村の食堂にまた子犬がいる
習作の続編です。
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村の朝は、霧が晴れるとともに動き出す。「迷宮」を背後に抱くこの村にとって、朝の光は単なる一日の始まりではなく、魔物の這い出るかも知れない夜から解放されたという安堵の象徴でもあった。
宿屋兼食堂『銀の深鍋』の厨房では、今日も店主のバートが巨大な寸胴鍋と格闘している。
「アーサー、そこをどけ。火を熾すのに邪魔だ」
足元で丸まっていた銀鼠色の毛玉は、面倒そうに片目を開け、「フン」と鼻を鳴らして数センチだけ移動した。見た目は柴犬ほどの大きさだが、その正体は幻獣、雷狼の幼体である。
「お父さん、アーサーを足蹴にしないで。昨日も裏山で薬草を見つけるのを手伝ってくれたんだから」
娘のリナが、焼きたてのパンを籠に詰めながら苦笑した。
「へっ、たまたまだろう。この食いしん坊の鼻が、たまたま薬草の匂いを嗅ぎ当てただけだ。それよりリナ、今日は村の子供たちの世話をするんだろ?」
「ええ、今日は天気がいいから、村の境界にある丘までピクニックに行くの。子供たちが退屈しちゃって」
アーサーは耳をピクリと立てた。村の境界にある丘。そこは迷宮の入り口からは離れているが、境界線付近は魔力の流れが不安定な場所だ。
(……少し、空気が重いな)
アーサーは琥珀色の瞳を細めた。以前に退治した魔術師による汚染は浄化したが、迷宮の生態系が元に戻るには時間がかかる。住処を追われた下層の魔獣が、まだ地上付近を彷徨っている可能性があった。
「アーサーも行く? 護衛をお願いね」
リナが屈み込み、アーサーの首のあたりをワシャワシャと撫でる。
(護衛、か。まあ、食後の運動にはちょうどいい。それに、あの子たちが持ってくるお弁当の余りも期待できるしな)
アーサーは「キャン!」と、いかにも無邪気な子犬らしい声を上げ、リナの手に鼻を押し付けた。
境界の丘は、色とりどりの高山植物が咲き乱れる美しい場所だった。
村の子供たち、七歳になる活発な少年レオと、その妹で内気な少女メイを含めた五人の子供たちが、草原を駆け回っている。
「見て! アーサー、追いかけっこだ!」
レオが木の枝を投げると、アーサーはわざと少し遅れて走り、最後の一歩で電光石火の動きを見せて枝をキャッチする。
「わあ、アーサーはやっぱり足が速いね!」
リナは木陰でシーツを広げ、村の経済状況――最近の迷宮素材の取引価格の低下について考え込んでいた。彼女は村の相談役のようなバートの影響で、村の将来を常に案じている。
しかし、その平穏は突如として破られた。
「……お兄ちゃん? あそこ、何か光ってる」
メイが指差したのは、丘のさらに先、通常は村人が足を踏み入れない「森」との境界だった。そこには、歪んだ空間のような、紫色の光の粒子が漂っていた。
(迷宮の残滓か?)とアーサーが訝しんだ瞬間、森の奥から地響きのような唸り声が響いた。
「みんな、こっちへ戻って!」
リナの叫びと同時に、茂みを割って現れたのは、本来なら迷宮の下層に生息するはずの『巨鳥』だった。鋭く硬い羽根に覆われた巨鳥が、飢えた目で子供たちを見下ろしている。
子供たちはパニックに陥り、散り散りに逃げ出す。
「メイ! こっちだ!」
レオが妹の手を引いて走るが、メイが転んでしまう。巨鳥が翼を広げ、鋭い爪を振り上げた。
(やれやれ。お昼寝の時間だというのに)
アーサーの瞳から、子犬の甘さが消えた。
アーサーはリナが子供たちを庇うために駆け寄る背中を見送り、自らは反対方向の茂みへと飛び込んだ。
人の目から外れた瞬間、彼の身体を青白い閃光が走る。
パチパチという小さな放電音が響き、毛並みは深い蒼を含んだ銀色へと変色し、体躯は一回り大きくなる。
(縄張りを侵す害獣には、慈悲なき裁きを)
アーサーが地面を一蹴りすると、彼は文字通り「雷」となった。
巨鳥がメイを仕留めようとした刹那、横合いから青い閃光が奔った。
「!?」
