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第27章 婚約編 結婚の勧め③——泣いてしまった夕暮れと、越の腕の中で

越の家の台所で夕食の準備をしながら、私は何度目かのため息をついた。


……やっぱり、今日、来なかった方が良かったかも。


お師匠様が友人と1泊2日の旅行へ出かけることになって、予定が決まった時に、夕食を越さんと一緒に食べる約束をした。今日はあらかじめ許可ももらっていたので、店を少し早めに閉めて、買い物をしてからそのまま彼の家へ来ている。


今まで、ちゃんと手料理を食べてもらう機会なんてほとんどなかったから、せっかくだし作りたいと自分から言ったのだ。味の好みも分かるかもしれないし、「楽しみだ」と言ってくれたのが嬉しくて、昨日まではあんなに浮かれていたのに。


鍋をかき混ぜながら、小さく息を吐く。


頭に浮かぶのは、昨夜見た夢だった。


お母さん。


お父さん。


お姉ちゃん。


お兄ちゃん。


元の世界の、大好きだった家族。


友達もいなかったし、もちろん恋人なんていなかった。だから、あの世界での私の居場所って、きっと家族がほとんどだったと思う。


交通事故に遭って、死んだことになっているなら、まだ納得できる。でも、もし行方不明だったら――そう考えてしまうと、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


