぁ、姫香の部屋にと思って。あれは、母が使っていたものだ」


「お母さんの?」


思わず目を丸くする。


「そんな大事なもの、私が使っていいんですか?」


「あぁ、姫香が良ければ。かなり古いものだから、新しいものを買っても構わないが」


私はすぐに首を横に振った。


それから、そっと鏡台へ触れる。


滑らかな木肌は、長い年月使われてきたはずなのに、きちんと手入れされているのが分かった。


箪笥も丈夫そうで、細かな細工が綺麗だ。


「これがいいです」


自然と、そう言っていた。


「すごく気に入りました……それに、使わせてもらえるの、嬉しいので」


越さんが少しだけ目を細める。


「そうか」


その穏やかな表情に、胸の奥がじんわり温かくなる。


「他にも必要なものがあれば言ってくれ」


「はい。でも、これくらいで十分です。今の部屋から持ってくるものもありますし」


そう言いながら、次の部屋へ移動する。


そこは越さんの部屋だった。


綺麗に整えられた空間。


大きめの机に、本棚、箪笥、そしてベッド。


装飾は少ないけれど、どこか落ち着く部屋だった。


……越さんらしいな。


そんなことを思いながら、ふと視線がベッドで止まる。


――あれ。


ここにベッドがあるってことは。


寝室は別、ってことだよね。


なんとなく、結婚したら寝室は一緒なのかなと思っていたから、少しホッとしたような――でも、ほんの少しだけ残念なような。


……いや、何考えてるの、私。


自分の思考に動揺して、顔がじわっと熱くなる。


部屋を出たところで、


「どうかしたか」


越さんが不思議そうにこちらを見た。


「う、ううん。あの、その……ベッドも買った方がいいのかなって」


なんとか平静を装いながら言葉を続ける。


「今の私のベッド、客間用のものだから」


「あぁ、ベッドは買ってある」


越さんはさらっと答えた。


「そこの部屋だ」


そう言って、一番奥の扉へ視線を向ける。


「あそこは?」


「寝室だ」


――えっと、それは。


頭が追いつかないまま、越さんは何事もない様子で扉を開ける。


私も慌てて後を追った。


そして、中を見た瞬間、一気に顔が熱くなる。


そこには、大きなダブルベッドが置かれていた。


「大丈夫か?」


覗き込むように顔を見られて、私は慌てて頷く。


「ぜ、全然……その、大丈夫です」


どう考えても大丈夫じゃない返事になってしまった。


越さんはそんな私を見て、何か察したように小さく息を吐く。


「前にも言ったが、急ぐつもりはない。慣れるまで待つ」


ぽん、と優しく頭を撫でられる。


「……それは」


なんて返せばいいのか分からない。


違う。


待ってほしいわけじゃなくて。


越さんは少し安心させるように笑って、


「しばらくは、俺は自分の部屋で寝るから」


と続けた。


……違うの。


私は反射みたいに越さんの袖を掴んで、慌てて首を振った。


「い、一緒でいいです」


勢いで言ってしまってから、顔が一気に熱くなる。


「その……夫婦になるので、ちゃんとしたいというか……」


言った瞬間、自分で何を言っているのか分からなくなった。


ちゃんとって、何。


いや、違う。


変な意味じゃなくて――


「……あの、そういう意味じゃ……いえ、その、そういう意味もあったり、なかったり……」


どんどん声が小さくなっていく。


自分でも意味が分からない。


しばらく沈黙が落ちた。


恐る恐る顔を上げると、越さんが片手で目元を押さえて、小さく息を吐いていた。


「……姫香」


低い声に、心臓が跳ねる。


真っ直ぐ見つめられて、それだけで息が詰まりそうになる。


「あ……の」


言葉を探した瞬間、越さんの顔がゆっくり近づいてくる。


驚いて、思わず目を閉じた。


唇へ、柔らかな感触が落ちる。


胸が苦しくなるくらい心臓が鳴って、頭がぼんやりしてくる。


しばらくして唇が離れると、私は真っ赤になったまま固まっていた。


越さんが小さく息を吐く。


「あまり、無防備でいられても困る」


「そ、そんなつもりじゃ……」


慌てて言い返そうとするけれど、全然うまく言葉にならない。


そんな私の様子に、越さんはふっと笑った。


それから、今度は真面目な顔に戻る。


「少しでも不安があるなら、言ってほしい」


低く、落ち着いた声だった。


「俺は、姫香が傍にいてくれれば、それでいい」


その言葉に、胸の奥がいっぱいになる。


やっぱり、この人は優しすぎる。


優しすぎて、困るくらいに。


だから。


私はそっと越さんの胸元へ額を預けた。


「……嬉しい不安です」


正直に言葉を零す。


「だから……これからも、ちゃんと傍にいたいです」


今度は、きちんと自分の気持ちを伝えられた気がした。

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