2.5階には行くな
俺は三上恒一、二十八歳。
会社員だ。業種は特に言うことじゃない。
朝出て夜帰る、どこにでもある仕事をしている。
住んでいるのは都市部の、築年数が相当いってる安いアパートだ。
エレベーターが付いているのが唯一の利点で、それ以外は古い。
壁は薄いし、水回りも年季が入っている。
でも家賃が安い。それだけで十分だった。
ただ、疲れていた。
毎日そうだった。
帰宅する頃には頭が働かなくなっていて、早く部屋に戻って横になりたいとしか考えられなくなる。
駅から歩く十分間も、アパートの玄関から自室までも、すべてが面倒だった。
あの日もそうだった。
玄関を抜けて、エレベーターホールに入る。
ボタンを押して、扉が開くのを待つ。
古いエレベーターだから、反応が遅いことがある。この日もそうだった。
ボタンを押してから三秒くらい間があって、ようやくランプが点いた。
中に入る。
壁は木目調のシートが貼られていて、照明は白くて暗い。
床にはゴム製のマットが敷いてあって、少し浮いている。
何度も足を引っかけそうになったことがあった。
俺は四階に住んでいる。
ボタンパネルの前に立って、手を伸ばした。
そのとき、指がボタンとボタンの間の金属部分に触れた。
「カチ」という感触があった。
ボタンを押したときとは違う、硬い音だった。
俺はそれに気づいたが、疲れていたから深く考えなかった。
すぐに正しく四階のボタンを押して、扉が閉まるのを待った。
エレベーターが動き出す。
いつもと同じだった。
古い機械特有の、ゆっくりとした上昇。振動も音も、変わらない。
ただ一つだけ、いつもと違うことがあった。
エレベーターの階数表示が消えていたのだ。
数字を示すデジタル表示が、真っ黒になっていた。
俺はそれを見て、またか、と思った。
前にも一度、表示が消えたことがあった。
古い建物の設備だし、よくあることなんだろうと、そのときもエレベーター自体は普通に動いていたから、気にしなかった。
どのくらい経ったか分からない。
いつもよりエレベーターに乗っている時間が少し長い気がした。
それでも、そんなものだろうと思った。
「ピンポン」
到着音が鳴って、扉が開いた。
やっと着いたか…とふらふらとエレベーターを降り、早く家に帰りたいという気持ちだけで歩き出す。
しかしそこは、俺の知っている四階の廊下ではなかった。
目の前に、畳が敷かれた廊下のようなものが広がっていた。
左右には襖が並んでいる。
古い木の枠に、白っぽい紙が貼られた襖。
四枚、五枚…いや、もっとあったかもしれない。それは奥まで続いていた。
木の匂いがした。
埃っぽくて、湿気た空気。
誰かが住んでいたような、生活の痕跡がある匂い。
俺は動けなかった。
エレベーターの中に立ったまま、その光景を見ていた。
声は出なかった。頭の中で、何か間違えたのか、と考えた。
ボタンを押し間違えたのか。でも、ここは正真正銘四階のはずだ。
三階でも五階でもなく、四階に止まったはずだ。
いや、階数表示は消えていた。
どこに止まったのか、分からない。
でも、このアパートにこんな場所はない。
俺は一歩、前に出た。
畳に足を踏み入れる。
柔らかい感触があった。古くて、少し沈む畳だった。
襖を見た。
閉まっていた。
どれも隙間なく閉じられていて、中は見えない。
ここは怖いくらい静かだった。
エレベーターの機械音も、外の車の音も、何も聞こえない。
耳が詰まったような静けさだった。
生活感があった。
誰かがここに住んでいる、あるいは住んでいた、という気配。
壁には古い木製の棚があって、上に何か置いてあった。
よく見えなかったが、花瓶のようなものだった気がする。
人はいなかった。
襖の奥に誰かいるのかもしれないが、声も、気配も、何も感じなかった。
俺はスマホを取り出した。
怖かったからではない。説明できないが、記録しておかないといけないと思った。
これは変だ。明らかに変だ。
後で誰かに見せるわけではないが、自分の中に残しておきたかった。
フラッシュは焚かなかった。シャッター音だけが、この広い謎の空間の静寂の中に響いた。
画面を確認する。
ピンボケしていた。襖が写っているが、全体的にぼやけている。
暗かったからだ。でも、確かに襖が写っていた。
そして、その襖の下に、何かがあった。
それは足のようなものだった。
襖の隙間、床に近い部分に、人の足のような影が見えた。
いくつあったのか分からない。
一つではなかった。二つか、三つか、もっとあったかもしれない。
でも、はっきりとは分からなかった。
影なのか、畳の模様なのか、写真がぼやけていて判別できなかった。
俺は怖くなり、急いでエレベーターの中に戻った。
何も考えずに、ボタンを押した。閉まるボタンを、何度も押した。
しかし、扉が閉まらない。ボタンを押しても開いたままだった。
押し続けた。指が痛くなるくらい、何度も押した。
そのとき、扉が閉まった。
俺が押したからではなかったようだった。
自然に、ゆっくりと閉じていき、エレベーターが動き出した。