夢の中で、家族はずっと私を探していた。


名前を呼んで。


泣きながら。


私は今、こんなに幸せなのに、家族は今も私のために泣いているのかもしれない。


そう思った瞬間から、ずっと胸の奥が苦しくて。


お師匠様は、多分、朝から私の様子がおかしいことに気づいていたと思う。それでも何も聞かず、いつも通り旅行へ出かけていった。


こっちへ来たばかりの頃は、お師匠様の前で泣いてしまうことも何度かあった。


不安で、寂しくて、帰れなくて、そんな私を、お師匠様はただ受け止めてくれた。


だから今、私はここに立っていられるんだと思う。


そこまで考えてから、深く息を吐き出した。


だめだ。


ちゃんと切り替えないと。


せっかく楽しみにしていたのに、越さんに心配をかけちゃう。


私は完成した料理を卓へ運ぼうと皿を持ち上げた。


その時、玄関が開く音と一緒に、「ただいま」と聞き慣れた低い声が響く。


そこまでは良かった。


でも、その声を聞いて顔を見た瞬間、もう駄目だった。


「おかえり……」


そこまで言ったところで、急に視界が滲む。


慌てて下を向き、何とか涙を止めようとするけれど、うまくいかない。


だめ。


なんで、今。


「何かあったのか」


近づいてくる気配と一緒に、心配そうな声が落ちてくる。


私は慌てて首を振った。


「な、なんでも……」


声が震えてしまう。


私、何やってるんだろう。


仕事で疲れて帰ってきてる人の前で泣くなんて。


そう思った瞬間だった。


ふわっと、体が包み込まれる。


「……っ」


気づけば、越さんの腕の中だった。


「わ、私……」


驚いて顔を上げると、すぐ近くに心配そうな表情があった。


越さんは何も言わず、私の頬を伝った涙を指でそっと拭う。


「大丈夫だ」


ただ、それだけだった。


慰めるでもなく、無理に理由を聞くでもなく、それでも、いつも通りの低い声は本当に安心できて。


張り詰めていたものが、一気に崩れていく。


結局、そのまま越さんの胸に顔を埋めて、しばらく泣き続けた。


――――――――――――


姫香の泣き声が、少しずつ落ち着いていく。


越は胸元にしがみつく体を抱き寄せたまま、小さく息を吐いた。


昨日見た夢のこと。


置いてきた家族のこと。


自分だけが幸せでいることへの罪悪感。


ぽつりぽつりと零れる言葉を聞きながら、越は以前、明蘭に言われた言葉を思い出していた。


――姫香が元の世界に置いてきたものは重い。それを受け止めきれないようなら、あの子の傍にはいないで欲しい。


姫香がいない時に、そっと告げられた言葉だった。


分かっているつもりだった。


自分も家族を失っているから、少しは痛みくらい理解できると思っていた。


けれど、違うのだと思い知らされる。


姫香には、今も帰れない場所がある。


もう会えないかもしれない家族がいる。


その重さを前にすると、かけるべき言葉なんて簡単には見つからなかった。


ただ黙って話を聞きながら、越は姫香の体を抱きしめる腕に少しだけ力を込める。


結局、自分にはこうして抱きしめることくらいしか出来ない。


その事実に、わずかな苛立ちすら覚えていた。


しばらくして、少し落ち着いてきたのだろう。


姫香は越の胸に顔を埋めたまま、小さく照れたように笑う。


「……泣きすぎですね、私」


「いや。泣きたい時は泣いた方がいい」


その返事に、姫香は少しだけ肩を揺らした。


「前から思ってたんだけど、越さんって過保護」


どこか嬉しそうな声だった。


「嫌か」


「全然」


姫香は小さく笑ってから、少しためらうように続ける。


「越さんこそ、呆れてない? 私、頼ってばっかりだし」


「いや。まだまだ、頼られ足りないくらいだ」


その言葉に、姫香は思わず吹き出した。


「やっぱり、過保護」


さっきまで泣いていたとは思えないくらい、普段の空気が戻ってくる。


姫香は深く息を吐いてから、そっと越を見上げた。


「……どうにもならないことぐらい、分かってるんです」


「それに、家族も、きっと私の幸せを願ってくれてるから」


今度は、涙は浮かんでいなかった。


「あぁ」


越はその言葉に、ゆっくり頷いた。


姫香は少しだけ迷うように視線を揺らしてから、小さな声で聞いた。


「だから……また、泣いてもいい?」


「もちろんだ」


そう言って、越はもう一度姫香の体をぎゅっと抱きしめた。


――――――――――――


すっかり落ち着く頃に、ようやく、自分が今どういう状況なのかを思い出した。


……いや、待って。


私、今、抱きしめられてる。


確かに落ち着く。


安心する。


でも、そういう問題じゃない。


意識した瞬間、顔が一気に熱くなる。


落ち着いていたはずの心臓まで、思い出したみたいに急にうるさくなった。


「あ、あの……越さん。もう、大丈夫です」


胸に顔を埋めたまま、なんとかそう言う。


すると越さんは、少しだけ楽しそうに私の顔を見下ろした。


「俺は、まだこのままでも構わないが」


「い、いえ、その……夕食の準備が」


慌てて言葉を返しながら、私はわたわたと視線を泳がせる。


越さんはそんな私を少し黙って見つめていた。


次の瞬間。


ふいに、額へ柔らかい感触が落ちる。


「……っ」


一瞬、何が起きたのか理解できなかった。


え。


今。


「あ、えっ、あの……!」


完全に真っ赤になって固まった私を見て、越さんが小さく吹き出す。


それからようやく腕を離すと、何事もなかったみたいな顔で台所へ向かった。


「美味しそうだ」


そう言いながら、出来上がっていた料理を卓へ運び始める。


私は呆然としたまま、そっと額へ手を触れた。


触れられた場所が、まだ熱い気がする。


でも、思わず頬が緩む。


越さんって、本当に私を甘やかすのがうまいと思う。


……でも。


私の方が一応年上なんだし、少しだけでも頼られる側になれるように頑張らないと。


「お、お茶入れますね」


誤魔化すみたいにそう言って、私は急いで茶器を準備し始めた。


湯気の立つ茶器を並べながら、ふと小さく息を吐く。


結婚したら、これが日常になるのかな。


そう思うと、なんだか少しくすぐったくて。


きっと、家族への想いが消えることはない。


これから先も、時々どうにもならないことに泣いて、たぶん困らせてしまう。


それでも――叶うなら。


私は、越さんの傍にいたいと思った。

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