巨鳥の硬質な羽根が、一瞬の接触で舞い上がる。アーサーは実体を見せず、雷光の残像だけを残して巨鳥の周囲を旋回した。
「何……? 雷? 魔法なの?」
リナはメイを抱きしめたまま、周囲で炸裂する青い光に目を奪われていた。
アーサーは注意深く動いた。リナに正体を見られてはならない。彼は高速移動を維持しつつ、わざと森の奥へと巨鳥を誘い込んだ。
森の深部。十分な距離を確保したアーサーは、巨鳥の前に立ちふさがった。
「グルルゥ……」
地響きのような唸り声。それは犬の鳴き声ではなく、大気を震わせる雷鳴そのものだった。
巨鳥は本能的に悟った。目の前にいるのは獲物ではない。この森、この山の真の支配者であると。
アーサーの口角に、青白い電位が収束していく。
(消えろ。朝のスープの味を汚す奴め)
口から放たれたのは、極細に絞り込まれた電撃。それは巨鳥の脳天を正確に貫き、声を上げる暇もなくその巨体を炭化させた。
間髪入れず、アーサーは自らの魔力を霧散させ、再び「小さな子犬」へと姿を戻す。わざと前足を少し汚し、息を切らしたふりをして、リナたちの元へ駆け戻った。
「アーサー! 無事だったのね!」
リナが泥だらけのアーサーを抱き上げる。アーサーは「クゥーン」と弱々しく鳴き、彼女の胸に顔を埋めた。
「あの雷……迷宮の守護機構が作動したのかしら。でも、助かった……」
子供たちは震えながらも、アーサーが無事だったことに安堵し、皆で彼を撫で回した。
村へ戻ると、事態を知った村長やバートが大騒ぎで出迎えた。
「迷宮の魔物が境界まで出ただと!? 自警団を編成しなきゃならんな」
「まあまあ、父さん。幸い、謎の雷が助けてくれたみたい」
リナの言葉にバートは不思議そうな顔をしたが、無事な娘と子供たちの姿を見て、それ以上は追求しなかった。
その日の晩。
『銀の深鍋』の食堂は、一命を取り留めた子供たちの家族が集まり、ちょっとした宴会状態になった。
「今日は特別だ。レオ、メイ、いっぱい食べなさい」
バートが運んできたのは、大鍋で煮込まれた「鹿肉と根菜のホワイトシチュー」だった。
アーサーのボウルの前にも、いつもより大きな肉塊がゴロゴロと入ったシチューが置かれた。
(ふむ。今回は少し隠蔽に手間取ったが、この香りを嗅げば苦労も吹き飛ぶというものだ)
アーサーは上品に、しかし力強くシチューを口に運んだ。
リナが隣に座り、アーサーの耳を優しくめくる。
「ねえ、アーサー。あなた、本当はすごく強いんじゃない?」
アーサーの動きが一瞬止まる。琥珀色の瞳がリナを見つめた。
「……なんてね。ただの私の勘。美味しいわね、このシチュー」
リナは笑って、自分の分のパンを半分ちぎってアーサーに分けた。
アーサーは確信した。このリナの笑顔と、バートの作る温かい料理がある限り、自分はどれだけでも「犬」を演じてみせようと。
窓の外では、夕闇の中に微かな雷鳴が響いた。それはアーサーが残した魔力の残滓が、村を守る結界のように山々を撫でた音だった。
(さて、明日の朝食は何かな)
アーサーは満足げに尻尾を一振りすると、最後の一滴までボウルを舐め尽くした。
宴が終わり、客が引けた後の食堂。
アーサーは暖炉の前で丸くなっていた。バートとリナが、今日の事件をきっかけとした「村の防衛予算と食料備蓄」について真剣に話し合っている。
「迷宮の不安定化が続くなら、冒険者を雇う費用がかさむ。そうなると、食堂の仕入れ値も考え直さないといけないな」
バートが帳面を叩く。
「でも父さん、安全確保に必要な費用をケチって村人が減ったら元も子もないわ。私、王都の商会に、魔物素材の新しい販路を提案してみる」
アーサーは寝たふりをしながら、その会話をすべて記憶に刻んでいた。
(経済の安定こそが平和の礎、か。面白い。もし次に村を脅かすものが『金』や『権力』だとしても、僕のやり方で片付けてやろう)
不穏な足音が、すぐそこまで迫っていることを、雷狼の鋭い勘はすでに捉えていた。しかし、今はただ、腹を満たした後の心地よい眠りに身を任せることにした。