体感だが、下に降りている気がした。上ではなく、下に。
でも確信はなかった。階数表示はまだ消えたままだった。
どのくらい経ったか分からない。
「ピンポン」
ついにエレベーターの扉が開いた。
そこは見慣れた四階の廊下だった。
毎日通る、古いアパートの廊下。灰色の床に、白い壁。左右に並んだドア。
俺はすぐにエレベーターを飛び出した。
走って自分の部屋に駆け込んで、鍵を閉めた。
なんとなく、時計を見た。仕事が終わって、家に着くごろのいつもと同じ時刻だった。
あの空間にいた時間を考えると、もっと経っていてもおかしくなかった気がした。
俺はソファに座って、スマホを開いた。
さっき撮った写真を確認しようとした。
あった。
さっき撮った写真が、ギャラリーの一番新しいところにあった。
開こうとした瞬間、画面が暗転した。
数秒後、ギャラリーが再び表示され、確認するとあの写真は消えていた。
さっき確かにあった、襖を撮った写真が、どこにもなかった。
削除した覚えはなかった。操作ミスもしていない。ただ開こうとしただけだった。
でも、消えていた。念のためゴミ箱フォルダも確認した。そこにもなかった。
最初からなかったかのように、消えていた。不気味だった。
次の日、俺は管理人に聞いた。
「すみません、変なことを聞いているとわかっているのですが…このアパート、二階と三階の間に…何かありますか?」
管理人は首を傾げた。
「何かって?」
「例えば…使っていない部屋とか、倉庫とか」
「ないよ。普通に階段で繋がってるだけ」
「エレベーターで、変な階に止まることは?」
「ないない。そんな話、聞いたことないよ」
管理人は笑っていた。冗談だと思ったのかもしれない。
俺はそれ以上聞かなかった。
別の日、隣の部屋の住人とすれ違ったときに、それとなく聞いた。
「すみません、あの…最近エレベーター、たまに変なとこ止まりません?」
「変なとこ? ああ、ボタン押してないのに一階で開くとか? それはあるね、古いから」
「そうじゃなくて、知らない階に止まるとか」
「知らない階? そんなのないでしょ。五階建てだし」
住人は不思議そうな顔をして、去っていった。
俺はどうしても気になって設計図を見たいと思った。
でも、それを管理人に頼むのは変だと思った。
ネットで調べた。このアパートの建築情報は出てこなかった。
この建物が古すぎるのかもしれない。
ある夜、俺は試した。
同じようにエレベーターに乗って、ボタンとボタンの間を押した。
「カチ」という音はしなかった。
ただの金属の感触だけがあって、何も起きなかった。
エレベーターは普通に四階に止まった。
扉が開いて、いつもの廊下があった。
次の日も試した。
その次の日も。
何度やっても、あの場所には行けなかった。
俺は誰にも話さなかった。
同僚にも、友人にも、家族にも。
話したところで信じてもらえないし、証拠もない。
写真は消えたし、再現もできない。
ただ一度だけ、匿名の掲示板に書き込んだ。
「エレベーターで変な階に行った」
反応はすぐに来た。
「釣り乙」
「ボタンの押し間違いだろ」
「夢でも見たんじゃね」
「創作は他でやれ」
誰も信じなかった。
それでもいいと思った。
俺自身、本当にあったのか分からなくなっていた。
疲れていたし、寝不足だった。幻覚を見てもおかしくない状態だった。
でも、あの畳の感触は覚えている。
あの木の匂いも。あの静けさも。
そして、襖の下にあった、足のようなものも。
今でも、エレベーターに乗るとき、ボタンの隙間が気になる。
指を伸ばすとき、無意識にそこを避けてしまう。
もう一度触れたら、また行けるんじゃないかと思う。
でも、試す気にはなれない。
あの場所に戻りたくない。
あの襖が開いたら、何が出てくるのか。
考えないようにしている。
考えないようにしている。
でも、疲れた夜、ボタンの前に立つと、指が勝手に動きそうになる。
その隙間に、触れそうになる。
俺はそのたびに、意識して指を止める。
ボタンだけを押す。正確に、真ん中を。
エレベーターは普通に動いて、四階に止まる。
いつもの廊下が広がっている。
それでいい。
それでいいはずだ。
でも時々、階数表示を見てしまう。
ちゃんと数字が表示されているか、確認してしまう。
消えていたら、どうなるんだろう。
また、あそこに行くんだろうか。
考えないようにしている。
考えないようにしているのに、夜、ボタンの前に立つと、あの「カチ」という感触を思い出す。
指が、隙間に触れたときの、硬い感触を。
そして、開いた扉の向こうに広がっていた、あの畳の廊下を。
今も、あそこは存在しているんだろうか。
二階と三階の間に。
誰も知らない場所に。
俺が触れた瞬間にだけ現れる、あの空間が。
分からない。
確かめる気もない。
ただ、エレベーターに乗るたびに、少しだけ緊張する。
ボタンを押すとき、指先に神経を集中させる。
間違えないように。
もう二度と、あの隙間に触れないように。
それだけを、気をつけている。
毎日、帰宅するたびに。




