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第9章 ―― 春をつくる指先、ふたりの音 ――

 病室の朝は、やけに早く訪れた。

 奏が目を開けると、雪音が窓の外を見つめていた。


 冬晴れの空は淡く、遠かった。

 その光の中で雪音の横顔は薄い輪郭のように見え、

 奏は胸が締めつけられた。


「おはよう、奏くん」

「……もう起きてたんだ」

「うん。なんかね、朝の匂いって好きなんだよ。

 今日も生きてるって、ちゃんとわかるから」


 その言葉に、なぜだか涙がにじんだ。

 雪音は気づいたのか、小さく笑った。


「奏くん、泣き虫になった?」

「……うるさい」

「うるさいって言えるくらいなら大丈夫だね」


 からかっているようでいて、

 どこか安堵のにじむ声だった。


 *


 医師の回診を終えると、

 雪音は隣の小さなテーブルを指さした。


「ねぇ奏くん。ギター、持ってきてくれた?」

「ああ……ちゃんと」


 奏はケースを開いた。

 雪音の愛用していたアコースティックギター。

 初めて彼女が弾く姿を見た夜のことを思い出した。


 雪音はベッドを少し起こし、姿勢を整えた。

 そして、ギターに手を伸ばす。


 だが――指が震えた。


「雪音、大丈夫?」

「うん……でも、ちょっと重いかも」


「無理しなくていい」

「無理じゃないよ。

 でも……奏くん、少し手伝って?」


 奏がギターのネックを支えると、

 雪音の指がようやく弦に触れた。


 優しい音が病室に広がる。

 冬の空気がその音に溶けていくようだった。


「……ほら、奏くん」

「何?」

「これがね、“春を待つ音”って、私が勝手に呼んでるんだ」


 雪音の声は、どこか遠くを見ているようだった。

 奏は息を飲んだ。


「このメロディ、前に言ってた“未完成の曲”?」

「うん。でもね……ひとりじゃ完成できないの。

 だから――」


 雪音の目が奏をまっすぐに見つめた。


「奏くん。続きを、一緒に作ろ?」


 それは、恋人への誘いであり、

 命の残り時間をともに生きるという“約束”でもあった。


 奏は頷いた。


「もちろん。一緒に作ろう。最後まで」


 雪音がほっと笑った、その瞬間だった。


 雪音の咳がこぼれた。

 弱々しい、小さな、小さな咳だった。


 しかし――

 奏にはその音が世界の終わりのように聞こえた。


「雪音……!」

「平気。ちょっとだけ。驚かせちゃったね」


 雪音はそう言って笑ったが、

 その指の震えは止まっていなかった。


 *


 午後、雪音は少し眠りについた。

 奏はそっと病室を抜け、ロビーの端でギターを抱えた。


 雪音が作った“春を待つ音”。

 そのメロディを反芻しながら、奏はそっと弾く。


 雪音の心臓が弱まるたび、

 曲は強く前へ進もうとしているように感じた。


「……雪音の音は、こんなにも前を見てたんだな」


 雪音の歌声。

 夜の街角で響いた温かい音色。

 奏の胸に刻まれた“冬でも凍らなかった音”。


 ――その続きを、残り時間がどうであろうと作ろう。

 雪音がいなくなったとしても、

 この曲の中に雪音を生かし続けよう。


 そう思うと、涙がこぼれた。


「なんで……こんなにも大切なんだよ……」


 恋だから?

 愛だから?

 答えは、それだけではなかった。


 雪音は“生き方”そのものを奏に教えてくれた。

 恐れながらも、それでも光を探し続ける強さを。


 その姿が美しくて、切なくて、

 心を離さなかった。


 *


 夕方。

 雪音の病室へ戻ると、雪音は目を覚ましていた。


「奏くん。どこ行ってたの?」

「ロビーで……曲の続きを考えてた」

「えっ……もう?」

「雪音の音が……すごく綺麗だったから」


 雪音は頬を赤くし、照れたように笑った。


「そっか……。ねぇ、聴きたい」

「今?」

「うん。奏くんがつけた“春の続きを”」


 奏はギターを抱え、深呼吸した。


 そして弾いた。

 雪音のメロディが描いた“春の入り口”の続きを。


 静かで、やさしくて、

 どこか雪解けのように温かい音。


 雪音は目を閉じて聴いていた。

 その表情は、どんな痛みも忘れたように穏やかだった。


「……あったかいね、この音」

「雪音の曲だから」

「奏くんの音だよ。

 私の曲、こんなに優しくなるなんて……嬉しいよ」


 雪音は涙をぽろりと落とした。


「ねぇ奏くん。

 もし……もしだけど、私がいなくなっても――」


「そんな話、しないで」

「ううん。しなきゃダメなの」

「嫌だよ。聞きたくない」

「奏くんが聞いてくれないと、私……前に進めないよ」


 雪音は震える指で、奏の手をそっと包んだ。


「生きてるうちにね、言わなきゃいけない。

 “奏くんの音が、私の春になる”って」


 奏は顔を上げられなかった。


 雪音は続けた。


「だから……春までの時間を、曲にしよう?

 泣きながらでも、笑いながらでもいいから」


「雪音……」


「私、奏くんとだったらね。

 どんな春でも、怖くないよ」


 その言葉は、あまりにも優しくて、

 あまりにも切なかった。


 奏は雪音の手を強く握った。


「一緒に春を作ろう。

 雪音の分まで……絶対に」


 雪音は微笑み、目を細めた。


「うん……。奏くんとなら、できるよ」


 その瞬間、

 病室に夕陽が差し込んだ。


 白いシーツが淡く染まり、

 雪音の横顔がほんのりと温かさを帯びる。


 冬の終わりを告げるように。


 ――ふたりの“春”は、この小さな部屋で確かに

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